第100話:泥沼、征するは――
泥沼の死闘、一点ずつ積み重なる精神的疲労は余人の想像し得る範疇にない。汗と共に、吐息と共に、何かが削れていく。
「くそっ」
失打、精密機械の如しボールコントロールを持つ湊にしては珍しいイージーミスも、極限の状況下では出てしまう。
そしてそれは――
「Scheiße(クソ)!」
劉党、ダンも同じ。
疲労と精神的摩耗が重なり、試合が長期化すると達人である彼らですら、当たり前のようにミスを繰り返す。
悪手の交換、これもまた人間ゆえ。
足が重い。腕から、掌から伝わる感覚が鈍い。正しい打ち方がわからなくなる。思考をフル回転させながら、超速の世界を縦横無尽に駆け回るのだからそれも仕方がない。とある偉人が言った。
卓球とは100m走をチェスをしながらするようなものだ、と。
それが全ての選手に当てはまるわけではないし、それらの競技を軽んじているわけでもない。ただ、その道の先駆者がそう感じていた、と言うこと。
肉体の疲労、脳の疲労、それが終盤どっと押し寄せる。
競技者だけがわかる、極限の世界。
『いい試合とはこういうものだ。一点を追う泥沼のような試合を、紙一重で征す。そんな時にな、競技者は快感を得るのだ』
世界王者、王虎は羨ましそうに微笑む。
随分、ああいう卓球が出来ていない。追う立場であった頃は、卓球覇国の中国で思う存分、そういう試合を繰り返していた。
ただ、いつ頃からかそういう試合が出来なくなった。
ただ一人、勝っても嬉しくない圧勝ばかり。
一つセットを取ったら善戦、王相手によくやった。
飽き飽きする。
『どちらが勝つと思う?』
王虎は背後のかつて挑戦相手であった元王へ話を振る。
『……より多くを背負う方だ』
彼らしい回答。覇国を背負い、自分に繋げるまで戦い抜いた男は、自分がそれを力にしていたからそう答える気がしていた。
それは別に間違いではない。
彼がそうであり、そう思うだけ。
『俺はより身軽な方、だ』
そしてこれは王虎がそう思うだけ。
結局のところ、勝った方が強い。勝ち切った方が今日この日、強かった。
この世界は結果が全てである。
泥沼の果て、ぐちゃぐちゃになりながら相手よりほんの少し上で倒れ伏したなら、そちらが勝つ。そちらが強かった。
ただ、それだけ。
「「はぁ、はぁ、はぁ」」
疲労し、吐く息は万国共通。かすれた視界の中、戦う二人は何を見るのか。
集中しようとしても視界がちりつき、上手く前すら見えない。垂れた汗が邪魔で気が散る。普段そんなことがないのに、何かが邪魔をして仕方がない。
没頭しなければならないのに、没頭しているはずなのに――
(考えがまとまらねえ)
(どう打つ、どう捌く)
揺らぐ。序盤、中盤と針の穴を通し続けてきた彼らが、今ではフラフープが如しガバガバの穴にすらか細い針を通すことが出来ないでいる。
それが極限に達すると言うこと。
それでも――
「しッ!」
「ふッ!」
時折顔を覗かせる悪手を除き、何だかんだと針の穴に通すのだから、やはり彼らは超人であるのだ。体に染みついた卓球が、彼らを突き動かす。
勝つのはどちらか。
祖国を、地元ドイツを背負う者か。
ノーランカーの挑戦者か。
背負う者か、身軽な者か。
今日この日、天秤はどちらへ傾く。
別に王虎に結果が見えていたわけではない。誰にもわからないのだ。ここまで拮抗し、ここまで長引いた試合の決着など。
ほんの僅かな綻びが試合を決める。
ほんの僅かな覚悟が試合を決める。
ほんの、ほんの僅かで、小さな、ひと握の何かが――
ただ、
『……そうか』
王者は望んでいた方を、自分の願いを口にしていただけなのかもしれない。
泥沼の死闘、汗と泥にまみれた彼らの決着は、
「……はぁ、はぁ」
「……」
必殺のドライブ、龍弾が炸裂して決した。
勝者は、
『――ミナト・シラヌイ!』
不知火湊。
流れの中、湊は体に染みついた前陣でリスクを取った。これまでただの一度も前で打ち返せていない、ダンのスペシャルに狙いを絞り、打ち砕く手を狙ったのだ。
父の、
「リターンの時点で相手をコントロールしろ。ただ漫然と打つな」
その教えがふと零れ、気づけば体が勝手にそうしていた。
相手にバック方向へ打たせ、それを思い切り前で、台上のバックハンドドライブで打ち返す。相手の始動に合わせ、振り抜いたほぼ完全な山勘。
その思い切りが、そうした卓球センスが、それを支えた教えが、勝利を引き寄せた。次やったらどちらが勝つのかはわからない。
それでも今日この日、
『見事だ。負けたよ』
「……ありがとうござ――」
不知火湊が勝った。
劉党は湊の腕を持ち上げ、皆の前で掲げる。
敗者が、勝者を称える。
それによって地元の者たち、ドイツの観客たちは心からの歓声を、二人を称える言葉を発することが出来た。
今日一、いや、今大会一番の大歓声であった。
『またやろう。次は負けないよ』
「……あ、あの、俺、ドイツ語は――」
ダンは湊の肩をポンと叩き、そのまま歩き去っていく。
(言葉は要らない。どうせすぐにまた会う。その時語ればいい。また、卓球で)
