第16話:呪縛

 試合が始まる。ピンポン玉の音が耳朶を打つと、聞こえてくるんだ。

『勝て、湊』

 父さんの声が。負けたら怒られる。勝っても内容が悪いければ怒られてしまう。とにかく勝たなきゃいけない。父さんの大好きな前で。

 身体が勝手に、前へ、前へと向かう。

 身体が勝手に勝とうとしてしまう。

「つ、強過ぎる」

「ありがとうございました」

 一回戦の相手は弱かった。負ける要素がなかった。でも、気は抜けない。しっかり前で捌く。この程度の相手に後ろへ下がる必要なんてない。

 前へ、前へ。あれ、そうするつもりだったかな。この卓球をして、何の意味があるのか。勝つ以外を考えなきゃ、そうしなきゃ、いけないのに。

 勝負が始まると、自然と体は前がかりになってしまう。

「く、そ!」

「疾ィ!」

 二回戦の相手はまあまあ強かった。でも、まだ余裕がある。大丈夫、僕は勝てる。高校でも通用する。当然だ、昔は社会人とも戦っていたんだ。勝てる。自分は勝てる。勝つ、勝つ、勝つ、勝つ、勝つ。

『それでいい。前で勝て、湊』

 わかっているよ、父さん。前で勝つのが、卓球だ。

 制圧して、勝つ。

「……湊君?」

 だから父さん、僕をもう一度――


     ○


 総体県予選は大体、平日に行われる。応援しようにも普通の学生であれば学校があるので行けないもの。それこそ、応援団とか新聞部でもなければ――

 と言うわけで、

「来たぜ、アリーナ」

「総合スポーツセンターね」

 変態四傑集、と謳われし一角、友の応援のため三人の盟友が襲来する。一人は応援団、何故か女子の日程は行くなと言われ、男子の個人戦だけしか許可されなかった。もう一人は新聞部。こやつは実は初日から潜り込んでおり、女子の写真を大量に撮影。昨日並行して行われたはずの男子団体に関して一枚すら撮影していない。

 徹底している。

 そして最後の一人――

「熱いな」

 未だ仇名が安定せず、名前も不明である文豪氏、もとい髭パイセンもやって来ていた。彼の場合は普通にサボりである。理由は私用のため。

 これが許されるのは社会人からであるはずだが――

「さあ、湊は頑張ってるかな?」

「もう負けちゃってたりして」

「案ずるな、あいつは出来る奴だ」

「物書きおじさんは卓球のこと分かるの?」

「絶無ッ!」

「ああ、一切分からないってことね。はいはい」

 友のため、特に役に立たない三人組は会場に入る。

 そして其処には――

「なんだなんだ、何か熱くねえか?」

「確かに。昨日までよりもちょっと熱いような。空調かな?」

「いや、人だ。二人、怪物だな」

 何を言っているんだ、と二人が髭パイセン(仮)を見る。彼が指さした先、会場の隅で、何かが渦巻いていた。熱気の元、彼らにも視える。

 たった二人の人間がデカい会場を支配する景色が。

「あれ、湊か」

 いつも見ている不知火湊とは別人のように見える。冷徹で、無機質で、何かに取りつかれているような、妙な雰囲気。

 ただ、素人目に見ても、何かが図抜けて見えた。

「……もう一人も怪物、魔の者、一筋縄ではいくまい」

 対峙する男もまた、同じ。

「ったく、手に汗握らせてんじゃねー」

 普段冷静に、シャッターを切る際は女人の裸ですら一分のブレなく収める自信がある菊池修平であったが、今この瞬間は自信を失っていた。本物を前にするとしびれが奔る。幾度か経験がある、この感覚。

