けご
吉村アリス
けご
「恵はけごじゃけえ」
当たり前だけど、あまりに幼い子どもには、出来ることも少なくて、個性もなくて、でも無条件で愛されていてほしいって前提が世間にあって、大人しくしていれば良い子、声を張り上げて泣けば元気な子、ただそこにいるだけでかわいいと、春の陽のような明るく柔らかく優しい賛辞を浴びて、私の幼年時代は幸福なものだった。そしておそらく、今思い返せば、けご、この言葉が私の幼年時代を告げた。
それは祖母が義叔母か誰かに、私について言ったことで、私に向けられたものではなかった。でもそれが私のことを言っているのだ、ということはわかった。自分に向けられていない、私自身を表す言葉というもに、全く意味はわからないにしろ、あまりいい意味でないことだけはわかった。
どんな状況でこれを聞いたのかはほとんど覚えていない。たしか農機具を置いている長屋だった。義叔母が来ているということは野菜のおすそ分けに呼ばれて来たのだろう。父や母や、叔父も近くにいたかもしれない。でもけごという単語だけを覚えて、私は誰にも意味を問わなかった。自分の悪いところを理解するのは怖い、そんな予感がしていて、まだ陽だまりにいたかった。
何となく意味がわかってしまったのは、小学校にあがって漢字を習ってからだ。けご、私は覚えたての少ない漢字で、毛子をあてた。ああそうか、私は毛子だったのか、そういえば髪は太く多く、腕にも脚にも毛が生えている。それは父と同じくらいであり、母や妹の手足にはないものだった。それでけごと言われたのか。
それでも私は誰にも問わなかった。けごが事実毛子か確かめなかった。確かめたら、私がけごになってしまう気がしたからだ。誰にも言わなければ、私はけごにならずに済むんじゃないか。けごと言われたことすら忘れて、漢字が書けるようになった、計算が面白い、そんな自己肯定感をまっすぐ伸ばして生きていきたい。自己肯定感なんて単語はその頃の私は勿論知らなかったけど、誰にも言わなかったことを今言葉にすると、こういうことになると思う。
学校は楽しかった。
親切にすれば友達は増える。友達が多いのは誇らしいことだ。勉強も授業を聞いて、宿題をすればわからないことはない。練習すれば、不可能と思っていた逆上がりも出来るようになって、そんな自分に自分で驚いて喜んだ。やった分だけテストや成績表で評価されて、努力して達成することの楽しさを覚えた。
この頃までは、努力を狂信していられた。私は周囲の大人に上手に洗脳された努力の狂信者だったろう。頑張る子どもはかわいい、応援したい、好意にあふれたそんな気持ちを、呪うような大人になろうとは、思いもしなかった。
夏が憂鬱だった。
小学校の高学年の保健の授業、第二次性徴以来、視界に紗がかかったように憂鬱で、特に夏はそう。刺すように明るい太陽が黒い影を作る。暑いからだけじゃない、私は暗いところに逃げ込みたい。
「特に男子は腕や脚が毛深くなる」って何。第二次性徴以前から私、普通のオッサンである父並みに毛深いんですけど。教科書通りのこと簡単に言ってんじゃねーよ。オッサン並みに毛深い女子はどうなるか教えてくれるんですか。この単元、男の担任じゃなくて、女子に配慮して保健の先生が特別に授業してるのかもしれないけど、この程度で私に寄り添ってるつもりになっているのならお前は酷い勘違いをしている。
「特に男子は腕や脚が毛深くなる」
これをきいた生徒が、
「じゃあ毛深い恵ちゃんは男子だったの?」
「恵ちゃんももっと毛深くなる?」
と、授業中ずっと、私に好奇の思考矢印が向けられているような気がする。授業が終わってもずっと。生理の話を聞いてからトイレのたびにパンツに血が付いていないか恐れているし、それ以上にバスに乗ったときや体育の授業中、私は無意識に誰かの毛深い腕や脚を探してしまう。私より毛深い人はいないかと。いた!見つけたと、安心だか優越感が一瞬よぎった後で、それが部活帰りの男子高校生の逞しい腕だったときの、みじめな、情けない気分といったら、ない。
そんなふうに夏は、無意識から喜悦と落胆を味わい、決まって喜悦が先で、落胆は後を引いた。中学にあがって部活は、先ず手足を露出したくないという理由で、全く興味のない柔道部にした。道着は暑いし何か臭うし、ついでに畳に投げられるの普通に痛いし練習は楽じゃないし。これもし私が毛深くなかったら、かわいいポロシャツとミニスカート履いて「ナイスサーブ☆」なんてお気楽なテニス部に、何の抵抗もなく入っていたのかもしれないと考えが流れていくから途中でやめることにする。
地軸が傾いて年中夏ってアニメの設定きいたことがある。何が起こってそうなることになったのかは知らないけれど、同じことが起こって真逆、日本の国民全員が年がら年中長袖を着ていて当たり前な国になればいい。
