第95話:あと二つ

「花音ちゃん、コーチ中国にも勝ったよ!」

『ああ、今見たよ』

 小春と花音は通話しながら時差を経て届く吉報を待ち望んでいた。今こちらは零時を回ったところ。あちらはお昼過ぎ、夕方に差し掛かるくらいか。

 たった今、湊が中国の選手を破りさらにコマを前に進めた。

 この大会の性質上、予選スタートの選手が勝ち上がること自体が稀。予選免除の選手の方がランクは上なのだから当然の結果であるし、さらに言えば特例の二枠で出場する20位以上の選手が勝つような大会である。

 其処で逆の特例、日本勢の枠が余っていたためにねじ込まれたノーランカーが破竹の勢いで勝ち上がっているのだ。

 さすがにこれは話題になる。

 何だかんだ広報的な役回りとなった菊池らは「笑いが止まらねえぜ」とぐんぐんと伸びる徹宵との試合の編集動画にほくほくしていた。

 無論、今回の相手は五輪や世界卓球に出てくるようないわゆる一軍ではなく、世界ランク21位以下の選手である。三十位のローランに勝った以上、別にこのランク帯で勝つのはおかしな話ではない。

 ただ、やはり中国撃破の知らせは特別なのだ。

 それはもう、卓球にわかであるこの二人でも肌で感じていること。

「コーチ、優勝できるかなぁ?」

『石山さんは百億%無理だって言ってたけどな』

「いっしーはコーチを舐めてる」

『そうでもないだろ。あたしは結構信頼しているけどね』

「ふーん」

 優勝は絶対に無理、それは石山だけではなくあらゆる場所でそう言われている。そして、それを裏付けるのは絶対的優勝候補である男の試合映像。

 頂点ゆえ、軽く調べただけで大量の動画が出てくる。

 そしてその大半が、無傷で相手を圧倒するものばかり。

 十憶分の一、とも謳われる奇跡の肉体に、オールレンジに対応した卓越した卓球技術。中国四千年最高傑作、項羽の生まれ変わり、などあらゆる名を持つ。

 世界最強、王虎。

 紅子谷花音は湊から最初に、彼を参考にしろと言われた。そして知る。参考にしたくても出来ないことを。

 強過ぎる。上手過ぎる。万能で隙がない。

 全レンジ、完全に網羅したその姿は卓球の神にすら見える。

 日本勢はすでに引退した火山含め全敗。

 と言うか、中国人以外に彼は負けたことがないのだ。そしてその卓球大国中国でも、ここ数年彼は負けなしが続いている。

 誰も止められぬ怪物。

 今まさに円熟の時を迎えた最強に、果たして湊はどう戦うのか。

 まあそもそも――

『戦うとこまで辿り着けるか、だろ』

「辿り着くよ。コーチだもん」

 普通に考えたら戦うところまで辿り着くことなどできないのだが。

 これから先はもう、高ランカーたちが鎬を削る魔境なのだから――


     ○


「はぁ、はぁ」

 予選からここまでぶっ通し。予選三日間に、本選四日間の卓球漬け。下から這い上がってきた湊は物理的に試合数も多いのだが、この疲労感は決して試合数だけではない。強い相手との連戦、それによる精神的な摩耗がきつい。

 勝ちたい、勝つしかない、そう思っていた頃の自分だとおそらく、ここに辿り着くまでに擦り切れている。それだけ苦しい。

 重圧が押し寄せてくる。

「好ッ!」

 卓球大国の威信を背負う選手。昨日当たった選手よりもランクは上。そして勝って当たり前、大国の重責を担う彼らが放つ殺気は他国にないもの。

 一歩も緩めない。点差を広げても死に物狂いで追ってくる。

 勝つ勝つ勝つ勝つ勝つ勝つ勝つ勝つ勝つ。

 勝利への執念が雪崩の如く押し寄せてくる。

(……きっついねえ)

 湊は自らの笑顔が崩れかけていることに気づいた。楽しい、執念と共に殺気立つ相手に釣られ、その雰囲気に呑まれていた。

「……ふぅー」

 勝ちを望むことは悪いことではない。ただ、望み過ぎるのは自らにとってはよくなかった。卓球が雑になる。楽な方に逃げる。

 組み立てがシンプルになれば、一気に持っていかれる。

 相手にハマるな。

 相手をハメろ。

(皆が見ている。戻るな、進め。楽しい、が楽じゃないのは知っていたはずだ)

