第47話:九十九すず

「朝食も豪華じゃない?」

「うめ、うめ」

「んまんま」

「……聞いた私がバカだったわ」

 地物の刺身に舌鼓を打ち、神崎沙紀は目を丸くしていた。そもそも、こういった民宿や旅館の朝食は夕食ほどに豪勢でなく、程よく質素なケースが多い。それなのに魚に関しては夕食と遜色がないレベルのものがお出しされていたのだ。

 何だかんだと良いところのお嬢さんである沙紀は其処を気にしてしまう。光も美味しそうに食べているが、良いのかな、みたいな表情はしていた。

 ただ、一番そう言う表情であったのは――

「……ご主人、少しお話が」

 顧問、黒峰である。安い料金で泊めてもらったつもりが、実は話がうまく通っておらず豪華なコースになってしまったのでは、と考えたのだ。

 引率者として予算オーバーは顔面蒼白になるほどの失態。珍しい黒峰の狼狽に、湊は気になって会話を盗み聞こうとする。

「ああ、あれは九十九の嬢ちゃんが獲って来たんですよ。あの子素潜りやってましたね、これがまたいい腕なんですわ」

「そ、そうなのですね」

「たぶん今も潜っているんじゃないですかね? 夜の分も獲って来る、と昨日張り切っていましたから」

「……お礼をしなければいけませんね」

「それならおたくの湊君に――」

 あとの言葉は小さく聞こえなかったが、どうやらあの九十九すずが魚を獲ってきてくれたらしい。素潜り、少しばかり気になってしまう。

 ゆえに皆とは自分の分をぺろりと平らげると、

「ちょっと散歩に行ってきます」

 一人海の方に出かけて行った。他の面々は練習に備え、少しでも休みを取ろうとしている。単独行動にはちょうどいい好機であった。


     〇


 外に出るとすぐ、強烈な磯の香りが鼻腔をくすぐる。山側に建っている民宿だけど、歩いて数分もしたらもう海が目の前。港があって、少し行けば砂浜もある。

 さて、何処にいるのだろう、と僕はこの辺りを探検する。

 すでに漁師町の一番忙しい時間帯は過ぎ、店じまいと思しき漁師たちの姿をたくさん見る。同じ日本だけど、何処か異国情緒がその景色にはあった。

 なんて、大して興味もない文学的っぽい表現に終始していたが、心がざわついたのでこれぐらいにしておこう。

 それよりも九十九さんを探さねば。

 海は広い。大きい。ただ、素潜りと聞いたのでそこそこ海面に顔を出す頻度が多いかな、とタカをくくっていたのだが海に人の姿はない。

「それっぽい人、いないなぁ」

 漁を終えた漁師たちを見るに、自分たちにとっては早朝であっても彼らからすると仕事終わりの時間、遅い時間なのでは、と言う考えが頭に過る。

 であればもう、彼女は漁を終えて――

「……あっ」

 海面にはいなかった。でも、少し離れた先の岩場に見知った人物がいた。

 きっと彼女なら、九十九さんの居場所を知っているはず。

「おーい、輪島さーん」

 能登中央の女子卓球部部長、輪島切子さん。

「……へあッ!? さ、いや、み、え、し、不知火さん!?」

「そ、そんなに驚かなくても……」

「す、すいません。その、有名人ですから」

「元、ね。今は名もなき三回戦敗退の選手だよ」

「相手は山口選手ですから卑下する必要ないですよ。と言うか、その前に八尾の長親虐殺していますし、県内では十分有力選手かと」

「なが、なが……誰だっけ?」

「あはは」

 多分一回戦か二回戦で当たった人かな。あんまり覚えていないけど。最近はそうでもないけど勝負に集中している時って名前とか頭に入らないんだよなぁ。

 その人の卓球は忘れないんだけど。

「あ、僕らのお世話してくれてありがとう。みんな良いお宿だって言ってるよ」

「た、ただの田舎の民宿ですよ、何処にでもある」

「またまた。それと朝食のお魚の件で、九十九さんにも感謝を伝えたいんだけど」

「すずですね。少し待ってくれたら戻ってきますよ」

「まだ潜っているの?」

「あの子、潜り始めたら長いんですよ。なかなか浮上して来ませんし」

「……へえ」

 昔、あの男が言っていた。スタミナと呼ばれるものの正体について。心肺持久力、心臓や肺を中心とした循環系能力が高いこと。最大酸素摂取量がどうこう、と言っていたけれど、大事なのは一般的に肺活量はスタミナとイコールではない、と言う点か。だから、長時間潜れるからと言ってスタミナがあるわけじゃない。

