第92話:予選で止まる男じゃない

『……マジで出場選手だったんだ』

 星宮一誠の背後で聞き覚えのある声がした。彼はそちらへ視線を向け、

『やあ、見学に来たんだね』

『……嘘つきじゃないか確認しに来ただけだ』

 早朝の公園で出会った子を見つけ、微笑んだ。ムスッとした顔で言い訳を述べるが、気になっているのは見え見えだろう。

 見た目や態度の割には随分素直な子に見えた。

『どう? 実戦の彼は』

『……本当にランカーじゃないの、あいつ』

 コンテンダーでは上位ランカーは予選を免除され、下位のランカーは予選でふるいにかけられるのだが、其処で不知火湊は大いに躍動していた。

 全体的に競技レベルは年々上がっているが、それでも下位ランカー相手に星を落としそうな気配はない。実力者は比較的少ないとはいえ、国際試合でここまで自分の卓球を貫けるのだから、やはり肝っ玉は普通ではない。

 まあ、この辺りは他の競技ではなかなかない光景であろうが、そもそも日本は中国に次ぐ卓球王国でもある。卓球と言うスポーツの浸透はともかく、競技レベルに関しては世界屈指。そして卓球は早ければ中学、遅くとも高校、大学で完熟に至る。

 ジュニアのカテゴリーで無双できるレベルの選手なら、必然的に国際試合でも暴れることが出来るのだ。卓球の違いは調整が必要ではあるが。

 その辺も抜かりはない。元神童は伊達ではないのだ。

『一度卓球をやめているからね』

『え?』

『君もだろう? ストリート仕込みにしては、さすがに上手過ぎたから』

 一誠の言葉に肯定も否定もせず、湊の卓球を見つめ続ける。

『……あいつ、どれだけやめてたの?』

『一年半ぐらいじゃないかな、確か』

『……いくつ?』

『十六だよ』

『それで、一年半も……なんで!?』

 今、笑顔で、楽しそうに、それでいて気迫に溢れたプレーをしている湊に、やめる理由など思い浮かばなかった。

 誰の眼にも今の彼は強く、卓球に選ばれて見えるから。

『色々な理由はあるよ。でも、一番の理由は自分の卓球、その上位互換が現れたこと。其処からメンタルが崩れて、勝てなくなった。そして、やめた』

 一誠は顔をしかめる。当時、自分は欧州で様々な選手のサポートをしながら働いていた。佐伯湊の敗北、新星天津風貴翔の台頭、彼の不調は耳に届いていた。だが、若い時の苦労は勝ってでもしろ、そう思い成長する好機だとすら思っていた。

