第53話:『絶頂』のプリンセス

 僕如きが語るのは烏滸がましい話だけど、一流のアスリートは皆極度の負けず嫌いだと思う。今まで見てきた人は皆そうだった。

『……ぅぅ、次は勝つ。次は勝つ。次は勝つ』

『……』

 自分の腕前は関係ない。どんなに圧倒的な壁であっても、その敗北に対し悔し泣きできるほどの想いがあれば、それはきっと越えられる壁なのだ。

 一流への条件はもう一つある。極度の負けず嫌い。

 それに加え、

『小春、やりたい!』

 負けず嫌いなのに負けを恐れぬこと。負けにひるまぬこと。負けたら泣くほど悔しい。それでも挑まずにはいられない。

 この二つがあって初めて、きっとアスリートは強くなる。

 その心はきっと、才能なんかよりもよほど大きなものだと思うから。


     〇


 それは風の壁を越えて――閃光と化す。

「わん!」

 さらにもう一点。ブロックやフリックを駆使した前捌きで相手を翻弄、自分の打たせたいコースに打球を誘導し、閃光の如しカウンターにて一閃。

 明菱の面々、そして九十九すずも驚いてはいない。

 今の彼女なら、これぐらいはやる。

「姫路が……無名の選手に、連取された、だと」

 信じ難いと驚き、目を見開くは青森田中の面々。一年生エース、青森田中の看板を背負っていた三年の二枚看板を引きずり下ろした二年の青柳を、さらに引きずり下ろし一年ながらエースとして君臨した彼女である。

 彼女がいなければ夏の優勝はなかった。

 全年齢のカテゴリーでも全国屈指の実力者であり、何よりもあの体型は強い時の姫路である。打球は重く、それでいて身体は軽い。

 何よりもあのトランス状態は、反応速度はセンスまで引き上げるのだ。

 引退した三年も、二年の主将青柳も、誰一人今の状態に近づいた彼女に勝利したことなど無い。痩せ過ぎたのか、さすがに限界が来たのか、と思うが――

「……」

 打球への反応は良い。むしろ良過ぎる。しっかりとフェイントに引っ掛かりながら、それでも球が打ち放たれた瞬間には怖気が奔るほどの反応を見せて、あっさりとその球を強打して見せるのだ。間違いなく、調子は良い。

 良い時の姫路美姫である。

 だと言うのに、

「わぉん!」

 強打の跳ね際、先に振り始めていたラケットへ球が吸い込まれ、これまた閃光が姫路の反応を上回り、三連取されてしまう。

「……青柳、あの子、良い時の姫路より、さらに反応早くない?」

「……認め難い、が」

 彼女たちの脳裏に浮かぶは一人の男。当時、男女の垣根を越えて同世代最速の名をほしいままとした神童の姿と、被る。

 そして、

「わっふー!」

 四連取。姫路美姫が四点も先取されると言う光景は、少なくともこの世代だけを相手とすれば世界でもなかなか見られない光景である。

 青森田中の面々は絶句するしかない。

「うっそ……ねえ、すず、香月ちゃんってあんなに強かったの?」

「ふひひ、私が取られたのも、1セット目。序盤は、本当に強い」

「序盤だけ?」

「そういうわけじゃ、ない。小春ちゃんの、速さは慣れるのが、とても大変。湊君も、そうだった。初見相手は、大人でも苦戦、していたでしょ?」

「た、確かに。って、比較対象、そこなの?」

「ひひ、それ以外、ない」

 もはや誰の眼にも疑いようがない。

 香月小春は、

「……素晴らしい」

 卓球に特化した圧倒的な才能と最高のお手本が身近にいたことで、誰よりも速く階段を駆け上がっていた。

 姫路美姫の、鶴来美里の、星宮那由多の領域、其処に肉薄する。

「……なあ、不知火。あたしと小春、何が違うんだ?」

「わかってるだろ? 誰よりも素早く、誰よりもどん欲に、あそこで手を挙げられるかどうかが、お前と香月の差だ」

「……だよ、な」

 毎日のように不知火湊と打ち合った。最高の環境ではあるがそれは他の者と同じ。違うのは挑戦した相手。

 その差が今、顕わとなる。

 数多の選手を見てきた田中総監督の眼、其処に輝ける一つ星が映る。

「やっぱり、みなとくん、だぁ」

 四点を取られた姫路は頬を赤らめながら、とても美しい笑みを浮かべた。今の彼女がどういう心境なのかわからない。

(あれは、どの姫路だ?)

