恋した私と誰かを想うあなた
キノハタ
プロローグ 甘いようで苦いよう
第1話 恋をしない私と初めて出会ったあなた
曰く、恋には賞味期限があるそうです。
それは生まれてから大体、三年ほど。
その間、人の頭と心は大興奮。
胸が高鳴って、恋した相手の全てが素敵に見えてしまうそうです。
その間、世界はとめどなく輝いて見え始めて、明日が来るのが楽しみで楽しみで仕方なくなってしまいます。
気づけば恋した相手のことを考えて、考えて止まらなくなってしまいます。
これでは神様が期間限定にしたのも致し方のないこと。
そうでもしないときっと人の心はずっと恋に浮かれたままでしょうから。
だから、恋はいつか終わるもの。
でも、きっとだからこそ尊いものでしょう?
だって、たった三年の恋だもの。
しかも、人によっては、本当の恋ができるのなんて一生に一度、あるかどうか。
そんなとっても素敵で、大事で、夢のような、一瞬のひと時なのですから。
尊くないなんて嘘でしょう?
これは私のたった三年ぽっちの。
そしてきっと、一生に一度の。
そんな恋に浮かれた物語。
※
自分は恋なんてしない人間だと思っていたのは一体、何時の頃からだったろう。
私は別に、恋愛恐怖症でもないし、男性恐怖症とか、女性恐怖症とかでもありはしない。
人との接触が過度に怖いわけじゃないし、肌が触れあうのが嫌なほど潔癖症ってわけでもない。
恋愛感情がないとか、性欲がないとか、そういうわけでもないと想う。まあ、湧いたことが無いんだから、そうなんじゃないかと問われれば、そういう気もしたけれど。だから、一度、そういう恋愛をしない人たちの本を読んだけれど、あまりぴんともこなかった。
人並みに恋愛は好きだと想う。……ううん、きっと人一倍、恋愛は好きだと想う。
私がよく買う漫画や小説は、恋愛もの、ラブコメ、なんにせよ人間関係が主題となるそんなものばかりだから。
中学生ぐらいに、ふと読み始めて、相応にハマっていって、社会人になった今では立派な趣味嗜好になるくらいには好きだと想う。
甘酸っぱい恋に、思わず部屋で一人でわーってなる。
切ない想いに、胸がじんわりと染みてくる。
暖かく幸せな愛に、涙がじんわりと滲んでくる。
それだけ一杯感じるけれど、でも結局それはどこまでいっても、どこか一つ壁を隔てた向こう側の、そんなお話。
どれだけ感情が動いても、どれだけ身体が反応しても、どれだけ涙を流しても。
それは結局、私ではないどこかの誰かのそんなお話。
そういうことを言うと、私のことはあんまり知らない人は、不思議そうに首を傾げる。
『何か昔、嫌なことあった?』
『フィクションに恋しちゃった感じ?』
『それともまだ恋に目覚めていないだけ?』
どの言葉を掛けられても、私は苦い顔をして首を振るばかり。
別にそんな劇的な過去があるわけでもないし。操を立てるほど、熱烈に好いた二次元のキャラがいるわけでもない。
恋に目覚めてないかどうかはーーーそんなもの今の私に言われたところで知るわけないでしょ、としか言えないのだし。
もしかしたら、本当に私は、そういう恋をしない人なのかもしれない。
というか、もし私が一生、恋に出会わなかったら、それはもう恋をしない人ってことになるのかな。そこの違いって何だろう。
いや、きっと元は違う人たちが、たまたま同じ場所に行きついたっていう、ただそれだけのことなのかな。
まあ、どちらにせよ、今の私に恋はないわけで。
