第98話:チェンジエンド

「別に前で戦うことに拒否感はないんですけどね」

 星宮一誠の問い「前で戦わない理由」に対し、不知火湊は少し言葉を濁す。別に捨てたつもりはないが、今は色々な卓球に触れたい、色々な卓球を使いたい、と言う欲求が勝っている現状もあり、今はあえて前では戦わないようにしている。

 別に、何か、わだかまりがあるとかでは――

「君の強みだとは思うけどね」

「……前、負けそうになって以前の自分に頼ってやられたこともありますし」

「ああ、志賀君との……あれは相手が君をよく知っていたことで読み切られたことが原因だった。逆に、君を知らない相手にはとても有効だと思うけど」

 そんな試合のことも知っているのか、と湊は驚く。

 それに一誠の言うことも一理あるのだ。志賀十劫は不知火湊を、佐伯湊をよく知っていた。そして自分の弱さも。最後に頼るとヤマを張り、それを当てた。

 逆に言えばそれだけの条件がそろってはじめて欠点となる可能性がある、と言う話。長年培ってきた技量は当然残っているのだ。

「……」

 それは湊も理解している。

 それでも使えない、使わない理由は――

「随分と話は変わるのだけれど……昔、よく家族同士で遊びに行ったことを覚えているかい? 地元の遊園地とか、よく三家族で行ったものだけど」

「……何となくは」

 突然がらりと話が変わり、戸惑いながらも湊は答えた。

 美里と自分が生まれた時から一緒にいて、其処に那由多が引っ越してきて、父親が多忙な家同士(鶴来家は別)、よく色々な場所に出かけていた気がする。

 たまに父親も参加したり――

「崇はまだバリバリ現役で、私も兼任していた時期だったからあまり参加は出来なかったけど、それでもよく覚えているよ。いつも舞さんにべったりな君が、崇がいると舞さんそっちのけであいつにべったりだったことをね」

「……え? いや、そんなわけ、ないですよ」

 湊の中にその記憶はない。あるいは消えたのか。

「崇のこと、恨んでいるかい?」

 一誠の言葉が湊の胸を突く。

「恨んでは……でも、その、僕を見限ったことよりも、母さんを一人にしたことは、そうですね。恨んでいます」

 家族三人で過ごしていた家。二人で暮らすにはとても広く感じた。父が選手を引退して、短い期間だが其処にはあったはずなのだ。

 家族の団欒が。それなのに彼は一人、自分を、母を捨てて出て行った。

 それが許せない。

「離婚を切り出したのは舞さんからだと聞いたよ」

「……は?」

「君の精神状態が落ち着くまでは誰にも言わないで、と私たちも口止めされていたけど、先日舞さんに頼まれたんだ。必要なら、伝えてほしいって。卓球はメンタルなスポーツだ。そして、ここから先は出し惜しみして届く世界でもない」

「……僕が、出し惜しみしていると?」

「ああ。私にはそう見えた。佐伯湊は紛れもなく天才で、その世代の頂点だった。それは私から見てもそうだったし、崇にもそう映ったのだろう。だから、あれだけ嫌がっていた君のコーチをやると決めたんだ。私たちはね、崇が嫌がっていた理由を軽んじていた。無責任に、背中を押した、けしかけた」

「……嫌がっていた? あの人が?」

「ああ。何度言っても、卓球が絡むと家族同士の集いにも顔を出さなかった。徹底して家族と競技を分けていたんだ。だから、君たちの家族は上手く回っていたのだと、後になってわかった。だから、私たちは君たちに謝らねばならない」

 一誠は湊に頭を下げた。かつて、彼の父親にそうしたように。そしてその父親が「くだらない。お前たちには関係がない話だ」と切り捨てたことも覚えている。

 その通り。どれだけ近しくても一誠は部外者である。

 鶴来父も、謝罪はすれど踏み込むことが出来なかったのはそれが理由である。

「崇は、あいつにはわかっていたんだ。不器用でストイックな自分が教えることになれば、それはもう家族ではいられなくなることを。あいつは誰よりも自分に厳しかった。周りにもそれを求めるきらいがあった。あいつもそれは自覚していた」

