第1話 落ち武者

 ここは麻岐国まきのくになのか、それともひょっとして、いつの間にか国境くにざかいを越えて、斯野国しののくにに迷い込んでしまっているのか。

 そんなことすら、もはやどうでもよくなっていた。


 甲冑かっちゅうは捨ててきた。おかげでずいぶん身軽にはなった。それでもなお、体力は刻々と消耗しょうもうしていく。

 左肩の傷さえなければ、と思わずにいられない。

 出血は止まったが、熱を持ち、じくじくとした痛みが続いている。まるで、鉄のかたまりでも背負っているかのようだ。

 その上、あちこちに打撲だぼくもある。全身が熱っぽく、少しだるかった。

 身を守る物は腰の刀だけだが、この有様ありさまでは、いざという時にどれだけ振るえるか。

 考えるな。考え始めたら、気力がゆるむ。今はただ、生き延びるだけだ。

 五百瀬いおせ藤吾とうご春永はるながは、敗走する主君のために盾となり、山野をさまよった落人おちうど狩りに殺された――そんな風に後世に伝わるのは、まっぴら御免ごめんだ。


 俺は周囲の気配をさぐりつつ、足を前にみ出し続けた。

 追っ手、獣、略奪目的の落ち武者むしゃ狩り……警戒せねばならない対象は、日頃の狩りの時よりも多い。気が抜けない。

 ここまでのところ、幸いにも森林の静謐せいひつな空気以外は感じなかった。このままどうにか、人里ひとざとまでたどり着けるか。それとも、体が限界を迎えるか。

 少しでいいから、どこかで休みたい――絶えず心の片隅がそう訴えるが、無理矢理ねじ伏せて、歩みは止めなかった。


 そうしているうちに、辺りが少し明るくなったことに気づいた。

 前方の木々が途切れ、開けた場所が見えてきたのだ。

 かすかに水の音もする。近くに川があるようだ。

 俺は思わず知らず、足を速めた。

 初夏の森は下草や木の葉が旺盛おうせい繁茂はんもし、それが体にからみつく。南天から燦々さんさんと降りそそいでいるはずの日差しも、木々にさえぎられて薄暗い。長く過ごしていると、不快感がつのる。

 身も心も、開放感を求めていた。

 動きをさまたげられない、広くて見通しのいい、襲撃者にもすぐ気づける場所が恋しい。俺は上背うわぜいがあるから、草木なんて大して身を隠す役にも立ってないだろうと思うと、なおさら。


「ん?」

 森から草地に変わったその向こうに、何かの建物がある。

 建物と言っても、板葺いたぶきで実に簡素な作りの、小屋と呼ぶのがふさわしい代物しろものだ。

 猟師小屋だろうか。あるいは、山の木を切るのを生業なりわいにしている杣人そまびとの小屋か。

 かせぐために、許可を得た上でここを拠点にしている者がいるのだろう。

 あるいは。この山は、ずいぶん前に砦が使われなくなって以降、管理もそれほどきびしくなくなっている。その間に、山の恵みを必要とする人間が入り込んだのかもしれない。

 雑魚寝ざこねだったら四、五人が暮らせそうな広さだ。仕事で山にいる間だけ寝起きするには、これで充分か。


 俺はそっと、小屋に近づいた。

 ここで少し休ませてもらおう。運が良ければ、何か食料や、役に立ちそうな道具が置いてあるかもしれない。

 ここまでの道中では、一度も人の気配は感じなかった。目の前の小屋も、静まり返っている。今は誰も使っていないに違いない……と思いたい。

 猟師や杣人が親切な人間で、などという展開になるのは、おとぎ話の中だけだ。見つかれば、どんなあつかいを受けるか分からない。こちらは落ち武者に過ぎないのだから。

 俺は小屋の引き戸に背をぴたりとつけ、中の音や気配をうかがった。


 呼吸十回分ほどの間、じっと己の気配を殺して探り続けたが、やはり何も感じない。

 よし。これなら大丈夫だろう。そう思いながらも、そろりそろりと慎重に戸を開けようとした、その時。

「何をしておられるのですか?」

 後方から投げかけられた声に、背筋がひくりと強張こわばった。

 しまった! 外にいたのか。見つかったからには仕方がない。

 俺は反射的に腰の刀に手をかけつつ、振り返った。

 女ならともかく、声からして向こうは男だ。切り捨てるしかない――そう覚悟して、刀を抜こうとしたのだが。

 何か大きな物が、すさまじい勢いでぶつかってきた。

「!」

 その衝撃に、俺は声も出せないまま、叩きつけられるように地に倒れた。

 薄れゆく意識の中で、猟師とも杣人とも違う人影が立っていることだけは、はっきりと目がとらえていた。

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