第12話

──スルースキル。


それは、何事にも動じずに無難に受け流す心得だ。


私はいまだかつて、そのスルースキルの重要性を実感したことはなかった。


そう、この時のことを思い出しては深く後悔している現在いままでは。



「でもほんと、最近のママってスタイル良くて綺麗な人が多いよね!私の周りにも子供3人抱えたシングルマザーがいるんだけど、30過ぎても体型キープしててほんと尊敬する!だからね、そんな人見て私も『デブは甘え』だって自分自身に言い聞かせてるんだ!(笑)」



太ったことを話した後でこんな嫌味を言われてしまったとしても、私がもしここでスルーして話を終わらせていればあんな思いはせずに済んでいたのだ。

そう、過去に何度もそうしてきたように…。


しかし、それができなかったことを考えると…

私にも当時、よっぽど心の余裕がなかったんだろうなぁと思う。


『太ったことを馬鹿にされたぐらい、何だってんだ!笑って開き直れば済む話なのに』


現在いまだからこそそう思える。

しかし、少なからず、私にも真奈美への対抗心があったのだ。


───もしかして、また馬鹿にされてる?


───デブは甘えって、私に言ってるんでしょ?本当は。それぐらいちゃんと伝わってくるよ。


そんな苛立ちは、さらに真奈美への返信を打つ手を止めてはくれなかった。



「デブは甘えって…確かに自分に甘いタイプの人は太りやすいかもしれないけど、人には人のいろんな事情があるんじゃないの?妊娠中全然太らない人もいれば、食べ悪阻づわりなんかで激太りしてしまう人だっているし。私だって、沙希みたいに子供を預けられる人がいたら産後にジムなりトレーニングなり通ってたかもしれない。でもそれができないのは仕方ないことだし、子供がある程度手を離れたらダイエットも頑張りたいと思ってる。それに、太ったことはそこまで深刻に気にしてないから。でも、だからってそんな言い方されるといい気はしない。心配しなくても、私は太ったし女子力も下がったけど、それ以上に今だから」



この言い返しの中には、私の個人的なストレスも混じっていたと思う。

子供を預けて一人になり、自分に構う時間も余裕もないことへの不満だ。

そんなことも知らない相手に好き勝手に言われて、黙ってはいられなかったのだ。


そして、ここまで強く真奈美に言い返したのは初めてのことだった。

自分の意思で抵抗したのだ。

それがのちに、自己肯定感をどん底に落とされるとは考えもしないで──。



真奈美からの次の返信は、もちろん嫌味を言ったことへの言い訳などではなかった。



「そっかぁ…。でもねサエ、本当に幸せだったら、周りと比べたりしないと思うよ…。本当に幸せな人ってね、まず人と自分を比べる発想がないから」



───私が人と自分を比べてる?


誰と?何について?


子供を預けてトレーニングに行ける沙希?

それとも、子供を3人抱えてて30過ぎても体型維持してる見ず知らずのシングルマザー?


…言っている意味が、わからない。

私が自分と他人を比べて卑屈になって、妬んでいると言いたいの?


……なんで?なんでそうなるの?


……私は何も、そんな人たちのことを悪くも言っていないでしょ?



現在いまだからこそ、冷静に客観視できる。


『誰かの何かが羨ましくて卑屈になって、その誰かに対してマウントを取って傷つけるような奴にだけは言われたくねぇよ!!』


真奈美はいつだってそうだった。

自分のことはすべて棚の上に上げておいて、さも正論ぶった物言いをする。


しかし、当時の私はただただ真奈美の言葉を真に受けてしまい、徐々に自分自身を見失ってしまうしかなかった。



「比べてるって言っても…別に私は誰かと比べて落ち込んだり、自分を惨めに思ったりなんてしないよ?いいなーって羨ましく思うことはあるけど…そんなの、誰だってあるんじゃないの?」



なぜわざわざ弁解しているのかさえわからない。

今まで信じて疑うこともなかった『幸せ』というものを否定されてしまったからだろうか。

確かに毎日の中に不満はある。

それでもそんな不満もひっくるめて普通に幸せだと思えていたのに。

…いや、そもそも不満があるということは幸せじゃないということなの?

『幸せ』という言葉の定義がわからなくなった。


グルグルと自問自答を繰り返す中、そんな弁解にさえ真奈美は…



「そっかぁ…自分のことを惨めに思いたくないからいろいろ我慢して頑張っちゃうんだね」



……話、聞いてる?

