案内された狭い会議室には、1人の中年男が待っていた。質素な折りたたみテーブルの向こうに腰掛けている。

 黒崎を部屋に入れた電気作業員は、スーツ姿の男に頭を下げただけで去って行った。

 男が命じる。

「ドアに鍵をかけて、座ってください」

 黒崎は華奢なパイプ椅子に腰掛けると、男に言った。

「尋問か?」

「とんでもない。お礼を申し上げたいだけです。ご協力に感謝します」

「ってことは……自己紹介は必要ないのか?」

「あなた自身より、あなたのことを知っているかもしれません」

「なぜ?」

 テーブルの上にはノートパソコンが置いてあるだけだ。男はパソコンを回して、黒崎に画面が見えるようにした。4分割された画面には、作業員たちに連行されてどこかの部屋に入っていく久保田たちの姿が映っていた。作業員に小型カメラがつけられ、その映像がリアルタイムで送られているようだ。

「情報収集が専門なもので」

「どの役所だ?」

「私自身は民間人ですよ。今は、ですけど。役所に所属していると、都合が悪いこともありますのでね」

「私の一部始終を監視していたわけか?」

「必要以上にはプライバシーに踏み込んでいませんから、ご心配なく。しかし、あなたのことを熟知している人間は私だけではありませんよ。少なくとも、あなたの身近にもう1人」

 黒崎はうんざりしたようなため息をもらす。

「久保田だな」

「我々が最初に関心を持ったのは、実はあなたではなく、久保田の方だったんです」

「久保田を監視していたら、私が勝手に視界に飛び込んできた、と?」

「とんでもない。そもそも久保田が北署勤務になったのは、あなたに接近するためだったと断定されています。彼が関心を寄せる対象は、我々にとっても重要な人物なのです」

 黒崎がわずかに眉間にしわを寄せる。

「なぜ、久保田は私を?」

「利用できれば極めて有益な人材だから、でしょうね」

「何に利用するというんだ? たかが、所轄の刑事だぞ」

「それは先ほど、あなた自身が体感したはずです。マスコミを通じての世論誘導に、正義を貫いて降格されたキャリアは最もふさわしい。しかも離婚したとはいえ、現在の警察庁警備局長の親族でもあった。情報源としても、大きな期待が持てます」

 植草の性急な誘いの裏には、そんな意図があったのだ。激変する状況に違和感を覚えていなければ、取り込まれていた危険はある。

 黒崎はまたかすかなため息をもらした。

「で、久保田は何者なんだ?」

「他国の潜入工作員、とだけ言っておきましょうか」

「どこの国だ?」

「中国、北朝鮮、ロシア、あるいは韓国、もしくは、そのいずれでもないどこか、あるいは誰か……」

「何でもありかよ……」

「我々にも世界の全てが理解できているわけではありません。ただ1つ、確実なことはあります。どんな国家であれ、常に脅威にさらされているということです。当然、日本もです」

「何も分かっていないなら、なぜ久保田を監視していた?」

「北朝鮮の潜入工作員であることは判明していました。ただ、その背後関係の全てが明らかになってはいないということです。北朝鮮のために働いているように見せながら、実際は中国に情報を送っていることも考えられます。表面上は友好国であっても、内実では利権を奪い合うことなどは日常茶飯事ですから」

 黒崎がため息を繰り返す。

「久保田は国籍を偽っていたのか?」

「いいえ、遺伝子的にも文化的にも生粋の日本人です。少なくとも、我々が調べた限りでは。それが、この問題の一番厄介な点でね。ある種の人間は、他愛なく〝彼ら〟に取り込まれてしまうんです」

「久保田が私に近づいてきたのは北朝鮮からの命令か?」

「おそらくそうでしょう。潜入工作員の最も重要な役割は、協力者の獲得ですから。政界、財界、官界の中でもなるべく高位の実力者を仲間に引き入れることが使命です。そのためにはマネートラップ、ハニートラップなどお構いなしです。一度罠に手を出した者は、次はそれを材料に脅迫されます。このテレビ局の中にも、彼らの協力者は無数に巣食っているでしょう。マスコミ関係には外国人採用枠があると公然とささやかれていますからね。いつの日か来るであろう一斉蜂起の準備だと言う者もいますが、マスコミを通じて国民の警戒心を奪ってしまえば蜂起する必要すらないかもしれません」