歓声に向け、同時に背中の湊へ向け、ラケットを掲げて過ぎ去る。
何となく、何となくだが伝わった。
「また、お願いします」
湊は日本人らしくお辞儀をして、
「……ふぅ」
顔を上げる。大観衆が、卓球を見に来た人々が見える。これだけの人が卓球を見るために集まった。それは凄いことなのだと思う。
決して当たり前ではない。
だから嬉しい。
「よし、次だ!」
言葉の通じない彼らにそんな気持ちを伝えるにはどうしたらいいか。少し迷ったけれど、それでも彼らがより楽しく思える選択を。
そう思い、
「勝負!」
ラケットを真っすぐ、向けた。
『……ご指名だな』
『ぶはは、きちんとプロだなァ、小僧』
次の相手、世界最強へと。
観客にとっての大好物、ジャイアントキリングを誰にでもわかるよう示した。当然、盛り上がる。ここまで駆け上がった無名の選手が、世界最強にまで手を伸ばしたのだ。こうなったら見てみたい。
この勢いのまま、王者を陥落させるところを。
『なら、乗ってやろう』
高みから、王者が手招く。
かかってこい、と。
それだけでさらに盛り上がり、世界王者対無名の挑戦者、その対決に花を添える。期待は膨らむ。
世界中の卓球を愛する者たちが、それを目撃する。
○
「……か、勝つかぁ。劉党に。オバアの一人勝ちじゃん」
石山百合は苦笑いするしかない。元々地力はあった。精神面での一度やめる前まではデバフが大きかっただけ、そもそも貴翔が現れるまでジュニアを含めた同世代、少し上の世代まとめて無双していたのだ。卓球は特殊なスポーツで、プロが、まあ厳密には皆セミプロだがそれはさておき、プロが中学生、高校生に負けることなどざらにあるスポーツである。これが野球やサッカーならまずありえない。
だから、これは別に――
「いや、やっぱおかしいわ、不知火湊が」
おかしくない、と思おうとしたが、それはそれとして世界ランク一桁踏んだ選手、多少落としても十位台の選手に勝つのは異常事態である。
何せ日本ナンバー2の社会人選手(鈴木)が世界ランク30前後をうろうろしているのだ。そんな彼がこの前惨敗を喫した絶好調の格上に勝った。
これはもう、卓球界における大事件であろう。
「とりま酒飲も。おめでとー」
微塵もそう思っていないが、とりあえず理由をつけて飲みたいだけの酒カス、石山はぐびっと一気飲みした。
○
「こ、この前、女子に教えていた人と同一人物だよね」
「た、橘⁉」
「し、死んでる。あまりの尊さに、意識が――」
「橘ァ!」
佐伯湊から不知火湊に至るまで、休止期間すらファンクラブの運営をやめなかったファンの鑑、青陵の橘は尊死していた。
その貌は、とても安らかであったと言う。
○
「こりゃあ代表入りも秒読み、ファンクラブも復活。つまりぃ?」
「さようなら湊君、愛していたわ」
「破局、待ったなし!」
「皆さん、殺しますよ? ピンポン玉で人が殺せるか、試してみますか?」
「いやぁん、こわぁい」
ぶちキレ姫路を煽る部員の皆さま。しょぼんとするはファンであった劉党が負けたことにショックを受ける青柳、そして――
「代表入りってことは、俺も入るんでお兄さん駄目っすね」
「は、ハァ⁉ 兄貴なんてどうでもいいし! つか、今の湊君はともかく、黒崎はまだ負け越してんでしょーが!」
「近日中に勝つっすよ」
「勝ってから言えや!」
『鈴木』みどりもまた少しだけショックを受けていた。実は彼女、兄に鈴木みのる(日本の二番手)を持つ卓球一家であり、自分同様いまいち地味めな戦い方である兄を毛嫌いしている、と見せかけて自分以外が煽るとガチ目にショックを受けるブラコン気質があった。普段、メンタル強めの二人が撃沈しているのはなかなか珍しい。部員たちは姫路を煽り倒すことに命を懸けているので気づかないが。
「私と湊君はフォーエバーですがァ?」
「でも、このままじゃ釣り合わなくなっちゃうわ」
「あの人は遠い所へ行っちゃったのね」
「私も代表入ればいいんでしょう!? これで釣り合いますしィ!」
姫路美姫、風吹けば湊が勝ち、モチベが上がる。
どこまでも恋愛第一主義者である。
○
「あれ、秋良ちゃん通話抜けた?」
『いや、入ってる。感動で死んだんだろ』
「ふーん、どうでもいいや」
『それは同意』
劉党が化け物じみた強さなのは十分伝わった。それでも小春、花音は湊が勝つと信じていたし、彼の卓球を全力で追っていた。
今は早く卓球がしたい。
でも、それ以上に――
『次、世界最強だぜ? どっちが勝つと思う?』
「コーチ!」
『はは、ブレねえな』
「花音ちゃんは?」
『……悪いがあたしも穴党なんだよ』
「じゃあ王虎に賭けなよ」
『馬鹿たれ。あたしの参考文献舐めんな』
今は世界最強と自分たちのコーチが、道しるべが何処まで戦えるのか、それが知りたい。見たい。
「今のコーチは最強だよ。小春のね、理想を超えてきたから!」
『……ま、楽しもうぜ。ここまで来たらよ』
とうとうここまで来た。
世界最強に今、自分たちのコーチが手を伸ばす。
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