なぜそういう解釈になるの?



「本当に運動する時間すらないの?」



──なぜそこまで突っ込まれないといけないのかわからないよ、こっちは。


ああ、でも真奈美は昔からこんな感じだったな。

まずはこちらの事情を軽く聞いてからこんなふうに詳しく突っ込んできて、私が…



「末っ子がお昼寝してる間ぐらいしかないかも。旦那も激務だからさ…。子供置いて外出なんてできないし、お昼寝中はだいたいまとめて家事してるよ。本当不思議だよね、外で一日中働いてるわけでもないのに1日24時間じゃ足りないんだもん(笑)」



なんて返すと、やっぱりここぞとばかりに上から目線な返事が返ってくる。



「ああ、仕事もしてなくて暇なのになんかしんどいってヤツだね、それ(笑)」



……あなた、子沢山の専業主婦の忙しさなんて想像もつかないでしょ?

…自分に使える時間なんて1日のうち僅かしかねぇよ!!

マスカラなんて何年も使ってなくて、こないだ久々に使おうとしたらカビ臭過ぎて捨てたわ!


仕事しながら複数の子供育ててる人だって世の中たくさんいるよ。

仕事と子育てと家事の3両立なんて単純に凄いし、頑張ってるんだなって尊敬する。

でも、だからってそんな人たちと比べて落とすのはやめてよ。


……『結婚したことも子育てしたこともないくせに。』


そんな嫌な感情が腹の底から湧き上がり始めた瞬間だった。


未婚の人に主婦のルーティンを理解しろとは言わないよ。

でも、何も知らないのに、なぜそんなにも単純に見下し発言ができるのかがわからない。



この時はまだ、ため息をついて冷めた目で真奈美からのLINEを眺めていられた。



──次の言葉を目にするまでは。



「そんなに大変なの?なんかさ、私の周りって『子育てがそんなに大変だとは思わない』って子が多いんだよね…」



…だから何?

私にそれを言う必要性って何?

『みんなが問題なくできてることをあなたはできてないんだね(笑)』って笑いたいの?

あんたの周りなんて、知らねえよ。



「みんな、うまく子育てしてるんだと思うよ!子供のため、自分のためにね!」



怒りの感情が沸々と湧き上がってきた。


そして、私には私の意地があったと思う。

いろいろ頑張っていてもうまくいかないこともたくさんある、でもちゃんと自分なりに努力もしてきた…そんなこれまでの日常を何も知らずに軽く扱われているような気がして、とても聞き流せるものではなかったのだ。


だから私は…



───スルーできず、過ちを犯し続けた。



「自分の思い通りの子育てなんかできるわけないよ。じゃあ何?真奈美の周りの人たちの子供は夜泣きもしないの?癇癪起こさないの?親の言うこと素直に聞くの?偏食もないの?病気にもかかったことないの?激しい兄弟喧嘩もしないの?そんな育てやすすぎる子供なんてこの世にいないと思うけど。それに、その人たちはよっぽどサポートに恵まれた環境で子育てできてるからそう思えるのかもしれないし。それに、真奈美の周りの人たちはあまり子育ての愚痴とか言いたくないタイプかもしれないでしょ。」



そしてその結果、またもや嫌な気分へと落とされることになる。



「私の周りはみんな、私に愚痴や弱音を吐いたうえで『大変だとは思わない』って言ってるんだよ。子供が言うこと聞かなくて困り果てるってことがないからだろうね!それに、恵まれた環境で子育てできてる人って、それだけ人付き合いや親戚付き合いなんかがうまくいくように努力してきた結果だと思う。嫁姑問題とかってさ、結局は嫁の方に忍耐が足りなすぎると思うんだよね、私は。だから、ややこしそうな義家族ともうまくやってる私の友達は賢い嫁って感じだし、辛抱強くてすごいよ!」



