第102話:万分の一よ、此処に
「ラッキーパンチ、生かしなさいよ」
『勢い、大事』
美里と那由多はエッジで手に入れた1点を大事に、こういう場面を生かせるかどうかが勝負の分かれ目であると知っている。
点差は大きい。ただ、卓球とは接戦の際、メンタルのスポーツゆえに逃げるより追いかける方が精神的優位に立てるもの。ここで一気に捲ればこれからのセットが優位になるし、逆に生かせず逃げ切られてしまえば勝負は決する。
こういう分かれ目は試合中、普通は一つか二つ。
彼なら、彼らの知る不知火湊ならきっと、わかっているはず。
「いったれ!」
『ごーごー!』
乗るしかない、このビッグウェーブに!
「『あっ』」
が、しかし――
○
中陣でのドライブ合戦か、と観客が期待したところでネットに球が阻まれた。
観客は「ああ……」と声を漏らす。
『……こういうミスのない子だったのですが』
『王者に呑まれてしまったか……無理もない。期待の子への接待も二種類あるからな、あの男には。期待が大きければ大きいほど、虎は加減を忘れてしまう』
劉党と『英雄』、二人はここでの失点に残念がる。もしや、と思ってはいない。それでも明日を期待できるような、そんな試合になると思っていたのだ。
そういう期待はあった。
ただ、こういうミスが出るようでは――
トップクラスの選手たちでもそう思った。観客も同じ。彼のファンになった子たちも、あっさりとした失点に残念がる。
ただ、
「……あの、顔」
星宮一誠だけは少しばかりの期待をしてしまう。
それ以上に――
○
「コーチ?」
「……なるほど」
佐伯崇もまた息子が浮かべる何処かで見た表情に顔をしかめた。
あれは期待よりも不安に思った方が良い。
○
「へくち」
母、不知火舞は、
「ずず、湊がんばれー!」
特に気にせず応援していた。
○
『……?』
あっさりと10-1、今度はネットインするも王虎の取りやすいところへ飛び、それを思い切り打ち込んで優勢、そのまま王者が押し切った。
ミスショットをして点が取れるほど、王者の卓球は甘くない。
ただ、
「よし」
消沈する会場の中で唯一、目の前の対戦相手だけは士気が萎えていなかった。それどころか集中力が増しているように見える。
それでこの雑な卓球は――
(いや、雑ではないとすれば……2球とも、ある程度狙い通りであったとすれば……まさか、そういうことか? この俺を相手に? 窮したから――)
王虎の中で様々な考えが巡る。エッジ、ネットイン、どれも決してルール違反ではない。だが、英国生まれの紳士のスポーツである卓球で、そういう品のないプレーはご法度とされる。ゆえに故意でなくとも選手は相手に謝意を示すのだ。
(ならばもう、期待すまい。それとも――)
あと1点で1セット目が終わる。
すでに巻き返しは難しい。難しいから捨てる、巻き返すなら2セット目から、そういう考え方であるのなら、もはや勝負は決したも同然。
ゲーム全体の流れとはセット間も連なるもの。
反撃の狼煙なしに、次があると思わぬ方が良い。
特にこの、
『見せてみろ!』
世界最強、王虎の前では。
期待しても良いのか。期待外れで終わるのか。ここが最終ライン、ここで何の輝きも見せられぬ者に、王はこの先期待を抱くことはない。
運命のサーブ、賽は投げられた。
それに対し、
(やるぞやるぞやるぞやるぞやるぞ)
不知火湊の脳内はこれ一色であった。先ほど天から舞い降りてきたワンプレー。いや、さすがに無理だろ。でも、せっかく思いついたんだし試してみようよ。失礼じゃないか。だけどルール違反はしてないぞ。などなど脳内会議があった。
エッジ、ネットイン、どれも狙うべきではない、とされるもの。だが、ルールの範疇であり、その扱いはラブゲーム同様、モラル的な部分に任されている現状がある。そもそも高速で繰り広げられるゲーム中に狙えるものではない、と言うのは大前提であるし、だからこそ法整備がなされていないのだろうが――
其処でふと思う。
本当に狙えないのか、と。
そういう練習をしていない。なら、2球は練習に使おう。それでも出来ないか。あれだけ常日頃、教え子たちにやれ1ミリズレた、やれひゃくまんさんが泣いているぞ、と煽り倒している自分が、たかが数ミリの穴、通さずしてどうする。
再現性は度外視。
集中力は今、極限まで高まっていた。
百回、千回、その繰り返しの中でたった一回だけ成功するような、いわば曲芸のようなプレー。ただ、彼は不知火湊。
なら、その一回をここに持ってくるだけ。
簡単なことである。
それは流れの中、後ろに下がった湊が先ほどと同じように、苦し紛れのカットで王者のドライブを凌いだ、ただそれだけにしか見えなかった。
誰もがそんなカット、通じないと思った。
ただ、
「……っし」