 中等部から彼女のことを知る青柳は、良い時も悪い時も彼女を見てきた。入部したての頃は線が細く、練習についてくることすらやっとの姿から、食事トレの効果が出て全国区の選手に化けた時も、夏のようにただ一戦に勝負を絞り、極限の集中力と執念で星を打ち崩した時も、見てきている。

 だが、そのどの姫路とも、

「うれしいなぁ」

 重ならない。

 五本目、先ほどの焼き増しのような光景から、巧みな前捌きで打ち返すコースが限定された状態に陥る。

「わたしを、むかえに――」

 ドゴン、重苦しい足音が体育館を揺らし、たような気がした。錯覚である、錯覚であるはずなのに、誰もがそう感じてしまった。

「――きてくれたんだぁ」

 小春のラケットが跳ね上がる。先んじて振り始めていたはずなのに、振り遅れ、その上で押し返された。

 鉄球のような手応え。当たったのはただの、

「……わふぅ」

 薄いプラスチック製の、中が空洞となっているピンポン球であるのに。

 たった一球、たった一球で空気が塗り替わる。

「ずっと、わたしだけと、卓球、しようね」

 姫路美姫は元々調子の好不調が激しい選手である。良い時はとことん良いが、悪い時はとことん悪くなる傾向があった。普段のぽわぽわした姫路は良い選手止まり、怒りによって鬼と化した姫路は全国最強クラス。

 なら、今の姫路は――

「みなとくんみなとくんみなとくんみなとくんみなとくんみなとくんみなとくんみなとくんみなとくんみなとくんみなとくんみなとくんみなとくんみなとくんみなとくんみなとくんみなとくんみなとくんみなとくんみなとくんみなとくんみなとくんみなとくんみなとくんみなとくんみなとくんみなとくんみなとくん」

 ふわふわした雰囲気で、鬼のような強打をガンガン打ち込んでくる。反応はさらに上がり、容易に打ち抜けなくなった。

 ステップは軽やかに、されど音は地鳴りの如し。

 お姫様と鬼が同居する。

 あっさりと、四点の借金を返済した。幸せの絶頂、夢心地の姫路は得点のことなど微塵も気にしていない。

「香月! 臆するな!」

「わん!」

 湊も想像すらしていなかった。以前見た時の彼女はとても上手になっていたし、名門で素晴らしい成長をしたのだと思っていた。全国屈指の選手である。弱いわけがない。それでも、ここまでと言うのは聞いていない。

 これではまるで――

「たのしいねえ、みなとくん」

「……っ」

 日本一、いや、その壁すら超えて――

(日本最強、その先はもう、世界、中国だけだぞ。そんなバカな話、あるか!)

 現在、女子の世界ランクは上位を中国勢が独占している。その下に日本勢が混じり、十位以下に欧州勢らも交えて入り乱れている、と言う現状。

 日本の枠を越えたなら、もうその先は中国しかいない。

 今の姫路美姫がその領域であるのなら、

「みなとくんみなとくんみなとくんみなとくんみなとくん!」

「まえまえまえまえまえまえまえまえまえまえまえまえ!」

 香月小春がどうこうではない。星宮那由多も、有栖川聖すら、今の彼女の敵ではないのかもしれない。

 壁の先とは、そういう領域。

 小春は必死に食い下がっている。前に張り付き、あの姫路と戦えている。それを素晴らしいと、誇らしいと感じてしまう自分に湊は歯噛みする。

「し・あ・わ・せ」

「あああああ!」

 プリンセス姫路、誰よりも美しく、鬼よりも強く、麗しのお姫様は君臨する。

「……あ、はは、まだ、姫路には先があったっての」

「……誰も勝てん。聖でも、無理だ」

 何よりも共に戦う青森田中の面々が怯えていた。誰も見たことのない姫路美姫、その強さは今まで見たどの姫路よりも強かった。

 それに喰らいつく香月小春に敬意を表するほどに。

 あれを前にして、正気を保てる自信がない。あんな化け物と戦い、卓球を続けていける自信がない。

 天賦の才能、心で天高く舞う姫路美姫。

「……す、すず」

「……ひ、ひひ、初めて、心の底から、怖いと、思った」

 能登中央の面々も、明菱の面々も、

「……コーチ失格だ、僕は」

 あの不知火湊ですら勝ち筋を見出してあげられない。あそこまで駆け上がった小春よりも軽やかに、華麗なステップを刻み、

「だーいすき」

 姫路美姫が頂点に至る。

 今の彼女を龍星館が見たらどうなるか。おそらく何人かは卓球をやめてしまうだろう。聖や那由多、頂を目指す者たちほど傷つくかもしれない。

 11―4、あれ以降ただの1点も取らせてもらえなかった。

「ねえ、不知火湊。今の小春でも、あんなに差があるの?」

「……経験を積んだ今の香月なら、全国の誰とでもそれなりに戦えますよ。勝ち切れるかはともかく、那由多たちとも戦えるところには来ました。それは凄いことです。ただ……ひめちゃんがその先に行ってしまっただけ、で」

