第32話:『私立』龍星館高校

 明菱高校の体育館にシューズの音が鳴り響く。体を温めるためのアップ中であるが、普段ほどの引き締まった感じは見られない。

 何処か緩い雰囲気。

 其処に、

「おはようございます」

 卓球部顧問である黒峰が現れる。

「「おはようございます」」「ちーす」「おっはよーでーす」

 四者三様の挨拶が飛び交う。

「先生、今日は不知火君がいないので四人で試合を回していこうと思うのですが。それでよろしいでしょうか?」

 部長神崎沙紀は相変わらず権力にはこびへつらい、しっかりと猫を被る。むしろこの場合は被らない約二名の方が問題なのだが。

「ええ。ウォーミングアップとして試合形式を一巡、其処からは私がメニューを組んできたので、そちらをこなして頂きます」

「「「「え?」」」」

 四人の緩い表情が、

「夏合宿前の予行練習、と行きましょう。さ、しっかりと体を温めてください。突然激しい動きをすると……怪我をしますからね」

 緩やかに、崩れる。

 そう、実はこれまで黒峰は部の練習の全てを湊に一任してきたため、他の部員は彼女の本気を受け止める機会がなかった。ただ、察することは出来る。

 あの卓球の鬼、練習の鬼である湊が、

『……ぴぎぃ』

 まるで捻り潰された豚のような声で鳴いていたのだから。練習の翌日、休み時間一歩も動けない、動こうとしない彼の哀愁が容易に想像を膨らませる。

「始め」

「「「「はい」」」」

 冷たい声が無常を告げる。鬼の不在を、大鬼が埋める。

 南無。


     ○


 不知火湊は龍星館に訪れていた。と言っても都市部にある本校舎ではなく、郊外にぽつんとあるスポーツ科向けの専用設備に寮なども併設された場所であるが。

 この辺りはさすがにスポーツに力を入れている私立の星、だけはある。設備投資の金額が、文字通り一桁も二桁も違うのだろう。

 無論、その分結果も求められるのだろうが。

「ようこそ龍星館へ、不知火湊君」

「あ、どうもです」

「龍星館卓球部統括マネージャーの乾、と申します」

 乾と名乗る男の挨拶に、

「と、とうかつマネージャー?」

 湊は首をかしげる。

「ただ男女の枠を越えた雑用ですよ。球出しとかもやりますしね」

「へー」

「以後、よろしくお願いいたします」

「あ、こちらこそです」

 年のころは大学生、もしくは新卒の社会人と言ったところであろうか。高校生、ではないと湊は考える。さすがにスーツを着こなし過ぎているから。

「今日は女子のお手伝いをしていただけるとのことで」

「い、いえ、いきなり押しかけてすいません」

「助かりますよ。丁度、三年も抜けて人手不足ですから。それにあの子たちにとっても男子トップレベルを体感するのはいい経験でしょうし」

「今はただの高校生ですよ」

「あははは、卓球は……そう言う競技ではないでしょう?」

 乾の眼が細く、哀しげに湊を見据える。

「大丈夫ですよ。完全に競技から離れているわけでないのなら」

 すぐに先ほどまで同様の事務的な雰囲気に戻る。歩き始めた乾の背に、湊もついて行く。と言うかついて行かねば道に迷いそうであったから。

 他の部の施設もあるため、一見さんにはなかなか難しい場所である。

「こちらが総合トレーニングエリアです。各種マシンやフリーウェイトを各部活が時間割を組み、利用しております。これに加え、各部活にも必要に応じた機器などがありますので、集中して取り組みたい時はそちらを利用しますね」