 同じ楽しく遊ぶでも、脳死で遊ぶのと本気で遊ぶのは違う。どちらも楽しいが、結果は正反対のものとなるだろう。

 どちらが良い悪いではない。本来そこに貴賤はない。

 ただ、世界中の卓球選手たちが望む舞台に立つ以上、遊ぶのならば本気で遊べ。死に物狂いで遊び倒せ。本気の舞台には本気で臨むのが礼儀である。

 湊はタオルで汗を拭き、今一度深呼吸をして空気を入れ替える。

 そして、

「やるぞ」

 殺気漲る相手へと向き直る。

 窮地でこそ笑え。窮地でこそ創意工夫を、遊び尽くせ。

 湊は、

「ラァッ!」

「!?」

 この大会、一度も使わなかった超スピードのロングサーブ、通称バズーカサーブを実戦で初めて使った。練習はしていたが、まだコースと速さを兼ね備えた一打の成功率は芳しくない。完璧と呼べる球は三割程度か。

 それでも使った。

 今ここで、三割を引く自信があったから。

 むしろここで使えば、三割が引き上げられる気すらしたから。

「……」

 ぶち抜かれ、奇襲でサービスエースを取られた相手は血走った目で湊を睨む。その視線に湊は笑顔で返した。

 そんな景色を、

『今また、一つ階段を上がったなァ』

 最強は楽しそうに見下ろす。苦しい連戦、そんな中でこそ人の本性は見えてくる。土壇場で自らを取り戻し、メンタルを整えた者と、勝利への執念と言う名の鎧で身をまとい、弱さを隠す者とでは器が違った。

 まあ、それも仕方がない。中国と言う国は海沿いの大都市圏を除き、内陸部では貧困層も多くそれが国民の多数派である。彼もそういう者の一人、家族を、一族を背負い、戦っているのだ。弱さなど見せられない。強くあらねばならない。

 執念の鎧で身を包まねば戦えない。

 ただし、

『決まり、だ』

 それでは天に届かない。

 湊の猛追。創意工夫がほとばしる。ここにきてさらに、枠の外へ躍り出た。

『はっはっは』

 最強の眼下にて、有資格者が高速の戦いの中で、突如歩き始めた。理解不能な動作、非合理的である。大国の選手は当然、彼のラケットの持ち手とは反対側、逆を突くような打球を放つ。あれではステップできない。

 勝った、そう思った時に――

「ほい」

 強い打球が深い落点で返ってくる。

「っっっぅ⁉」

 打てるはずがなかったのに打たれた。しかも絶妙なコース、勝ったと思ったことで緩んだ意識の外から、その打球は走ってきた。

「あの子は、ここでそれをやるか。はは、大物だよ、本当に」

 一誠が思わず笑ってしまうほどの曲芸である。バズーカサーブからここまで、一気に引き出しから惜しげもなく全部引き出し、相手を抜き返した。

『利き手と逆で、持ち替えて打った』

 ストリートの、遊びの卓球ならばともかく、ここはWTTコンテンダー、各国の代表が結集する国際試合である。

 そこで彼は、全力で遊んだ。

 苦し紛れの返球、それに対し湊は二歩前に進みより角度をつけた、厳しいコースへ打ち込む。必死に追いすがる中国選手。

 何とか拾うも、さらに前へ歩を進めた湊が無情にも、

「俺の勝ち」

 逆サイドへ前に出た分、より角度がきつくなった打球をお返しして11-9、見事差し返して勝利をもぎ取る。

「傻的(馬鹿な)!」

 優雅に、それでいて軽快に、歩いて詰める。彼らのセオリーにはない戦い方で、虚を突き倒した。美しく、ユーモア溢れ、独創的な幕引きに――

「よっし!」

 湊の突き上げた拳に呼応し、ベルリンの客が一斉に沸く。ここまでの戦いで彼は観客を味方につけていた。それは地の利を得たに等しい。

 見栄えのする卓球、何処までこの男は駆け上がるのか。

 無名はもはや、無名でなくなっていた。

 この地で佐伯湊を知る者はほとんどいないだろう。同世代の選手であれば知る者もいるだろうが、大半の観客はこういう舞台へあがってきた選手しか知り得ない。

 佐伯湊を知らぬ者たちに、不知火湊の名が刻まれつつあった。

 また一つ、頂点へ続く階段を上る。

『あと二つで決勝だぞ!』

『だが、この先は――』

 残り二つ勝てば決勝。ノーランカーが決勝に出て、優勝でもしようものなら日本のみならず世界でもニュースとなる。

 ただし、世の中そこまで甘くはない。

 準々決勝の相手は地元ドイツ生まれの中国系、劉党(リウ・ダン)。世界ランカーでは珍しい中ペンを扱う選手である。世界ランク最高九位、とうとう一桁を踏んだことのある選手が相手となる。

 そして準決勝は――

『決勝は、まあ無理だろうな』

『そもそもダンが勝つさ。さすがに年季が違うぜ』

 あちら側が順当な結果となった場合、ここで当たる。

 世界ランク不動の一位、『最強』王虎と。

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