 ただ、それは一般論。

「どれだけ潜るの?」

「んー、長いと十分ぐらいは潜っていますね」

「十分!? す、凄いね」

「ですよねえ」

 肺活量とは一度にどれだけの空気を肺に取り込めるか。その空気から肺が酸素を体内に送るわけで、こまめに呼吸できる環境なら、肺活量自体はスタミナとはあまり関係がない。あの男もそう言っていた。

 だが、同時に――

『神速の競技である卓球でそれに時間を割く余裕はない』

 何を持って最速とするのかは使う数字次第だが、反応速度と言う観点からすると卓球は世界最速の競技となるだろう。

 その最速の世界では、呼吸など悠長な動作である。

 ならば、決して肺活量は馬鹿に出来ない。サーブ前に一度、全力で空気を取り込み、其処から無呼吸でも動き回れるとすれば、それはもう一つの能力である。

 もちろん、心肺持久力も優れている前提だけど。

「上がってきました」

 本当にいた。今、会話していた時間彼女はずっと潜っていたのだ。

「……次、かなり長いと思いますよ」

「なんで?」

「今、ボウズだったので。ムスッとしていましたから」

「……なるほど。よく見てる」

「幼馴染ですから」

 呼吸を整えて、再トライ。僕はおもむろにスマホを取り出す。

 そして――


     〇


 九十九すずにとって海は故郷である。

 漁師の父、漁協の事務員を母に持つすずは物心ついた時から海に潜っていた。家から目と鼻の先にある遊び場として。

 祖父から銛突きを教わり、今では立派な漁師として欲しいものがある場合は、漁をしてセリに出し、それをお小遣いとしている。ちなみに漁協へのあれこれをせずに海の中で魚を獲ると密漁になる恐れがあるので気を付けよう。

