第3話 水

 自分が置かれている状況を把握はあくしようと、まだどこかぼんやりしている頭を強引に働かせていると、

「のどのかわきはいかがですか? 水をお持ちしましょうか?」

 とたずねられたので、俺は、

「いや、必要ない」

 と断った。

 他人から勧められた飲食物には気をつけろ。特に、知らぬ者から出された場合は口にしないようにと、幼い頃から常々教え込まれてきた。

 考えて断ったというより、反射的に口をついて出た、というのが正解だった。


 少年は「そうですか」と、それ以上勧めてくることもなく、

「あり合わせの物を使ってではありますが、応急手当てをしておきました。あなたは体力もありそうなので、ゆっくり休養を取れば元通りに治るでしょう」

 と説明してくれた。

 きっぱりとした物言いなのに、その声は感情の起伏を感じさせず、覇気はきとぼしい。声だけでなく表情もまた平坦へいたんで、内面が読み取れない。


 少年は立ち上がり、壁に取り付けられている簡易かんいたなまで行くと、また戻ってきた。その手には、さやに納まった一振りの刀がある。

 彼はそれを俺の目の前に置くと、

「あなたが身につけておられた物です。手の届く所に置いておいたほうがよろしいですか? 片づけておいたほうがよいのなら、そうしますが」

 と聞いてきた。俺は少し考え、

「ええと……取りあえず枕元に置いておいてもらえると、ありがたい」

「分かりました」

 かちゃりと音を立てて刀が置かれると、俺は、自分が着ている衣を軽くつまみ上げてたずねた。

「この小袖こそではいったい、どうしたんだ?」

 いつの間にか、よろいの下に着ていたはずの直垂ひたたれや小袖ではなく、別の誰かの小袖一枚に着替えさせられていたのだ。

 肌触りのいい上等な生地だが、俺にはどう見ても小さい。


 少年は感情をまじえずに語った。

「私の小袖です。たけはばが合いませんが、今は辛抱しんぼうしてください。元々着ていらっしゃった衣は、血や泥で汚れていたので洗って干しています。肩の部分がけていますから、後ほどつくろっておきます」

 変わった奴だなと感じつつ、俺は気になっていたことを確認した。

「ここは、俺が中の様子を見ようとしていた、あの小屋か?」

「はい。ちょうど薬の調合ができたところなので、持ってきます」

 そう言い置いて、少年は立ち上がった。


 そうか。俺は気を失っている間にここまで運ばれて、手当てされていたのか……ん?

 少年の立ち姿に、何か引っかかった。

 すらりとして小柄で、戦場よりも管弦の舞台のほうが似つかわしそうな――。

 俺は少年に問うた。

「そなた一人で俺をここまで運んで来たのか?」

「いいえ。私だけでは難しそうだったので、手伝ってもらいました。紹介します」

 少年は方向を変え、小屋の入り口のほうへ歩いていった。

 なんだ。他にも誰かいるのか。

 六しゃく半ほどある俺の体を、こんな小さな小袖で充分なあの体格で運べるだろうかと、疑問に思ったが。そういうことなら納得なっとくだ。


 少年は入り口の引き戸をがらりと開けた。

 そこにいたのは――。

「……鹿?」

 どう見ても人ではない。立派な体格の牡鹿おじかだった。

 ただ、頭部に生えている角だけが、普通の鹿とは異なっていた。いくら数えても四本、つまり二ついあるのだ。

 鹿は入り口から頭だけ小屋の中に入れ、こちらの様子をうかがったかと思うと、少年の脇腹に体をすり寄せている。


 少年はその場にし、

「この鹿は、あなたが私に危害を加えるつもりなのだと思って、体当たりしに行ったのです。私の判断が遅かったがために、止めることが出来ませんでした」

「え?」

「申し訳ありませんでした」

 ぽかんとする俺に構わず、少年は深々と頭を下げた。

 あの時ぶつかってきたのは、物でも人でもなく――こいつだったのか。


 ようやく事情を飲み込んだ俺は、怪我した肩を動かさないように用心しつつ、上半身を起こし、少年を制止した。

「いや、謝らないでくれ。謝らなくてはならんのは俺のほうだ。人に見つかれば身があやういからと、そなたを……切るつもりでいた」

 あの時の俺なんて、はたから見れば不審者そのものだ。鹿の判断は、何も間違っていない。

 俺は居住いずまいを正し、頭を下げた。

「出会った人間がたまたま善良で、運よく助けてもらえるなどという、そんな都合つごうのいいことはそうそう起きないとばかり思っていた。あの場で殺されても文句は言えないことをしていたのは、むしろ俺なのに……本当に、かたじけない」

 こんなに良くしてくれる人間を、俺は殺そうとしていたのか――そう考えたら、体の奥が空っぽになったような、そんな感覚にとらわれた。

 身を守るためには、相手を疑わないわけにはいかない。だが、疑った途端に失われるものもある。

 生き抜くというのは……こういうことなのか。


 こちらの思いを分かっているのか、いないのか、少年は表情一つ変えず、

「あなたがこちらを警戒したのは当然です。善人かどうかなど、一瞥いちべつしただけでは分かるはずもないのですから。気になさることはありません」

 と、俺に頭を上げるよううながしたが、その口調には相変わらず感情がこもっていない。

 俺は少年と真っすぐ向き合い、

「いらぬと言ったが、やはり、水をもらえないだろうか?」

 と頼んだ。

 彼は「分かりました」と立ち上がり、小屋のすみに置いてあるかめのほうへ行った。


 じきに戻ってきた彼の手には、木製のわんがあった。神仏にでもささげるような、どこか、うやうやしい持ち方に見えた。

 彼は水がなみなみと注がれたその椀を俺に渡しながら、言いえた。

「水以外、何も入れてはおりません。あなたを害したところで、私には何の得もありませんから。その点は安心なさってください」

 俺は一瞬、椀に伸ばした手を止めてしまった。


 どきりとした。水はどうかと向こうから聞かれた時は断った理由を、さとられていたんだろうか。

 俺は少しあせりながら、椀を受け取った。

「そなたを疑う気持ちなど、もはや抱いておらん。そんなことをわざわざ気にかけてくれなくていいから、どうか、そなたのほうこそ心をやすんじてくれ」

 そう伝えてみても、少年はまゆ一つ動かさず、

「そうですか。水はまだまだ甕にありますから、欲しければ遠慮えんりょなくおっしゃってください」

 と言うだけで、立ち上がって薬を取りに行ってしまった。


 俺は椀に口を付け、ぐいと一口飲んだ。

 水以外の何物でもない味の液体が、のどを伝って腹の中に流れ落ちると――思わず、深々と息をついた。

 ああ。ようやく、人心地ひとごこちがついた。

 絶望も苦痛も封じ込めて、ただひたすら、死なないために足を前に進ませてきた。

 疲弊ひへいした体の血肉ちにくに、何の混じり気もない水が行き渡る感覚は、自分がまだ生きていることを教えてくれる。

 俺は水をもう一口飲みながら、少年の背中に目をやった。

 ちょっと、妙な奴だな――ついそんなことを思ったが、まだまだ疲れが残っていたせいもあって、俺は大して気に留めなかった。

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