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翌日の早朝、科捜研からの分析結果が届けられていた。
シンクの残留物はシールの裏紙の燃え残りだと判明した。燃やされた上に水で流されているので正確とは言えないものの、その数は10枚を超えていそうだという。しかも、燃やしてからまだ数日しか経っていない。同じく、壁に残っていた赤い塗料もまだ新しいという。壁の塗装跡の画像分析は、科警研に委ねられた。
さらに所轄の聞き込みによると、ここ数ヶ月は工場が稼働していたのを見た者はないという。従業員のほとんども解雇され、仕事が入った時だけアルバイトとして声をかけるという状態だった。半月前の板金修理も、経営者の親類の車だったと判明した。
黒崎は、テーブルを囲んだスタッフに警察からの報告を説明した。
「倒産寸前の工場で、何らかの機材に色を塗ってシールを貼り、その痕跡を意図的に消した――そうとしか思えないね。しかも、自分で作業をしただろう経営者は、死体になっている」
佐々木はすでに、黒崎の勘に信頼を寄せ始めていた。
「何かを赤く塗ってシールを貼る……目的はまだ不明だが、今回の事件との関連は深まったと言えそうだな」
と、武市のエコースマホにコールが入った。
「あ、NSCから」
佐々木が言った。
「スピーカーに」
武市がうなずいて電話に出る。
「武市です」
『山城だ』元警察官僚の官房副長官だ。『国交省の顔認証に久保田翔太が引っかかった』
黒崎が身を乗り出す。
「場所は⁉」
その声は官房副長官にも聞こえたらしい。
『新幹線の新横浜駅だ。まだ試験中のシステムで、カメラは公表されていない場所にあった。明らかに、昨日のうちに新横浜で下車している。その声、黒崎君か?』
「はい」
『警察庁には詳しいデータを送るように命じた。奴が何を企んでいるのか、明らかにしてくれ』
「全力で」
そして通話は一方的に切れた。
武市が言った。
「あぁ、なんか俺、飾り物みたい……。山城さんの番号、クロさんにも登録しておくべきだね」
佐々木が苦笑する。
「今回の事案は警察がメインだ。仕方なかろう」
黒崎は意に介さない。独り言のようにつぶやく。
「なぜ新横浜に? それも、わざわざ新幹線で? 監視が厳しくなっていると分かっているはずなのに……」
マリアが考え込む。
「急いでいたけど、レンタカーやタクシーだと痕跡が残る……とかかな?」
「おそらくそうだ。新幹線なら、まだ監視をかいくぐりやすいとも言えるからな」
武市が言った。
「だとして、新横浜で何を? 誰かと待ち合わせていたか、やるべき作業があったか……。海外逃亡とかなら、空港を目指すよね……。あ、港は遠くないか。それとも、隠れ家とかにこもる気かな――」
「警官を撃ってまで海外逃亡を図るだろうか……? テロの決行が間近なら、黙秘を続けるだけで時間は稼げる。日本の警察は、テロリストが相手でも拷問とかはできないからな」
ミサが叫ぶ。
「日産スタジアム!」
武市がうなずく。
「そうだ! マリノスの試合、3日後だ!」
だが、黒崎は考え込む。
「テロの標的としては悪くない。オープンスペースであっても出入り口でサリンを使えば、パニックで死者は相当数に上る。横浜アリーナやオフィス街も狙われやすいことは確かだ。綱島にはアップルの開発拠点もあるしな……」
マリアがつぶやく。
「なぜアップル?」
「背後に中共がいるとするなら、商売敵の開発能力は殺ぎたいだろう? 中国製の情報機器は、徹底して潰されたんだからな。シリコンバレーに忍び込ませた産業スパイも、強制的に帰国させられている。しかも今ではアメリカの監視が怖くて、金にモノを言わせたヘッドハンティングもほぼ不可能だ。テロは隠れ蓑で、実際は開発者を消滅させることが目的だという可能性だってある」
「なるほどね……」
だが、そう言った黒崎自身が納得していない。
「だとしても、なぜ一度捕まって警戒されている久保田をターゲットに向かわせる?」
武市も同意する。
「それはそうだな……」
「しかも、移動用の車を用意できないのなら、おそらく単独で行動している。たった1人で大型のターゲットを狙うのは強引すぎる。そもそも、厳重な監視下にあったはずの久保田が、警察内で銃を奪えたこと自体がおかしい」
佐々木がうなずく。
「内部に協力者がいなければ、難しいだろうな。なのに、脱走してからは単独行動か……」
「久保田が末端の工作員なら、確実に口封じに殺されているだろう。殺されずに脱走できたこと自体が、かなり中心に近い重要人物だと証明している。だからこそ、私を誘導してマスコミ工作に利用する作戦を仕切っていたのだろう。その久保田が独自に行動を起こした、いや、起こさなければならなかったとすれば、警察内で何か重要な情報を掴んだか……」
「エコーが気付く前にテロの手がかりを消すためか⁉」
黒崎がニヤリと笑う。
「我々は案外、核心に肉薄しているのかもしれない」
黒崎はエコースマホを取った。警察庁に確認すべきだと判断したのだ。
「黒崎です」
スピーカーに副総監の声が出る。
『久保田の件だろう? 詳報を送っている』
「調べていただきたいことがあります。新横浜駅周辺で昨日、イレギュラーな事態はありませんでしたか? 事件、事故、なんでも構いません。近くにあるオフィスなどでの死亡事故や行方不明、あるいは機材の損壊なども重点的に調査してください」
『範囲は?』
「まずは半径2キロほどで」
『分かった。すでに港湾の警戒態勢は高めている』
「時間はあまりないと思います。港湾の警戒に力を注ぐよりは、そちらを優先してください」
と、本庄が言った。
「港湾警戒は国交省が受け持ちましょう。中国使節団のための警戒態勢が敷かれていますから、チェックを厳しくしても言い訳が立ちます」
マリアが付け足す。
「厚生省も麻取の捜査権限で警戒に当たります」
黒崎がニヤリと笑う。
「県警は駅周辺の捜査に集中させてください」
『了解した。君たち、なかなか面白いチームになりつつあるな』
2時間後、捜査の途中経過が郵便局員を介在させて玄関ポストに投函された。神奈川県警が集約した捜査過程が警察庁に報告され、そこから送られてきた情報だ。
ファイルには、新横浜周辺で起きた昨日からの〝警察事案〟が列挙されていた。その中で最も目を引いたのは、リサイクル工場に隣接した倉庫での火災だった。失火に伴って、小規模な爆発も起きたという。爆発が起きた区域は、耐用年数が過ぎて再生用に収集した消火器を集積する場所だった。
それを見た黒崎の中で、いくつかの証拠が結びついた。
赤い塗料。シールの裏紙――。
「消火器か……」
黒崎のつぶやきに佐々木が反応する。
「久保田の目的はこの工場か⁉」
「なぜ20年以上もサリンを保管できたのか……その方法がこれなのかもしれない」
「消火器に詰め込んで隠していた……?」
「専用の倉庫なら、腐食を防ぎながら保管もできたはずだ」
リサイクル工場は、半世紀近く前から営業していたと書かれていた。その間に新横浜駅周辺が開発されて住宅街が広がり、近年は工場移転の話も持ち上がっているという。つまり、かつて新興宗教教団が生産したサリンをそこに隠すことは可能だったということだ。
佐々木もうなずく。
「なるほど。消火器のタンクなら毒ガス溶液を密閉できる。温度や湿度を管理した倉庫の中であれば、容器の劣化を防ぎながら20年以上隠し続けることも可能だろう。しかし、新品としてどこかに置くなら、塗り替えたりシールや製造年月日の刻印を交換しなければ不自然だ。それ、可能性は高いぞ」
廃墟となった自動車工場では、消火器の塗り替えが行われていたらしい。その後に、新しいシールを貼ったのだろう。そして、裏紙をまとめて焼却処分した――。
だが、黒崎に新たな疑問が生まれる。
「再生工場が隣接しているのに、なぜ遠くの自動車工場で塗り替えを行なったんだ……? 塗り替えた消火器は、どこに運ばれた?」
「当然、テロの標的だろうな」
黒崎は再び副総監を呼び出した。
「我々が探していたのは倉庫の火災のようです。この事業主の背後関係を詳しく探ってください。できれば、極秘裏に」
『県警から追加の情報も入っている。爆発の影響で、もはや何本の消火器が保管されていたのか分からない状況になっている。そもそも記録も付けられていなかったようだ。周囲に血痕も残っていたので、今簡易DNA鑑定を進めているそうだ。データが出次第、こちらにもよこすように命じてある』
「サリンを消火器に入れて運んでいる可能性が出てきました。外観は新品同様になっているはずです」
副総監も何か思い当たることがあったようだ。
『それか……』
「はい?」
『リサイクル工場の備品保管所も火災になっている。消火器用の再生用品なども燃えたそうだ』
「完全に証拠の隠滅ですね。純正品のシール類が消えていないか、調べさせてください」
『久保田の仕業か?』
「間違いないでしょう。久保田は拘束中に我々が自動車工場に関心を向けたことを知り、証拠を消すために脱走したのでしょう」
『おい、それって……』
副総監は絶句した。
「内部に工作員が侵入しています。かなり広範囲に、そして高い地位まで。彼らが久保田の逃走も手助けをしています」
『なんてことだ……』そして、口調が変わる。『今、緊急の連絡が入った。すぐにこちらから連絡するので、待っていてくれ』
「はい」
いったん切られた電話は、5分後にかかってきた。
『君の予測は当たっていたようだ。神奈川県警から届いたDNAデータが、久保田と一致した。それから、科警研の報告だ。工場の壁の塗料痕は消火器を塗り直した痕跡と矛盾しない、とのことだ。サリンが持ち出されたのは確かなようだな』そしてわずかな雑音が入り、少し間が空く。誰かが副総監の部屋を訪ねてきたようだ。『――ちょっと待て、今、追加情報が入ってきた。県警が独自に倉庫の事業主の調査を進めていたが、その報告だ』
そして、素早くペーパーをめくる音が入る。
「背後関係の件でしょうか?」
『そうだ……。一見宗教団体や外国勢力とは関係がなさそうだったが、厳しく追求したら逆に助けを求められたそうだ。数十年前に激しい労働争議があったが、消火器の保管は組合を通じて依頼されたと証言した。県警の組対や警備部は、その組合は設立当初から北朝鮮系工作員の支配下にあると推定している。組合の手足となっていると目されている暴力団がバックで動いて、争議以来ずっと資金提供もさせられていたようだ。名目上は〝依頼〟や〝協力〟だったが、実際は家族が脅されて抵抗できなかったと泣きついてきたそうだ。その状況は今でも続いていて、爆発した倉庫の一角は、組合が指定した従業員以外は事業主でさえ入ることができなかったという。当然、その従業員は今、姿を消している。……どうやら、繋がったようだな』
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