横顔を、見直す

風城国子智

横顔を、見直す

 大教室に漂う確実なアウェイ感に、思わず足が竦む。


 大教室自体は、つかさ自身、授業で週に一度は利用している。だが、工学部の学生ばかりの大教室と、現在の教育学部生が笑いさざめいている大教室は、全く違う。きょろきょろと、辺りを見回す。文乃あやのは、まだ、この教室に辿り着いていないようだ。一限目に工学部の必修の授業があったからとはいえ、これは、やはり、文乃と待ち合わせをしてからこの場所に来るべきだったか。心の震えに、司は小さく首を横に振った。司と同じ工学部に通いながら、教員免許を得るために教育学部の授業も履修していたとおるは、この雰囲気の中に毎週通っていた。だから、……大丈夫。


「司」


 耳に入る、聞き慣れた声に、思わず息を吐く。


「こっち」


 ハンカチを手にした、司の幼馴染みである文乃の重そうなディパックに従うように、司は、大教室の真ん中くらいに位置する机に集まっている小さなグループの一つに腰を落ち着かせた。


 同じグループの学生と話を始めた文乃の横で、もう一度、大教室をぐるりと見回す。あいつは、独りよがりの想いの果てに文乃を傷付けようとした教育学部の男子は、この教室には見当たらない。教育学部の全学年が縦割りのグループになって様々な活動をするこの必修授業に来ないはずはないので、おそらく、先生方の配慮でもう一つの大教室に配属されているのだろう。


 昨年の秋、文乃をナイフで刺そうとして無期停学の処分を受けた男子が戻ってくるという噂を聞いたのは、三年生になる前の三月末。十分に反省しているし、文乃を庇った司が頬に軽い怪我をしただけで済んでいるというのも、処分が軽い理由だろう。聞こえてきた噂に、心の中が熱くなる。なぜ、被害者である文乃がまた危険に曝されなければならない? まだ中学生だった時の事件を思い出す。サッカーの試合に補欠で参加していた先輩がインフルエンザに罹っていることを顧問に話した所為で、透は、凄惨な虐めを受けてサッカー部を辞めなければならなくなった上に件の先輩から暴行された。その時も、「三年生で高校受験が控えているから」と言う理由で先輩にはお咎め無し、被害者である透の方に転校という圧力が掛かった。今回も、被害者である文乃の方が我慢しないといけないのか? 義憤のままに司が向かったのは、透の母親である教育学部の山川やまかわ先生の研究室。


「伊藤、君?」


 不運な事故で透を失ってからずっと窶れたままの、無表情に近い笑顔が、司を見た瞬間に少しだけ崩れる。


 しかしすぐに普段通りの無表情に戻った山川先生は、突然訪れた司の懸念を遮ること無く聞いてくれ、教育学部の合同授業を担当する先生に電話をしてくれた。その結果が、現在の、文乃の横で大教室中に目を光らせている司。


 あちこちから聞こえてくる、何かを説明する硬質な声に、誰にも聞こえないように小さく唸る。春学期一回目である今日のグループ活動は、春休みの間の活動をグループ外の学生に報告し、共有すること、らしい。そのために、グループを代表する四年生が各グループを回って報告し、他の学生はその発表を聞くというスタイルになっている。工学部には無い授業スタイルだな。目の前の報告者の声を真剣に聞いている文乃の横顔に、微笑みが漏れる。しかしいつ終わるのだろう。何人目か分からなくなってしまった報告者の声に、司は欠伸を堪えた。


「これで、一巡したかな」


 取り仕切っていた教授の声に、はっと目を瞬かせる。途中で、眠ってしまった? 横を見て気付いた、文乃の笑みから、司はそっと瞳を逸らした。


「感想文は学習管理システムから提出するように」


 教授の声が途切れると同時に、大教室は一気に、先程までの報告の騒がしさとは別次元の騒がしさに包まれた。


「疲れた?」


「ん」


 笑いながら重たそうなディパックを肩に掛けた文乃に、曖昧な笑みを返す。


「来週からは教科別で模擬授業だから、護衛は無くても大丈夫」


 残念だな。文乃の言葉に、司の心は一瞬で凋れた。


「ありがとう」


 その心が、次の一言で一気に温かくなる。


「いや」


 透がいたら、透が文乃を守っていただろう。司の前を歩き始めた文乃の横に、そっと並ぶ。この位置に、いたい。眩しくなった文乃の横顔を見つめ、司は小さく頷いた。

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