「公安を攻撃して情報収集能力を削ぐために、私を利用しようとしたわけだな?」

「その通りです。最も有益な工作員は、正義感から組織を否定できる人物ですからね。いわゆる、〝善意の熱心家〟、あるいは〝騙されやすい人々〟、英語圏では〝デュープス〟とも呼ばれるタイプの者です。スパイに操られていることを全く自覚せずに、心の底から正義だと信じて自発的に内部告発を行う〝工作員〟――そんな存在は、世論を操作する武器としての破壊力が絶大ですから」

 黒崎が歪んだ笑みを浮かべる。

「立場を省みずに組織の暗部を暴こうとした私は、産まれついてのお調子者だと見抜かれていたんだな。猿芝居に騙されていたら、国への反逆者にされていたところだ」

「いずれあなたが役に立つだろうと目をつけた工作機関は、将来を見越して久保田を北署に送り込んだのでしょう」

「それができたということは、警察の内部も相当食い荒らされているってことだな」

「彼らは豊富な資金を誇っていますからね。衰えたとはいえ、パチンコマネーは今だに力を持っています。北朝鮮の経済はどん底ですが、委員長や工作機関は核やミサイル技術を中東やパキスタンなどに売って資金を得ています。武器のブラックマーケットでは引っ張りだこですよ。中国の政治工作資金はジャパン・ディスカウントだけで年間およそ1兆円ともささやかれています。韓国はすでにレッド・チーム入りで、中国の手先となって働いています。慰安婦、南京、徴用工、旭日旗、靖国――どの問題も、日本の地位を貶めるために焚きつけられている政治活動と言っていい。しかも明らかに北朝鮮との統一を模索しています。それは、韓国が計画しているミサイル原潜に北朝鮮の核が乗るということを意味します。日本海に遊弋して日本を脅かす、あるいは攻撃できる体制を取るということです。日本海の名称を変えようと必死なのは、自国の海域なのだと強弁したいからでしょう。そうなれば、日本海のEEZは統一朝鮮のものになりかねません」

 黒崎がうめく。

「かつてのロケット実験や哨戒機へのレーダー照射は、その始まりだったのか……」

「韓国にとって日本は、すでに敵国となっています。しかも長年続いた彼らの洗脳によって、むしろ日本人が積極的に自虐史観を広めています。その傾向を加速して日本を弱体化するには、あなたのような〝硬骨漢〟からの告発が決め手になるのです」

「やっかいな連中に見染められたものだ。だが、だったらそいつらは、何年も前から公安を嵌める計画を練っていたのか?」

「そうではないと思います。久保田は時間をかけてあなたを誘導できる立場を得た。いわば、米軍のトマホークにも匹敵する武器を手に入れたわけです。その貴重な武器をどこでどう使うかは、未定だったはずです。そこに今回の作戦が開始され、最もふさわしい〝駒〟としてあなたが選ばれたのでしょう」

「だが、久保田がスパイだったなら、なぜ私が公安を告発しようとしたのを止める? 目的は植草と同じだろう? テレビに出させるのが狙いだっただろうに。私が最初から植草を裏切るつもりだったことは分からなかったはずだが?」

「内部告発者をテレビ局内で射殺すれば大騒ぎになります。生放送での告発程度なら誤魔化せても、人命が失われれば炎上は避けられないでしょう。しかも暗殺犯の久保田は正式な警官です。公安が事実隠蔽のためにあなたを排除したと疑われれば、日本中が警察や政府を非難します。特に植草は、目前で情報提供者を殺されたら黙ってないでしょう。国民の多くは彼の言動に信頼を置いているようですから、その破壊力は絶大です。〝偽旗作戦〟ってやつですよ」