 大体それはシャッターチャンスで――

「ちょっと位置取りに行くわ」

「おう。俺は近くで応援してるぜ」

「俺は適当な場所で見ている」

 集合から十分もせず、全員散開する。

 全てはこの熱気、その中心にいる二人のせい、である。


     ○


「佐伯湊だ」「え、あの佐伯?」「でも不知火って」

「馬鹿、知らねえのか? 離婚したんだよ、離婚。ほら、父親ってあの有名な――」

 本来であればありえない組み合わせである。

 基本的にトーナメントは実力者が重ならぬよう、シードが組まれており、ある程度ばらつきが出るようになっている。

 今回そうならなかったのは、彼が不知火湊だから。

 佐伯湊であれば絶対にこうはならなかった。

 三回戦、不知火湊対山口徹宵。

「本物なのか? やめたって」

「馬鹿。一回戦瞬殺、二回戦も完勝。しかも二回戦の相手は八尾の長親だぞ。何処の世界に長親を瞬殺できる湊がもう一人いるんだよ」

「マジか、最近力つけてきたって話なのに」

 会場の話題は不知火湊、否、佐伯湊の話題で持ちきりだった。貴翔に敗れ、調子を崩したのか負けに負け、最後に戦った相手こそ山口徹宵。今まで一度も負けたことのなかった徹宵相手に惨敗を喫し、卓球界から姿を消した元神童。

 もう一度帰ってきたとなれば、話題にもなる。

「キャー! 湊君! 愛してるー!」

「あれ、青菱の」

「恥部だな。まあ、男子も強く言えねえよなぁ。何だかんだ北信越は掴んでるし」

 青菱の恥部が声を嗄らせば、

「な、生湊君だぁ。一日帰るの遅らせて、よかったぁ」

 蛇が会場の隅からちらりと覗き、

「負けてもいい。しっかりやりなさいよ。最後まで選手として」

 幼馴染、鶴来美里も再起した昔なじみを見つめるために残っていた。彼女は明進唯一、北信越行きの切符を掴んでいる。準決勝で有栖川聖に敗れ去ったが。それでもなお強さを示した。彼女は再起を果たしたが、それは元プロの手厚い指導あってこそ。

 その難しさ、ブランクを埋める苦しさは彼女もよく知っている。

「練習せんでええの?」

 有栖川聖が星宮那由他に問う。

「見取り稽古です」

「なはは、冗談やん。んもう、ナユタンは固いなぁ。ボクに勝つんはもっとやわこくせんとあかんよ。ちっぱいちっぱい」

「セクハラですか?」

「ボディトークやん。なぁ、猫ちゃん、犬ちゃん」

「セクハラだぞ」「セクハラです」

「あかーん、味方おらんわ。で、どっちが勝つ思う?」

「徹宵くん」「山口君ですね」「……徹宵、先輩」

「まあ、そうなるわなぁ。立ち止まっとる間、徹君上手くなってもうたしなぁ」

 彼女たちの視線の先では、湊と徹宵がウォーミングアップを始めていた。軽いフォア打ち、それでも違いが出てしまう。会場中、それこそいざ本番という選手ですら、其処に目が行ってしまうほど、違うのだ。何かが。

「何か勝算があって戻ってきたんか、それとも縋りつくしかなくて、か。後者やと悲惨な試合になるで。徹君、ありんこ相手でも手加減でけへんし」

 何よりも相手はあの湊、ならば死んでも手心などありえない。

 試合が始まる。

「頑張れー、湊君!」

「気合入れろ! ぶっ殺せ!」

「あんたなら勝つでしょ。バシッと決めてやりなさい、クソ眼鏡!」

「コーチ! コーチ! コーチ!」

 仲間が見守る中、

『勝て。勝たなければ、意味がない』

 不知火湊の戦いが、始まる。


     ○


「ゲーム、トゥ、山口選手、イレブン、ラブ」

 誰もが声を失っていた。

 一回戦、二回戦、間違いなく天才は帰って来ていたのだ。閃光の如し前陣速攻、相手に時を与えず。主導権を奪い続ける勝者の卓球。嗚呼、あの天才がもう一度、皆がそう思った。この戦いは激戦になる、そう思っていた。

 だが、蓋を開けてみると一セット目、惨敗である。

 たったの一点すら奪えず、山口徹宵と言う壁に弾き飛ばされていた。こんなはずではなかった、不知火湊の表情がそう語る。勝ち負け、勝てないかもしれないとは思っていた。準備はしていないから、だから負けるかもしれないとは考えていたのだ。

