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エコーには、怒涛のような情報が集まりつつあった。クルーズ船の設計図などいくつかの情報は記録媒体に収納されていたが、多くは紙媒体でもたらされた。
通信網にデジタル情報を乗せると、傍受される危険が高まるからだ。最悪の場合、エコーの所在地を掴まれて妨害を許しかねない。非効率的に見えても、アナログのやり取りはハッキングに強い。記録媒体を介してのウイルス侵入なども防げる。
エコーは実動訓練を兼ねて、〝敵〟を想定した臨戦態勢に入っていたのだ。
立ち上げて間もない組織がすぐに正体を暴かれるとは思えなかったが、組織内部からの情報流出を疑えば、対抗策は早めに打っておく必要がある。広範な情報を求めれば求めるほど、どこに潜んでいるかも分からない無数の工作員たちの目に止まることは避けられない。特にNSCの行動は〝潜入工作員〟の関心を引く。そこから誕生間もないエコーの実態が漏れれば、今後の活動の妨げにもなる。その情報によって計画を変更されたり、偽情報を送られたりすれば、テロを防ぐことが不可能になりかねない。
スタッフは不自由なネット環境に愚痴をこぼしながらも、各官庁から届けられた関連情報ファイルの検討を進めていた。
別班からの情報は、20人近くの詳細な身元調査だった。いずれも、戸籍偽造や背乗りによって日本に潜入した北朝鮮軍人だと疑われている人物だ。背乗りは、死亡した日本人の戸籍を乗っ取ることで身分を偽る行為だ。
日本海側の海岸線には恒常的に北朝鮮の不審船や工作船が漂着している。監視体制のない海岸が延々と続いている以上、工作員の侵入は防げない。彼らは上陸と同時に、日本国内の潜伏工作員たちに迎えられ、協力して日本社会に溶け込んでいく。数100名に及ぶ拉致被害者の多くも、彼らのような工作員によって選ばれ、攫われていったのだ。
韓国や中国からの観光客に混じって堂々と潜入する工作員も少なくない。中国人観光客が日本で〝行方不明〟になることは、もはやありふれた事態だ。
完全な調査には及ばないとしても、別班は可能な限り彼らをあぶり出し、北朝鮮内での背景も探り出していた。ファイルにあった軍人たちは、いずれも北朝鮮内に家族を残している。両親、嫁、そして子供がいる者ばかりだ。
つまり、朝鮮労働党委員長によって人質を取られているわけだ。工作員が命令に背けば、それは確実に一族郎党の公開処刑につながる。だから彼らは、自らの命も捨てることができる。捨てなければならない。
佐々木は暗い表情を隠せない。
「思ったより人数が多い。プロフェッショナルが捨て身で来れば、ガードが困難だ。厳しいな……」
黒崎がうなずく。
「確かに、傭兵よりも手強そうだ。しかし、この全員が今回の事件に参加していると?」
「それは分からない。警察情報と付き合わせないとな」
「同じファイルを警察庁副長官に持っていけるか? そっちから警視庁のデータとも付きあわせてもらう」
「手配する」
そして佐々木はすぐに自分のスマホを取った。
黒崎も手渡されたばかりのスマホを使ってみる。『警察庁』につなぐ。
相手はすぐに出た。
『黒崎君だね? 近くに人はいない。要件を話してくれて構わない』
特徴のある副長官の声だと分かる。佐々木の言葉を疑っていたわけではなかったが、正直、素早すぎる対応に驚いていた。
「はい。エコーに着任しました。自衛隊別班からそちらに要監視者のファイルが届けられます。公安データと付き合わせて、補強していただきたい。警視庁とのすり合わせもお願いします。特に、一連の高齢者連続殺人との接点がないかも重点的に調査していただきたい」
『分かった。公安部の方とも話はつけてある。で、ターゲットの目星はついたかね?』
「今のところは一般的なソフトターゲット、中でもドームコンサートを疑っています」
『ドームか……厄介だな……』
「傍証があってのことではないので、今しばらく分析に時間をください」
『頼りにしている』
「他にも、わずかながら天皇誕生日2日前に木更津の『ホテル満月』が襲撃される可能性があります。警視庁と千葉県警との連携の準備、化学テロへの対応策を検討しておいてください」
県境をまたぐ犯罪では警察の連携も軋みがちだ。その点はあらかじめ排除しておきたかったのだ。