 神崎沙紀は青ざめていた。ほんの少しだけ、最初の四点先取を見て、自分たちも登り詰められるのでは、と淡い期待を抱いた。

 だけど、あの姫路美姫を前にしてしまうと、そんな心砕けて消えてしまう。

 あんなの、誰が勝てると言うのか。

「お、おい、小春。気にすんな、相手が強過ぎただけだ。鶴来美里よりも強ェ。悪い夢だと思った方が――」

 花音の慰め、それを聞き流し、

「コーチ! あれの、倒し方教えて!」

 香月小春は歯を食いしばりながら、不知火湊に問いかける。まだ自分に勝つ道はあるか、と。本当に、本当に彼女は強い心を持っている。

 この場の大半が、湊ですら心が折れかけたと言うのに、対峙していた彼女が一番強く、誰よりも勝利を渇望していた。

 その『強さ』を見て、

「俺を捨てろ」

 湊の口から自然と、言葉が零れてしまう。

「やだ!」

 当然、小春は拒否する。誰よりも参考にしてきた。不知火湊の卓球が、佐伯湊の卓球が、彼女の骨子である。

 今更それ以外の道はない。

「前を捨てろ、と言っているわけじゃない。だけど、男女の差はあれど、佐伯湊はあの領域には届かなかった。俺の背中を追っても、あそこには届かない」

「……でも」

「勝ちたいなら、追う背中を今変えろ。いるだろ? 俺よりも速くて、強くて、凄い奴が。中国勢とも渡り合える、あちら側の住人が」

「……」

「俺に前の才能はなかった、とは言わない。でも、俺より上がいた。香月小春も、そういう選手になれると思っている」

「……ぅぅ」

「あいつの試合、きちんと見たか?」

「……うん」

「なら、あとは心の向くままに、だ。ただ一つ言えるのは、佐伯湊では勝てない、と言うことだけ。さあ、行ってこい!」

 香月小春の背中を、湊は優しく押してあげる。いつか、こういう日が来るとは思っていた。思っていたよりも随分と早かったが、遅いよりはずっといい。

 多少寂しさはある。湊自身、何処かで自分を彼女に映していたから。

 だけど、それ以上にこれでよかったのだと思う。佐伯湊が香月小春の可能性に蓋をする。それだけは許せなかったから。

 だから、これでいい。

 真の天才は、その道を征くべきなのだから。

「あれに勝てって……本気で言ってんのか?」

「そう思うなら、お前は其処止まりだぞ、紅子谷」

「でも――」

「香月小春はやる気だ。今日勝てなくても、明日勝つきっかけを食い千切って来る。そういう積み重ねが、怪物への道なんだ」

 あの頃の自分に無かった強さ。ならば尚更、学ぶべき背中は自分ではない。

 いきなりは無茶かもしれない。だが、出来ないこともないだろう。追う背中は違えど、やる卓球は同じ。

 ただ、違うのは――

「ねえ、みなとくん。はやく、つづき、やろぉ」

「いいよ。速く、やろ」

「……あれぇ」

 速さ。

「……みなとくん?」

 またしても、先取点は香月小春。

 またしても、この場全員が絶句した。

 その背中から、佐伯湊が消える。

 そして、

「もっと速く。もっと前へ。死んでも、勝つゥ!」

 其処に現れるは――

「天津風、貴翔!」

 『神風神速』日本最強最速の男の気配。より速く、より前へ、後退しない勝つまでは。前へ、前へ、狂気の特攻。

 閃光はさらに加速し、神速へと至る。

「あなた、だぁれ?」

「香月小春だ! 覚えとけ脳みそお花畑!」

 才能の暴力。常人を超えた反応速度のみが為し得る奇跡の領域。其処へ小春は足を踏み入れた。彼女にもこだわりはある。大好きなコーチの卓球で勝ちたかった。そのつもりだった。でも、世界基準を目の当たりにして、勝ちたいが上回った。

 ゆえに、捨てる。

 速さのために緩急を、そのための技術を、放り投げて才能だけを頼りに突き進む。反応、反射、反応、反射、どんな球でも台上に一度は跳ねねばならない。

 反応できれば、理論上如何なる打球も打てる。

 それを実践するのが、

「誰だ、テメエ。湊君との時間を、邪魔すんなァ!」

「だから小春だって言ってんだろうが!」

 神風神速、天才のみに許された速さのみを追求した卓球である。

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