社会人になって、新しい人間関係を得る機会もめっきり減った。
親しくして残っているのなんて、精々、大学や高校時代の片手で足りるくらいの友人ばかり。
このまま、何の変化もなく、私の人生って終わるのかなって、そう想ってたんだ。
あの日までは。
※
「加島さん、彼氏とかいないの?」
「ぶちょー、それセクハラ―」
その日は、ちょうど会社の忘年会の日で、いわゆる部署合同という形で、大きな飲み屋さんに40人ばかりで押しかけていた日のことだった。
私はまだ一年目で、入った部署で慌ただしく過ごしていたっけ。忘年会の機微も解らぬままに、たまたま話し始めた他部署の部長さんにお酌をしながら、苦笑いでその場に佇んでいたのだ。ちなみに、セクハラだと野次を飛ばしたのは、その部長さんの部下のお姉さん。
正直、気が滅入る、そんな年末も近い日のことだった。
「…………いないですね。できる予定もないです」
ビール瓶を手に持ったまま私がそう答えると、赤ら顔の30代くらいのまだ若い部長さんは、少し首を傾げた。
「……ん? そういう人?」
「えと……そういう人、とは」
「いや、ほら男が好きになれない、みたいな。うちの部署にもそういう子がいるからさ」
忘年会が始まる前までは少し無口に見えた部長さんは、お酒が回り始めると随分と饒舌になった。私はうーむ、と唸りながら、唇を思わず掻く。
「えと……別にそういうわけでもないです。その……シンプルにそういう気持ちが湧いてこないといいますか」
「……なんだっけ……えーっと……ここまで出てる。あ……あー……ア……」
部長さんは何かを言おうと、あーあー、あー、口を開けていた。私はしばらく首を傾げて、ああ、無性愛者のことを言おうとしているんだなと数秒経ってから気が付いた。一応、自分がそうなのかと気になって、調べたことがあるから、私もその呼び方は知っていた。
「「
答えて、数秒後にはてと首を傾げる。今、部長さん以外の声が不自然に重なった気がした。
気のせいかなって首を傾げかけたところで、向かいのさっきセクハラと野次を飛ばした女性がこっちを見ていることに気が付いた。……この人が私と同時に喋ったのかな。
「あー、それだ。柴咲さんに前に教えてもらったやつ。加島さん、それ?」
「あ、いや別にそうではないです」
と、私が考えているうちに、部長さんはぽんと手を打って、眼の前の女性に指を向ける。それから、私を見て問いかえしてくるけれど、私はふるふると首を振った。部長さんは、眉を八の字に曲げるとうむむとうねり出す。
「そうか……、つまり、どういうことだ?」
部長さんは腕を組んで難しそうな顔をしてしまった。私は思わずおろおろとしてしまったけれど、私が何か口を開く前に目の前の女性が、軽く笑って口を開いた。
「部長、難しく考えすぎですよ。要するに、恋愛したこともないし、今、する気もないっていうただそれだけでしょう?」
優しい口調と声色で、どことなく人を安心させるような声で、目の前の少し髪の長い女性は私の隣の部長にそう諭した。
部長はまあ、そっかあと軽く納得すると、ちょうど後ろから別部署の人に声を掛けられてそっちを向いて話し始めた。
私は、どことなくほっとして、前を向くとさっきの女性と眼があった。柴咲さんって呼ばれていたっけ。
私より少し年上な感じで、軽いわけではないけれどどことなくフランクな印象を受ける人だった。
私と眼が合うと、軽く手をひらひらと振ってちょいちょいと自分の隣を指さしてくる。
……隣にこいって意味かな?