「すごいですね」

 さすがは私立、唸るほどの金がかけられた設備の数々にはめまいを覚えるしかない。黒峰塾も家トレの範疇は越えているが、ここまで来たらもう立派なジムである。

 さすがに富豪ぐらいでなければ勝負にならない。

「あちらは屋内、こちらは屋外ですね。バトルロープなども完備、あえて舗装していない山道もいい運動になりますよ。関節への負担も少ないですし」

「……すごいですね」

 ただ、

「寮の食堂は、昼食は基本的に本校舎の方で取ることになりますので、平日は朝と夜のみ、休日はもちろん朝昼夜の三食活用可能です」

「は、はあ」

「身体づくりは食事から。最近、本学も取り組み始めたのはビュッフェ形式にして、各部活のコーチ陣からの指導の下、今の体に必要な栄養素とカロリーを摂取させる、と言う個人指導に切り替えつつあります。なかなか難航しておりますがね。指導者側は競技の技術的な部分だけではなく、こういった栄養学的な部分の知識をアップデートしていくのが今後の課題ですね。卓球部は上手く出来ている方ですが」

「……は、はあ」

 ただ、これはどう考えても、

「君もよく知る山口君もフィジカルと食事の工夫で飛躍しましたから」

「そ、それはそうですね」

「では、次の施設へ――」

「あ、あの、手伝いは、いつから始めたらいいですかね?」

 どう考えても湊を龍星館へぶっこ抜くための説明会、である。

「……今は通常の練習ではなく、青森田中との練習試合に備えたアップ中ですので、お手伝いいただく部分はあまりありませんよ」

「し、試合の見学が、したいなぁ、と」

「もちろん。あくまでこれは繋ぎですから」

(嘘付け! むしろ本番って顔つきだったぞ!)

 当時はとにかく卓球から逃げたかったので忘れていたが、よくよく思い出すと龍星館の人は三年の、それこそ最後の最後まで粘り強く不知火家の前までやってきていた。母が何度断ってもまた来ます、と実際にやって来る執念。

 まだ一年の時期に、そこまでして欲しかった人材がのこのこ現れたのだ。むしろ勧誘がない、と考える方が浅はかだった。

「ただ、試合のタイムスケジュール的に、もう少し先になりますので……男子の方から観に行きましょうか。こちらはもう、青森田中も合流済みですし」

「……女子も見せてくださいね」

「もちろんですよ」

(……雲行きが怪しくなってきたぞ)

 下手するとこれ、あえて男女の時間をずらして無理やり湊を男子の方へ流し、試合を見学させる、と言う観点からタイムスケジュールが組まれた、と考えるのはいくら何でも自惚れ過ぎであろうか。

 何とも言えぬ心地悪さを感じつつ、乾の後について行く湊。

 まあもちろん、

(素晴らしい才能には素晴らしい環境が、一流には一流の居場所がありますよ、不知火湊選手)

 龍星館側は最初からぶっこ抜く気しかない。


     ○


 がぎん、がぎん、と女子とは異なる重厚な音が施設内に響き渡る。龍星館の男子卓球部と青森田中の男子卓球部が試合前のラリーを続けていた。

 腹の底に響くピンポン玉の音。

 体が成長期を経て、ウェイトトレーニングも解禁した競技者同士の卓球とは、かくも強烈で激しい。湊も大人に混じって戦うこともあったが、こういった強いフィジカルでごり押してくる相手は苦手であった。

 だからこそ、彼は今の貴翔のように一般に知られず、卓球界の神童と言う枠に収まっていた。結局、メジャースポーツもマイナースポーツもそうだが、熱心なファン以外は突き抜けた才能にしか興味がないのだ。

 世界でも戦える、勝てる才能を見るため、彼らは時間を、時に金を割くのだから。

「……徹宵だけじゃないんですね」

「ええ。少し見直してくれましたか?」

「……はい」

 知っていた世界。だけど、こうして改めて自らも多少鍛え、その重みを知るからこそ目についてしまう。太ももの大きさ、体幹の強さ、それらが生み出す馬力によって放たれる球の強烈さたるや――

