本編に付随する短編 本編を読むきっかけになればと思います

昼食のパンを買いに行こう

 どこかから漂ってくる香ばしいコーヒーの匂いに誘われて目が覚めた。

 カーテンはすっかり開けられてワンルームは陽光に満たされている。見た目には暖かいが額に触れる空気には冬の冷たさが多分に含まれていて、なかなかに掛け布団が恋しい。

 布団から出ることをあきらめ、もぐりこんでソシャゲのAPを消費していると、

「おはよう、麻琴ちゃん」

 掛け布団をめくられた。

 ヒヤリとしてダンゴムシのように体を縮めるが布団をかけ直してはくれない。

 諦めてゲームを中断して上体を起こし、眼鏡をかけて視界をクリーンにする。

 枕元に二つのマグカップを持って立っていた朱音先輩は、ふわりと微笑んで隣にちょこんと腰かけた。朱音先輩の体重でベッドが沈んで少しバランスが崩れる。足を布団から出して座りなおし、マグカップを受け取った。

 湯気に眼鏡を曇らせながら淹れてくれたコーヒーを飲む。飲み込むと、温かい液体が内臓を通る感覚にぞわりとして目が覚めた。

「まだ眠たい?」

 覗き込んでくる朱音先輩の柔らかい髪にはまだ寝ぐせが残っている。服もまだパジャマのままで心なしか目元がとろけている。

「いや、おかげさまで目が覚めてきました」

 朱音先輩はまた笑って、マグカップに口をつけた。ブラックコーヒーが苦手な彼女からはほんのり甘いミルクの匂いがする。

 陽だまりのベッドの上、二人無言でしばらく過ごした。ぼーっとした目がふと机の上の時計に止まり、現在の時刻が目に入る。十一時を少し過ぎたころだった。

「先輩、ちょっと早いけどお昼にしません?」


 適当な外着に着替え、学生寮を出て私たちは近所のパン屋に昼食の調達に向かった。

 頭上には青空が広がり太陽がコンクリートにくっきりとした影をつくっていたが、わずかにみぞれがちらついていた。

 土曜日の昼間の駅裏は人通りが少なく、すれ違うのは野良猫くらいだった。

 はばかるような人目もないので冷たくなったお互いの手をつないだ。もっとも、最近は周囲の反応を気にするのもくだらないと考えが変わってきていて、手を振りほどく必要性を感じなくなってきていた。私に及ぼす朱音先輩の影響は確実に大きなものになっていた。

 

 十分に温まった手をほどき、住宅に紛れ込んだ小さな馴染みのパン屋に入った。客は私たちのほかにはなかった。

 朱音先輩は入口のの近くに並べられたトレイとトングを手に取り、私はそのあとに続いた。

 何も相談されることなく、トレイの上にくるみパンとレーズンベーグル、シナモンロールとあんドーナツが手際よく並べられる。ここら辺の観察眼はさすがというか、だてに私のストーカーをしていたわけではないのだと思い知らされてもはや感心すら覚える。

 一通り取り終えてレジへ向かうのだろうと習慣に従って足を運動させていると、朱音先輩はイレギュラーに移動した。

「これ買って二人で食べようよ」

 『これ』とは何かと後ろからのぞき込むと、ペンケースサイズの紙製バスケットに雪だるまを模した一口サイズのドーナツがいくつか詰め込まれていた。

「へえ、かわいいじゃん」

「でしょう?」

「うん、一緒に食べようか」

 こういった顔の描かれた食べ物は食べられないタイプだと踏んでいたから、いったいどんな風に食べるのか見てみたくなった。案外ぱくりと一口でいくのかもしれない。


 会計を済ませて店を出ると、みぞれは雪に変わっていた。

 北風が吹きつけて思わず口元をマフラーに埋める。パンの入った袋を腕に下げたまま両手をダウンのポケットにしまい込んで暖をとる。

「寒いですね、先輩、早めに帰りま――」

 しょう、と言いかけたところ、右のポケットの中に先輩の冷え切った手が侵入した。

「せっかく景色がきれいなんだからゆっくり帰ろうよ」

 目の中でキラキラと火花を散らして白い息を吐く。

 左手をポケットから出して先輩の赤くなった左耳をふさいだ。先輩は小さく肩を震わせた。

「だめですよ、耳だってこんなに冷たい」

「でも……」

「雪なら部屋からでも見えますよ。暖かいところから見たほうがきっと楽しいですよ」

 雪になんか興味がないので適当な理屈を積み上げて説得する。

 先輩はいまいち納得していないようだったがおとなしくついてきてはくれた。

 何が納得いかないのか、また研究する必要がありそうだった。

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飯塚先輩と三村 佐熊カズサ @cloudy00

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