 彼の実情を知らず、友と一緒に不器用なあの男の背中を押したことも忘れて、若く、幼く、苦しんでいた彼に何もしてあげられなかった。

 苦い、取り返しのつかぬ失態。

 湊がラケットを置いた時から、自分が帰国するたびに三人で酒を飲みかわす、そういう習慣は自然と途絶えた。

 顔を合わせても大会の会場、挨拶をかわす程度。

 今回のことを贖罪の機会だと思っていたのだが、幼く、砕け散ったはずの彼は成長し、大きくなり、強くなった。

 もう、自分のサポートなど必要ないほどに。自らが進むために重要なスポンサーまで見つけていたのは、驚きを通り越して笑ってしまったが。

 縁も、運も大事な素養。プロでやるなら、それなしでは戦えない。

 この大会に出たい選手は国内にごまんといるだろう。しかし、現実は青森田中の田中総監督の言う通り、そのほとんどの選手が継続的に遠征など出来ない。

 手厚い強豪のサポートとて、欧州遠征のような金のかかる行為を、勝てるかもしれないレベルの選手にすることは出来ないのだ。

『あれの上位互換がいたの?』

『いや、彼は自分の卓球を根本から、戦型から変えたんだ。キショウ・アマツカゼ、昔は彼と似た戦い方だったんだよ、彼は』

『キショーと……全然、面影ない』

『たまに見せるよ。ほら、今』

 相手のミスショット。甘く、浅く入った球を湊は見逃さなかった。すでに打った瞬間には、相手がミスすると動きを見て予測し、ポイントに入っている。

 あとは前で角度をつけたスマッシュを叩き込むだけ。

 素晴らしいショットに会場がにわかに沸く。

『うまい』

『それよりも先読みだね。昔のあの子にはなかった。見てから間に合ってしまった不運か。才能が可能性に蓋をすることもある』

 打つ前、あの位置に自分を運んでいた時点で勝負は決していた。相手を観察し、相手の機微を読み切らねばできない芸当である。

 かつての佐伯湊は見てからで十分間に合った。それでも『閃光』と謳われた。今だってそれでも十二分に早い方だろう。世界でも五指に入る可能性はある。

 でも、一番にはなれない。

 だから、新たなる道を模索した。その結果が今。

 かつて得た莫大な経験値とおそらく現在進行形で行われている相手の卓球を知るという行為。それは何よりも――

(卓球への飢え。美里ちゃんもそうだったが、一度離れて初めてわかることもある。卓球への取り組み方自体が以前とは随分変わったね。美里ちゃんは勝つために負けと向き合った。湊君は卓球という競技そのものの探求に舵を切った、そう見える)

 失い、何もない時を過ごしたからこその変化。

 母、不知火舞から聞いた。卓球をしていない時間、湊はずっと死んだ魚のような眼をしていたと。濁り、何も映さず、ただ生きるだけの時間。

 その地獄が、それが生み出した飢えが、さらに彼を飛翔させる。

(君の目にはどう映る? レオナ・シュミット)

 少し気になって調べてみたのだが、驚いたことに『彼女』はこの見た目で、昨年グルンドシューレ、日本で言う小学校(四年制)を卒業し、ギムナジウムに入学したばかり。要は日本人視点では高校生ぐらいにしか見えない見た目なのに、日本で言えば小学五年生でしかなかったのだ。

 おそらく周りのちびっ子たちは普通に同級生であったのだろう。

 そして、ドイツの世代選抜選手でもあった。昨年までは。

(同じ境遇だろう? 自分より強い相手が現れ、選抜洩れした君と湊君は)

 ムスッとした顔で、ずっと湊を見つめている彼女が何を思うか、それは一誠にもわからない。ただ、何かを得てくれたら、とは思う。

 とても欧州の選手らしい、一誠好みの卓球をしていたから。


     ○


(いやぁ、昔はそんなこと思わなかったけど、国際試合面白いなぁ。国が違うと卓球が違う。アジア系なのにゴリゴリのフィジカルファイターもいれば、アフリカ系なのにめっちゃテクい選手もいるし、超楽しー)

 本日全勝、予選をしっかり勝ち上がる湊はご機嫌であった。勝利したことも嬉しいが、それ以上に色々な卓球に触れられたことが良かった。

 こう来るか、の連続。

 その度に引き出しに彼らを仕舞い、自分の卓球に組み込んでいく。もちろん、公園ほど露骨にそれをやれる相手ではないが、ちょっと練習してから試してみよう、という考えはあった。色々と試したい。

 その想いは日に日に高まるばかり。

 深呼吸する。この余裕は勝っているからなのか、それとも負けても笑えるのか、卓球同様どんどん変わる自分が、自分でもわからなくなる。

 ただ、一つだけわかるのは――

(今の僕なら、あいつらに見せられるかな)

 自分の戦い全てが、日本にいる彼女たちへのお土産になると言うこと。一誠が予選から全試合、撮影した映像を後日渡してくれると言っていた。

 見られている。恥ずかしい姿は見せられない。

 もっと見せよう。今の自分を。

 魅せねばならない。

 自分は彼女たちのコーチで、彼女たちが進むための導であるのだから。

「よぉ、調子いいな。佐伯ジュニア」

「その声……火山さん!?」

「おう、久しぶり。いつぶりだ? あ、貴翔に虐殺された大会ぶりだったな、あっはっはっは。ウケる」

「全然面白くないですけどね」

 日本卓球界、ここ十数年の功労者と言えばこの人、火山隼(ひやまはやぶさ)。静岡出身、青森田中育ち。そして国内での成長に限界を感じ、当時では珍しかった単身ドイツへ卓球留学、ドイツオーストリアの欧州最大の卓球リーグであるブンデスリーガで活躍し、そこで身に着けた実力と共に中国一強時代、ただ一人王者に挑戦し続けた炎の男である。前中後のオールレンジ、何でも屋であり、ロビングやフィッシュなどの達人としても名高い。プレースタイルは泥臭く、情熱的。

