第3話 水
自分が置かれている状況を
「のどの
とたずねられたので、俺は、
「いや、必要ない」
と断った。
他人から勧められた飲食物には気をつけろ。特に、知らぬ者から出された場合は口にしないようにと、幼い頃から常々教え込まれてきた。
考えて断ったというより、反射的に口をついて出た、というのが正解だった。
少年は「そうですか」と、それ以上勧めてくることもなく、
「あり合わせの物を使ってではありますが、応急手当てをしておきました。あなたは体力もありそうなので、ゆっくり休養を取れば元通りに治るでしょう」
と説明してくれた。
きっぱりとした物言いなのに、その声は感情の起伏を感じさせず、
少年は立ち上がり、壁に取り付けられている
彼はそれを俺の目の前に置くと、
「あなたが身につけておられた物です。手の届く所に置いておいたほうがよろしいですか? 片づけておいたほうがよいのなら、そうしますが」
と聞いてきた。俺は少し考え、
「ええと……取りあえず枕元に置いておいてもらえると、ありがたい」
「分かりました」
かちゃりと音を立てて刀が置かれると、俺は、自分が着ている衣を軽くつまみ上げてたずねた。
「この
いつの間にか、
肌触りのいい上等な生地だが、俺にはどう見ても小さい。
少年は感情を
「私の小袖です。
変わった奴だなと感じつつ、俺は気になっていたことを確認した。
「ここは、俺が中の様子を見ようとしていた、あの小屋か?」
「はい。ちょうど薬の調合ができたところなので、持ってきます」
そう言い置いて、少年は立ち上がった。
そうか。俺は気を失っている間にここまで運ばれて、手当てされていたのか……ん?
少年の立ち姿に、何か引っかかった。
すらりとして小柄で、戦場よりも管弦の舞台のほうが似つかわしそうな――。
俺は少年に問うた。
「そなた一人で俺をここまで運んで来たのか?」
「いいえ。私だけでは難しそうだったので、手伝ってもらいました。紹介します」
少年は方向を変え、小屋の入り口のほうへ歩いていった。
なんだ。他にも誰かいるのか。
六
少年は入り口の引き戸をがらりと開けた。
そこにいたのは――。
「……鹿?」
どう見ても人ではない。立派な体格の
ただ、頭部に生えている角だけが、普通の鹿とは異なっていた。いくら数えても四本、つまり二
鹿は入り口から頭だけ小屋の中に入れ、こちらの様子をうかがったかと思うと、少年の脇腹に体をすり寄せている。
少年はその場に
「この鹿は、あなたが私に危害を加えるつもりなのだと思って、体当たりしに行ったのです。私の判断が遅かったがために、止めることが出来ませんでした」
「え?」
「申し訳ありませんでした」
ぽかんとする俺に構わず、少年は深々と頭を下げた。
あの時ぶつかってきたのは、物でも人でもなく――こいつだったのか。
ようやく事情を飲み込んだ俺は、怪我した肩を動かさないように用心しつつ、上半身を起こし、少年を制止した。
「いや、謝らないでくれ。謝らなくてはならんのは俺のほうだ。人に見つかれば身が
あの時の俺なんて、はたから見れば不審者そのものだ。鹿の判断は、何も間違っていない。
俺は
「出会った人間がたまたま善良で、運よく助けてもらえるなどという、そんな
こんなに良くしてくれる人間を、俺は殺そうとしていたのか――そう考えたら、体の奥が空っぽになったような、そんな感覚にとらわれた。
身を守るためには、相手を疑わないわけにはいかない。だが、疑った途端に失われるものもある。
生き抜くというのは……こういうことなのか。
こちらの思いを分かっているのか、いないのか、少年は表情一つ変えず、
「あなたがこちらを警戒したのは当然です。善人かどうかなど、
と、俺に頭を上げるよう
俺は少年と真っすぐ向き合い、
「いらぬと言ったが、やはり、水をもらえないだろうか?」
と頼んだ。
彼は「分かりました」と立ち上がり、小屋の
じきに戻ってきた彼の手には、木製の
彼は水がなみなみと注がれたその椀を俺に渡しながら、言い
「水以外、何も入れてはおりません。あなたを害したところで、私には何の得もありませんから。その点は安心なさってください」
俺は一瞬、椀に伸ばした手を止めてしまった。
どきりとした。水はどうかと向こうから聞かれた時は断った理由を、
俺は少し
「そなたを疑う気持ちなど、もはや抱いておらん。そんなことをわざわざ気にかけてくれなくていいから、どうか、そなたのほうこそ心を
そう伝えてみても、少年は
「そうですか。水はまだまだ甕にありますから、欲しければ
と言うだけで、立ち上がって薬を取りに行ってしまった。
俺は椀に口を付け、ぐいと一口飲んだ。
水以外の何物でもない味の液体が、のどを伝って腹の中に流れ落ちると――思わず、深々と息をついた。
ああ。ようやく、
絶望も苦痛も封じ込めて、ただひたすら、死なないために足を前に進ませてきた。
俺は水をもう一口飲みながら、少年の背中に目をやった。
ちょっと、妙な奴だな――ついそんなことを思ったが、まだまだ疲れが残っていたせいもあって、俺は大して気に留めなかった。
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