第3話
扉を挟んで話をつづけるのも不自然なので、先輩お手製のクッキーを頂戴して彼女を科学準備室に入れた。
化学室からパイプ椅子をもう一脚拝借して、狭い机の前に置いて私の隣にストーカー先輩を招待した。
「ええっと……先輩?」
「はっはいぃっ!」
ピンと背筋を伸ばして手を膝の上において腕をまっすぐに伸ばすストーカー先輩。全身に力が入っていて見ているだけでかわいそうになる。テレビカメラにおびえる子ウサギみたいだ。
「そんなに硬くならなくても……」
「ううぅぅ……」
落ち着かせるつもりが追い打ちをかけてしまったのか呻きながら猫背になっていく。あまりにいじらしくて嗜虐心が刺激される。眼鏡のつるに触れて不道徳な気持ちを抑える。
「あー……もしかして暗いところが怖い?」
「や、そうじゃないの。ただ、ちょっと緊張しちゃって……」
薄暗くて姿や表情はよく見えないが、その声色には確かに委縮するような震えが混ざっていた。
これが緊張からくるものだとするならちょっとどころじゃないと思うのだが。
「実はずっと前から飯塚さんのこと見てて、こうやって話すの夢だったから……」
知ってる。いや、話すことが夢にまでなっていたのは知らなかったけれど。
ずっと前、とは具体的にはいつからなのだろう。それに名前や誕生日は遠目から見ているだけでは知りえないはずであり、その事実は直接的にしろ間接的にしろ、どこかでつながりがあったことを推測させた。
おそらく先輩は私に関する多くのことを記憶しているのだろうが、私にはまだ彼女に関して知らないことがたくさんある。
例えば基本的な情報さえも。
「先輩、今更ですけど私、先輩の名前知らないです」
ほとんど成り行きと好奇心からの関係ではあるが『先輩』で通し続けるのは無理だろう。
かすかな光が琥珀色を反射して、先輩が目を見開いたのを感じた。
「あっそうか……そうだよね……」
少し寂しそうに目を伏せて影を落とし、切り替えるようにコホン、と一つ咳払いをした。
「朱色の『朱』に『音』で朱音、飯塚朱音です」
「飯塚先輩……」
なじませるために声に出してみる。あまり他人を名字で呼びなれないせいか妙に他人行儀に響いて違和感が残る。
それにこれはほんの好奇心からなのだが、先輩が喜ぶであろうことをしてみたくなった。
「一つ提案なのですが、お互いに名字じゃなくて名前で呼び合いませんか?」
口に出してから飯塚先輩が下の名前を知らない可能性がよぎったが、当然のように杞憂に終わった。
先輩は顔を傾けて前に落ちてきた髪を耳にかけ、
「ん……じゃあ、ま……麻琴さん。……えへへ」
柔らかい軽やかな笑い声が空気を震わせる。ブラインドがあげられないこの状況がなんとも惜しい。私をつけてきた先輩とは違い、想像で補えるだけのデータがまだそろいきっていなかった。
「麻琴さんも私のこと朱音って呼んでくれる?」
浮ついたような声色に思わずふふ、と笑いが漏れる。
「もちろんですよ、朱音先輩」
朱音先輩は少しむーっとふくれて、
「……『先輩』は取ってくれないんだね」
まるで『先輩』が似合わない子どもみたいな拗ね方だった。
この様子なら取れるのは時間の問題かもしれない。
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