第54話:魔王対神速

 天津風貴翔、日本卓球界に突如現れた真の天才は旧き王者を下し、瞬く間に頂点へと駆け上がった。彼と旧き王、佐伯湊の卓球は前陣と言う意味では似ているが、見た目以上に内容はかなり異なっている。

 特に違うのが強い佐伯湊の時。彼は緩急を用い、体感以上の速度を演出する。チェンジオブペースが湊の卓球、その肝であった。

 だが、天津風貴翔の卓球に緩める、という項目は存在しない。弱い時の佐伯湊同様、ただただ速さだけに拘泥し、速さと共に生き、速さと共に死ぬ。

 体感など関係がない。相手の反応を超えれば良いだけ。

 佐伯湊には出来なかった。そうしようとすると弱くなった。天津風貴翔はそうした。それで日本の頂点まで駆け上がった。

 明暗を分けたのは残酷なまでの才能の差。

 反射神経、アジリティ、前を張る上で重要な要素すべてで湊を上回り、だからこそ成立する神風特攻の如し超攻撃特化のスタイル。

 昨今、男性の女性化、女性の男性化が卓球界のトレンドとなっている。女性はどんどん力をつけ後ろへ下がり、男性は逆に前で戦う、と言った逆転現象が起きつつあるのだ。その理由の一端は、貴翔のような選手が結果を残したから、であろう。

 もちろん流行り廃り、流行とはぐるぐる回っていくもの。また逆転し、元に戻ることもあるだろうが、先のことはわからない。

 一つだけ言えるのは――

『……やるじゃあないか、日本人』

「……」

「再见(また来い)」

 現世界最強、王虎と肉薄した唯一の日本人が天津風貴翔である、と言うこと。

 悲願の世界一、光を超えた神速が臨む。


     〇


「わんわんわんわんわんわん!」

 前進あるのみ。後退も、ブレーキも、今の香月小春には存在しない。大好きなコーチを研究していく中で、何度も、何度も、何度も、擦り切れるほどに見た天才の姿。彼女の嗅覚は感じ取っていた。自分の進むべき道を。

 愛(こだわり)を捨て、緩める技術を捨て、さらに軽量化した小春は獣の如し獰猛な笑みを浮かべ、眼前の敵の喉笛に噛みつかんとする。

 最強、大いに結構。

 彼女は初めから――

「小春がァ! ナンバーワァン!」

 一等賞しか狙っていない。生まれてからずっと何をしてもズレた感じがしていた。熱中できるものに巡り合えなかった。だけど高校に入り、無理やり卓球部に入部させられて、初めて分かったのだ。

 すぐに理解した。

 自分は、

「わぁぉんッ!」

 卓球をするために生まれてきたのだと。

「……本当に誰だよ、テメエ」

 神速卓球に姫路美姫は困惑していた。そもそも先ほどまで試合をしていた記憶すらなかったのだが、突如目の前に現れた小さな敵に点を奪われた。

 自分の調子が悪いのかと思えば、身体の感覚からしてもそんなことはない。

 むしろ、絶好調だと思う。

「アー、まあ、いいや、誰でも。その卓球を、私の視界に入れたんだから……覚悟しろよ。不愉快極まって、笑えて来た」

 姫路美姫がぐにゃりと笑みを浮かべる。

「……姫路のやつ、戻って来たか?」

 雰囲気の変化に青柳らは少しホッとする。何が起きたのかわからないが、先ほどまでの彼女は明らかに異常な状態であった。

 強さと引き換えに何かを失っているかのような、そんな気配がしたのだ。

 無論、今も水分が抜け切り、健康とは程遠い状態にあることに変わりはないが、それでも摩訶不思議な状態からは脱し、既視感のある気配となった。

「ただ、心配ですね」

「何がだ、佐久間」

「だって、天津風貴翔と似た戦型ですよ。姫路は絶対嫌いですから」

「……何故?」

「天津風君が誰を引きずり下ろした選手だと思っているんですか?」

「……あっ」

 佐久間夏姫の言う通り、姫路美姫は公言こそしていないが明確な天津風貴翔アンチである。そりゃもう、基本的に目を合わせないぐらいには嫌っている。

 素面ならともかく、今は謎の状態からは脱しても極限状態には変わりない。普段の万倍、負の感情が増幅されている。

 そういう時に姫路は――

「ッラァ(死ね)!」

 凄まじいほどの力を発揮するのだ。

 香月小春は前進を続けながら思う。鶴来美里もそうだったが、強い選手と言うのは自分の中に世界観のようなものがある、と。

 鶴来美里なら名刀『吉光』、それこそ刀が見えるかのような鋭いドライブに断ち切られた気がしたし、九十九すずはまとわりつくような泥沼、よく見ると全部蛇みたいな嫌な気配、つい先ほどまでの姫路美姫に至っては花園やお城が見えた。自分はキラキラふわふわした世界を眺めながら、ただ朽ちていくだけの存在。

 そして今は、

「速い速い。で、それが何?」

 魔神と呼ぶべきか、魔王と呼ぶべきか、とにかく景色が歪むほどの強烈なプレッシャーを全身から醸し出している。

「前前前前前!」

「抜かせねえよォ!」

 極限状態が生む反応速度と重量感あふれる強打、その上で軽量級のフットワークなのだから隙が無い。

 蝶のように舞い、大砲をぶちかます。

 敵意満天の笑顔で、相手を圧殺する卓球。

「前ェェ!」

 以前は手も足も出ずに敗れた。悔しくて悔しくて、何度も夢の中に出てきたほど。勝つ、純度百パーセントの執念と共に小春は噛みつく。

「ひひ、さっきよりは弱くなったけど、でも、世界王者が日本王者になっただけ……化け物には変わりない、ね」

 九十九すずは武者震いする自分に気づいた。星宮那由多の時も感じたもの。卓球は楽しい。心の底からそう思う。ただ、それと将来が重なるとは思っていなかった。それは別世界で、自分には関係がないと思っていたから。

 だが、

「ちっ……しつこい!」

「まだまだァ!」

 自分の立ち位置など関係がない。ただ勝利への執念と共に食らいつく香月小春の姿に、すずは自分を重ねてしまう。

 彼女でなければ譲らなかった。彼女だから譲った。

 それでも少しだけ後悔していた。

「……私、も」

 同族同士、

「……何故、手を挙げなかった。あたしはァ!」

 執念は伝播する。

「いい勝負だ。戦えているぞ、香月」

 不知火湊は身震いしながら、笑みを浮かべていた。自分が見出した者がたった今、羽化し羽ばたき始めたのだ。様々な感情が去来する。

 それはきっと――

「……よくぞ、見出してくれましたね。あの才能を」

 青森田中の田中総監督もまた新たなる星の誕生に打ち震えていた。今の姫路美姫と戦える選手が日本にどれだけいるだろうか。つくづく、スポーツとは才能がモノをいう世界。誰がどう見ても歴の浅い彼女が、才能一つで食い下がっている。

 明菱に不知火湊がいなければ零れていた才能。如何なる才能とて、誰の目にも止まらねば路傍の石と同じ。高校、間違いなく最終ラインであっただろう。

 香月小春の才能をすくい取るには。

「貴方は今、指導者冥利を味わっているのですよ。私たちが何十年とかけて、数えるほどしか体験できぬ、最高の感動を」

 自分が見出し、鍛えた才能が輝きを放つ瞬間、それは何物にも代え難き指導者の喜びであるのだ。本当に湊は卓球の神に愛されている。

 天津風貴翔が挫折を、そして宝石のような才能が喜びを、彼にもたらしてくれた。

 痛みも、喜びも、きっと前へ進む原動力となる。

「頭がたけェ!」

「ふぐぅ!」

 姫路美姫、2セット目を辛勝する。11-9まで小春は肉薄した。もはや誰も、彼女が無名の選手だと思っていない。

「勝ちたい勝ちたい勝ちたいぃぃぃ!」

 本気で今の姫路に、夏の覇者に勝とうとしている。

 それが適う、有資格者であると誰もが、

「……」

 他ならぬ姫路美姫がそう見ている。彼女の眼が、自分に追いすがる者を見つめる視線が、青柳らに確信を抱かせる。

 あれはもう、そう言うレベルであるのだと。

「香月」

「わん!」

「まだ俺を引きずっている部分がある。頭を切り替えろ。半端なプレーは要らない。全部、前だ。自分の才能を信じて、突き進め」

「コーチは小春が勝てると思う?」

「もちろん」

 湊は真っすぐ視線と言葉を投げかける。

「むふ、じゃあ、勝ってくるね」

 才能と言う名の残酷。少しだけ湊は父の気持ちがわかった。出来る者、出来ない者、後者に指導者は何を言えるのだろうか。無理だと、出来ない者は出来ないのだと、タオルを投げてやることもまた優しさなのではないか、と思ってしまう。

 それだけ絶対的なのだ。

 スポーツの世界における才能とは。プロの領域にまで足を踏み入れる者たちの大半は、初めから自分の中に確信を持っている。

 父から植え付けられただけの自分とは違って。

「征け、香月。見せつけろ、お前の才能を」

 そのまま進め、そう祈る。

 3セット目が始まる。姫路美姫は魔王のまま、やはり圧倒的な力を見せつける。鬼神の如し卓球は、破壊的なまでに激しく、強い。

 何が彼女を突き動かすのか、今まで感じたことのない勝利への執念が、香月小春の小さな体に襲い来る。

 それでも、

「行け」

 前へ、前へ、躊躇いなく彼女は死地へ赴く。

「往け!」

 逆境こそが前陣の活きる道。誰もが返せない、と思う球を返してこそ前陣の醍醐味であり、魅せるプレーであるのだ。

 姫路美姫が圧倒的だからこそ、

「征けェ!」

 神速は真価を発揮する。

「小春が、ナンバーワンだァ!」

 神風神速、3セット目にして彼女は自分のものとした。天津風貴翔の物真似ではなく、彼をたたき台に自分の卓球に落とし込んだ。

 だから、

「凄いね、小春ちゃん!」

「ほんと、あのおチビちゃん、大物なんだから」

 今の姫路美姫から1セットを奪うことが出来たのだ。神速の小犬が魔王に傷をつけた。それも、誰がどう見ても絶好調の魔王に、である。

「すげーな、小春」

「全然。あと二つ、取らないと意味ない」

「……ほんと、すげーよ」

 小春は微塵も浮かれずに、ただただあと二つ取って勝ち切ることだけを考えていた。いい勝負など何の意味もない。

 勝たなきゃ、意味がない。

 その対岸、

「姫路、少し水分を入れた方が――」

 佐久間夏姫の提案に対して姫路美姫は無言のまま、すっと掌を向けて静止させる。水分を入れる気はないと言う意思表示。

 その上で、

「干ししいたけ、ください」

「姫路!」

「……」

 必要なことだけを口にし、そのまま目を瞑る。ほんの少しでも、一言分でも体力を温存し、次のセットに備えるため。

「しゅ、主将」

「……好きにさせてやれ」

 青柳は主将としてではなく、選手としての感性で姫路の意向を優先させた。彼女がそれを必要だと思うのなら、そうさせてやるべき。

「……姫路、これ」

 何も言わずに姫路は口を開ける。そこに佐久間は干ししいたけを放り込んだ。姫路は目を瞑りながら、それを静かに咬み始める。

 これだけ運動しても汗一つかいていない彼女の体に、口の中の水分などほとんど残っていないはず。それでも、彼女はその一滴を絞り出す。

 執念の1グラム。

「ありがとう、なっちゃん。これで、勝てる」

「……姫路」

 より軽く、より重く、矛盾極まる存在へと姫路美姫は至る。彼女ほど卓球はメンタルなスポーツを体現する者はいない。

 彼女は心で軽くなる。

 彼女は心で重くなる。

「最後に名前、教えて」

「香月小春。いい加減覚えろ」

「うん、今、覚えた」

「……」

 香月小春の感性が、

「じゃあ、勝つね」

「ッ!?」

 悲鳴を上げる。

 姫路美姫の才能は、この集中力にある。ここぞ、と決めた場面に向けて尖らせ、磨いた全てをただ一点に集束させる。

 今、彼女は真の極限に至る。先ほどのトランス状態ではないが、夏の大会を制した、美しき流星を叩き落とした姫路美姫が、帰って来た。

「私は強くなきゃいけないの。だって、強くないと――」

 美しく、愛に満ちた笑み。

「――湊君と卓球、出来ないもの」

 心の中の愛する人へ向ける。

 そして、

「だから、私が、勝つんだよォ!」

 最強の魔王が、吼えた。


「……」


 誰もが言葉を失うほどの激闘。ただの一度も香月小春は臆さず、立ち向かった。誰もが彼女をこの一戦で認めただろう。誰もが彼女の名を刻んだことだろう。

 それでも、

「まだ、早い」

 魔王は悠然と神速をねじ伏せる。力ずくで、全身全霊を以て、新たな芽を摘む。

 肉薄してきたからこそ、自分に傷をつけたからこそ、

「……ひぐ、ふぐ」

「またね、香月小春」

 容赦なしに。

「勝ちましたよ、皆さん。これで、私が、一番、強、い……」

 勝利を得た姫路美姫は、

「姫路!」

 そのまま倒れ伏した。

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