第2話

 少し歩いて、連れてこられたのは四、五年生が使う研究室がある研究棟だった。研究棟は校舎内でも人もまばらなところなのだが、それは卒業論文を書くべく研究室に閉じこもっている学生が多いからだ。

 一年生の教室があるところからそこまで距離がないとはいえ、わざわざこんなところに連れて来たということは、人がいないところで話がしたかったからだろう。

 一体何を伝えたいのだろう。身構えていると、不意に兄がはァー、と深く長い溜息をついた。

「お兄様……? どうなさったのですか」

「……非常に言いにくいことだが、ユリア」

 兄は、眉間に紙でも挟めるのではないかと思うほど深い皺を刻み、こちらを見た。


「ハインツ殿下は創立記念パーティーで、お前をエスコートしないおつもりのようだ」

「……は?」


 思わず、素の反応をしてしまう。

 ……創立記念パーティーで、仮にも婚約者であるわたしの、エスコートをしない? 

 まさか、さすがにそんなこと、あるはずがない。婚約者のいない一年生ならば、パートナーを作らずにパーティーに参加することもあるが、婚約者が学園内にいる場合は、婚約者がパートナーになるのが暗黙の了解だ。もしハインツ殿下にエスコートをブッチされれば、わたしは赤っ恥である。王子とはいえ公女に恥をかかせるなど、そんなことが許されるはずが――。

(……いや、もしかして、これが『インアビ』のシナリオ?)

 浮かんだ考えに、ゾッとする。

 何より、ありそうだ、と思ってしまえることが恐ろしかった。

 ……どうやら、思っていたよりわたしは順調に断罪への道を歩いているようだ。せめて処刑エンドだけは回避したいところだが――。

「生徒会全体が少しおかしくてね。ハインツ殿下も、レオナルドも、デニス先生までもがシャルロット嬢に入れ込んでいる。第一王子派の筆頭貴族の跡取りとして頭が痛い」

「レオナルド様も……? ということは、もしかして彼も」

「ああ、どうやら婚約者のエスコートをしないようだ」

(ハンナ……!)

 きらきらと輝いた友人の目を思い出して、顔から血の気が引いていく。

 ……なんて仕打ちだ。こんなことがあっていいのか。

 黙り込んだわたしを見て、兄が気遣うように「大丈夫か」と聞いてくれる。わたしはなんとか頷くと、兄の顔を見上げた。

「お兄様、わたくし、もしかして婚約を……」

「……今の殿下の状態だと、ないとは言い切れないな。まあでも安心してくれ、父上にはある程度話は通してある。お前だけが悪いなどということにはならないよ」

「ありがとうございます、お兄様」

 兄が味方でありがたい。もしリタとの婚約がなければどうなっていたかと思うと、またリタしか勝たんという話になるのだが、冗談抜きで本当に心強い。

 もし断罪イベントで処刑ルートに移行してしまった場合も、父公爵が味方についてくれれば万々歳だ、減刑される可能性が上がる。

「当日は私がお前をエスコートしよう。兄や弟が姉妹をエスコートすることも、ない訳ではないから。……ああそれとも、想い人がいるかい? それならば」

「いえ」首を振る。いないし、波風を立てないためには兄に頼むのが最善だろう。「重ね重ね、お手数をおかけいたしますわ」

「こればかりはね。……まあ、だからお前はいざと言う時に友人を支えてあげるといい。きっと沈んでしまうだろう」

 兄の言葉に頷く。

 ハンナがもし、レオナルドに直接『エスコートはなしだ』などと言われていたら、彼女はきっとこれ以上なく落ち込んでしまうだろうから。

 アイリーンを奪ってしまったわたしは、せめてハンナを支えてあげなければならない。




 *




 ――保健室。

 わたしは「失礼致します」と一礼すると、扉を開けた。そのまま外に出ると、眉間に皺を寄せたクルトが待っていた。

「……クルト」

「どう? 落ち着いたか、ハンナ嬢は」

「ううん、駄目みたい。呆然としてて、まだ泣いてて……顔色も戻らない」

 わたしが唇を噛んで俯くと、クルトは「お前のせいじゃないよ」と肩を叩いて慰めてくれた。



 ――兄と会ったあと、すぐに教室に戻ったのだが、わたしはそこですぐに異変に気がついた。少し前まではとても幸せそうな空気を纏っていたハンナが、席に着きながらも今にも泣き出しそうな顔で俯いていたからだ。

 周囲のクラスメイトは彼女の異変に気づいていない様子だったが、しかしわたしは、直前までの兄との会話で、何が起きたのかをすぐに察した。

 教室に飛び込むようにしてハンナの下に駆け寄ると、彼女はゆるゆると顔を上げ、掠れた声で「ユリア様」とわたしを呼んだ。

 ハンナは紙のように白い顔をしていた。

 歯を食いしばってレオナルドの方を見ると、彼は頬を染め、熱に浮かされたような目でシャルロットに話しかけていた。いつぞやのハインツ殿下のように。まるで婚約者のことなど、どうでもいいとでもいうかのように――。

「さて、講義を始めます。皆、席に着くように」

「……先生、よろしいでしょうか」

 午後の一番初めの講義を担当する先生が入ってきたので、挙手をして立ち上がる。なんですかヴェッケンシュタインさんと言われたので、わたしはチラとハンナを見た。

「ホルンベルガーさんが体調不良とのことですので、保健室に送り届けて参りますわ」

「ああ、そういうことなら俺もついていきます。こういうことは男がいた方がいいでしょう。もし彼女が倒れてしまった場合に、女性だけでは心配です」

 わたしの行動に、何かがあったのだと察したらしいクルトがすぐさまそれに乗っかる。

 わたしたちの勢いに押された先生は、「あ、ああ、ならば、お願いします」と吃りながらも、ハンナを保健室に連れていくことを許可してくれた。

 ……そして、保健室の中で聞いたことをまとめるに、ハンナはわたしと別れた後に、レオナルドに『パーティーでお前のエスコートはしない』と告げられたらしい。ドレスの色は何色がいいと思いますか、とうきうきしながら声をかけたことへの返答がそれだったらしく、余計に絶望したのだという。 

 もう嫌われてしまったのかしら、と泣くハンナを宥めているうちに、彼女は疲れたのか眠ってしまった。泣きはらした目が赤く腫れているのが痛々しくて、わたしは胸が苦しくなった。

 しかし、今は授業中。いつまでも保健室にいるわけにもいかない。

 わたしは校医の先生にハンナを任せると、『男がいると話せないかもしれないから』と気を利かせて保健室の外で待っていた、クルトのもとに戻ったのだった。


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