「にせはた?」

「偽装工作の一種です。例えば、リベラルなデモを偽右翼に攻撃させて『言論封殺だ』と主張するような、自作自演の情報操作のことです。その繰り返しによって日本では――いや、世界中にポリティカル・コレクトネスという魔物がはびこって、日常会話すら息苦しいものになっています。今回も公安の連続殺人を偽装し、それを自然な形で告発させる計画だったのでしょう。その作戦にぴったり嵌まったのが、あなたです。とどめの一手になるはずだったわけです」

「的外れだったがな」

「連中、駒がルールを変えるとは思いもしなかったんでしょうね」

 黒崎が、虚空に目をやる。

「私は、最初から殺される予定だったわけか……。だが、久保田は私を殺してからどうする気だったんだろう……? テレビ局の中で実弾を撃つだなんて、自殺も同然だろうに……」

「もちろん脱出を図ったでしょう。局員や警備員が相手なら、訓練を積んだ工作員にとっては障害にもなりません。協力者も多いですしね。まさか、自衛隊員が警備していたとは思わなかったわけです。で、身元を知られずに逃げおおせればそれでよし。万一殺されるか身分を暴かれるかすれば、現役警官が〝公安犯罪の暴露〟の阻止に動いたということで、それ自体が公安が手を回した〝陰謀〟の証拠にできる。そんな筋書きでしょうね」

「死を覚悟してまで命令に従った、と?」

「従わなければ家族や知り合いまで殺す、とでも脅されたに違いありません。自殺まで図ったんですからね。証拠の処分法としても極めて有効です。一度取り込まれると深みに嵌る一方で、逆はあり得ないんですよ。何1000年もかけて磨き上げてきた、大陸文化圏の伝統戦術です」

「だが、そこまで分かっていながら、なぜ君たちはあんな目立つ場所で久保田を捕らえた? 君の言い方では、現場を見ていたスタッフの中にも工作員が混じっていたように聞こえるが?」

「彼らに見せつけるためですよ。日本はいつまでも黙ってはいない、という決意をね」

「背後に多国籍の工作機関がいるんだろう? 逆に警戒させないのか?」

「黒幕はある程度のインパクトを加えないと姿を見せません。これまでのように、野放しにはしておけない状態になっているんです。彼らが何を企んでいるにせよ、あまり時間がなさそうなのでね」

 黒崎は当然のことのようにつぶやく。

「公安への攻撃は、始まりに過ぎないってことか……」

「そう予測されています」

「何を企んでいる?」

「まだ不明です。しかし、日本の国益を著しく毀損する計画が進行していることは間違いないでしょう。久保田を無傷で捉えたことをはっきり知らせたかったんです。公安への攻撃は失敗したし、もはや計画を隠し通すことはできない――とね。これで計画を放棄するならそれでよし。あくまでも攻撃を企てるなら、何らかのリアクションが返ってくるでしょう。潜入工作員が情報収集に走り回るとか、ビビった誰かが国外逃亡するとか、政治家や役人を通じて警察に圧力がかかるとか、です。中途半端な工作員なら、恐れをなして自首してくることもあるかもしれません。それらの情報を集めれば、計画の実態に近づけるはずですから」

「真山や植草も工作員なのか?」

「それはこれから調査します。あなたと同じように、〝善意の熱心家〟として取り込まれただけなのかもしれません。植草氏はおそらく確信的な工作員だろうと考えられていますが」

 その口調に、黒崎の疑問がわく。

「だったら、なぜ私がスパイではないと断定できる? どうしてこんな裏話まで打ち明ける?」

「言ったでしょう? あなた自身より、あなたのことは知っていると」

「嬉しくはないが、疑われてはいないということか。だが、そこまで分かっていたなら、なぜ生放送直前まで放置していたんだ?」

 男が逆に質問する。

「あなたは強い疑いを持っていながら、なぜテレビ局までついてきたんですか?」

「誰が、何を企んでいるか暴きたかった。久保田が絡んでいるのではないかと漠然と疑っていたから、そこもはっきりさせたかった。それには、ある程度罠に嵌って見せて、油断を誘うしかない。ギリギリまで様子を見て何も起きなければ、放送前に阻止する覚悟でいた」

 男がかすかに微笑む。

「我々も同じですよ。計画の全容、組織の実態を確実に把握したかったのです。おかげで、マスコミに張り巡らされたネットワークはかなり詳細に掴めてきました。テレビ局に巣食った工作員もより明確になりました」

「私を餌に、釣りを楽しんでいたというわけか……。なのに、久保田たちの目的は不明のまま、か?」

「力不足で、申し訳ありません」

 黒崎も考え込む。

「だが、確かに公安を貶める目的だけで連続殺人を犯したってことはあり得ないよな……。自作自演で政権批判ができるとしても、殺人の全てを偽装しきることは難しい。一件でも嘘が暴かれれば、逆に墓穴を掘る危険もあるんだからな……」そして、質問する。「そもそも、老人たちは本当にみんな殺されたのか?」

「我々は殺されたと考えています。彼らが公安の監視対象になっていたのは事実で、それなりの情報も蓄積されていますから。隠し撮りされた公安要員は、全員本物です」

「プロにしては間抜けすぎるな」

「返す言葉はないでしょうね」

「で、公安の見解は?」

「被害者は全員、何らかの計画のためのパーツとして動いていたようです。おそらく本人たちは、自分の行動の意味を自覚していなかったのでしょう。公安の監視を受け始めたことで切り捨てられたのか、あるいはすでに役目を終えて処分されたのだと考えています」

「連続殺人は、その計画の第一段階だったわけか?」

「我々はその前提で行動しています。しかし、計画自体の概要がまだ掴めていません」

 黒崎はわずかに身を乗り出した。

「さて、そろそろ教えてもらえないか? 〝我々〟とは、一体なんだ? ここまで打ち明けるということは、隠すつもりはないんだろう?」

 男は、ためらうことなく答えた。

「私の名前は、小塚隆二。エコー、という組織の一員です」

「エコー?」

「木霊のように姿を現さず、超音波検査のように〝隠された危機〟を暴き出す――そんな目的を与えられています」そしてかすかな苦笑いを浮かべる。「実際は、単なる略称ですがね。ECHO、エクストラ・ケース・ハンドリング・オフィスの頭文字です。日本名は『例外事象対策室』。いずれはオーガニゼーション、つまり〝機構〟に格上げさせるつもりですがね」

「機構って……役人なのか?」

 小塚がわずかにうなずく。

「確かに、主に公務員で構成された組織ではあります。あなただって公務員でしょう? 日本版NSCとも呼ばれている国家安全保障会議の直下にある実務機関です。NSCは国の安全保障の方針を決める機関ですが、自衛隊や警察などの縦割りの傾向が強い実行組織との連携はスムーズとは言い難いことが分かって来ました。そこで、主要部門から実務家を集めた部門を新設したのです。政治判断と実働部隊をスムーズにつなげるための、裏NSCとでもいった立ち位置です。NSCと違って政治家ではありませんから、選挙結果によって機能がぶれる心配もありません」

「それは、国家安全保障局とか内閣危機管理監の役割だろう?」

 国家安全保障局――略称NSSは、外務省、防衛省制服組、公安調査庁などの情報関係省庁の連携をスムーズにするために置かれたNSCの下部組織だ。

「本来的には、そう望まれていました。しかし彼らは、あまりに〝お役人〟でしてね……形は整っていますが、その分、実行組織としては動きが鈍重です。政策立案や提言には熱心ですが、いざ動かそうとすると出身母体から横槍が入って責任の押し付け合いが始まる。想定外の事態に直面したら、すくみあがって動きがとれないでしょう。外交の場でなら分不相応な大太刀もこけおどしになりますが、現場の斬り合いでは邪魔なだけです」

「だから小回りが効く実践部隊をこしらえた、と?」

「その通り。そもそも日本は個人の人権が強すぎるんです。津波で孤立した国民を助けに向かう緊急時でさえ、道路を塞いだスクラップ車両の所有者が分からないからといって除去できなかったんですからね。当然、スパイ防止法など夢のまた夢です。国家安全保障局であろうと、他国のために働くスパイの人権さえ守らなければならないんです。人権侵害だと非難されないように気を配っているうちに、事態が拡大して収拾できなくなる。だからと言って、憲法改正もままならない。だが、立ち止まっているうちに危機に襲われたら、呑み込まれてしまう――。仕方なく一種の方便として、より現場の実務に近い人間を取り込むという名目で、小規模な〝シンクタンク〟的な部署を新設したわけです」

「そんな組織があったのか……」

「積極的には広報されていませんからね。あくまでも内部編成の変更で、内閣危機管理監の諮問機関的な位置付けでしかありません。ただし、『緊急事態に際して国家安全保障局の意思が統一できない場合はエコーの判断を尊重する』という法的な裏付けをこっそり付与しています」

「だから、自衛隊まで動かせたわけか……。なのに、存在を隠している? なぜ?」

「自衛隊まで動かせる権限を持つ部署だから、ですよ。率直に言って、国民の反応が予測できないのです。国家の危機に際しては個人の権利がある程度抑制されるという世界の常識が、日本では通用しない。人権団体にとって、この種の組織は政権批判の材料にされやすいですから。かといって、法を犯しているわけではありません。あくまで既存の法体系の中で創設された新部門にすぎません」

 黒崎がかすかなため息をもらす。

「だが、それだけではあるまい? さっきは銃撃戦までやろうとしてたんだからな。そもそも、なぜ〝例外事象〟なんだ? それだけ政権に近い組織が、どうして連続殺人などに関心を持つ?」

「順にお答えしましょう。まず〝例外事象〟とは、前例がない国家規模の危機だと定義されています。歴史的な出来事なら〝元寇〟や〝黒船来襲〟とかでしょうか。巨大地震などの、いわゆる〝未曾有の事態〟もその範疇に入ります。そんな時、NSCが機能を止めてしまったらどうします? 突き詰めて言えば、国会がミサイル攻撃を受けてNSCが崩壊した時、誰がその役割を引き継ぐか、という問題なんです。実務経験も、安全保障の知識も、国民を率いる胆力もない泡沫大臣に日本の命運を託すわけにはいかない。その時はエコーが補佐して現場を仕切ります」

「ミサイル攻撃か……まあ、備えておかなければならない事態ではあるな」

 小塚がうなずく。

「その他にも、これまでの経験が通用しない国家的緊急事態が発生した時はエコーが先頭に立ちます。例えば……そう、ゾンビでもエイリアンでも構いませんが、そんなものの対処に自衛隊などのリソースをどう組み合わせ、振り向けるかを決めるのもエコーになるでしょう。脅威を計り、対策を練り、組織を編成し、実行を命じる――それが使命です。NSCが大局的な判断を下す〝理性〟だとするなら、その影のような存在のエコーが〝頭脳〟となって、自衛隊や警察などの〝手足〟を統合して危機に対処するわけです」

 黒崎は皮肉っぽく笑う。

「まさかのゾンビかよ……」

「ここは日本ですから、ゴジラの出現にも備えている、とでもいうべきでしょうか。実際、エコーの基本構想はゴジラ映画からインスパイアされたとも噂されています。アメリカでは、軍や消防のマニュアルにエイリアン対策が記入されている例もあります」

「これはまた、大掛かりなジョークだな」

 小塚の表情は真剣さを崩さない。

「相手が架空のモンスターであろうと、その備えは別種の脅威への対処に応用できます。柔軟な応用力こそが例外的な事象への備えであって、これまで日本が最も不得意にしてきた分野です。ですから、我々に〝想定外〟はありません。より現実的な脅威としては、バイオテロやパンデミックが挙げられるでしょう。医療機関や自治体などの情報を吸い上げて脅威分析を主導するのが平時の作業として想定されていますが、いったん有事になれば関係機関に命令を下す権限も与えられます。それを人権の侵害だと騒ぎ立てる人間や組織もいるでしょうから、あくまでも役所内の組織改変という形にとどめているわけです」

 黒崎の顔が曇る。

「そのエコーとやらが、なぜ連続殺人に関わる? ゴジラに比べれば、あまりに瑣末な警察案件に過ぎないじゃないか。自衛隊まで動員した理由を知りたい」

「私たちに加わっていただけますか?」

「は?」

「あなたは我々が求める才能をお持ちだ。この会話で確信が持てました。理解が適切で、しかも素早い。事件の真相を見ぬきながらそれを利用できるという応用力も大したものです。久保田を潜入させてまで〝彼ら〟が欲しがったのもうなずける」

「ただの勘だよ」

「勘とは、知識と経験をもとに瞬時に現状を分析する高次脳科学的な活動でもあります。一種の〝超能力〟と呼んでもいい。誰もが使える才能ではありません」

「こんな時にリクルートか? だが、私は警官だぞ?」

「警官としての立場は、現状のままで結構。ただし、仕事の内容は著しく変わることになるでしょう」

「何をさせる気だ? これまでの話では、かなり過激な決断も許されるんだろう? まさか、暗殺とかも――」

 小塚が黒崎の言葉を遮る。

「ノーコメント。ですがエコーは、できれば人目に晒したくない組織です。基本的には実行部隊でもありませんから」

「だが、法令上の問題はないと信じていいのか?」

「例外事象に法令を適用すること自体、そもそも矛盾を生じかねません。ですから、事後的であっても行動を正当化する法体系を構築できる体制は取っています。あなたにとっては倫理的な不満は残るかもしれませんが、少なくともエコーのメンバーが法で裁かれることはありません。守るべきは、国益です。より多くの国民を危機から遠ざけることが目的です。創設されたばかりの実験的な部署ですから、走りながら考えようということです」

「建前にとらわれず、事案の対処に専念しろってことか……」

 小塚がニヤリと笑う。

「その理解の素早さが必要なんです。何よりあなたは、最初の殺人に遭遇した時点で異常性を嗅ぎつけていました。そんな鼻が効く人間が欲しいんです」

「訓練された警官は多いはずだが?」

「ある程度は訓練でカバーできますが、〝ある程度〟の力では我々の役には立ちません。国家の命運を左右する決断を求められる場合もあるでしょうから。こればかりは、一種の才能としか表現しようがないんです」

「いきなり言われてもだな……」

 男はわずかに間を置いてから言った。

「ではもう1つ、我々が掴んでいる事実を明かしましょう。最高機密の超極秘情報です」

「いいのか、そんなものを私が聞いても?」

「他言しないことは信じていますから」

「それは当然だが……」

「あなたが最初に遭遇した偽装心中事件ですが、男は毒殺されていましたね。どんな毒物が使われていたかの情報は一切流れていないはずです」

「知っているのか?」

「それが初のエコー案件マターに指定された理由です。毒の正体が確定した段階で国家安全保障局に対処が指示され、同時に内部で主導権の〝譲り合い〟が始まりました。何のことはない、真の危機に瀕したら責任の押し付け合いしかできなかったわけです。構成員は各省庁からの出向者ですから、母体から『余計な仕事は引き受けるな』という圧力がかかったんでしょうね。で、総理の決断でエコーが事態のハンドリングを任されることになりました」

 黒崎の表情に緊張が走る。

「毒は……何だ?」

「検視の初期段階から一般的な毒とは違う所見が見られたので、厳密な病理検査を行い、同時に残されていた衣類を精査しました。検出された成分は……サリンでした」

「まさか……」

「科捜研だけではなく、科警研でも厳重な再チェックを行いました。その際に、さらに詳細な成分を特定しました。間違いはあり得ません」

「しかし……」

「過去に霊仙教団が起こした地下鉄襲撃テロに使われたものと成分が合致したんです。あのサリンは、まだどこかに保管されていたようです」

「嘘だろう……。20年以上経っているのに……? だが……だったら、残っている量は……?」

「予測もつきません。しかし、大規模なテロ計画に使われると考えざるを得ません」

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