「……で、でも、結局あの人は僕らを捨てたでしょ! 今更」

「捨てていない。確かに離婚はした。舞さんが、これ以上は無理だと判断したから。湊君も限界だった。そして、崇もどうしていいかわからなくなっていた。あいつは不器用だ。あれもこれもとやれるタイプじゃない。練習だって極めてシンプルで、そのシンプルな練習を徹底的にやり込み、高めていくスタイルだ」

「……」

「それしか知らないし、教えられない。君だってわかるだろう? 一度教える側に立ったのなら。自分がわからないことを、相手に教えることなどできないんだ。だから崇は君から離れた。君が全てを失う前に。舞さんもそう望んだ」

 シンプルな練習だった。多球練習をひたすらやり込み、ほんの少しの誤差も許さず、妥協なく突き詰めていく。精度を極限まで高め、磨き上げる。

 それが佐伯崇の卓球であり、それが佐伯湊の卓球であった。

「あまり子どもに言うことじゃないけれど、あの家のローンは今も崇が払い続けているし、君たちの生活費だって毎月入金しているんだよ」

「……う、嘘だ」

「嘘なものか。あの家を舞さん一人で維持するのは無理だ。君を抱えながらじゃ尚更。これも、舞さんが君に伝えていいと言っていた。今なら大丈夫、受け止められるはずだ、ってね。少し、重たい事実だけれど、今言うべきかは迷ったけれど」

 湊にとっては衝撃以外の何物でもない。でも、湊だって馬鹿ではないのだ。不知火の家(母方の実家)に多少頼ったところで、生活の合間を縫ってパートしているだけの母が二人の生活を支えることは困難であることぐらい、わかる。

 ずっと目を背けていた現実。

 離婚の原因は父佐伯崇ではなく、息子の佐伯湊。

 自分が原因だった。自分を守るために、母が二人を引き離したのだ。

 もちろん、父親にも理由はあるけれど――

「僕の、せいで」

「それは違う。崇がドのつく不器用なのが悪いし、そんな崇を競技者として尊敬していて、ああなるまで止めなかった舞さんも悪い。あと、そんなことも知らずに君の才能を見て、能天気に背中を押した星宮と鶴来の父親もね」

「……」

「家族として崇は間違いなく君たちを愛していた。いや、今もその気持ちに変わりはないと思う。でも、競技者のあいつと家族は両立しなかった。あいつの言う通り、分けておくべきだったのだと、今更ながら思う」

 封じていた記憶が、少しずつ顔を覗かせる。

 確かに在った、家族の団欒。不在がちな父親が帰る度に、まとわりつく小さな自分。大きな背中を、覚えている。不器用に自分を触ろうとする父の手も、覚えている。忘れようとしていたことが、少しずつあふれてくる。

「申し訳ない。その上で図々しくも助言するよ」

「……」

「家族のいざこざと、卓球は別腹だ。如何なる経緯であれ卓越した技術を持っているのなら、それは使うべきだと、私は思う」

 一誠の言葉に、湊は頷きながら目をぬぐう。

「ほんと、その通りですね」

 別に胸のつかえがとれたとか、そんなことはない。母親が傷ついていなくて、父親が傷つけていなくて、ほっとしたとかもない。

 家族として嫌われていたのではないとわかって、嬉しくなったとか、そんなことは断じて、決して、これっぽっちもない。

 だけどまあ、

「貴翔には及ばない技術ですけど、まあ、たまには使ってあげますよ。一応」

「はは、そうか。なら、よかった」

 たまにはいいかな、そう思えたことだけは一応、収穫だったと思う。

 この寒空の下、異国での夜の――


     ○


 体が軽い。頭もスカッとした。

 悪くない感覚である。

「ヨォ!」

 不知火湊は叫んだ。今までの分も込めて、世界ランキング上位がナンボのもんじゃい、と言わんばかりに。

 元々この大会は絶好調だったけれど、不思議な気分である。

 まだその先があったのだから。

「来いッ!」

 気持ちが逸る。気分が高揚する。その上で頭は冷えている。冷たく、研ぎ澄まされている。この感覚は随分昔に忘れていたもの。

 ずっと前に失い、顧みなくなっていたもの。

 前での自分。極限のスピード、常人では踏みとどまることを許されぬ超常の領域に立つことでしか、得られぬこの感覚があるのだ。

 鉄壁、まさに言葉通りの鉄の壁。凄まじい精度で道を阻み、相手の選択を削ぎ落させる見事なまでのコース取り。加えて前に、前に弾くため、余計に選択肢が削られてしまう。それが劉党の卓球である。

 それに対し湊は、

「っしゃあッ!」

 あえて前での捌き合いで勝負を仕掛けた。より早く、より速く、より疾く、音速の、光速の、神速の領域である。

『上等だ!』

 攻めと守り、同じ速度域ならば守りが勝つ。ゆえに劉党も退く気はない。相手が前で勝負し、速さでぶち抜くつもりなら、それを受け潰すまで。

 反応速度の限界。人間を越えた二人の超人、その限界に挑戦する。

『す、すげえ』

『本当に、凄い』

 卓球に精通する二人の少女が目で追えぬほどの神速での捌き合い。精通しているからこそわかる、理を超越した二人のバトル。

 『閃光』が『鉄壁』をぶち抜かんと、煌めきを見せる。

 輝きは増す。どんどん増す。

 この場全員の目を焼かんとするかのように――

『……』

『懐かしいなぁ、韓信さん。若きあんたを下し、刹那の輝きで世界を取った男の影がちらつくじゃアないか』

『……ああ』

『貴翔が似ていると思っていたが、なるほど、才能の分違ったか。性能が上だからこそ、最後の一線で似ることはなかった』

 天津風貴翔と佐伯崇は似ているが違う。才能は貴翔が上である。だが、まだ貴翔は世界を取ったことがない。それは王虎が天を塞いでいることもあるが、もっと言えば強さ自体はあの時の佐伯崇の方が上だった、と言う単純な理由もある。

 佐伯崇は強かった。当時、すでに『国士無双』と国内では敵なしだった若き天才、韓信を打ち砕くほどに。

 あの時の彼はそう、今の湊と同じく、

『理を超えた先読み。それによる先回り。苦い、思い出だ』

 未来を打っていた。

 劉党もそれを感じていた。明らかに動き出しが、自分の思い描くそれよりも早い。早いのに正確で、間違いがないのだ。

 自分を見据える眼、覗き込むようなそれが恐ろしい。

 何を見ているのか、何が見えているのか、まるでわからないから。

「見ているか、崇。お前がやっとのことで辿り着いた境地に、もうあの子は辿り着いたぞ。お前が与えた力は確かに、今のあの子を支えているんだ」

 佐伯崇が与えた精密巧緻な技術。

 そして、

「まったく。今は妻を愛していると言うのに……昔を思い出させてくれるじゃないか。そうだとも。あの二人の子なんだ。卓球に愛されるのは、当然だ」

 不知火舞の規格外の才能。センスだけで卓球をやり、当時の女子、その頂点を崩したほどの才能を持ちながら、楽しい卓球しかしたくないから、と上の舞台に上がることをしなかった隠れた天才。

 あの先読みは、凄まじい戦歴と当時最高潮に達した佐伯崇の集中力が重なり、彼を世界一へ押し上げたが、残念ながらひと時のものでしかなかった。むしろその体験をしたことで彼は自分を見失い、長く低迷した時期もあったほど。

 でも、不知火湊は違う。

「ヨォ!」

 母親譲りのここぞでの集中力、圧倒的卓球センス、そして観察眼が彼を父が辿り着いた境地へと引き上げてくれる。足りない戦歴はこれまでの経験や観察していた映像などで補う。コーチをして、皆に教えるために卓球を深堀した。

 さらに卓球に愛され、卓球を愛していた男が、それを捨てて長いブランクを経験した。そこで得た餓えもまた、今の彼の貪欲さを支えている。

 無駄なことは何一つなかった。

 寄り道すらも糧に、

『また、ダンを抜いたぞ、あの日本人』

『……凄過ぎるだろ』

 誰よりも卓球を愛した父、誰よりも卓球に愛された母を持つ、

「絶好調!」

 不知火湊が飛翔する。その眼は世界の高みを見据えて――

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