 そして何よりも現役時代、誰もが認めるド天才であった。

 あと黒崎豹馬憧れの選手でもある。

「さっき一誠さんと挨拶してきたわ。オバアに出荷されたんだって? 面白!」

「僕、この会場つくまでWTTだって知りませんでしたよ」

「ぶは、それは馬鹿過ぎだろ」

 火山、大笑い。

「あと、僕不知火湊なんで」

「言い辛ぇなぁ。まあいいや。しっかし、随分と卓球変わったなぁ。苦労したろ?」

「いやぁ、楽しんでいるだけですよ」

「へえ」

 笑みが薄れ、火山の視線が湊の瞳の奥を覗く。其処に揺らぎはないか、強がりではないか、嘘か真か、見定めるように。

「……?」

 当の湊は何も気づいていないが。

「なるほど。オバアが裏技使ってでも世に出したい理由がわかった。ってか、徹宵に勝った奴がコンテンダー如きに臆するなよ。今年から代表選考のポイントは日本のリーグ、Tリーグでの勝ち負けが比重としては大きくなった。チャイナ連中に勝てるほどの選手なら世界ランキングのために遠征重ねるのが効率的だが、今のとこ貴翔以外はまず代表、世界ランキングにしか関わらない大会に出る意義は少ねえ」

「わかっていますよ。前の制度なら、枠が余るわけないですしね」

「その通り」

 Tリーグ発足以前は、代表選考の観点からも積極的に国際試合で活躍し、ポイントをかき集める必要があった。しかし、それでは選手に負担がかかることと、Tリーグに注力させたい狙いも相まって、現在この大会で代表選考ポイントを稼ぐなら、出場選手の中で唯一の中国三強が一角にして頂点、王虎を倒すしかない。

 それでもたった十点そこら。代表狙いの選手はTリーグや他の大会がある場合、そちらを優先するのも当然であろう。

 王虎に勝てる人材なら、それこそ世界卓球で優勝すれば代表選考のポイントが一発で二百も貯まる。王虎が出場する以上、今大会もそれと同じ難度である。

 一言で言えば割に合わぬ大会、と言える。

「あの男にも困ったもんだ」

「あの男?」

「あ、王虎だよ、王虎。インタビューで言っていたが、ドイツ観光がしたいから出場を決めたって言ってやがった。あの男は嘘をつかねえからな。本気でドイツ観光のついでに軽く優勝、世界ランキングのポイント稼ぎって感じだ」

「……え、王虎って、あの王虎ですか!?」

 地球最強の卓球選手、王虎(ワン・フー)。

「……不知火ジュニア、お前、知らずに出場してたのかよ」

「だから会場着くまで何も知らされていなかったんですって! うぉぉお、マジか、世界最強だ。やべー」

「自分とこの選手も出るってのに、若手の芽を潰してどうすんだよ。コンテンダーってのは若いのが切磋琢磨することに意義があるってのに」

「でも、王虎もそんな年でもないですよね?」

「まあ、まだ二十六だからな。中国王朝はまだまだ継続だろ。今のあいつ、若い頃と違ってマジで手が付けられねえから」

「楽しみですね」

「……ん?」

 まさかの反応に火山は湊を見つめる。眼の奥を見るまでもない。今の話を聞き、あの怪物を最強と知った上で、楽しみだと言い切った。

 獰猛な、挑戦的な笑みが物語る。

「本当に変わったな。不知火ジュニア」

「あの、それだと誰の子どもだってことになりますけど」

「馬鹿。俺は青森田中出身だぞ。お前さんの母親のことだって耳にタコができるほど伝説ってやつを聞かされたし、映像も見た。だから、どっちでもいいのさ」

「……なんか、いいですね。どっちでもいい。確かに、その通りっす」

「おう。ま、頑張れよ。そもそも、まだまだ遠いぜ、王虎は当然本選からの出場だ。当たるかどうかはくじ運次第。運に見放されても戦いたいなら――」

「決勝、ですね」

 強い笑顔。強かった時の彼にすら見られなかった強い光。「おいおい」と火山は内心戦慄していた。彼の、歴戦の猛者としての感覚が語る。

 こいつ、いっちまうぞ、と。

(王虎に勝てずとも、ノーランカーが決勝に進出ってだけでニュースだ。いやまあ、そもそもノーランカーがしれっと出場しているのがニュースなんだけど、それは横に置いて……なんだかんだ、コンテンダーでも優勝や上位入賞者はランク上位の『常連』ばかり。それに風穴を開けるってんなら、へへ、寄った甲斐があったぜ)

 ここから始まるのは無名の男、

「ぶちかましてこいや!」

「骨、拾ってくださいね」

「はっはっは、一誠さんと一緒にミュッゲル湖で散骨してやるよ」

「うっす」

 不知火湊の快進撃である。

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