第29話:きんとれ!
僕の名前は不知火湊、以下略。
僕は今地獄にいます。
「7! ここからです!」
「ふゥゥウ!」
スクワット、これが本当に一番きつい。いや、デッドリフトかな。違う、ブルガリアンスクワットだ。まあ、全部吐かされたんだけどね。
目の前の、
「8! 腹圧が抜けています。息をしっかり吸って、姿勢を保つ!」
我らが明菱卓球部顧問、黒峰先生の手によって。
「9! 下ろし丁寧に、ねちっこく」
10rep3set、これが筋トレの基本、だそうだ。もちろん神経系、筋肥大、あと負荷をかけやすい部位、かけやすい部位などでも回数は前後するらしい(肩は効かせ辛い、腹筋は重量を加え辛い、などの理由でrep数が増える)。
「ラスト! 雑な場合はもう一回!」
ただまあ、初心者の内はなるべくコントロールできる重量で、丁寧にフォームをしみ込ませながら基本的な筋トレをこなす。目的に応じた筋トレをするための筋肉をつけるトレーニングを積むべき、だそうだ。
とにかくこの10rep、10回のことなんだけど、大体5回ぐらいまでは今回は行けそう、となり、7回目に差し掛かると急に体が悲鳴を発し、10回目ともなると満身創痍となる。元々足は昔取った杵柄かそれなりに強く、初っ端から60kg7rep3setは気合で出来た。今も回数は3増やしただけ。
変わったのはフォーム。ヒップヒンジ、膝を前に出さないイメージ(これはあくまで意識づけのため。深く下ろせば絶対に膝は前に出る)、あと緩衝材付のハイバーからローバーに変えたことで胸椎も自然に開く感じでそれと連動して腹圧の意識と背筋を伸ばす意識を獲得出来たり、他にも色々。
「はぁ、はぁ、はぁ」
「レスト三分。ラストセット、しっかりとて――」
「丁寧に、ですよね。はぁ、はぁ、わかってます」
「ならよし」
ほんの些細な動きひとつで筋トレの質が、効果が変わる。たぶん、僕にはまだまだ感じ取れていない部分は多い。正直、デッドリフトはともかくラッドプルやチンニングなどの背筋上部を狙う種目は効いている感じすらしないから。
一応、筋肉痛は来るので入ってはいるのだろうけれど。
「残り十秒」
「ふぁい」
思っていた以上にフィジカルトレーニングは奥が深い。重たいものを使って筋肉を大きくする。簡単なようでとても難しいことだ。
初心者の間はボーナスステージ、すぐに使用重量は上がる。実際に僕も元が低いけれど重量自体は上がっているし、ちょびっとパワーもついた。
黒峰先生が設定した目標は、
『ベンチは体重の1.5倍、スクワットは2倍、デッドは150kg辺りを目指しましょうか。どうしました? 顔色が悪そうですが』
ベンチは90kg、スクワットは120kg、ざっくり今の倍。デッドリフトはフォームをしっかり定着させるまでは攻めた重量を扱っていないのでよくわからないけれど、普通に60kg10rep3setでも辛いので果てしない、と思う。
筋トレは一日にして成らず。近道はない。
「……時間がかかる、か」
「どうしましたか?」
「いえ、その、筋トレの成果が出るのはとても時間がかかるな、と」
「初心者期間を過ぎればもっと長丁場になりますよ」
「なら、尚更あいつらも一緒に鍛えた方がいいと思うんですけど」
そう、たぶん、今の僕が実感しているよりもはるかに長く険しい道なのだと思う。黒峰先生の目標はアスリートの最低水準だと彼女は言った。其処から真に特化すべき種目に注力して、最適化へと繋げていく。
簡単じゃない。時間もかかる。
「物事には優先順位というものがあります」
優先順位?
「私も浅学ですが卓球と言う競技を色々と調べさせていただきました。中学生が世界で大人と戦える競技。実に特殊です」
まあ、戦えるのと勝てるは全然違うし、実際僕は大人たちに混じっては勝ち切れなかったので、多少語弊はある。
でも、他の競技に比べたら世代でそこまで大きな差がないのもまた事実だ。
「卓球を強くするためには卓球の練習をするのが一番。かつてあなたが言っていた通り、多球練習は全てが包括されています。上下左右の移動は闇雲にランニング、ダッシュを繰り返させるよりもよほど効果的でしょうし、ボールタッチなどの感覚は球を打つことでしか得られない。なら、今はそれをやるべきです」
そう、多球練習は凄いんだ。何せ卓球王国中国じゃ卓球の練習と言ったら多球練習だって父さんも言っていたからね。嘘か本当かは知らない。
「其処で伸び悩んで初めて、その本筋を強化するための補助種目、つまりフィジカルトレーニングが必要になって来る。無論、完成まで待つつもりはありません。夏合宿では多少テコ入れはします。秋の終わり、もしくは冬辺りにここへ皆でトレーニングが出来たら言うことなし、ですかね」
「なるほど。わかりました」
確かに今、彼女たちが筋肉痛と相談しながら卓球をするのはナンセンスかもしれない。体が痛かろうが、熱が出ていようが、当たり前のようにラケットを、球を、自分の手足の如くコントロール出来て初めてものにした、と言える。
彼女たちは上手くなった。だけど、まだまだ圧倒的にラケットに、球に触れている時間が足りない。ウェイトを持つよりもすべきことがある。
優先順位、人の時間は有限で、人のリソースもまた有限。
僕がまだ筋トレを競技に最適化させる段階ではないように、彼女たちもまた補助種目をやり込む前に本筋をやり込むべき時、と言うだけか。
厳しい先生だけどしっかりと言語化してくれるし良い先生だなぁ。
「では、次はハムスト狙いの種目にしましょうか」
待って。
「ランジ!」
やだ。
「残念。ブルガリアンスクワットです」
前言撤回。鬼悪魔黒峰!
「ぴぎぃ」
この後、僕は当たり前のように吐かされた。多球練習で吐くのとはまた違う感覚と言うか、種目によるけど追い込むと吐いちゃうよね、と言う感じ。
筋トレはきついよ。
○
あと、筋トレをやるようになって一番よくなったのが食事に対する考え方の変化、である。僕は体を大きくするならとにかく食べればいい、と思っていたし、痩せたいのならその逆で食事を制限すればいい、とだけ考えていた。
だけど、
『PFCとは、Protein(タンパク質)、Fat(脂質)、Carbohydrate(炭水化物)、これらの略称です。三大栄養素、と言われています。PとCは1g当たり4kcal、Fは1g当たり9kcalと同じ量摂取してもカロリーが違うわけですね』
それは浅いどころか間違った考え方だった。
『そして各々、働きが異なります。タンパク質は筋肉、髪などを形成する重要な栄養素です。これが不足していれば折角筋肉を破壊したところで、筋肉を再生、創り出すための材料がない、と言うことになります。脂質はエネルギーを貯蔵する働きがあります。ゆえにアスリートの理想は体脂肪率10%を多少下回るぐらい。削り過ぎると免疫機能が低下し、体調を崩しやすくなります。最後に炭水化物、説明不用のエネルギー源です。都度補給をせねば枯渇しますし、これなくしてハイパフォーマンスはありえません。筋合成の観点から見ても、炭水化物が欠乏すると肉体は勝手に筋肉を分解しエネルギーとするため重要です。つまり、全部重要なのです』
PFCバランス、これを考えて食事の調整をしなければ、減量にしろ増量にしろ、どうしたって上手くいかない。
いずれも重要な栄養素であり、だからこそ三大栄養素であるのだから。
『私は脂質を削れと説明しましたが、それは現代における家庭料理は基本的に脂質過多である傾向が強いから、です。逆にタンパク質は不足していますね。単純に、リアルフードでタンパク質を必要分確保しようとすると……金がかかります』
自分の体の変化を見ながら食事指導をしてもらう。まだ指導は始まったばかりで際立った変化はないけれど、何を購入するにもパッケージに記載されている栄養成分表を見るようになった。タンパク質は何gか、脂質はどれだけか、炭水化物は、みたいな具合で。庶民の味方は卵、そば、あとあんまり美味しくないけどノンオイルのツナ缶に、日本人の魂である納豆を添える。
あとカレーもカロリーが制限されたやつとか、普通に美味しくて脂質も少ないとボディメイクの味方だったりする。
そう言うことも自分に、母に色々と教えてくれるのだ。
「あ、母さん。これホエイじゃなくてソイだよ。間違ってるって」
「それはお母さんのだから間違っていません」
「僕のと同じの飲めばいいじゃん」
「ソイの方がおいしいのよ? 知らなかったでしょ。この前黒峰先生とお茶会ならぬプロテイン会をしたらね、本当に美味しくて。つい買っちゃった」
「へえ」
「あ、湊は飲んじゃ駄目よ」
「なんで?」
「美味しい方飲みたくなるでしょ?」
「……まあ」
いつの間にやら急接近していた黒峰先生と母。まあ、母さんも元々卓球をやっていた人だし、スポーツマン、いや、スポーツウーマンとして話が合うのかな。
知らんけど。
ちなみにホエイは動物性(牛乳由来)、ソイは植物性(大豆由来)、のタンパク質で、筋合成にはホエイが良い、とされている。ただ、母さん曰くソイの方が美味しいとか何とか。ちょっと飲んでみたいなぁ。
そんな感じで不知火家では絶賛、ボディメイクの諸々でムーブメントが起きている。いやまあ、改めて本気になった黒峰先生の熱量は凄いな、と思う。
ただの公立高校に僕が入って、香月や紅子谷がいて、超天使の佐村先輩や邪魔者の神崎先輩はさておき、円城寺がいて、黒峰先生がいる。
これはもう、逃れられない運命だったと思うしかない。
僕は何だかんだと新しい環境で、新しい方向性で、卓球に触れることが楽しいのだ。自分がどう変わるのか、も含めて。
向上心とかじゃなくて、そうだなぁ、好奇心と言うべきか。とにかく今は色々とやってみたい気分だし、そもそも――
「湊、携帯震えてるよ」
「……」
「無視しちゃダメよ。どうせ先生なんだから」
「……ぐぬ」
たぶん一度スイッチの入った先生は、簡単には逃がしてくれないだろうから。まあ、スイッチを入れた責任はきっと、僕らにあるのだろうけれど。
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