 しかし、ここまでどうしようもないとは思わなかった。

 自分が弱くなったのか。相手が強くなったのか。その両方か。

「……無様」

 かつて、たった一度しか負けていない相手。

 それがこの差である。

「いやー、あかんなぁ、あかんわ。貴翔対策がバシッとハマり過ぎやな。自分の才能じゃもう、型落ちやで、その戦型。なんかあると思っとったんやけどな」

 興ざめ、天才は帰って来なかった。会場の温度が下がる。

 普通の、いつも通りの。

「湊は、まだ!」

「それを一番願っとるのは徹君や。ほんま、生殺しやで。死ぬんやったらせめて格好良く逝けや。徹君の糧になって死ね。なんぼ何でも、錆び付き過ぎやで、『閃光』」

 有栖川聖は知っている。かつての天才、その圧倒的な力を。徹宵も同じ。皆、彼に惹かれて強くなったのだ。聖にとってもそれは同じ。目指し、同じ道を諦め、そして別の道で強さを身に着けた。その元凶があの有り様では、救えない。

 かつての憧れが地に墜ちているのは――


     ○


 こんなに今の徹宵は強いのか? それとも俺が弱いのか?

 何も出来なかった。何もさせてもらえなかった。貴翔対策、そりゃあやるさ。徹宵は上を目指しているんだ。やらない理由がない。

 それでここまでやられる俺も情けないけど。

 始まる前と今、徹宵の眼が語っていた。待っていた、お前じゃない、ふざけるな、俺はこんな、弱くなったお前を待っていたんじゃない!

 そんな叫びが、聞こえた。

 クソ、何もない。もう、俺の卓球じゃ通じないのか?

 貴翔は通じているのに?

 父さんの言っていることは事実だったのか?

『お前は神に選ばれなかった。もう、卓球をする必要はない』

 あれだけ熱心に教えてくれたじゃないか。お前なら頂点に行けるって、お前は自慢の息子だって、だから僕は頑張ってきたんだ。それなのに、今更梯子を外すのかよ。もう、僕にはこれしかないのに。離れて、空っぽな自分を見て、分かったんだ。

 卓球のない僕はクズだ。そして今、卓球からも突き付けられている。

 お前はもう、駄目なのだと。

 勝ちたい、勝てない、勝ち方が分からない。

 僕はどうすればいい? 僕は何のためにここに立つ?

 勝てない僕に何の意味がある。

 どうしても勝ちたかった。勝って彼女たちに示したかった。君たちも強くなれるって。僕は強い、その僕に教わっている君たちも強くなれるって。

 でも、駄目だ。

『勝て、湊』

 無理だよ、父さん。

 山口徹宵には勝てない。準備をしてきた、していない、じゃない。もう勝てないんだ。むしろ僕の指導じゃ彼女たちを強く出来ない。だって僕は弱い。

 どうして弱い僕が人を強く出来るって言うんだ?

 心が折れる。もう、僕は、戦えない。

『勝て――』

 もう僕は、選手じゃ、ない。


「頑張れー! 不知火湊ー!」


 声が、聞こえた。父さんの、呪詛のような声じゃなくて、可愛らしい、でも芯のある声。僕が知る中で、きっと一番心が強い人。

 僕は、ちらりと目を向ける。小さな先輩。下手くそで、頑張り屋さんで、誰よりも辛い境遇で一人、諦めずに戦ってきた、凄い人。僕なら絶対に耐えられない。虚しくなって、苦しくて、人知れず辞めていた。かつての僕みたいに。

 でも、彼女は諦めなかった。縋りつき続けた。その凄さを、出来なかった僕は知っている。貴女がいたから、僕は此処にいる。貴女がいたから、皆に会えた。

 僕は、もう選手じゃないのかもしれない。

 だって先輩の声を聴いたら、嗚呼、ま、勝てなくてもいいやって思ってしまったから。それは勝負師じゃないよ。でも、良いや、それで。うん、それが良い。

 目標、あはは、これにしよう。これでいいや。

 勝てないのは分かった。

 だから、僕は――

『勝て、みな――』

「うるさい」

 父さんの幻影を振り払い、もう一度立つ。

 今、己がすべきことを、いや、したいことを心に刻んで――

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