───義家族とうまくやっていける人もいれば、いろんな事情があって絶縁という道を選ぶ人もいる。

私のように。


私にもまったく非がなかったわけじゃない。

嫁として、人間として足りない部分はたくさんあったはずだ。


でも義家族と疎遠になったのも仕方のないことだし、今更どうにかしたいとも思わない。


これまでずっと、自分の中でとっくに割り切っていたもののすべてが、真奈美の言葉たちによって曖昧なものへと変わっていく。



───『本当は、私だって夫の両親と仲良くやっていきたかったのに。』



そんな気持ちを再確認してしまった私は、真奈美に先ほど言われた言葉を思い出した。


『本当に幸せなら、周りと比べたりしないと思うよ』


そして、自分自身に対して漠然とした疑問を投げかけた。



『私って……幸せじゃなかったの?』



その途端に私は…


焦り始め、またもやその言い訳をすることでごまかそうとするのだ。



「でも、なんだかんだで旦那もいろいろ手伝っくれたりするし、なんとかなってるよ!だから私は不幸者なんかじゃないって思ってる。」


そんなふうに返したところで、『自分が不幸なのかもしれない』という不安が消えるとは思えなかった。



そう、真奈美という人間にそんな主張をしたところで更に突き落とされるだけだったのだ。



「そっかぁ。確かに、サエは不幸者ではないんやろうけど…。なんか、サエの話聞いてると幸せそうっていうか、しんどそうに見えるんだよね」



どこまでも私の幸福度について口を出す真奈美。

なぜ、『そっか、サエが幸せでよかった!』という前向きで明快な言葉が一つも出てこないのだろうか。

そもそも、私の方から無意味に幸せアピールをしているわけじゃない。

真奈美に、他人と比べて私を下げるような言い方ばかりされることに耐えられず、私が言い返したのがすべての根源だったのだ。


……私のことを不幸だと思いたければ、勝手にそう思わせとけばいいだけだったのに。(笑)



どこをどう見て私のことをそこまで『しんどそうに見える』のかはわからなかったけど、とりあえずここら辺で話を切り上げようと思った私は…



「しんどい時もあるけど、もちろん子供に笑わせてもらったり癒されることだって同じくらいあるよ。今が一番大変な時期なのかもしれないし、いつまでもこのままってわけじゃないと思うからさ。そのうち子供の手が離れたら、もっと自分にも余裕持てるようになると思う。なんか心配かけちゃったみたいでごめんね!」



笑顔の顔文字を添えて、そう返信した。



───が、しかし



話はまだ終わってはくれなかったのだ。



「でもさぁ、サエ…今はそれでいいかもしれないけど、そうやって自分に余裕のない生活続けてたら、いろんなことが悪循環になっていって結果的に太るっていうことにも繋がるし、思わぬ病気にかかったりするんだよ?」



……なんやそれ。



───太るのはともかく、病気?なんの?


ストレスは確かに体に良くないけど、そんなこと言ってても仕方ないでしょ…。


真奈美からの一方的なアドバイスはまだ続いた。


「人生経験が長い人たちとか、私の周りの尊敬できる人たちはみんな同じこと言ってる!だから、そこに気づくか気づかないかで人生左右されるんだよ〜?(笑)」



───なんか……胡散臭い匂いがするのは気のせい…?


そう、まるで独特な思想や教えを信仰する組織のような…。



───まさか…宗教にハマっちゃった系?


私の幸福度に執拗にこだわったりするのも、宗教が原因ならある程度納得できる。



しかし、それとなく聞いてみたら(もちろん宗教がどうのなんてことは聞いていません)、真奈美からは意外な答えが返ってきたのです。


それはそれは、可愛い絵文字をたくさん使った嬉しそうな文面で…。



「ごめんごめん、実は私、心理学を学んでるんだ!専門書も買ったし、勉強して資格も取ったしもうヲタクよ!ヤバくない?!(笑)だからね、さっきからサエに余裕持てだのどうのって言ってるのもそのせいなの!(笑)」



───心理学。



あれか、アドラー心理学みたいな?

私もSNSやブログ記事などで心理学による分析や自己啓発などを目にしたことはあるけど、確かにとても面白い。


恋愛だったり、人間関係だったり、仕事だったり…いろんなシチュエーションで悩んでいる人にとっては、心理学が心の拠り所になることも十分あり得るのだ。



───しかし私は…



『その心理学を扱っているかもしれないのが真奈美』という時点で、謂れのない不安を感じたのだ。



説明しようのない、漠然とした不安。



そう、それは過去に何度も『分析しながら値踏みするような視線』を向けられ、『ほんの些細な話題に対してもいちいち突っ込まれ、否定され、最終的には上から目線な言葉で論破されるという、まったく楽しくもなくて疲れるだけの会話』を真奈美としてきた私だからこそ感じた不安。

 


───私のことを見透かした気になって何を言われるかわからない。



そしてそんな不安は、予想を裏切らなかったのだ───。











































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