私は半信半疑のまま、横で違う部署の人と話し始めている部長さんをちらっと見てから、こっそり目の前の女性の隣に向かった。私達が座っていたのは座敷の椅子の丁度端っこの部分だったから、難なく隣に回り込むことができた。
私が隣に来ると、柴咲さんは軽く笑って、こそっと私に耳打ちしてくる。
「ごめんね、うちの部長が変なこと聞いて。このまえ色々入れ知恵したから、ちょっと使いたかったみたい」
そう言って、梅酒か何かを手にご機嫌に笑っていた。
私は、耳に当たった息に思わずちょっとくすぐったさを感じながら。こくん、と頷いた。
優しそうな、あとどことなく器の広そうなそんなお姉さんに見えた。
見た目もすらりと細くてなんだか大人の女性って感じがして、少し憧れる。私は身体こそ細いけれど身長がないから、どうしても子どもっぽく見えてしまう所があるから、羨ましい。
足を組んだ柴咲さんはころころ笑いながら、そのまま楽しげに話を始めていた。
私も笑顔にあてられて、なんだか楽しいままに話を始めた。
「ていうか、あれ? そもそも恋愛とかの話題が苦手なタイプ? えーと……加島ちゃんは」
「……えーと、恋愛自体は嫌いじゃないんです。そういう本とかはよく見るし、ただ自分のこととなると、ちょっと……」
自分でも上手く説明できないことだから、どうしても言い淀んでしまう。人によっては、こういう話をするといい人紹介しようか? 嫌なことあった? とか変に裏を見られたりする時もあるし。別に、そういうことがあったわけではないから、私としても説明が難しいし。納得を得ることも、なかなか手間だ。
「ああーーー、……気持ちが湧いてこない感じかな。人のことを見るのは好きだから、恋愛には興味があるけどー、実感として恋をしたことはない。それにこれから起きる気配もない、みたいな」
柴咲さんは、しばらく考えた後に、ふむと唇に指をあてると確かめるようにそう告げてきた。
私は思わず、え、と口を開いてしまう。
付き合いの長い友達とかは私のことを知っているから、ちゃんとは理解もしてくれてる。
でもそんな彼女たちでも、やっぱり説明は手間だったし理解にも時間がかかってた。未だにそんな納得してくれてない友達もいたりする。
だというの、柴咲さんはすっと答えを返してきた。しかも、ちょうど私の言葉をそのまま受け止めてくれたみたいに、素直に。
いろんな人に説明する機会はあったけれど、やっぱりみんな自分の恋愛観や常識みたいなものがあるから、素直に受け入れてくれた人なんてほとんだ見たことがなかったのに。
「ーーーあ、そんな感じです」
思わず少し、唖然とした後、答えを返した。
そんな私に、柴咲さんは楽しげに笑って答えを返す。
「あ、合ってた? よかった。そういうのちゃんと説明できないと、もやってなるもんねー」
そう言って、少し安心したような顔になると、私にすっとメニューを差し出した。
「そういえばさっきからグラス持ってないけど、なんか、飲む? あ、それかお酒苦手な人?」
そう言われて私ははっとして、我に返る。
それから少し慌ててメニューを受け取った。
ーーー正直に言うと、お酒は苦手だ。だって飲み会の雰囲気は少し苦手だから、あと酔っているのに言葉に気を付け続けないといけないから。
うかつに自分のことを喋って、余計なことを詮索されるのは苦手だから。
いつもは、そうだった。それは多少の程度差こそあれ、誰と飲んでいてもそうだと想う。
友達でもやっぱり気は遣うし、仕事の相手だったら尚更そう。
そう、そのはず、なんだけど。
その時は、ただ、なんとなく、ぼんやりと。
この人の隣なら、お酒を飲んでも楽しいのかもしれない。
自分のことを喋っても、聞かれても、嫌じゃないのかもしれない。
そんなことを、なんとなくだけど想っていた。
「えーと……じゃあ、柴咲……さんは何飲んでるんですか?」
「これ? 梅酒のソーダ割。美味しいよ? 甘酸っぱくて」
「じゃあ、私もそれにしようかな……」
「おっけー、すいませーん、注文いいですかー?」
がやがやとした声が大きな居酒屋さんの中を満たしてる。
年も終わりでみんなどことなく肩の荷が降りた、上機嫌な空気の中。
いつもなら、そこでも私はどことなく肩身が狭い想いをしながら。周りにどこか気を遣って、自分のことを漏らさないように気を付けて、過ごしていたわけだけど。
だけど、今日だけは私も、その空気の中に楽しい気持ちのまま混ざっていられる気がしていた。
私の分の梅酒のソーダ割が届いて、それを受け取った柴咲が私に手渡してくれる。
柴咲さんと眼を合わせて、微笑んで、なんでか二人でこっそり隠れるみたいに乾杯する。
今日、出会ったばかりのあまりよく知らない、そんな女の人と。
でも、私のことをきっと今までの誰よりもすんなりと受け入れてくれたそんな人と。
乾杯する。
そんな、年の瀬の良い出会いにほくそ笑みながら、私は甘酸っぱい梅酒のソーダ割に口をつけた。
甘くて酸っぱくて、どことなく心を滲ませていくような、そんな味に浸りながら。
※
私の恋は、あと1095日間。
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