3
問題の自動車工場の建物オーナーには、あらかじめ警視庁を通じた要請が届いていた。黒崎たちは軽く手帳を見せただけで、待ち構えていたオーナーに中へ通される。
「お出になるときは一声かけてください」
照明をつけたオーナーもがらんとした工場の捜査に付き合う気はなさそうで、すぐに立ち去った。
2人になると、黒崎は同行した本庄に言った。タクシーの中では込み入った話はできなかったのだ。
「シンイチが同行を申し出るとは思わなかった」
「一応、自動車工場は国交省の認可対象ですからね。僕の持ち場だともいえるし、今のところあまり仕事もなかったし」
黒崎の目はすでに工場内を観察し始めている。
「エコーの仕事は、君の古巣にも関係してくるのか?」
「そう考えて、僕を引っ張ってきたんでしょうね。テロ対策だったら、交通機関の規制とかが重要になりますから。でも、僕も来てからまだ半月ぐらいしか経っていないし、何を求められているのかもさっぱり分かりません。みんなもそうでしょうけど、僕も手探りなんでクロさんにくっついてきたんです」
「現場にはよく出かけていたのか?」
「トラブル処理には結構重宝がられてましたよ。新幹線の焼身自殺の時とか、関空が孤立した時とか。北海道の大停電の時も散々振り回されました。働くのは現場の人間ですけど、役所も見てるっていう体制を取っておかないと格好がつきませんからね。みんながやりたがらない仕事を押し付けられる、便利屋みたいなもんでした」
黒崎が笑う。
「だから引っ張ってこられたんだろうな。で、シンイチの目から見て何か気づくことはないか?」
やはり工場内を観察していた本庄だが、途方に暮れている。
「そう言われても……持ち出せる機材はみんな持ち去られているし、こんなに綺麗に掃除されているし。何かしらの痕跡、残っているもんですかね?」
「それなんだよ。破産後の工場ってやつは何度も見たが、これほど小綺麗にされていた例は知らない」そしてフロア中央に屈むと、床に埋め込まれた大型リフトを指で触れる。「こんなものまで拭き掃除しているみたいだ」
「オーナーの話では、元従業員は来ていないって言ってましたからね……」
「債権の取立て屋がこんな後始末をするか? 誰かが念入りに痕跡を消そうとしたようにしか思えない。やはり、何かありそうだな」
「なるほど、これが刑事の勘ってやつなんですね」
「当たっていれば、だがな」
そして黒崎は、壁際へ向かった。
そこは簡易的な塗装ブースだったようで、壁には様々な色の塗料が吹き付けられていた。一番最後に吹き付けられたのは、真っ赤な塗料だ。一部に、うっっすらと塗料をスプレーした部品の形が残っている。
黒崎はそれを指差した。
「この形、何だと思う?」
本庄がしばらく壁を眺めてからわずかに首をひねる。
「車の部品でしょう? バンパーを立てて塗ったのかな……それにしては、位置が低いですよね。それに、ずいぶん念入りに塗っているような……」
「いいところに気づくね。私もそう思う。君は事務所の方に行ってくれないか? 最近修理した車の色が分かると助かる」
「なるほど」
本庄は事務所のドアを開けるなり、言った。
「こっちも空っぽですね! 汚い机が残ってますが……」
そして中に入っていく。
黒崎は壁伝いに工場を観察していた。足を止めたのは角に作りつけられた大型のシンクだ。部品の洗浄や手洗いに使っていたのだろう。水道の蛇口の上にはボイラーが設置されていたようだが、今は取り外されてその部分だけ真新しい壁の色を残している。
シンクの下の扉を開く。洗剤などが置いてあったような痕跡はあったが、それも持ち去られたようだ。奥に、排水パイプがN字型に曲がった部分がある。その上下は、塩ビの部品でネジで止められている。
黒崎は常時持ち歩いている薄いナイロン手袋をはめた。他にも証拠品を入れる小さなビニール袋、ビクトリノックスの小さなアーミーナイフを携帯している。
接続部品を掴むと、思い切り回す。上下を緩めるとN字型の部分が外れた。それを上下逆さまにしてシンクに置き、軽く叩く。中に溜まっていた水とともに、いくつかのゴミが流れ出た。
その1つは、明らかに何かの燃えかすだった。
「ビンゴ」
ビニール袋にそのゴミを入れた。
本庄が戻ってくる。
「運が良かったです。机の中に修理日報が残ってました。これ、持っていっても再利用しようがないですもんね」
分厚いファイルを見せる。
「コンピュータとかは使ってなかったのか……」
「机にはありませんでしたね」
「当然、持って行かれてるよな……」
「でも自殺した社長、70歳でしょう? あれぐらいの人たち、結構手書きにこだわりますから。日報を書き込まないと落ち着かないって人だったんじゃないですか」
「で、最後の修理は?」
「板金修理に関しては、シルバーです。しかも入庫は半月以上前。あの赤い塗料、おかしいですよね」そしてシンクを見る。「なるほど、そういうところを見るんですね。何か出ましたか?」
「ちょっと気になるものだ」そして、ビニール袋を見せる。「鑑識に依頼する」
ちょうどその時、黒崎のコートの中でスマホが鳴った。怪訝そうな顔で取り出す。だが、受信はしていない。
「あ、こっちか」もう1つの、エコー専用端末を出す。「おっと、いきなり副総監からだ」
応答するなり副総監の緊迫した声がもれる。
『黒崎君、トラブルだ。新宿署で密かに尋問していた久保田が逃げた』
「なんですって⁉」
『監視に付いていた刑事が2人、奪われた銃で撃たれた。命も危ないかもしれない。包囲網を敷いたが、君も警戒してくれたまえ。一度は命を狙われているんだからね』
「分かりました……」一瞬、黒崎は頭が真っ白になった。だが、すぐに我に返る。「緊急に分析を依頼したい証拠品が出ました。1時間後に、エコーに取りに来させていただけますか?」
副総監が驚いたような声を上げる。
『証拠品って、君が現場に出ているのか?』
「出ないと、見抜けないものがありますから」
そして含み笑いがもれる。
『すっかり所轄の刑事だな。分かった。科捜研でいいか? それとも、科警研か?』
科捜研――科学捜査研究所は各警察本部刑事部に置かれ、警視庁では霞ヶ関にある。さらに高度な鑑定ができる組織として、警察庁の下に科警研――科学警察研究所が設置され、千葉県柏市に所在する。
「両方お願いします。科捜研は大至急で」
『手配する』
通話が終わると、本庄が問う。
「事件ですか?」
黒崎が塗料を吹きつけられた壁に向かう。
「私を撃った男が逃げた」言いながら警察手帳を出して本庄に手渡す。「これを壁にぴったり当てて押さえていてくれ」
そして、スマホで塗料の痕跡を撮影し始める。
「なぜ手帳を?」
「比較物がないと寸法が分からない。壁の痕跡から、何を赤く塗ったか割り出せるかもしれない」
「なるほどね……。さすが、刑事さんだ」
黒崎は位置をずらして何枚か写真を撮ると、赤い塗料をナイフで削って別のビニール袋に入れた。
「すぐに戻ろう。やはり、あまり時間はなさそうだ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます