ACT2・首都圏攻防戦
1
翌朝、黒崎は通常通りに署に出た。緊急に精密検査を受けたところ、肋骨には異常が見られなかったのだ。
とはいえ、胸にはまだ痛みが残っている。
黒崎はいきなり署長に呼び出された。
「急なことだが、久保田は退職することになった」
あまりにも普通すぎるその言葉に、黒崎は逆に驚きを覚えた。
「署長は理由をご存知ですか?」
「上の都合らしい。懲戒にしはしたくないので、自主退職という形を取るんだろう。今朝、副総監からいきなり言われただけだ。何が原因なのか、コンビを組んでいる君の方が分かっているのではないか?」
黒崎は署長の困惑を隠せない表情から、嘘は言っていないと確信した。さっそくエコーが事後処理に動いたとしか思えない。
「本人からの連絡は?」
「一切ない。しかも、一介の刑事に関して副総監から指示が下ることなど前代未聞だ。君たちは最近、2人で妙な動きを見せていたな。何か知っているのか?」
いかに国家権力を行使できるエコーといえども、テレビ局での騒乱自体は隠し通すことはできないだろう。すでに署長の耳にも入っていてもおかしくはない。
だが、黒崎たちとの結びつきは隠し通されているらしい。
「さあ。心中事件がらみの捜査は禁じられていましたから」
「分かった……。そこでだ、黒崎班は解散ということにする」
「私はどこかの班に編入されるのですか?」
「いや、これも副総監からの希望で、出向してもらうことになった」
「出向? どこに?」
「ここだ」
署長は住所と会社名が書かれたメモを黒崎の前に押し出した。
黒崎はメモを取って内容を見る。
「法律相談所……ですか? なぜ、私が?」
「副総監は、黒崎なら行けば分かると言っていた」そして、困り果てたように黒崎を見る。「一体君は、何者なんだ? 優れたキャリアだったことは分かっていたつもりだ。副総監とも個人的なつながりがあるのか?」
エコーは、黒崎の返答も待たずに行動に出たようだ。しかも副総監からの命令とあれば、逆らうことなど考えられない。
「警視庁の廊下ですれ違ったことはありましたが、言葉を交わしたのは挨拶程度です。桜田門では下っ端でしたから」
「だが、君の義父は警備局長だろう?」
「とうに離婚していますから、法的な関係はありません。経緯はご存知でしょう? それなのに、副総監に親しくして頂けるはずがないと思いますが?」
署長はため息をもらした。
「君から話を聞き出すのは無理そうだな。仕方ない、荷物はこちらでまとめておくから、夕方にでも取りに来てくれ。その住所にすぐに向かうように。あ、手帳はそのまま持っていたまえ。所属はあくまで、うちの署のままだから」
黒崎は、追い払われるようにして北署を出た。
指定された場所は、東中野にあった。
線路ぎわに建つ3階建の雑居ビルは、取り壊しを待つばかりの古さにしか見えない。外壁のモルタルにはわずかに苔が生え、ひび割れて所々剥げている。
黒崎は思わずメモを確認した。黒ずんで読み辛くなったプレートのビル名は正しい。指定されたのは、その3階だ。
背後を、中央線の騒音が通り過ぎていく。
そもそも、メモの住所を見た瞬間に違和感を覚えた。
黒崎を呼びつけたのは、国家安全保障局内の〝特命チーム〟のはずだ。だったら場所は、霞ヶ関の合同庁舎あたりが普通だろう。東中野という地名は、高級官僚が名刺に書き込むには〝場末〟にすぎる。
エコーとやらの〝秘密組織〟に呼ばれたことはまず間違いがない。だが、予想していた印象とはあまりにかけ離れている。まるで、いきなり離島の診療所に飛ばされた新人医師の気分だ。
黒崎の疑問は膨らむばかりだった。
ここに一体何があるか――?
エコーへの着任のために、何らかの準備や訓練をする場所なのだろうか――?
1階は営業をやめた何かの問屋らしく、シャッターが閉まっている。その横の、狭く薄暗い階段を登っていく。心なしか、空気も淀んで感じる。
薄っぺらに見えるアルミのドアには、古びてくすんだ小さな表札があるだけだ。『高梨法律相談所』と記されている。
黒崎は思わずため息をついて、ドアをノックした。返事もない。
もしや、場所が違うのか……そう疑いながらも、ドアを押してみる。鍵はかかっていない。
覚悟を決めて中に入ると、いきなり目の前を高いパーティションで塞がれた。しかし、パーティションからは新品らしい匂いが漂っている。ビル自体は古いが、内装には明らかに手が入れられている。
黒崎の表情に緊張感がにじむ。
それ以外にも、古ビルには似つかわしくない点があった。
壁の上部には、各種の通信系ケーブルがまとめて這わせてあり、明らかに最近工事した痕跡がある。壁の角には、巧妙に隠してはあるが、監視カメラも認められた。
黒崎の警戒感がさらに高まる。
部屋の奥に、人の気配を感じた。
通路は右側だ。そちらに向かって声をあげた。
「警視庁の黒崎です。こちらに来るように命じられましたが」
声だけが返ってくる。
「奥に入って! 待ってましたよ」
黒崎は奥へ進んだ。事務机が並んだ部屋に出る。そこに、中年の男が1人、立っていた。
穏やかな笑みをたたえた大男だ。はち切れんばかりのスーツが、筋肉質の体躯を物語っている。〝現場〟を熟知している人間だと一目で分かる。
黒崎は一瞬で室内の様子を観察していた。
事務机や壁際のロッカーには、明らかに長年使用した痕跡が残っていた。細かい傷や塗装の黄ばみだ。それなのに使用感が薄い。まるで、手入れのいい中古品屋からかき集めた什器のようだ。
6脚ほどの椅子も整然と机に押し込まれ、誰かが座ったという痕跡が感じられない。そして、どこにも作業途中のファイルなどが置かれていない。壁際のソファーも同様だ。
まるで芝居の書き割りのようだな――それが、黒崎の結論だった。
黒崎の前に出た男が握手を求める。
「佐々木誠司です。一応、この事務所の管理を任されています」
黒崎が佐々木の手を握り返しながら言った。
「黒崎ですが――」
「あなたのことは、皆、資料を見て知っています。よく来てくださいました」そして、黒崎の戸惑ったような表情まじまじと見つめる。「ですよね……私も、ここが事務所だって案内された時は信じられませんでした。危機に対応すべき組織が、地震一発で崩れそうなビルに入るなんてね」
「エコー……なんですよね?」
「その名称は、みだりに使わないようにお願いします。各省庁でも局長クラスには通達が回ってるはずですが、基本的には広めたくない名称らしいですから」
「それにしても、ここまで……。まるで、人目を避けているようじゃないですか」
「実際、そうなんです。まあ、いつポシャっても無かったことにできるように、こっそり始めてみたってところですかね。今はほんの仮住まい――っていうか、組織自体が立ち上げたばっかりで、ろくな決まり事もないもので、手探りの状態なんですよ。本格的な本部は、仕事の内容や人員が固まってから探そうってことらしいです。役に立つと証明できたら、の話ですけど。そもそも、拠点は状況によって移動する機動的な運用も考えられています。そのための専用航空機も検討されていますしね」そしてニヤリと笑う。「ぜひオスプレイを配備してくれって頼んでいるんですがね」
「霞ヶ関、とかには置かないんですか?」
佐々木が真顔になる。
「簡単な説明は聞いていると思いますが、何らかの理由で霞ヶ関一帯が機能を失った時こそ、我々の出番です。テロや地震、あるいは核攻撃さえも想定しろと命じられています。っていうか、想定できない事態まで想定しろっていう無理難題を押し付けられています。物理的に国家安全保障局にべったりくっついていたんじゃ、共倒れになりますから。それ、意味がないでしょう?」
黒崎の疑問は膨らむばかりだ。
「小塚さんの話では、もっとしっかりした国家安全保障会議直下の組織のようでしたが?」
佐々木が苦笑をもらす。
「あの人、ちょっと大げさだから。内容は間違っていないんですけど、マインドがお役人から抜け切れていなくて、自分の仕事を大きく見せたがる習性があるみたいで。仕事ぶりは的確で、間違いないんですけどね」
「彼もここにいらっしゃるんですか?」
「いいえ、小塚さんはリクルート担当ですから、常にあっちこっち移動しています。今は外務省と経産省、そしてなによりも財務省の主計局から人材を探しているとか。しかし、省益よりも国益を優先できる人材がなかなか見つからないって嘆いていました。民間のジャーナリストとかからも、引き抜きたい人材はいるそうです。様々な組織の中から使えそうな人材をピックアップしてくるのが仕事でね。その点では、眼力は確かですよ。ここにいる者は全員、彼に引っ張られてきましたから」
「全員?」
「立ち話もなんですから、みんなに紹介しましょう。こちらへ」
黒崎は『応接室』と記されたドアに案内された。
開けると、中で言い合う者たちの声が一気に溢れてくる。ドア自体も厚い鋼鉄製らしく、重々しい。明らかに、外見は安っぽく見えるように偽装されている。
中に入ると、印象が一気に変わった。壁は防音材で補強されているようで、真新しい。窓はないが、明るい照明にあふれている。
奥の壁には様々な電子機器が並び、ビルの外周を写しているらしい監視モニターが並んでいる。黒崎が上がってきたばかりのカビ臭い階段も映し出されている。
ここだけを見ればセキュリティー万全の高層ビルの管理室のようだ。
中央には大きな丸テーブルがあり、年齢も服装もまちまちの4人の男女が囲んでいる。その先に、大きなホワイトボードがあって文字がぎっしり書き込まれていた。
さらにモニター近くのパソコンに囲まれた一画に、1人の少女が背を向けて座っている。
丸テーブルの1人が黒崎に声をかけた。
夜の六本木にでもたむろしている遊び人のような青年だ。
「ここ、信じられなかったでしょう? 俺も、何十人ものプロが凌ぎを削ってるCTUみたいな場所だと思ってたから――。あ、俺、武市学です。内閣調査室からの出向です。昔からタケって呼ばれてました」
その人懐こさは、むしろ歌舞伎町のスカウトマンに近い。
横の男が茶化す。メガネをかけたインテリ風で、財務省で踏ん反り返っているようなタイプだ。
「タケさんはジャック・バウアーになれると思ってはしゃいでいたんでしょう? 僕は同じジャックなら、ライアンを選びますけどね」
武市より年上に見えるが、敬語が馴染んでいる。それが落ち着く性格らしい。
「ロシアの捕虜よりは大統領の方がいい、ってか?」
「当然でしょう? 国は守りたいけど、バウワーじゃ報われることがないもの。僕、マゾじゃないし」そして黒崎を見る。「本庄新一。こんなチームには場違いなようですけど、国交省の技術畑出身です。僕はシンイチで」
表情に暖かさと柔らかさがある。官庁の中の官庁と言われる財務官僚ではない分、市井の人生の機微に触れているといった印象だ。
さらに横の女が笑う。ダークスーツをぴったり着こなした、一流企業の社長秘書風だ。
「どっちもフィクションじゃない。比べる意味ってあるの?」
武市が身を乗り出す。
「だって、内調に入ったのは『24』ファンだったからだも」
「これだから、現場を知らないお坊ちゃんたちは……。わたしは大庭真里亞。厚生省からの出向です。麻取でしたけど、ちょっとやりすぎちゃったみたいで」そしてニヤリと笑う。「マリアって呼んでね」
本庄がつぶやく。
「有名どころの組長をボコったらしいっすよ、
大庭がつぶやく。
「マリアさんって呼べ!」
その横で少し距離を取っていた中年男がポツリとつぶやく。
「坂本一郎です。民間の商社にいました」
まるで、リストラを言い渡された直後の窓際社員並みに精彩を欠いていた。しかも民間から引き抜かれたとなると、黒崎にもその正体が全く予測できない。
と、パソコンの少女が振り返る。年齢は15歳程度に思えるが、それは秋葉原でよく見かけるアニメファンのような服装のせいかもしれない。
そもそも未成年が、こんな場所にいるはずがないのだから……。
「あたし、黛美里。ミサでいいよ。目標は、クロエ。あたしの方がずっと可愛いと思うけどね。黒崎さんって、刑事さんなんでしょう? モニターで見てたけど、戸惑い方がいかにも眼光鋭い刑事って感じ」
武市がからかうように笑う。
「いかにも刑事、ってなんだよ。ここって印象が違いすぎるから、誰だってああなるぞ。あ、このミサ、これでも凄腕ハッカーなんですよ。MITからの招聘を断っているらしいから」
ミサがふくれて見せる。
「らしい、ってなにさ! 嘘じゃないんだから! 3度、断ったんだからね。タケなんて、キョロキョロして玄関の前を4度も行ったり来たりしてたじゃない。内調のくせに、素人丸出し」
武市が苦笑する。
「仕方ないだろう、だって、このオンボロビルだぞ。そういうミサはどうだったんだよ。隊長にしか見られていないからって、嘘言うんじゃないぞ」
「ちゃんとここだって、すぐ分かったも」
「どうだか。MITの件も、相当盛ってるんじゃないか?」
「嘘じゃないもん!」
「だったら、なんでこんなボロビルで働く気になった?」
「アメリカなんか行ったらアニメも見づらいし、アキバにも通えないし。日本を離れたくないからに決まってるじゃん」
2人の掛け合いはこなれている。他のメンバーも穏やかな笑顔で見守っている。
年下のミサはグループのマスコット的な存在になっているようだった。
佐々木が加わる。
「まあまあ、じゃれ合いはそのぐらいで。ミサの経歴は本物だよ。小塚さんも説得するのに苦労したといっていた。最初は目立たないようにあえて古いビルを選んだが、ここのセキュリティーを固めるためにも、一番最初に来て欲しかったんだ」そして黒崎に向き直る。「私は自衛隊からの出向です。こんなはみ出し者ばっかりなんで、まとめるのに苦労しますがね。小塚さん、規格品じゃ例外事象には対処できないないだろう、って」
マリアが微笑みかける。
「隊長も相当規格外だって聞いたけど?」
本庄がうなずく。
「実戦経験、聞かせてくれるっていってたじゃないですか。待ってるんですよ。あ、〝隊長〟は佐々木さんの呼び名です」
「それは初案件が片付いてからだな。今はこっちが優先だ」
黒崎はその間にホワイトボードに書き込まれていた文字を眺めていた。
「次に何が起きるか、分析中でしたか」
佐々木がうなずく。
「サリン、ですからね。我々がいきなり国家の最重要案件の中心に引っ張り出されたわけです。エコーが何をすべきか、何ができるのか、試されます。生まれたての赤ん坊に走れって言ってるようなものですが、危機は待ってくれませんからね。どうぞ、座って仲間に入ってください」
ミサが言った。
「黒崎さん、なんて呼べばいいの?」
黒崎はかすかに悲しげな表情を見せる。
「クロさんと呼んでくれた仲間は、いた」
「じゃあ、クロさんで決定!」
黒崎たちが席に着くと、スイッチを切り替えたのようにいきなり会議が開始された。
マリアが口火を切る。
「他に考えられる襲撃先はない?」
誰に指示されるでもなく、坂本がホワイトボードに向かって書き込みの準備をする。口数が少ない。民間からの参加で、居場所が見つけにくいのかもしれない。
本庄がホワイトボードを見つめる。
「大方、出尽くしたような気がするけど……」
黒崎は、ホワイトボードに書き殴られた文字を解読していく。
地下鉄、空港、コンサート会場、ショッピングモールなどなど、多くは閉鎖可能な空間だ。サリンでテロを企んでいる組織があるとすれば、当然それらが狙いになるだろう。特定の標的を定めていないテロなら、監視が緩いソフトターゲットを選ぶ。
問題は、保有しているサリンの量だ。それによって、どのサイズの標的が攻撃できるかが変わってくる。
黒崎は空いている席にかけながら言った。
「質問をしても?」
佐々木が微笑む。
「ブレストですから、ご自由に。事件に関わることなら論点が移っても構いません。私が最終的に集約しますから。ただ、今の段階では他のメンバーの発言はなるべく否定しないでください。自由な発想を妨げますので。それに、ここからは敬語は止しましょう。お客様ではないのでね。私たちもそうします」
黒崎もうなずく。
「分かった。で、首謀者はタウ教会と考えているのか?」
黒崎は、現時点でのブレーンストーミングの条件設定を知りたかったのだ。
地下鉄サリンテロを起こした霊仙教団は解体されたが、いくつかの分派が生き残っていた。中でも死刑囚となった教祖を崇め続けるタウ教会は、いまだに公安の監視対象だ。一連の逮捕者の死刑が一斉に執行された2月には、毎年、特に監視が厳しくなる。
武市が真顔で答える。
「特定はしていない。タウが前面に出たとしても、背後で他国の情報機関が操っている可能性は多分にあるので」
「他国の情報機関まで検討に含むのか……」
「霊仙教団自身が、そもそもそういう性格を持っていたからね」
「公安からの情報は?」
「タウの幹部が接触している対象に、今のところ不審な点は報告されていないけど」
黒崎が考え込む。
「確かに、常時監視下にある彼らでは連続殺人を実行するのは困難だよな……」
マリアが言った。
「霊仙教団にはロシアや北朝鮮の関与が確認されてたんでしょう? その後継団体も同様だと考えるべきよね。原油安と軍拡競争で資金難のロシアはともかく、北朝鮮ルートには中国も深く関与しているんだから」
「想定する主敵は中国、ってことかな?」
「早合点は禁物だけど、根本で関わってる気がする。でも、そんな気がするってだけで、固執してはいないから。老人の連続殺人とサリンとの関係もまだ確定していないんだし、心中事件が連続殺人と無関係だったとしたら判断が狂っちゃうものね」
黒崎がうなずく。
「誰かが連続殺人を犯している……。それとは全く別に、テロ組織がサリンで死んだ死体を隠すために〝偽装心中事件〟を一連の殺人の中に紛れ込ませた、か……?」
「それも可能性の1つでしょう?」