 食べない魚と戯れ、食べる魚を追い回す。

 この銛突きこそが原初の漁である。

 海の中を苦しいと思うことはない。むしろ陸地でのそのそと重力に縛られながら動く方がよほど疲れるし、よほど面倒くさいと思っている。

 ただ、父のことは尊敬しているが船での漁はあまり惹かれず、さりとて銛突きで生計を立てることは困難。女子高生のお小遣いが関の山である。

 夢は海の中にいること。プールは匂いが好きじゃない。海が良い。ダイバーとか、そう言うお仕事が出来たらな、と漠然と思っていた。

 こういう田舎で夢を持つのはとても難しいのだが――

 しかし、

『すず、金沢行こうよ』

『……なんで?』

『卓球の大会があるから。組み合わせ的にすぐ負けちゃうけどね。三回戦で龍星館ジュニアの如月さんと当たるから。だからせめて、思いっきり遊んでやろうかと』

『……やだ、面倒くさい』

『見たい映画、あるって言ってたよね?』

『うぐ』

『能登で映画を観ることは出来ないけどぉ?』

『……行くます』

 たまたま金沢へ行くことになって、正直全然興味がなかったけれど、卓球の試合を見学しに行くことになった。映画のついでに。

 でも、たまたま同じ会場でやっていた男子の試合を見て、

『徹宵ゥ!』

『湊ォ!』

 一人の、傷だらけの少年を見た。なんであんなに苦しそうなのかわからないけれど、苦しみながらも戦う姿勢は何故かすずの胸を打った。

 その試合は何とか、その少年の勝利に終わったけれど――

『すず?』

『……あ、あの人、なんて、名前?』

『知らないの? あの人は――』

 映画のことはあまり覚えていない。今まで欲しいとも思わなかったスマホを父にねだり、必死に漁をして機種代を稼いだ。

 目的はあの少年を調べるため。あの少年のことが知りたかったから。色々と調べた。子どもの頃の栄光から、天才の出現による挫折まで。

 それでも足掻き続けるボロボロの、今に至るまで。

 そして、彼女は迷うことなくファンクラブに入った。その前日に、彼が山口徹宵に敗れ砕け散ったタイミングで、会員番号末尾が彼女となった。

 卓球を始めたのも其処から。道具代も当然漁で稼いだ。

 九十九家のお小遣いはセリから出る。

 卓球歴は浅い。ゆえに無名。マークすることなど不可能。

 そんな彼女は今、

「きりちゃん。遅くなったけど――」

「十分二十八秒、本当に凄いね、九十九さん」

「……ふじゅる!?」

 何故かスマホ片手に自分の潜水時間を計測していた少年と再会する。いやまあ、昨日会っていたけれど、其処はそういうノリで。

「すず!?」

「あぶぶぶぶぶ」

 海で、しかもあんな浅瀬で溺れかけたのは生まれて初めて、だそうな。


     〇


「……あれ、よく考えたら輪島さんも九十九さんも二年生じゃ」

「そうですよ」

「ふひ」

「すいません、ため口でした」

「ぜ、全然気にしてない、です。くふ、湊君は、卓球の大先輩だから」

「歴なら私でも勝てないですねえ」

「……きょ、恐縮っす」

 魚を宿に運びがてら、三人はのんびりと海沿いを歩く。九十九が落ち着くまで時間を要したが、話してみると少しどもり気味以外はとても良い人であった。

 それ以上に驚きであったのが、その卓球歴の短さ。

(……卓球歴三年目、それで那由多と戦えるところまで行ったのか。とんでもないぞ、この人。いやまあ、うちの連中も大概だけどさ)

 つくづく卓球とはセンスの競技であると思い知らされる。もちろん、幼少期から始めた方が圧倒的に有利であるし、センスも其処で磨かれるケースが多い。ただ、例外は存在する。中学から始めて世界王者になった者も世の中にはいるのだ。

 九十九すずはおそらく、その例外側。

「大学はどちらに行かれるんですか?」

「……だい、がく?」

「ほらぁ、あの不知火さんもすずのこと認めてくれているんだよ! 卒業しても卓球続けるべきだって。先生もそうすべきって言ったでしょ」

「大学とか、よくわからない。この辺に、ないし」

「……」

「こんな感じなんですよ、この子」

「……なるほど」

 三年目、今まで無名であったことを考えると伸びてきたのは最近なのだろうか。その辺りも知りたいところだが――

「僕も進路に関しては人のこと言えないですし、周りに強制されてまで続けるべきとも思わないですよ。あくまでやりたいと思えるかどうかかと」

「くひ、さすが湊君、いいこと言う」

「んもう」

「卓球は楽しいですか?」

「うん、楽しい」

「ならよかったです」

 誰も彼もが頂点を目指すべきではない、と言うのはかつての反動であろうか。ただ、あまり義務になり過ぎると結局、昔の自分のように苦しむだけ。

 もちろん、上を目指すのならば苦しみはついて回るのだろうが。

「うちの連中、九十九さんよりさらに日が浅い未熟者ばかりですけど、今日以降もよろしくお願いします。努力は出来る奴らなので」

「すずよりですか!?」

「ええ、まあ。円城寺ってのを除けば、ほぼ今年から始めたようなもんです」

「「今年!?」」

 昨日、試合をして敗れた相手が一年目のペーペーとは知らず、あっちの部は強いなぁ、ぐらいの感想であったのだが、

「……私、小学校からやってるんですけど」

「……す、すいません」

「……謝らないでください。逆に惨めですぅ」

 そりゃあ泣きたくもなる。

 この辺りの気遣いに欠けているところが高校一年生、と言ったところか。九十九すずも天才だが、明菱の一年坊たちも大概そっち側であった。

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