第78話:ホームジムにて
「ふゥ……んッ!」
不知火湊、スクワットも大分様になってきた。スクワットに限らず、瞬発力を要する筋トレはすべて呼吸が重要になる。しっかり吸い込み、腹圧をかける。スクワット、ベンチ、デッド、その他多くの種目に共通するパワーを出すためのテクニック。
それが大げさなほどの呼吸法である。
「いい深さです。フォームも丁寧ですよ。そのまま……十回やり切りましょう」
「んッッ!」
顔を真っ赤にしながら、歪めながら、されどフォームを崩さずにやり切る。黒峰式の指導は怪我予防の観点からもフォームの乱れが発生した時点で切り上げる。ベンチは補助も比較的容易なので補助付きで限界を超えさせることもあるが、スクワットとデッドリフトは補助が一人では難しいこともありかなり手前で止めていた。
今回は初めて、自体重+二十キロである八十キロを十回やり切れるかどうか。
「ラスト」
「ゥンンッッ!」
気合全開、スクワットもデッドリフトも、七回の壁を越えた先が本当にきつくなる。十回が限界となる重量ほど、その壁は分厚く聳え立つ。
特に三セット目は――
「お見事」
「ぶはっ」
ラックに戻してすぐ、地面にへたり込む湊。それを見て黒峰は微笑む。最初から自体重近くを挙げられた湊であったが、あえて一度重量を控えめにフォームを固めさせ、遠回りしながら自体重+二十でセットを組めるまでになった。
元々足は強かったが、それでも苦しい足トレに向き合わねばここまで伸びることはない。パワーを引き出し、出し切る感覚が身についてきた証拠。
特に呼吸と腹圧を意識し始めてからの伸びは全種目に出ている。
「あと四十キロ、ですか。遠いなぁ」
「……」
黒峰としては一発とは言わずとも三回程度挙げられたら、ぐらいの認識であったが、湊は自体重の倍でセットを組む認識であった模様。目標を高く持つことは悪くないので黒峰は何も言わなかった。
トレーニーあるあるの上半身種目、やっていて楽しいベンチプレスばかりに熱中するようであれば競技の性質も鑑みて多少苦言も呈しただろうが。
足ならまあ、強くなって損はないだろう。
水分補給をしながら休憩する湊。最近は忙しく週に二度しか出来ないため、分割ではなく全身法でのトレーニングゆえ、お次は広背筋狙いのラッドプルである。
全部やります、黒峰塾。
「そういえば学校にも出来るらしいですね、筋トレ設備」
「ええ。機材選定は微力ながら私も協力しましたよ」
「へえ、そうなんですね」
「モノは良いですよ、業務用ですので」
「そんなに違うんですか?」
「家庭用もピンキリですが、まあ限界はありますからね」
「ふーん」
湊的には機材の良し悪しはあまり興味なさそうな様子。実際に持ち上げる重量が変わるわけではないので、まあそういう感想も間違いではない。
黒峰としても個人的には面白マシンを試してみたい欲求もあったが、其処は教育者として長年使われ実績のある機材を選定した。
たまにあるのだ、誰が考えたんだこれ、みたいなのが。
大体色物は生まれ、消えていくのだが――
「今後はそちらを使えば時短になりますね」
「……あれ、そうなります?」
「……? 近場に出来たのですから、そうなるのが自然では?」
「……た、確かに、それはそうなんですけど」
実は湊、ここが結構気に入っていた。何しろ人の目がないのだ。陰キャにとってはそれだけでもありがたい。
「と言うか、よく考えたらそろそろ僕がみんなを指導しなきゃいけないんですよね? 参ったなぁ、まだ教えられる自信がないです」
学校に設備が追加された。湊もそれなりに筋トレをこなせるようにもなった。元々は部員に教えるため、その先行として教わっていたのだ。
なら、来年を見越してそろそろ始動することも――
「それには及びません」
「……あ、まださすがに教えられる感じじゃないですよね」
「それもありますが、一番の理由は不知火生徒の習熟ではありません」
「へ?」
「……私です」
「……どういうことですか?」
黒峰の発言の真意がつかめない湊。しかも、いつも厳然として表情を崩さない彼女が、なぜか申し訳なさそうな顔つきになっていたのだ。
湊とて気になってしまう。
「正しくは私の計画と現在の状況が、かなりズレてしまった、ですね。端的に言います、不知火生徒はフィジカルの面で部員を指導する必要はありません」
「え? あれ、なんでですか? やっぱり新しいコーチが来たから僕がお役御免になるとか、そんな感じです? 理屈は、わかるんですけど、でも――」
「いえ、指導するのは私がメインになります。もちろん方向性は石山コーチや不知火生徒とも話し合うつもりではありますが」
「……それは――」
「順を追って説明しましょう。まず大前提として、私は来年一年を育成の年と割り切るつもりでした」
「……え?」
「つまり、神崎生徒を捨て石にするつもり、だったのです」
「なんで、ですか?」
「目標とモチベーションの高さ、この子たちはきっと上に行く。なら、こちらも相応の準備を、種蒔きをしようと考えていたのです。強くなるには時間がかかる。時間は有限で、いきなりすべてを詰め込むわけにもいかない」
「……」
「勝負の年はあなた達の世代が三年となる年、其処へ向けた下地作りを、と考えてここで教えていました。不知火生徒の出番は来年の夏、総体で敗退した彼女たちを飛躍させるカンフル剤として、筋トレを導入しようと予定していたわけです」
湊は飲み込み切れなかった。沙紀が部のために奔走してくれたことを彼は知っている。そうして色々なことが変わった。
石山百合も加わった。
全部彼女の力である。それなのに――
「ですが、私たちはあなた達の成長を、何よりも彼女たちとあなたの関係を見誤っていた。まさか夏の時点で新チームとは言え青森田中に善戦するなど、誰も考えなかったでしょう。普通なら、誰がどう考えたって虐殺されるはずです」
半分素人集団が、日本屈指の強豪と戦う。
中にいる者とてそう考えてしまうのも無理はない。実際湊も一勝すらできないだろう、と想定していた。
「予想を覆した。そして、神崎生徒の奔走で着実に戦える準備が整いつつあります。驚きです、本当に、予想を超えてきますね、あなた達は」
「僕は何もしていないですよ」
「いえ、あなたもそうです。正直言いましょう、私は一度諦めた人間と言うものを基本的に信頼していません。逃げることは癖になりますし、特に神崎生徒は重症でしたから。負けず嫌いは良いことですが、それで勝負自体を避けるようになると人間終わりです。立ち向かえない者、何度も腐っていく様を見ました」
「……僕も、似たようなもんです」
「ふふ、そう思っていました。ですが、上手く機能させれば香月生徒、紅子谷生徒、この両名を飛躍させ、卓球部を盛り立てることが出来る。折れた者たちのせいで孤独を味わった佐村生徒への、せめてもの手向けとして」
「……」
「ただ、お二人はよく頑張っています。神崎生徒も逃げずに、自分と向き合い、これだけの大事を成し遂げた。実に素晴らしい」
「僕もそう思います。それに卓球だってめちゃくちゃ上手くなっていますから」
本人は周りと比べて卑屈になっているが、あの青柳循子と勝負した、勝負が成立した、それだけで十分な成長である。
その上、彼女を吸収してより高みを目指しているのだ。
これを成長と言わずして何という。
「ふふ、そうですか。今度本人に言ってあげてください。喜びますよ」
「そうですかね?」
「もちろん」
黒峰は嬉しそうに微笑む。
「あなたは彼女たちにとって特別な存在です」
「い、いきなりなんすか?」
「比喩ではなく……彼女たちが本当の意味で奮起し始めたのは、あなたが総体の県予選で山口選手と戦ってから。あの死闘を見せてから、です」
「そ、そうですかね」
「そうです。更なる飛躍を見せたのは、黒崎選手とのこれまた熱戦を見て、ですね。あのおかげで夏合宿、想定を超えた景色が見られました」
「……」
照れた湊、言葉を発せなくなる。
「そして、先日の大会での敗戦」
「うっ」
「あれで少しばかり、彼女たちのモチベーションが下がりました」
「……そうですか?」
「ええ。ほんの少しですが……良くも悪くも、彼女たちは不知火湊の戦いに影響される。とても面白い関係性だと思います」
「だから、僕を龍星館に?」
「そうなりますね」
急に出稽古へ行ってこい、少しおかしいとは思っていた。だが、ようやく今の話を聞いて納得することが出来たのだ。
「出稽古の成果はどうです?」
「……自分で言うのもなんですが、めっちゃ強くなったと思います」
「それは上々。その姿を彼女たちに見せてあげてください。勝ち負けではありませんよ。それも重要ですが、姿勢の方が重要です」
あの試合は前半色々試し、焦り、最後は弱い部分を見せてしまった。
確かに、見せていい姿ではなかった。
「格好良く、お願いしますね。それがあの子たちをさらに飛躍させます」
「はい」
「今も抵抗、ありますか? 私は酷なことを伝えていないでしょうか?」
卓球から逃げた。勝ち負けから逃げた。
そんな自分に信頼がなかった、当然のことであろう。佐村光のために、顧問として不知火湊を利用するつもりだった。それの何が悪い。
大事なのは彼女が無理やり引っ張り、自分を戻してくれたこと。
そして今、
「ありません。今、消えました」
どうすべきか右往左往していた自分の前に道が拓けた。
「抵抗は大分前に消えてたんです。僕って結局、卓球しかないってわかったので。でも、やっぱり勝ち負けのモチベーションはなくて、それなのに負けず嫌いが発動して、あれは格好悪かったですよね。今更、そう思いました」
笑えるほど簡単なことだった。
「俺が勝てば、俺が前に進めば、あいつらも安心して進むことが出来る。そう思ったら、はは、めっちゃやる気湧いてきました」
不知火湊が進んだ道を彼女たちが歩く。
彼が作った轍を、彼女らもまた進む。
「やりますよ、俺は」
強く、笑った。
その顔を見て、黒峰響子は苦笑する。
本当に自分の考えは浅はかであったと。幾度かの失敗を経て、生徒をカテゴライズして、勝手に失望し、諦めていた。
神崎沙紀が、不知火湊が、自分を覆してくれた。
しかも、失敗の要因の一つであった、このホームジムで。
「……期待しています」
「うっす。じゃあ、次の種目行きましょう、次の種目」
「ええ。少しレストが多過ぎましたね」
「っすね」
生徒に教えられ、黒峰は少しだけ救われた。きっとこれから何度も、何度も期待し、裏切られ、失望し、そういうことを繰り返すのだろう。
それでも忘れまい。
彼らのことを。可能性があれば、きっとまた期待できるから――
○
そして、新人戦の日が来た。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます