第71話 不安と期待

 「いえ……なんとなく、やる気わいてきました。週末まで頑張れそうです」


 自分で口にしといて、不思議なんだけど、そんな言葉を私が放ったのが信じられなかった。


 頑張れる? 本当に?


 こういう疑問が湧くときは、大体、本当のところは頑張れない時のはずなんだけど。


 なんでかは、わからないけど、その時は本当に頑張れる気が、していたんだ。


 仕事を頑張れるなんて、想ったこと。これまで一度だってなかったのに。


 どうして、そんなことが言えたんだろう。


 わからない。実は口にしたことは、嘘だったのかもと、次の日出社したとき何度も考えていたけれど。


 気が付いたら、一週間が終わっていて。


 気が付いたら、みそのさんとのお出かけの日がやってきた。


 前日に、服を取りに帰ったみそのさんと駅で待ち合わせて、二人で電車に乗って、最寄りの大きな神社へ向かった。


 ふわふわしているような非現実感は別にないけれど。


 どうにも、こうやって普通に過ごしている自分が、不思議で不思議で仕方がなかった。


 別に何が変わったわけでもない、ただの約束を一つしただけ。


 心の内が劇的に変わったわけでもないけれど。


 気づいたら、私はなんだか普通に歩いて今を過ごせていた。


 一体、何が違うんだろう。


 一体、何がきっかけなんだろう。


 恋に浮かれているからかな。不安は相変わらず私の傍にいるのに、足取りは少しだけ軽いまま。


 そういえば、すごく何気なく始まって、すっかり失念したいたけれど。


 休日に待ち合わせして、お出かけして、お茶をして。


 人はこれをデートと呼ぶのではないだろうか。


 そんなことを考えた。


 浮かされるような熱はないけれど、胸の奥は暖かい。


 いつも頭の中で喚いているばかりの不安は、私の隣でじっとだまって、こちらの様子を見つめているだけだった。





 ※





 「今週、頑張れた? やったじゃん。仕事も一区切りついたんだ、よかったね」


 パフェ屋でみそのさんと、二人でパフェをつつきながら、なんとなく最近の仕事の話をした。最近って言っても、ここ三・四日のことだけど。


 私はチョコバナナの普通のパフェ。みそのさんは、最初エビフライパフェっていうのをしばらく神妙な顔で眺めていたけれど、結局ブルーベリーのパフェにしたみたい。私もそれはちょっと気になったけど、頼む勇気はなかった。


 「そうなんです。なんか、自分でも不思議な感じで、今まであんまり頑張れてるって感じがなかったから」


 「へえ、いいね。無敵モードじゃん。そのまま、総務部長に『私はお前の小間使いじゃなーい!』ってキレてやれば?」


 「あはは、さすがにそこまでする度胸は…………」


 「やる権利はありそうだけどねえ。どう人に助けは求められてる?」


 「はい……なんとか。ちょっとずつですけど……」


 今週は回らない仕事のことを同僚の先輩方に相談したり、とんでもない量の仕事を上司に振られたら、それをその場にいる人たちに何とか手伝ってもらったり。


 …………できている。少しずつ人を頼ることが。


 とても不思議なことに。


 「大進歩じゃん、やったね!」


 もちろん、うまくできないことは一杯あって。


 もちろん、うまく頼めないことも一杯あって。それは向こうの事情もあるから当然だけど。


 ずっと止まっていると想っていた自分の中の歯車が、くるくると確かに回り始めているのだけを、私はゆっくりと感じていた。


 「そうなんですけど、このままでいいのかなって」


 チョコバナナを口に入れながら、その甘さをじっと感じていた。


 同時に、私の中の小さな不安が、私の袖をぎゅっと握ったのを感じていた。


 「ふむ、このままでいいとは?」


 対面のみそのさんは優しく笑っている。


 この人は、私の言葉を否定しない。だから、言葉がするする出てくる。私さえ知らなかった胸の内が、流れる水みたいに零れてくる。


 「……何というか、多分一杯迷惑はかけてると想うんです。私が頼っちゃうから他の人の仕事は遅れちゃうし、私が上手く伝えれてないから、ちゃんと頼めないこともあるし……、私じゃない優秀な人だったら。もっと、なんとかできたのかなあって……」


 例えば、かつて一緒の部署にいた遠山さんは、私と違って滅茶苦茶に優秀だった。仕事が早いし、言葉も適格だし、判断も凄く速い。


 今、部長が私に厳しいのは、彼と比べているところがあるんじゃないだろうか。


 つまり、あれだね。外れくじが自分の元に残ってしまったみたいな、そういう感覚が、あるんじゃないかな。


 「なーるほど、不安もあるし、心配にもなると。人と比べたらどうなんだろうって考えると余計にか」


 みそのさんは軽く笑うと、スプーンをゆっくりと持ち上げて、そこに乗っているクリームをじっと眺めていた。


 「……すいません。なんか、あんまり解決の糸口がないようなことを言っちゃって」


 「ううん、全然大丈夫。まあ、頑張ってると、どうしても悩んじゃうよね、仕方ない」


 そう言ってみそのさんは、まぐっとクリームを口の中に入れた。口の隅に少しだけクリームが残ってて、ちょっとだけ可愛いすがたになっている。


 「頑張ってるん……ですかね? ちょっとずつしか変わってないけど」


 私がそう言うと、みそのさんはちょっと呆れたようにへらっとほおを下げた。クリームはつけたまんま。


 「頑張ってるぞう……? ここねはすんごい頑張ってるぞう……? 二十も越えた大人が、ちょっとずつ変わろうとするのが、どれだけ大変か。私とまなかさんを見てて知らないわけじゃないでしょうに」


 その言葉に、私は思わずくすっと笑ってしまいます。


 「そういえば、そうですね。お二人は、随分、大変そうでした」


 「そ、そ、大変だった。それにしょーじき今もね、そんなに変わらない部分が残ってる。今でもまなかさんとの想い出をふとした瞬間に想い出すし。あの時ああしてたら、もしかしたら未来は違ったのかなとか、意味のないことも偶に考える」


 みそのさんはパフェの残りをスプーンで攫いあげると、にししと笑って言いました。


 「でもまあ、それでいいんじゃない。行きつ戻りつ、ちょっとずつ人は変わっていくんだから。それに不安を感じるのも当たり前、だって変わった後、どうなるかなんて誰にも分かんないんだから」


 私の袖をぎゅっと握っていた不安の影を、私は少しだけ想い出しました。


 「ゆっくりでいいんだよ。焦らなくてさ、どうせできることをやるだけなんだし。ここねは今、出来ることをちゃんとやってるんでしょ? それはとてもね、カッコいいのだ」


 思わず、少し笑ってしまいました。


 「カッコいい……ですか、私。生まれて初めて言われました」


 「マジで? ……結構、ここね見てて想うけどね、私は。いやいや、まあ実際ね凄いことだから、ここねなら大丈夫でしょって想えるし」


 「そんなこと言ってくれるのみそのさんだけですー」


 「いや、まなかさんに聞いてみ。絶対秒で返してくれるから、というか現状をちゃんと説明したら大概の人は言ってくれると想うけどなー」


 「部長は言ってくれなさそー」


 「それはまあ、仕方ない。言ってくれる人を大事にしたらいいんだよ」


 「なるほど、じゃあ、みそのさんのことは一杯大事にしますね?」


 「おお? そうくる? まあ、いいけど。えらい先輩だぞー、いっぱい大事にしたまえ」


 「はーい、ところでえらい先輩様、一つ提案があるのですがいかがでしょう」


 「ふむ何かね」


 「さっき見てた、エビフライパフェ、二人で食べてみませんか?」


 「―――いいね、やろう。すいませーん、注文いいですかー?」


 そう言って、楽しそうに注文するあなたを見ながら、私も思わず笑みをこぼします。


 歯車が少しずつ動き出す音がします。


 これでいいのでしょうか、このまま回り続けていいのでしょうか。


 見たこともない辛いことが、感じたこともない悲しいことが、これから待っているのではないでしょうか。


 そう言って、私の隣で小さな不安がぎゅっと私の袖を握りしめました。


 困ったねえ、怖いね。これから一体どうなるんだろうね。


 そんな君を私はまだ、うまく受け入れてあげられないけど。


 でも、それでもいいみたい。


 だって少しずつだけど変わっているから。


 きりきりと音を立てて、歯車は回り始めているのだから。


 だから今は、じっと眼を閉じて、その音を黙って聴いている。


 ちいさな不安を胸に抱えながら、それでいいと、笑ってくれる人の隣に立ちながら。


 私はじっと、変わり続ける今を待っていた。


 さてさて、エビフライパフェは一体どんな味がするのでしょう。


 不安も、期待も、私の隣でじっと、その時を待っている。

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