不知火湊は球の行方を見ず確定した手応えと共に背を向ける。
そして世界最強、王虎もまた――
『ぶはっ』
一つ笑い、不動にてその行方を見つめる。
名刀『吉光』鶴来美里の源流である母鶴来美琴の必殺、ぶち斬れデスカット。数多の選手を沈めてきた彼女の、娘も形を変えて真似した全身を使い斬り捨てる一撃は、緩やかな弧を描き徐々に相手コートに迫る。
其処でようやく何人かが気付いた。
不知火湊が球の行方を追っていないことに。
王虎が取りに行こうとしていないことに。
球は、さらにネットに近づく。
其処でようやく皆が思った。
あれ、これどっちだ、と。
どちらのコートに落ちるか、わからない球の軌道。その瞬間、幾人かの選手は二人の反応と、球の軌道で気づき、戦慄する。
そんなことが可能なのか、と。
そして――
「……」
誰もが息を呑む静寂の中、球の下部がネットに当たり、ただでさえ緩やかな球の威力をさらに削ぐ。それでも球は推進力を殺し切れず、相手コート側へ流れる。超下回転を残しながら、ネットに沿うよう相手コートに落ち、
「へ?」
そのまま強烈な下回転が相手コート側のネットに球を突き刺し、回転し続けること一秒か二秒か、やけに長く感じられた時間の後、再び落ちる。
これでツーバウンド。
世界最強であろうが、他の誰であろうが、取れる余地一つ残さぬ最強のネットイン。ほぼネットに触れ、バウンド直後にネットに突き刺さる、ただの一度もバウンドはネットの高さを越えず、如何なる技巧を用いてもあの数ミリほどのスペースでは返球など出来るはずもなし。
『何という、ボールコントロール。いや、卓球センスか』
かつて『国士無双』と謳われた元世界最強は戦慄を禁じえなかった。王に臆し、逃げた先であんなプレーできるはずがない。誰よりも攻めた、2球を犠牲に、2点を犠牲に、たった1点を獲りに来たのだ。
阿呆の所業である。
だが、心は打ち震える。
不知火湊はネットインでありながら、対戦相手に謝罪するそぶりを見せなかった。王虎もまた笑みをもって、その不遜を受け入れる。
打ち震えたのは、今の世界最強も同じであったから。
『……なるほど。それが貴様の武器か、小僧』
本当に凄いプレーを見た時、人は言葉を発することが出来なくなる。それが賛否の分かれるものであれば尚更。
誰の目にも明らかであることは一つ。彼は全力で、故意にネットインを狙いに行った。針の穴を通し、千分の、いや万分の一を通した。
それだけである。
『フィジカルはまだまだ発展途上。技術は高いが、あれぐらいはトップ層にはザラにいる。反応速度も、思えばそれ単体では抜きん出ているわけではない』
不知火湊と激戦を繰り広げた劉党は彼の強みにようやく気付いた。ここで、あのワンプレーを思い描き、それを実行し成功させてしまう勝負勘も含めた卓球センス。あれが不知火湊の武器であるのだ。
彼は未完の身で、ただ一つそれだけを握りここまで駆け上がった。
『これが不知火湊の、スペシャルか』
圧倒的卓球センス。
それが不知火湊の持つ、天をも揺らがすスペシャルであった。
『あっ』
湊と同じプレーを再現しようとした王虎であったが、それは叶わずミスショットとなる。王者の勝負強さは語るまでもない。
彼も十分の一程度なら、勝負の場に持ってくることが出来る。
百分の一も出来るかもしれない。
だが、
『俺より、上かァ』
千の、万の、それをここに持ってくることは出来なかった。ゆえに王虎は見切りをつける。其処での勝負はしない、と。
遊びは終わり。
受けて立つにはどうにも、目の前の小僧は卓球に愛され過ぎていた。
王は、歓喜に打ち震える。
天津風貴翔が自らを前でぶち破った時のように、王は自らを部分的にでも超える者にこそ、真に期待を寄せるのだ。
今認めた、今確信した。目の前の挑戦者には自分に抗う武器があると。
そしてそんな王に――
(……広く使え。ネットも、エッジも、全部。そのグレーゾーンも択に入れないと、勝負にならない。謝罪は、試合が終わった後にまとめてするッ!)
先ほどよりもずっと広く、奥深く相手コートが見える。実際に使うかどうか、使えるかどうかはさておき、その選択肢が相手の頭にあることが重要なのだ。
それで初めて、駆け引きが成立するほどに差があるのだから、やるしかない。
卓球人として、これが正しいのかはわからない。見せるべき姿か、正直迷いはある。それでも勝てません、と折れる姿よりはいい。
潔く負けた姿を、きっとあの難物たちは喜ばないから。
だから、やる。
『はははははッ!』
「おおッ!」
第1セット、11-6。
『……あるぞ、巻き返し』
虎に食い千切られながら、小さな挑戦者もまた一矢報いた。
まだ、勝負は終わらない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます