第20話:おねがい黒峰先生

「……ほげぇ」

 田舎では稀によくある光景。田園風景にポツンと豪邸、山間にもポツンと豪邸、土倉があったり、やたらお庭が豪華だったり、石とか池があったり、そんな感じ。

 それが、

「こちらです」

「へ、へい」

 黒峰響子と言う女帝が住まう家、と言うか屋敷であった。

「り、立派なご自宅ですねえ」

「佐村さんや神崎さんの家はもっと大きいですよ」

「……ふぇぇ」

 今、僕にだけ明かされる卓球部の真実。どうやら先輩たちはとんでもなくブルジョワジーであった模様。ぼ、僕の住んでいるところの方が地価は高いから。

 ほんの少しだけ。

「他界した父が道場を営んでいたので広いだけです」

「……」

 確かに住居とは別に建物はある。それが道場なのは理解出来るけれど、それはそれとして立派なお庭などなど金持ちじゃないと説明できないと思う。

 多分地主か何かなんじゃないかな、知らないけど。

「こちらで上履きに履き替えてください」

「は、はい」

 妙にピリッとした雰囲気は元道場の風格か。奥から掛け声が聞こえてきそうな、そんな気配がする。気後れしかしていない。

 そして元道場は今、

「……お、おお。凄く、マッチョだ」

「今時よくあるホームジムです」

 黒峰曰くホームジムへと変貌していた。今の僕は筋トレの知識がないので、これがよくあるのかぁ、と半ば無理やり飲み込んだが、冷静に考えるとパワーラックとスミスマシンが別で、ダンベルも1キロから50キロまで揃っている場所がよくあるホームジムなわけないだろ、と声を大にして叫びたい。

 あとで聞くと趣味が運動しかなく、給料やボーナスはこの手の機器や道具にぶち込んでいるらしい。ある意味これも独身貴族と言える、のだろうか。

「さて、時間がありませんし、早速始めるとしますか」

「う、うす!」

 ぴしっとしたスーツ姿しか見たことなかったが、さっと着替えた黒峰先生はぴっちりしたウェアでかなりセクシーだった。草加辺りがいたら興奮していた、と思ったけど彼は今絶賛インポ野郎だったので忘れよう。

 ただまあ、すでに予想と言うか確信なんだけれど、

「安心してください。無理はさせませんよ。無理は」

 たぶん、エッチな妄想をする余裕はないのだと思う。

 放課後黒峰筋肉塾、開講。


     ○


 いきなりどんな地獄が始まるのかと思えば、

「まず、最低限の知識を頭に叩き込んでください」

 座学が始まった。一応、今は部活終わり。しかも黒峰先生の上がりを少し待ったため、時刻は十九時半になっていた。疲労もある。お腹も空いている。

 まあ、お腹に関しては部活中にプロテインバーを部員全員に配布、それを食べたおかげで多少はましなのだが。正直座学はきつい。

 何せ僕は一年の中間、中堅下位の男である。

「先に言っておきますが集中して聞くように。あまりに散漫である場合は鉄拳が飛びます。ここは私の家ですので、私が法です」

 先生の家である前にここは日本です。

「何より、私が貴方にだけ教えるのは、貴方が彼女たちのコーチであるから、です。私も多少助言はしますが、基本的に彼女たちの指導は貴方がやりなさい。卓球も、フィジカルトレーニングも、です。集中すべき理由、わかりましたか?」

「……はい」

 自分だけのためじゃない。その瞬間、脳みそがぐっと活動的になった気がする。もちろん僕程度の頭だから、限界はあるけれど――

「フィジカルトレーニング、俗に筋トレとは三つの区分に分かれます。筋力、筋肥大、筋持久力、この三つをそれぞれ用途に応じ向上させるのが筋トレの意義となります。用途に応じ、と言うのがミソです」

 え、と、筋力と筋肥大って違うの?

「これら三つを説明する際に、筋肉の説明をする必要がありますね。そも、筋肉とは何か。これは筋繊維、糸のようなものが束ねられたもの、と考えて頂ければ大まかには大丈夫です。その本数は増減することもあるそうですが、基本的には生まれ持ったものである、と考えてください。筋肥大はこの筋繊維の一本一本を太くする、そのために破壊と再生を繰り返すのだ、と覚えておくように」

 糸を束ねたもの、か。イメージはつくけど、前の話との繋がりがよくわからない。

「そして筋肉とは基本的に、太ければ太いほど出力が向上します」

 あれ、でも――

「先生、その、細身でも力がある人と太くても力がない人がいますよね?」

 太ければ太いほど強いのであれば、世の中のアスリートは皆筋肉ダルマになっていなければおかしいはず。

「ええ。その通りです。其処が筋肥大と筋力がイコールではない理由ですね。先ほど筋繊維の話をしましたが、この筋繊維はトレーニングをしていない人が全力で力を込めても、実は一部しか稼働していません。他はまあ、サボっている状態です」

 え、僕の筋肉ってサボっていたの?

「筋力とは筋肥大による断面積、そして筋繊維をより多く稼働させるための神経系の発達、この二つを合算したものとなります。どちらも一定水準までは如何なる競技でも必要だとは思いますが、卓球ならば後者がより重要でしょう」

 な、なるほど。まだよくわからないけれど、筋肉が大きくても神経系の発達次第では力がそれほど発揮されない、っていうケースもあるのか。

 逆もまたしかり、と言うわけで。

「あと、この辺りで筋トレの弊害についても話しておく必要があります。まず、筋肉とは貴方が思うよりもずっと重たい、と言うこと。そして肥大した筋肉は可動域を狭めてしまう、と言うこと。この二点が考えなしに出力を追い求められない主な要因です。さらに言うと、これは個人差が極めて大きく出てしまう、ことも念頭に置いてください。骨格や筋繊維の数、柔軟性など……挙げればきりがありません」

「それって、生まれ持った才能ってことですか?」

「はい。運動機能を低下させることなくウェイトを積める、これは完全に才能の世界です。力士などが顕著ですね。常人があれだけ積めば動けませんから」

 筋力のことは理解できた。筋肥大と神経系の発達、大事なのは後者であることも。だけど同時に知る。これもまた才能の世界なのだと。

「理想は稼働限界まで神経系の発達に注力しながら除脂肪体重を積む、ですね。これがまた、本当に難しいのですが。正直に言いましょう。個人差が極めて大きい以上、正解は無い世界です。それに貴方も上の世界で戦っていたのならわかると思いますが、競技とは感覚の世界でもあります。筋力的に正しくとも、感覚が損なわれたならそれは間違いなのです。筋力は向上します。それは約束します」

 筋トレの功罪。

「ですが、競技の面で絶対に向上するとはお約束出来ません。場合によっては感覚を失い、競技者として大事なものを喪失する可能性もあります」

 だからこそフィジカルトレーニングは難しい。未だに根強くどの競技にも反対意見があるのは、マイナスに働くこともあり得るから。

「その上で問います。やりますか、やりませんか」

 たぶん黒峰先生は無理強いしない。それは確信としてあった。

 まあどちらにせよ、

「やりますよ。今更昔の自分にしがみつく気はありません」

 今の僕に守るものなんて何もない。これまでのやり方が通用しないのなら、新しいやり方を試すしかない。僕はこの選択を迷わなかった。

「……よろしい。では、始めましょうか」

 黒峰先生は普段授業では見せない満面の笑みを浮かべて、

「楽しい楽しい、自分磨きの時間です」

 地獄が幕を開けた。

「全ての動作を丁寧に。その上で挙上は速く、下ろしはゆっくりと。とりあえず1、2で下ろし、1で上げるイメージで10レップ!」

「ふ、ぎぎ、お、重ォ」

「まだ難しいでしょうが胸で迎えに行く感覚です!」

「!?!?」

 胸のトレーニングであるベンチプレス。見た目は小さな重りしかついていないので軽そうに見えたけれど、やってみると普通に重い。

 忘れていたけど僕、めちゃくちゃもやしだった。

「バーで20、重りは左右5キロずつの計30キロです。この程度スパスパ切り返してください。男の子でしょうに!」

 男女平等参画社会基本法!

「あと、1、回!」

「はい、此処から補助で3回!」

「ふぁッ!?」

「抜くな。抜いたら殺す」

「ぴ、ぴぎぃぃ!」

 正直胸の感覚はない。どちらかと言うと腕がきつい。腕の感覚がない。黒峰先生曰く、最初は下支えになる三頭筋などの筋肉が弱いから其処に入ってしまうらしい。あとアーチを組むために胸椎とそれに付随する肩甲骨の可動域がどうこうで入り辛いとも。まあ、やっている最中はそんなこと考えている余裕はないけれど。

 ただ、まだまだベンチなど序の口。

「むん!」

 お次はスクワット。最初は40キロを付けて、だがさすがにこれは出来た。腐っても元全国区、ウェイトはなくとも足腰にはあの頃の遺産がある。

「……さすがに足は強いですね」

「こ、これでもそれなりの選手だったので」

「これはウォーミングアップとします。次から20足して本セットで」

「あ、後出しじゃないすか!」

「ここでは私がルールです」

 べ、別に40でも楽じゃない。と言うか、最初は楽だったけど7回を越えた辺りから急にきつくなってきた。こ、これにプラス20は無理なんじゃ。

「お尻を突き出し、膝を前に出さない。あくまでイメージです。実際には深くしゃがめば膝は前に出ます。が、どうせ今は深くしゃがむ可動域も柔軟性もないので、とにかくその二点を注意するように。ケツ出せケツ!」

「ぴぎぎぃぃぃい!」

 息が、苦しい。多球練習とはまた違うきつさを感じる。

 こんな短い時間で、こんなきついのか。きつさの質が違う。どちらがきついとかじゃなくて、とにかく違うのだ。感覚が。

 ブランクがあるとは言え、ここまで駄目だとは思わなかった。

 ちょっぴり吐きそうになったのはブランクのせいだと信じたい。

 からの――

「今日はお試しですので折角ならビッグ3、コンプリートしてしまいましょう!」

 デッドリフト。これは40だけど、

「ふ、ふぎ」

 足がすでに疲労困憊なのとこの種目はとにかく握力がきつい。もちろん狙いの脊柱起立筋も回数をこなせばきつくなってくるけれど、それ以上に握力がガンガン削れていく。もはや姿勢維持が困難。でも先生が怖いから耐える。

 のちにパワーグリップを貰って世界が変わるまで、僕はこの握力問題に悩まされることとなる。とにかくもやしにはきついんだ、これ。

「胸椎を張ると広背筋にも効きます。一石二鳥です。あと、出来るだけ背中を張り、股関節を起点に上げる。膝上までは足で、其処からは背中で上げられるとグッドです。今は其処まで求めませんが。怪我のしやすい種目なので気を付けましょう」

 そんな余裕、ないです。

「丁寧に。こちらも下ろしはねっとりと、筋肉を虐めながら下ろすように」

「ひぃ、ひぃ、ひぃ」

「他の二種目の時もそうでしたが、呼吸が成っていません。一気に吸って、腹圧をかけ、ゆっくり吐く。その間に1レップを済ませる。これが基本です」

「……」

「余裕そうですね」

 悪魔かよ。

 これぞ筋トレ界のビッグ3、ベンチ、スクワット、デッドの基本三種目である。

「先ほどは少々脅しましたが、肥大だ神経系だ、の次元はまだ遥か先の話です。今はそもそも創意工夫をするための基礎が足りていませんので。ビッグ3、及びその補助種目をやり込み、ある程度の筋肥大も狙っていきます」

 僕、見事撃沈。

 その後、レストを経て――

「……」

 現在、三種目を終えた僕はパワーラックに備え付けられたチンニング、懸垂の取っ手に捕まり、ぶら下がっていた。

 昔は、それこそ小学生の頃は簡単に持ち上がったはずの体がびくともしない。

「チンニングは自重でもかなり難易度の高い種目です。皆さん、子ども時代の軽い身体の印象が強く、それこそ軽く見られがちですが……大人の体重を引く力と言うのは意外と大変なものなのです。ですので最初は――」

「ほ?」

 ぎゅん、と頂点まで体が勝手に引き上げられる。

 後ろで黒峰先生が腰を持ち、押し上げてくれていた。

「私のように補助で持ち上げてもらうか、自分でジャンプして下ろす部分だけをやるか、ですね。筋トレはネガティブ命、下ろしが出来れば大丈夫です。出来るだけ関与は避けたいですが、二頭筋も最低限は必要ですしね。上げる時は」

 ちなみにこのチンニング、黒峰先生曰く広背筋を伸ばすストレッチにも使えるそうな。まあ、出来るようになってからの話だと笑われたが。

「ベンチも、デッドも、あとスクワットをローバーで固める際も、胸椎を張ること、つまりは其処に繋がる肩甲骨を寄せる、立てると言う動作が必要になります。チンニングも挙上の際、胸で迎えに行く動作も同じですね」

「は、はい。あの、結構きついんで世間話はちょっと――」

「無駄口叩かず下ろし丁寧に!」

「はい!」

「あとで肩甲骨周りの柔軟性を上げるストレッチ方法を教えます。まずは何事も姿勢から。きちんとフォームを固めることから始めましょう」

「はい、その、あと何回で終わりますかね、これ」

「折角ですので限界まで行きましょうか」

「……ぴぎぃぃぃぃいい!」

 仕上げのチンニング無限地獄編、スタート。

 僕は死ぬ。


     ○


「夏休みに入るまでは週に二回、ここでやりましょう。学校から自転車で通える距離ですが、しばらくの間ウェイトを用いるトレーニングに関しては私が立ち会います。フォームが固まるまでは危険が伴いますからね」

「ありがとうございます」

「遅くなりましたので車で送りますよ」

「家、遠いですよ」

「ドライブがてら、です。夏休み以降は学校から自転車で通ってください」

「はい」

 なるほど、この人が今まで部に関与しなかった理由がわかった。基本的に妥協が出来ない人なのだ。やるからにはとことんやる。

 この熱量について来られない生徒は少なくないだろう。

「それに、お母様に挨拶しないといけませんからね」

「っ!?」

 ま、まさか。そんな、馬鹿な。こんな思わぬところから春が――

「ボディビルディングの基本は食事です。運動二割、いや、一割という人もいるほどです。食事のコントロールは重要ですよ」

 ですよねえ。

「それと部員の件ですが――」

「円城寺ですか?」

「それがわかっているならよろしいかと。上手く口説き落としてください」

「……先生って個人情報、どの辺までご存じなんですか?」

「ケツの毛まで」

「……」

「笑うところですよ?」

「あ、あはははは」

 これが女帝、黒峰先生の本気、その一端でしかないことを僕は知らなかった。今思えば何でこんな化け物が公立の先生をやっているんだろう。

 しかも国語の先生。体育じゃない。

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