第55話:わがままプリンセス
「くそ、水を口に含ませようとしても」
「どんだけ強情なの!」
青森田中は姫路美姫が試合後、気絶してから大騒ぎとなっていた。炎天下、競技の性質上、風の影響を避けるためにある程度閉め切らねばならぬ環境は、極限状態の肉体にとって地獄の釜にも等しい。
其処でハードな試合をするとなれば自殺行為でしかない。
「負けたぁ! 慰めてコーチぃ!」
「あ、いや、それどころじゃ――」
「小春が負けたこと以上に大事なこと、ないぃぃ」
「チワワちゃんこっち来なさい。慰めてあげるから」
「いやだぁ。コーチがいいー!」
「わがまま言うな、チワワ」
「いやだぁ」
ギャン泣きする小春を沙紀と花音が抑え込む。疎遠であったとはいえ幼馴染が目の前で倒れたのだ。さすがに小春を慰めている場合ではない。
湊はどういう状況かわからないが、とりあえず自前の水筒を持って青森田中サイドへ駆け込む。皆、顔を歪めながら必死に介抱していた。
頑張って水分を取らせようとしているが、姫路は気絶しながらも固く口を閉ざし、それを受け入れようとしない。
田中総監督などは緊急事態ゆえ、救急車の手配をしようとまでしている。
「ひ、ひめちゃん」
何も出来ずに立ち尽くすしかない湊がこぼした一言。
それに、
「……っ」
ピクリと姫路が反応する。それを見た青柳は、
「不知火、手を貸してくれ」
湊に声をかけた。有無を言わさぬ声色で。
「は、はい。何をすれば――」
「駄目元でいい。君が水をやってみてくれないか」
「……え?」
何で自分が、と湊は首をかしげる。ただ、一応湊の水筒の中身は猛暑対策で糖質と塩分が含まれているポ〇リ的な飲み物であるし、これを口に含ませることが出来たなら事態は好転するはず。たぶん。
とは言え、日々共に精進し、絆の深まった青森田中の面々の言葉さえ届かぬ今、湊が何をしたところであまり意味はない気がした。
湊視点からするとかなり疎遠であった間柄。
「頼む!」
「は、はい」
そんな自分が何をしようとも――
「ひめちゃん、これ」
湊が身をかがめ、姫路に水筒の口を向けた瞬間、
「んん」
飢えた魚もびっくりの速度で姫路が水筒に喰らいついた。
誰もが、
「……」
絶句する。
湊は困惑し続けたまま。
「……こ、この女、脳みそ男のことしかねえじゃん」
「本当に気絶してんの? 起きてない?」
「ひ、姫路、お前ってやつは」
先ほどまで誰が何をしようとも開かれなかった堅固な城門が、湊が目の前の現れた瞬間にはぱっかりと開いた。
それはもう顰蹙ものの速さで。
「……失礼。少し状況が好転しましたので、ええ、申し訳ありません。何かありましたら、ええ、ええ、はい、失礼します」
一旦、救急車の要請をストップする田中総監督。それはもう、凄まじい勢いで湊の水筒から水分を、塩分を、糖分を摂取しているのだから、点滴の必要性すら微妙なところ。まあ、経口と体内に直接流す点滴では即効性は異なるが。
「不知火、これも試してくれ。あと面倒くさいから膝枕も頼む」
「あ、カロリーメ〇ト的な。って、膝枕ですか?」
「人命が懸かっている」
「は、はあ」
湊は困惑の極みにありながら、姫路の頭を自分の膝に乗せてみる。何故か姫路の顔色がほんのりと良くなった。軽く上体を起こした形にする。これで飲食の準備は万端。そして青柳から渡されたバー状の食べ物を口に近づけると――
「モリモリ食ってやがる」
「もうこのメンヘラいやぁ!」
「鶴来美里に負けてから、ほとんど何も口にしていないのに」
誰かが美里の名前を言った瞬間、姫路の表情がクシャっとなり、飲食の動きが止まった。すかさずそこで、
「不知火、頭を撫でろ」
青柳の的確な指示が飛ぶ。
「何故?」
「いいから。人命救助と思って」
「……ま、まあ、いいですけど」
照れながら頭を撫でるとあら不思議、姫路の表情が元に戻った。若干、元よりも笑みが増えている。それを見る青森田中の面々の冷めた表情たるや、もう勝手にしろと言わんばかりであった。相変わらず湊の頭の中は疑問符まみれであったが。
「次はこの飲み物だ」
「は、はい」
思考する暇を与えず青柳の指示が舞う。
もはや湊は言われるがまま、であった。
「例のあの女子の名前を出すな」
青柳主将の厳命。タブー扱いの鶴来美里。きっと本人がこの場にいたら「私何もしてないけど!?」とツッコミを入れたことだろう。
だが、姫路美姫に常識は通じない。
「田中監督、大丈夫そうです」
「そのようですね」
青柳、田中両名の眼がギラリと輝き、誰かを見つめていたことなど湊は知る由もない。色々と鈍いこの男が悪いのだ。
『姫路美姫』を形成した、その責をちろっと背負ってもらうだけ。
「ありえねえだろー! ここは小春だろー!? うぉぉおん!」
「ステイだ、ステイ!」
「こ、このチワワ、普段力ないくせに、こんな時だけ」
花音、沙紀の拘束すらも喰い破らん勢いでぎゃんぎゃん吼える小春。小春側とすれば敵を慰め、自分を放置しているのだから怒りは尤も。
緊急事態だろうが、姫路美姫がぽっくりいこうが、小春的には何の問題もないのだ。むしろこの光景を見せつけられ、死んでしまえとすら思っている。
どいつもこいつもスポーツマンシップの欠片もない。
才能だけはある人格破綻者ばかりである。
〇
姫路美姫と不知火湊をセットにして冷房の効いた保健室に押し込み、コーチ不在となった明菱陣営の士気は極めて低かった。香月小春が爆上げした士気も、その本人が不貞腐れて士気を下げているのだから始末に負えない。
それは青森田中も同じこと。試合中に選手が気絶して、そのまま男連れで退場したのだから、常勝軍団とは言え気も緩んでしまうだろう。
とは言え、
「さあ、切り替えますよ!」
折角の強豪校との実戦機会。卓球部顧問を仰せつかる黒峰に無駄とする選択肢はない。このままお流れしてもおかしくない雰囲気ではあるが――
「香月生徒の作った流れに乗り、勝ちましょう」
黒峰の放った言葉は、
「……」
味方陣営に向けられたものではなく、青森田中陣営へのもの。
「まさか、臆している者はいませんね?」
味方へ向けたものと見せかけて、
「……青柳」
「続行か判断をするのは総監督だ。今、姫路の方に――」
「続行しない理由、ある? 姫路以外は全員、万全でしょ」
「……」
「S2、私が行くから」
「……わかった」
名門青森田中に所属する者のプライド、矜持をくすぐる。先ほどまで緩んでいた空気が、黒峰の煽りで引き締まった。
「さあ、出番ですよ。紅子谷生徒」
「……」
「香月生徒に後れを取ったままで、良しとしますか?」
「……っ」
敵を煽ったのだからもちろん味方も煽る。
全方位を煽りちらし、
「試合、再開」
試合の熱を取り戻す。
折角の好機、逃してなるものか、と。
ここでの経験は必ず、彼女たちを飛躍させてくれるはずだから。時にたった一つの試合が、何十もの試合を凌駕する経験を授けてくれる。
黒峰の感性が、ここはその場と判断していた。
だからこその、強引な手段。
「……小春」
「なに? 今、とっても機嫌が悪いんだけど」
「あたしを怖いと思ったこと、あるか?」
「ない」
「……ありがとよ。クソやる気出たぜ」
明菱一年、紅子谷花音対――
「鈴木先輩、ファイトです!」
「みどり! 常勝、なんたらの威信をうんたら」
「語彙語彙。まあ、まっかせなさい」
青森田中二年、鈴木みどり。
いざ、試合開始。
〇
「不知火君、今日は本当に助かりました」
「い、いえ、大したことはしていないです」
「姫路はそう思っていないようですがね」
「あ、あはは」
保健室のベッドですやすやと気持ちよさそうに寝ている姫路美姫を眺めながら、湊と田中総監督は苦笑する。人の心配をよそに爆睡しているのだから質が悪い。その上、湊が離れようとすると本能が察するのか表情がくしゃりと歪み、ここへ運び込む時も湊がお姫様抱っこに辿り着くまで眠りながらゴネ倒した経緯がある。
本当に寝ているのか疑いたくなるほどだが、生憎今のところ尻尾の一つすら見せずにすやすやなため、一応睡眠状態ではある模様。
だからこそ逆に怖いのだが。
「例のあの子に敗れてから、ずっとあの調子で。おそらく今日自分がどこにいて、どの学校と試合するのかも理解していなかったと思います」
「……壮絶ですね」
「私は指導者失格ですね。姫路が自らを極限状態に追い込めば追い込むほどに、突き抜けていく姿を見て止めることが出来ませんでした」
「わかりますよ。あんなの、見せられてしまったら」
第1セットの姫路美姫は、間違いなく世界最強と称するに相応しい出来だった。数多の選手を見てきた田中が、先に黒崎豹馬とも渡り合った湊が、化け物としか思えないほどのレベルで彼女は突き抜けていた。
何処まで行くのか、昇るのか、気にならぬ方がおかしい。
「しかし、例のあの子、ですか。昔はみんな、仲良かったんですけどね」
「おや、てっきり色々と修羅場があったものかと邪推していました」
「僕が子どもながらに失言をしてしまっていただけだと思っていたんですが……あの二人とギスギスする理由は全然思いつかなくて」
「例えば姫路も含めたその三人が、仲良くうちの黒崎と二人きりで卓球をしていたらあなたはどう思いますか?」
「仲良いなぁ、と」
「……意中の子に置き換えてみてください」
湊は頭の中でふわふわと思い浮かべる。
佐村光と黒崎豹馬の卓球デート。何かすでに腹が立ってきたが、あの男ならば卓球場で終わらせるわけがない。卓球ショップにも行くだろう。良い時間だと夕食にも行くかもしれない。そこから押しに押して――チェックイン。
「僕を止めないでください」
「何処まで想像したのかは知りませんが、あくまで妄想だと念を押しておきます」
「はっ……あ、あまりにも、NTRの竿役っぽくて。見た目とか雰囲気、言動が」
「一応、あれで真面目なのも付け加えておきましょう」
湊の中ではすっかりチャラ男扱いの黒崎豹馬。「イエーイ、不知火君見てるー? 君の好きな子と今からチョメチョメしまーす」と言う絵が容易に想像できた。
殺したくなった。
「まあ、要するにそれが姫路の気持ちだと思いますよ」
「……ん、え、それって……ッ!?」
不知火湊、今更ながら理解に及び顔面を真っ赤に染め上げる。
「いや、でも、あの当時僕、其処まで卓球強くなかったですし、その、モテる要素がですね、ないんですよ。しいて言えば、あの頃は眼鏡がなかったぐらいで」
「さあ? それは本人から聞いてください」
「……え、ええ?」
混乱極まる湊。しかし、田中の巧みな誘導により、湊もNTRの気持ちが痛いほど理解できてしまった。いや、この場合はBSSか。
どうでも良いが。
「さて、そろそろ私は戻りますかね」
「ちょ、あの、部外者一人置いて行くのはちょっと、違うかな、と」
「部外者? 仲のいい幼馴染だったと聞いていますよ」
「うぐ」
「では、よろしくお願いします。あ、それと、香月小春には驚かされました。素晴らしい逸材に巡り合えたのですね」
突然話が切り替わり、湊も少し頭を切り替える。天下の青森田中、幾人もの名手を輩出した田中総監督の眼から見てもそう見えた。
それは少しばかり自信となる。
ならば、
「はい。運よく……二人に出会えました」
「……二人?」
「ええ。二人です。是非、田中さんの眼で見て頂きたい奴が、もう一人」
「……自信、ありげですね」
「あいつの場合は、見たまんまですから」
「……なるほど、あの子ですか」
もう一人も見せておきたい。近い内に、必ず台頭する存在を。卓球だけに選ばれた小春とは違う。彼女はフィジカルを必要とする全ての競技で選ばれている。
そんな子が卓球に巡り合ったこと、それが奇跡であるのだ。
「楽しませていただきます」
「どうぞ。存分に」
比較的フィジカルの優位が薄い、卓球界に出現した――
〇
「……は?」
規格外のフィジカルエリート。
破壊的ドライブ、其処に至るまでの動きが卓球エリートである青森田中の面々、その表情をこわばらせた。男子と比較してなお、強打。
踏み込みの音が、未だ耳朶に残る。
おぞましき破壊の音。
「紅子谷花音だ。とりあえず……ヨロシク」
もう一人の天才、紅子谷花音が力ずくで先取点をもぎ取っていた。
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