「だが、偽装心中の被害者2人は連続殺人の他の被害者と深く繋がっている。偶然と呼べる状況ではなさそうだな」
「ま、そういうこと」
「連続殺人の目的は、マスコミを煽って政権攻撃をさせることだった。私は内部告発を期待され、一種の広告塔にされかけた。その一件の背後には中国の資金が流れ込んでいると、私も疑っている」
武市が言った。
「プラス、北朝鮮と韓国。この3国は今や完全に連携してるよね。まあ、戦後からずっとと言えば、言えるんだけど」
「しかし、そこにサリンの死者を紛れ込ませる意味とは?」
「俺たちは、ある意味での〝予告〟だと判断したけど」
「予告、か……。確かに殺すことだけが目的なら、わざわざ心中に見せかける意味は少ない。他の被害者は、すべて事故か自殺だったからね。私は現場を見た印象から、サリンに触れて事故死した男を隠すために心中を偽装したんだと感じていた。しかしそれでは、サリンが存在する物的証拠を警察に渡すことになる。サリンを隠したいなら、死体を海にでも沈めた方がはるかに安全だ。つまり、サリンが存在していることを知られても構わない……むしろ積極的に教えたがっていると考えないとつじつまが合わなくなる」
本庄が言った。
「僕たちの仮説も同じ。〝挑戦状〟みたいなものですかね」本庄にとっては、やはりフランクな物言いはかえって落ち着かないようだ。「そもそも、警察が気がつくかどうかも知りたかったんでしょう。科捜研の分析能力とかもね。ちなみに、よく神社に油を撒かれたり、地下鉄の通路にウンコがばらまかれたりするじゃないですか、僕はあれも一種のテロ準備だと思ってます。警察の動きも調べられるし、何度も振り回されているとだんだん慣れが出て、隙が生まれますから」
ミサが言った。
「大量殺人予告っていうのもよくあるよね。大体は愉快犯だろうけど、テロを計画している連中にとっては情報収集には最適だも。そもそも、沖縄のスクランブルとか領海侵犯だって、そうだし。自衛隊の人、くたくたみたいじゃん」
本庄がうなずく。
「すべてが関連している確証はありませんが、可能性としては疑っておかないとね。しかし、挑戦状だとすると、また意味が分からなくなります。テロを企んでいるなら、予兆を悟らせないように細心の注意をはらうのが定石でしょう?」
黒崎が言った。
「君たちもそう考えているんだろうが、多分連続殺人の犠牲者たちはテロ計画に利用されていた。それとは知らないまま下準備のために働かされ、処分されていった……単に政権批判のために犠牲にされたと考えるより、証拠隠滅の方が論理的だからね。それが政権攻撃にも利用できるので、いわばついでに私を使ってマスコミに世論操作をさせようとしたのだろう」
佐々木が加わる。
「その線を重点的に調査してもらっている。死んだ老人たちの過去、特に最近携わっていた仕事や交友関係を徹底的に洗い出すように手配した。改めて自宅や職場の家宅捜索も進めている。そろそろ詳細なデータが上がってくる頃だ」
黒崎が気づく。
「必要以上に入念に調べていることを相手に察知されたら、警戒させるのでは?」
「残念だが、調査を開始した以上、もはや情報の漏れは完璧には防げない。高級官僚や政治家はもちろん、末端の役人や民間にも工作員は入り込んでいるからね。サリンの死体が挑戦状だとするなら、乗ってやる方が敵の動きも把握しやすくなる。何より、極秘裏に調査している時間の余裕はないと判断した」
黒崎もそこは同感だった。
「サリンの保有を誇示しているとするなら、テロ計画の実行はそう先ではないな……」
「おそらくは今月中。私たちはその前提で動いている」
「妥当だな。しかし……」
「疑問があるなら、どうぞ。現場の警官の意見は貴重だから」
黒崎は思い切って口にした。
「ずっと違和感を感じているんだ。サリンの被害者をわざわざ警察の目に晒したことといい、マスコミを通じて騒ぎを大きくしようとしたことといい……ことさらに注目を集めるようなことをテロリストがするか? 犯行声明ならともかく、挑戦状なんていうのにどんな意味があるんだろうか……?」
「だからこそ、それが重要なんだと思う。単に数100人を殺せれば構わないという無差別テロとは違うんだろう。相手がサリンを使って何を企んでいるかまだ予測できないが、必ず意味はあるはずだ」
「真意は未だ不明、か……」
「残念ながら」
「で、サリンは霊仙教団が密造したものと確定できたのか?」
マリアがうなずく。
「厚生省を通じた鑑定でも、不純物の成分や割合が一致。99パーセント、間違いないでしょうね」
「だとすると、20年以上も密かに保管されていたわけか……。サリンは、それほど長期間保存できるんだろうか?」