「山口、お客さんだぜ」

「……来たか」

 龍星館二年エース、山口徹宵は見学に来た湊を見て小さく微笑む。

 一瞬、互いに目が合う。そして同時に逸らした。

「思ったより部員、少ないんですね」

「もう少しいますよ。ここにいるのはレギュラーメンバーとその控えだけですから。ただ、少し前からどの部活も部員数は削っています」

「え? そうなんですか?」

「技術面にしろ、栄養面にしろ、細かく指導するのなら必然、マンパワー的に大所帯は難しいでしょう? 龍星館は全国からいい素材を見つけ其処に全力投資する。そう言う方針に切り替わったのです。野球部を筆頭に一般入部自体出来ない部もあります。卓球部もそのうちの一つ、とする方針ですが……今はまだ、ですね」

「……厳しいですね」

「むしろ優しいと思いますよ。どの競技にしろ、上へ行く人材は高校入学の段階で抜けています。卓球に限らず、巷では素材型と言われる選手でも地元では有名だった、なんてザラですから。もう、夢見る年齢でもないでしょうし」

「……僕はそう思いませんけどね」

 卓球未経験の才能、それを育てている身としては聞き捨てならない言葉であった。もちろん、明菱があらゆる意味でとても稀なケースであることは承知しているが。

「ちなみに香月小春は完全に我々の落ち度でしたが、紅子谷花音は龍星館のいくつかの部活が声をかけていますよ。まったくの未経験でもね」

「……マジすか」

「それぐらいやるのが今の強豪校です。ただまあ、卓球でそれをやるのは難しいですがね。でも、すでに我々は中学時代の、香月小春の反復横跳びなどの特筆したデータは手に入れています。入手方法は企業秘密、ですが」

「凄かったんですか?」

「おや、御存じないのですか?」

「……っす」

 ご存じなかった湊は不貞腐れる。

「あはは、すいません。記録自体は目を引くものではなかったですよ。目を引く記録なら県内ですし、我々の目に留まっていたはずですから。ただ、担当教員の話を聞くと十秒間だけは凄かった、と。体力とやる気を維持出来ていれば20秒で60後半。下手すると70を超える記録を出せていたのでは、とおっしゃっていました」

「な、70!? 女子で!?」

「ちなみに記録は55回。少し出来る子、止まりでしたが」

「……化け物かよ、あいつ」

 中学女子の平均が40半ば。男子で50半ば。平均で10近く性差のある種目であるが、男子でも70は学校で一番レベル。女子ともなれば市区町村のトップを狙えるレベルである。それを何のスポーツもやっていない彼女が達成していたら――

「さすがに拾い切れませんでしたね。残念です」

 香月小春は明菱にいなかった、かもしれない。まあ、紅子谷のように誘われても蹴っ飛ばす奴もいるので一概には言えないが。

 あ、ちなみに中学時代の湊は81回である。当時の県内トップ。

 が、全国では85回の化け物がいたため勝てなかった。卓球同様に。

 そんな事実を湊が知る由もないが。

「おや、試合が始まりますね。反復横跳びで思い出しましたが、これから始まる試合の中にも、身体能力に優れた選手がいますよ」

「徹宵ですか?」

「いえ、山口君ではありません。彼も卓球界ではフィジカル寄りの選手ではありますが、他の競技と比べた時それほど秀でているとは言えない」

「……」

「彼は他の競技と比較しても……圧倒的に優れた才能を持っています。野球でもサッカーでも、バスケでも何でもよかった。何でも出来たはず」

 湊の眼に、一人の選手が止まる。

 眼が、吸い寄せられた。

「よくぞ卓球界へ、と学校の枠を越えて応援したくなる存在ですね」

 青森田中の二年エース、

「黒崎豹馬、君と同じ……天才です」

 巷では最強の挑戦者と呼ばれつつある男、黒崎豹馬と山口徹宵が向かい合う。

 そのひりつきたるや――

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