『テロ対策訓練とでも言って手配する。中国からの使節団に国家主席が含まれることが決定したので、警備強化の理由にはちょうどいい。こちらからも捜査状況をまとめたファイルを届けさせた。間もなく着く頃だ。別便で警視庁情報も送るよう手配した。それと、科捜研からの要請がある。厚生省が分析したサリンの詳細なデータが欲しい。再鑑定に活用したいという。頼めるか?』
「了解しました」
『何かあれば、こちらからも連絡する。よろしく頼む』
「こちらこそ」
通話を切った黒崎は、マリアに声をかけた。
「マリア君。警視庁がそっちのサリン分析データを欲しがっている。出来るだけ詳しく――検査方法や使用機器も教えてやって欲しい。可能か?」
マリアがニヤリと笑う。
「これまでだったら、なんだかんだ言って渋ったかもね。縦割って、やたら縄張り意識が強いから」そして、専用スマホを掲げて微笑む。「〝エコーマター〟っていう魔法の呪文、ホント強力だから」
「助かる」
そしてマリアは通話を始めた。
ミサの声。
「またお客さんでーす!」
佐々木が片手を軽く上げる。
「分かった」
事務所に出た佐々木はすぐに戻った。10冊近くのファイルを抱えている。テーブルにファイルを並べる。
「警察からだ。死亡した老人たちの周辺情報、第一報だ」
黒崎は1つを取って開く――。
関浩文、71歳。
型通りの経歴の羅列の後に、近況が記されている。
死因はマンションの自室からの転落。一人暮らしで子供もいない。最近は近くの精神科への通院が頻繁で、うつ病による自殺が疑われる。かつては農業機械会社の開発者で、現役時代は中国を含めた東南アジア全域への出張もしていた。定年前にリーマンショックのあおりでリストラされ、その後は近所のパソコン教室で不定期の講師をしていた。国会前デモには3ヶ月前から通い始め、その後は通院の頻度も少なくなっていた。霊仙教団との関連は今のところ発見されていない――
孤独な老人の典型的な姿だともいえた。ファイルには、詳細な検死写真も添付されている。自室やその周辺、通っていた病院や出入りしていた飲食店や職場などの写真も数多く添えられている。
ファイルの最後まで、〝殺された〟という証拠は何一つ提示されていない。これだけを見れば、世をはかなんで死に魅せられたとしか判断しようがない。それでも、自殺者に対するとは思えない徹底した調査が行われている。
ここにも〝エコーマター〟の破壊力が表れていた。
たとえ『帝都大学出身の老人が倒閣デモに参加していた』という事実しかなくても、ここまで詳細な調査が行われるのだ。この資料を作成するためだけに、一体どれだけの数の人員が動かされたのか……。黒崎はエコーに与えらえれた権限の大きさに、襟を正す思いだった。
他のメンバーが受け取ったファイルにも、出身官庁からの詳細情報が記されている。
本庄の下には国交省からテロ準備を疑わせる事故や障害の情報が集約され、マリアには厚労省から各地の病院などの不審な患者の情報が集まっている。サリンによって死んだり負傷した者が他にもいる可能性はあるのだ。まだ財務省からの出向がいないために不正資金の流れの把握は完全とは言えなかったが、そこはNSCの圧力が効いて武市に情報が流れ始めていた。
しかしそれぞれの現場にとっては、何を探せばいいのかも分からない情報収集なので、内容のムラは激しい。単に『不審な状況はないか』と問いかけても、現場での感じ方にはばらつきがあり、一目で無関係だと判断できる事象がほとんどだ。逆に言えば、見逃しも多いはずなのだ。注意力や判断力は個人差が大きい。現場担当者が重要なサインを見逃していれば、事件の大きな構図を見誤る可能性もある。
それでも、サリンテロという危険を口に出せない以上、現状を受け入れるしかない。
全ての場所に自分が行けるのなら――。
黒崎はもどかしい思いを噛み締めながらも、赤ペンを取って気付いた箇所に書き込みを入れた。
精神科で処方されていた薬品は何か――
デモに参加し始めたきっかけは何か――
他の死亡者と、過去の繋がりはあるか――
現役時代の業務の詳細は何か――
思いつくままに書き込んでいく。
それが終わると、次のファイルに手を伸ばす。
このファイルは全員に回覧される。それぞれが気づいた点をチェックする決まりになっていたのだ。
全ての〝警視庁ファイル〟に赤ペンを入れた終えると、特に気になったいくつかの項目が黒崎の頭に残った。
ある者は現役時代、ホテルの管理に携わっていた。議題に上がった『ホテル満月』と直接の関係はないが、ホテル実務の裏側に通じていれば破壊活動の予備知識にはなりうる。また、顔見知りの納入業者などを通じて危険物を運び込むルートを確立できるかもしれない。
その他にも、海外資本のビルメンテナンス会社に雇われていた者もいる。企業や官庁を狙っているなら、その知識と経験は大いに役立つはずだ。
ある者は過去に農業経験があり、固定翼型のドローンの購入履歴が発見された。農作物の生育状況などを広範囲に観察するための用具だが、現役を退いた者が何に使うかは判然としない。手に入れたドローンがどこに行ったのかも、今のところ分かっていない。警察でも、テロ攻撃に利用される危険を考えてさらに調査を進めていると記されていた。
ただしこのドローンは高速飛行ができる反面、荷物を運ぶことができないことは製造元に確認してある。『薬剤や重量物を運ばせるなどの使い方は不可能だ』と書き添えられていた。
またある者は、倒産した工場の中で首を吊って死んでいた。自身が経営する自動車修理工場だが、近くにできたフランチャイズ店の低価格戦略に顧客を奪われた結果だった。家族も後継者もいない独り者だという。
黒崎の〝アンテナ〟を最も強く震わせたのは、この工場だった。
ファイルに特別な発見が記されていたわけではない。普通の工場が普通に倒産し、普通の〝自殺死体〟が出ただけだ。死体そのものにも、不審な点は見られなかったという。
もっとも、詳しい調査が入ったのは火葬された後なので、あくまでも自殺としてしか観察されていない。ファイルに添えられていた工場の写真も、綺麗に片付けられた後のもぬけの殻だ。工作機械類も負債整理に処分されたという。
それでも修理工場なら、テロに使用する機材を製作する技術も持っていたはずだ。轢き逃げに使用されたバンは色を塗り替えられた盗難車だったが、塗装作業も可能だろう。資金繰りに困窮していたのなら、多少〝危ない〟話にも食いつくかもしれない。騒音や異臭があっても不自然に思われることは少ない。
銃器の密造や爆発物の製造などを秘密裏に行うなら、これほど適した場所はない。色の塗り替えだけではなく、市販の車をテロ用に補強する改造も施せる。
何よりも黒崎の注意を引いたのは、工場内の清潔さだった。写真で見る限り、塵一つどころかホコリさえ積もっていないように見えた。あまりに完璧すぎる状態だ。
大型機材や再利用できる部材が債権者に奪われたのは理解できる。しかし後継者がいないというのに、自殺後1週間余りで工場が綺麗に片付けられたことは不可解だ。近くに建物のオーナーが住んでいるというが、古くからの地主でもあり、次の入居者探しを焦ってはいないという。むしろ、〝事故物件〟の悪評が消えるまで待って、安売りはしたくないというのが本音らしい。
他に疑念を誘う点はないのだが、それが逆に黒崎の関心を引いた。
黒崎の決断は早かった。佐々木にファイルを見せながら言う。
「この工場、自分で見てきたい」
佐々木はファイルを受け取って、中を読み始める。
「荻窪か……遠くはないが、自分で足を運ぶ必要があるか? 現地調査はエコーの領分ではないと言われてるんだが」
「これはエコーの初仕事で、失敗は許されないんだろう?」
「その通りだが」
「だったら、やり方は自分たちで作っていいんじゃないのか? 現場に行くなというのは、それこそ縦割りの悪弊だ。その場の匂いを嗅がなければ、見抜けない真実もある。机に縛り付けておきたいなら、はみ出し者は選ぶな」
「しかし、国を揺るがす大事件になりかねない。こんな些細なことにかかずらわっていては――」
「私は、勘を買われたそうだ。その勘が、行けと告げている。それができないなら、刑事がここにいる意味はない」
佐々木がニヤリと笑う。
「いかにもデカの言いそうなことだな。確かにエコーは自分でマニュアルを作っていかないとならない組織だ。行ってきてくれ」そしてメンバーに告げる。「誰か1人、クロさんに同行してくれ。これもエコーの実働検証になる」
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