「条件次第だけど、不可能じゃない。熱にも水分にも弱くて分解しやすいから、きちんと管理された倉庫みたいな場所じゃないと難しいけど」
「そんな場所がずっと確保できていたということか。教団の生き残りが関係していると考えるべきなのか……?」
「教団が活動していた時期に、資金源に横流ししていた可能性もあるけどね。例えば、北朝鮮の〝秘密工作組織〟とか。つまり、他国の工作機関が日本国内に所有している危険は高いってわけ」
「やはり、量は分からないか?」
「今のところ手がかりなし」
「それによって、起こせるテロが変わるんだがな……」
佐々木が言った。
「我々としては、大量に持っているという前提で対処するしかない。で、クロさんがテロリストだったら何を企む?」
黒崎はしばらく考え込んでから。ゆっくりと言った。
「特定の個人――例えば総理の暗殺とかを企んでいるなら、毒ガスは不向きだな」
ミサが突っ込む。
「金正男はVXで殺されたよ」
「あれは、本人が警護されていなかったからだ。日本で暗殺の対象になる人物には、だいたいSPが付いている。サリンで殺すほど接近するのは難しいだろう。しかも、予告までしたら余計に警備が硬くなる。ライフルとかでの遠距離射撃の方が、現実的だろうな」
「なるほどね……」
「やはり大量殺人を計画しているはずだ。連続殺人を政権批判に利用しようとしたことから考えれば、目的は政府の転覆。そもそも霊仙教団がサリンを合成した目的がそれだったんだからね。実行組織はともかく、北朝鮮が背後にいるとしても単独で計画したとは考えにくい。おそらくは中国が黒幕なんだろうが……経済で行き詰まっている彼らが日本への攻撃で何を得るか……」
「再び親中政権が誕生すれば、経済支援も期待できるのでは?」
「逆に関与が暴かれるようなことがあれば、世界中から袋叩きに合う。ただでさえ、一帯一路とかのアコギなやり方を非難されているんだからな。あ……万が一にもそうならないように、教団の犯行に偽装する気か……。それなら、サリンで死んだ男をわざわざ見せつけた理由も分かる。20年以上も隠していたサリンをここで持ち出してきたのも、その偽装が何よりも重要だからだってことだな」
佐々木も同じ意見のようだった。
「だとすると、実行犯も教団関係者、あるいは過去に帰依していた者に限定されてくるはずだな」
ブレストの流れは、いつの間にか黒崎の意見を聞く場に変わっていた。
「実行にプロが加わったとしても、傭兵的なものになるだろう。自衛隊のリタイアか、ブラックウォーター崩れか……。その程度なら、おそらくハードターゲットには手を出せない」
「警備が厳重な総理や閣僚たちは標的から除外して考えていいようだな」
「しかし、教団のテロに人員を割かれている隙に、重要人物を狙うという恐れはある。サリンを陽動作戦に使うということだ。警戒は決して緩めてはいけない」
武市が言った。
「確かに、警察庁長官が銃撃された例もあるからね」
黒崎がうなずく。
「あの事件は霊仙教団や北朝鮮が絡んでいるとも言われたが、結局は迷宮入りだった。それだけに、警備態勢も大きく変わった。今では近距離の銃撃は難しいだろうし、ましてサリンで、とは考えにくい。注意は喚起すべきだがね」
本庄が加わる。
「だとすると、狙いはやはりソフトターゲットですね。教団関係者が主体になってサリンによる無差別大量殺人を起こし、その責任を問う形で政府を揺さぶり、政権交代を目指す――ってシナリオですか」
「最も狙われる可能性があるのは――」黒崎の視線がホワイトボードに向かう。「下の方に書いてあるドームコンサートかもしれない」
「K―POPですか……?」
「万一そこが狙われれば、韓国も国を挙げて激しい非難をしてくるだろう。このところ、一触即発の緊張関係が続いているからな。在日韓国人が日本中で暴動を起こす恐れもある。私は日常的に彼らのコミュニティを観察しているが、いったん火がつくと止められない集団だ。しかも日本の〝狂信者〟が攻撃してきたとなれば、韓国も国際問題にしやすい。日本を分裂させて弱めるためには効果的なポイントだろう。日本側の若年層が政府批判に回る可能性も増す。南北をさらに近づける作用もあるだろうし、その背後にいる中国が日本に無言の圧力をかける材料にもなる。むろん、サリンが使用されると仮定して、だが」
「教祖の死刑が執行されたのも2月ですが? 教団関係者にとっては重要な日でしょう?」
「だからといって、どこを狙う?」
佐々木が言った。
「死刑を執行した大臣や、法務省そのものを襲うとか?」
「その場合でも陽動作戦は行われるだろうな。しかも、多くの犠牲者が出るのは陽動の方だ。防がないわけにはいかない」
マリアが言った。
「意外よね。私たちはそこまでの政治的効果は考えなかったのに……」
「なにより、ドーム球場ならサリンの特性が充分に生かせる。収容人数が万単位だ。荷物検査だって厳しくは行えない。しかもコンサート中なら、テロリストの動きも物音も簡単に隠せる。出入り口も少ないから、たとえ保有している量が少なくてもパニックで死者を増大させられる。ターゲットがドームなら、想像を絶する事態になるだろうな……」
マリアの表情が暗くなる。そこまでの想像は働いていないようだった。
「防ぐにはどうしたら?」
「陽動作戦には教団関係者しか使わないはずだ。基本的に素人と考えていい。あらかじめ怪しい人物をピックアップして、徹底的に監視する。そして、決行直前に一斉逮捕だろうな。絶対にドーム内に入れてはならない」
佐々木が言う。
「そのほかのターゲットの可能性は?」
「効果を考えれば狙いは首都圏に絞られるだろう。ディズニーランドなどの遊園地はオープンスペースが多いからガスでは狙いにくい。むしろ映画館などの方が危険だな。地下鉄、新幹線、空港、ショッピングモール――これらの場所は常にターゲットにされる。それだけに、範囲が広すぎて絞り込むことは難しい。可能な限り通常の警備を強化する以外にないだろう。死んだ老人たちの調査で何らかの手がかりが掴めれば絞り込みもできるかもしれないがね。ただし、明日のバレンタインデーは、特にモールの警備を厚くすべきだろう。ただ……」
佐々木が黒崎の表情を伺う。
「何か納得できないことが?」
「不特定多数を襲えればいいだけなら、プロでさえ扱いが難しいサリンを武器として選ぶだろうか……? もっと簡単な方法はいくらでもあるだろう」
「サリンを使えば教団の責任にできるし、世界的な注目も集められるということなんだろう?」
黒崎は表情が曇ったままだ。
「だとすれば、ターゲットには教団に狙われる必然性がなければ偽装が意味をなさない。他には、大型客船か……。これ、白板に挙げたのには何か特別な理由があるのか?」
本庄が答える。
「今のところ公表されていませんが、中国高官の使節団を乗せて『じゃぱん丸』で東京湾内の港湾を巡回するイベントが組まれているんです。日本のクルーズ船のアピールと、中国船の寄港誘致を兼ねています。ここに、国家主席が同席するのではないかと言われているもんで」
「ああ、経団連が招待したことは報道されていたね。天皇誕生日のレセプションにも招待するとか……」
ミサが割り込む。
「あたし、やっぱりレセプションが一番狙われやすいと思う!」
その言葉には、思い詰めたような雰囲気があった。黒崎が来る前から、ブレスト中にそれを主張していたようだ。
黒崎が少し考える。
「例えば、交戦中の国が皇室を狙うことはあり得るが……。だが、今の中国は日本からの資金援助をこれまで以上に必要としている。一歩間違って正体を暴かれれば国交断絶どころか戦争状態だ。その危険までは犯せないだろう。しかも中国国家主席が同席するとなると、レセプションの警備は半端じゃないだろう。自爆覚悟でなければ手を出せない。一般参賀も狙いにくいだろうな。オープンスペースだからガスは効きづらいし、皇族は防弾ガラス越しの宮殿内だ。まさか、室内を直接狙うとも思えない。仮にそこまで企んでいるなら、それこそ予告などという馬鹿げたことはしないだろう」
ミサは即座に納得する。
「あ、なるほどね……」
武市が小さく吹き出す。
「あれ、さっきから妙に素直じゃないか」
「だって、説得力あるもん」
「それは否定できない。さすがポリスマン」
黒崎の表情は緩まない。
「警告はしておくべきだな。それより、客船の方が気になる」
佐々木が言った。
「だが、計画の背後に中国資金がある可能性は高い。自国の首脳を危険に晒すなど、ありえないんじゃないか?」
「それが起きるのが中国だ。彼らに国家意識は薄い。彼らにとっての共同体は、血族や同じ方言を話す同族でしかない。だから、支配者層の中でも派閥争いが激しいし、王位の簒奪など茶飯事だ。今の国家主席はかつての幹部の子弟で構成される太子党に属する。その地位を固めるために、敵対派閥の団派――共産主義青年団の系統を力技で弾圧して、〝現代の皇帝〟の地位を奪い取った。軍部の改変も急激だった。しかしアメリカの反撃が功を奏して、その勢力が再び拮抗した。今でも退役軍人のデモは抑えきれていないという。仮にバックにいるのが団派なら、首席を追い落とすことは主目的のひとつになる。日本の警備体制の不備で国家首席が死亡することにでもなれば、団派が実権を握った上で日本を非難して経済協力を引き出すことも可能だ。奇跡の大逆転、だな。考えたくもないが、それを望む日本の政治家が多いことも確かだろう」
その間にアイパッドで資料を調べていた本庄が、声を上げる。
「あ、元法務大臣がクルーズイベントに参加します! 教祖の死刑執行に判を押した女性ですよ!」
黒崎が言った。
「それならば、偽装は充分に成立する」
佐々木が感心したようにうなずく。
「あれこれ議論していたことが、スッキリ片付いたみたいだな。クロさんに来てもらったのは正解だ。シンイチ、交通規制関係の把握をよろしく。それと、東京ドームと『じゃぱん丸』の構造が詳細に分かる設計図を調達するように動いてみてくれ。NSCが注目していることは悟られないように」
武市が関心したように黒崎を見ながら、うなずく。言葉遣いも、自然に丁寧に変わっていた。
「中国のことがそこまで分かってるのって、心強いです! こっちでも、NSCに伝えます。警察の警備体制の詳細もクロさんに伝わるように手配します」
黒崎にとっては当然の見方だったようだ。
「職業柄、彼らのコミュニティーに入っていくことも多かったんでね」そして付け足す。「監視対象を1つ、加えていいだろうか」
佐々木の目の色が変わる。
「何か気になることが?」
「天皇誕生日がらみのイベントで、狙われそうなネット放送がある」
「あ!」声をあげたのは武市だ。「『霞ヶ関ニュース』! 生放送イベントで出演者が集まる!」
『霞ヶ関ニュース』は、保守的言論人が交代でニュース解説を務める2時間生番組だ。月曜から金曜までの午前中、地上波テレビとは全く異なる視点と情報でその真相を紹介している。そこに登場する論客の多くは、保守層の理論的支柱としてインターネットを中心に人気を集めていた。彼らが国論を動かす力を持ち始めていることは誰もが認めている。
だからこそ彼らは、いわゆる進歩的文化人やマスコミにとっては〝天敵〟のような存在だ。戦後に形成された〝常識〟を破壊する最大の〝脅威〟でもある。
その『霞ヶ関ニュース』が年に数回行うイベントとして、解説者の多くを集めて、ゴールデンタイムと翌朝に〝合宿生放送〟を行う予定になっていた。今年は木更津の『ホテル満月』で行われる予定だと広報されている。
黒崎がうなずく。
「あの論客陣が一斉に消えれば、既得権を手放したくない者たちには好都合だろう。中国や韓国にとっても厄介な論敵が消滅する。それを行なったのが狂信者たちだとなれば、堂々と犯行を非難することもできる。自分たちを正義の側に置きながら、邪魔者を排除できるというわけだ」
佐々木が息を呑んでから、つぶやく。
「それがあったか……」
マリアが疑問を挟む。
「でも、タウがあの番組を狙うっていう理屈は付けられるの?」
黒崎は言った。
「あの論客たちは全員、教祖たちの死刑を強く訴えていたからね。しかも死刑反対論者に対しては、厳しい反対意見を唱えている」
「それなら、偽装が成立するね……」
と、ミサが声をあげた。
「隊長! 下にお客さん。尾行はないよ」
モニターの1つに、玄関に近づく背広姿の男が映っていた。手に、書類鞄を抱えている。
佐々木が席を立つ。
「隊の者だよ。別班だ」
黒崎が驚いたようにつぶやく。
「そこまでの案件に?」
自衛隊の別班は、正式には『防衛省陸上幕僚部運用支援・情報部別班』と呼ばれる組織だ。自衛隊内でも最も秘密に包まれた情報収集機関だと言われる。北朝鮮国内にスパイを送り込んでいると噂されたこともある。
「エコーに託された時点で、最重要なんだ。特に今回は、密度が高い東アジア情報が必要になってくる。だろう?」そして佐々木は黒崎にスマホを差し出した。「これを常時携帯してほしい。クロさん専用にチューンしてある」
受け取ったスマホは頑丈そうなケースに入っていた。
黒崎は真っ黒な画面を見ながらボタンに指を当ててみる。すぐに指紋認証が行われて起動したことに驚いた。
佐々木がうなずく。
「指紋も虹彩データも登録してある。同時に認証しないと起動しない設定だ」
黒崎も身元調査が密かに行われていることは覚悟していたが、そこまでとは思っていなかった。『連絡先』を表示してみる。エコーメンバーが登録されていた。他には、『警視庁』と『警察庁』と記された2件だけだ。
「110番につながるのか?」
「副長官と副総監に直通だよ。端末は自衛隊仕様だし、考えるうる限り厳密な傍受防止策を取った専用回線を使っている。むろん、中国製の機器は一切介在させていない。そして、この端末からの要求は最優先で処理される規定になっている。当然、使用を許されるのはエコー案件に関してだけだ」
「私が副長官に指示できるのか?」
「エコーが命令するんだ」
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