誰よりも遅く半袖になり、誰よりも早く長袖を着た。それでも、不自然なくらいに長袖に固執することはプライドが許さなかった。だいたい、これまで毛深く生きてきて、どうせみんな恵ちゃんは毛深いと内心思っていて、そこで私がいきなり毛を剃ったりしたら、毛を処理してコンプレックスを解消した翌日に私のコンプレックスがバレるじゃないか。今まで出来ないことに対して無邪気に努力してきたのは、出来るようになった喜びを感じたいし、みんなにも認めてもらえるのが嬉しいからであって、コンプレックスから自由になった瞬間に可哀そうな子になるのは絶対にイヤだ。
出来る努力のことを考えよう。一番、というわけではないけど、努力した分の結果として勉強は出来る方だと思う。英語も楽しい。算数までは理解出来てるつもりだけど、数学になるとちょっと難しいかもしれない。マイナスとマイナスを掛けるとプラスになる理由がわからない。計算は出来るからそれでいいのかな。そういうものなのかな。こっちは頑張れば報われるってことがわかってる。柔道だって、興味はないけど頑張ればその分の結果は出るんだから、私は間違ってはいない。
知らないうちに、踏み外していること、あるだろうか。自分だとわからないだけで、私も毛深くなっているんだろうか。久しぶりに会った親戚に、背が伸びたねと言われるとき、私はその台詞を「毛深くなったね」という字幕で聞いているような気がする。
父が毎朝髭を剃るように、腋毛の生えた女性がテレビに映らないように、毛は自己処理されるものって考えられている。子どものころはそのままで許されていた腕も、いつの間にか「身だしなみがなっていない」というカテゴリに入れられたりするのだろうか。そう、連休のときに父が数日髭を剃らなくて、何となく私が「リラックスしているな」と感じるこの気持ちがいつか「だらしない」まで転がらないとも限らない。そしてそれは、私の腕を見た人の感想が、いつそうなってもおかしくないのではないか。もう既に、私はだらしない人と思われているんじゃないか。これまで通りの生活を続けているだけじゃ、これまで通りの生活は送れなくなるのかもしれない。
剃る?
父の髭剃りは、髭だけだから洗面台で、朝の数分で間に合うのであって、私はどこからどこまでを剃らなきゃならないの。太もも、二の腕にも黒々と毛が生えているし、指にも。風呂で、それってどれくらい時間かかるの。
母がカミソリを使ってるのは知ってる。私もカミソリを使うのか。刃を当てて、怪我しない保証はない。だって包丁で指先を少し切ったことはある。私の身体も傷だらけになるんじゃないの。カミソリは怖い。そもそもカミソリってどうやって手に入れるのか。母と共有するものなのか、個人で使うものなのか。ともあれ出来れば刃が怖いから、父のみたいな電動シェーバーはないのか、風呂に持ち込めるタイプの。でもあれ一万円以上はするだろうし、買ってもらえるのだろうか。お年玉の貯金で買えなくはないけど、あのお金は純粋に楽しいことに使いたい。身だしなみの生活必需品なら、母が買ってくれないものか。
そう思って、軽く、毛を剃ってみたいから電動シェーバーを買ってほしいと言ってみた。
「剃ったら余計に濃くなるから、剃らなくてよろしい」
母は視線を合わす必要もないくらいに取り付く島もなく、台所で包丁を使いながら私の提案を却下した。
軽く言ってみたのが間違いだった。電動シェーバーなんて高価なものを最初から強請ったのも重ねて間違いだったのかもしれない。でも、毛深いのが気になって仕方ないと、カミソリも怖いと、必死に泣きながら懇願するほどには思いきれなくて、どうせ泣くなら泣いて懇願しておけばよかったと、後で独り自室で涙を流した。
剃れば余計に濃くなるって。濃くなるから剃らない方がマシだというのなら、何故アンタは風呂にカミソリを置いているのか。腋毛が生えていたらマズいからじゃないのか。私の腕や脚の毛は、アンタの腋毛とは別の扱いをしてもらえると思っているのか。今後濃くなろうがそんなことは知ったこっちゃない。今、自分の身だしなみを、誰かがどう思ってるかが気になってるだけ。この夏を乗り切って、次の夏が来るまでに、何とか勇気を出して、人知れずコンプレックスをなかったことに出来るかどうか、考えてみたいのに。
同級生の適応能力に最近は驚いてばかりいる。自然に変化したとは思えない。人類は猿から火を使うようになるまでに何百万年もかけたのに、今私の目の前で繰り広げられているのはまるで倍速再生で、そのスピードへの対応が試されている。
この間までごっこ遊びやドッジボールをしていた仲なのに、もうそんな遊びは子供っぽいと言わんばかりに、休み時間には女子だけで固まってヒソヒソと好きな男子の話で盛り上がっている。そりゃ私もごっこ遊びをしたいわけじゃないけれど、好きな男子くらいいるものでしょって前提で話を振られても困る。付き合いが悪いとか秘密主義とかの陰口、本当に困る。だいたいみんな好きな男子がいるわけじゃないのかもしれないと疑ってみても、好きな男子くらいいるふうを装うくらいの適応能力があるのだとしたら、私にはそういう能力が劣っているのだ。
勉強出来てかっこいいなとか、親切で明るいなとか、あと単純に顔がいいなと思う男子はいるけど、それが皆のいう好きと同じかというと違うと感じている。だって他の女子と仲良さそうにしていても、そりゃそうだと思うだけで、悔しいとか頑張ろうとかいう気が全く起こらないんだもの。
私たちが恋愛のスタートラインに立っているのなら、ゴールはアレでしょう、保健の先生が教えてくださった、生殖。異性はおろか、同性にだって裸を見られたくない。触られるなんてもってのほかで、好きな人にこそ、私のことを知らないでいてほしい。
それとは別に、自分の身体の変化に対する適応能力もものすごい。
「急に生理きた。ナプキン持ってたらくれない?」
と互助会めいたものまで形成されていて、自分の生理事情を日常会話に混ぜてくる。更衣室では遠慮がない。
「今日二日目で頭痛い」
「私は下痢になる方だわ」
「体育休もうかな」
私はナプキンを最低一日分は常備してるし、体調不良を訴えてもどうしようもないただの愚痴なら、言いたくない。言ってしまうと私が、生理であることを受け入れてしまったことになる気がする。誰とも共有しなかったら、私はいざというときに、私の中でそれをなかったことにできる気がしている。
昔は快適な服を着ていたのに、その服に馴染んでいたのに、勝手に自分の気に入らない着ぐるみを着せられて、それがお前の個性と人生だと押し付けられることを成長と呼んでいるんじゃないだろうか。そしてこの着ぐるみは、私が努力してきたものとは全く別のものなのだ。
毎月生理のくる女の身体になんてなりたくない。腋毛も生えてほしくない。これ以上毛深くなんてなりたくない。成長はこうも疎ましい。私はもっとゆっくり考える時間がほしい。自分の身体を受け入れられる準備がまるで出来ていない。生理なんて、苦痛を誰かに喋ることすら出来なくて、ただただ悪夢であってくれと毎月現実逃避をしている。
より我慢しがたいのが、コンプレックスが軽すぎないかということ。
「私、ちょっと毛深いから夏は剃るの面倒だわ」
まだ何も踏み出せていない私の前でこんなことを明け透けに言う。しかも私にと比べて全然、全ッ然毛深くない。
「来週クラス写真撮るとき、最前列だからイヤだ。みんな私より脚細いもん」
毛深い悩みに比べたら、太っていることなんて解消が楽すぎるように聞こえる。食べ過ぎてるから太っているわけで、つべこべ言わずに食事節制するなり運動するなりすればいいだけじゃないの、と突き放したくなるのを堪えている。
わかっている。自分の方が苦しいと断定するのは醜悪だ。だから遅ればせながらでも、「私も剃った方がいいよね」とか「ダイエットの運動、しんどいよね」と口先だけの共感をして、当たり障りなく茨の会話を乗り切っている。みんなもこうやって口に出せる囮のコンプレックスと、誰にも言えない本当のコンプレックスがあって、「みんなが何らかのコンプレックスに悩んでいる」という状況を作って安心したいのかもしれない。
私はそんなんじゃ安心出来ない。少なくとも、ちょっと毛深い程度や太っているくらいの人とは一緒にされたくない。自分の腕や脚が気になって仕方なくて、でもカミソリは怖いし、電動シェーバーは買ってもらえないし、これ以上みじめな気持ちにはなりたくないし、剃ったら余計に濃くなるという母の助言も相まって、努力の方向が全くわからない。
家族共有のパソコンで、「毛深い 女子」で検索してみたことがある。出てきたのは、主な原因が遺伝であること、高額な永久脱毛のサロンや器具のサイトか、文章のみで傷を舐めあうだけの投稿サイト。文章だけじゃ、教室にいる自称毛深い女子と変わらないじゃないか。書いてあること何もかもが白々しく感じられ、検索履歴を消して早々にブラウザを消した。要は、遺伝だから、私の子孫にも遺伝する可能性があるということ、対症療法はあるけれど、一部の変態以外は誰も「そのままでも別にいいじゃん」とは言っていないってこと。
私が一番、毛深い女子を醜いと思ってる。だからこそ他の誰かに、そんなこと別にどうでもいいと言ってほしかった。自分で検索しておいて、どうでもいいという答えを探すのか。
身体が大人になるのと同じスピードで、私たちは将来を突き付けられる。将来の夢、進路、それに見合う現在の学力。
学校生活においては、真っ直ぐな努力を続けていたため、教師の覚えもめでたく、私は進路については選択肢があった。このまま気を抜かずに頑張れば、近隣の高校なら好きなところへ行ける、という程度ではあったが。
どこへでも行ける、としても、どこにも居場所を想像出来ないのに、どこへ行けというのか。
将来の夢を考えると、やりたいこと、楽しそうなことよりも先に、やりたくないこと、苦しいから避けたいことが挙げられる。部活を決めたときと同じで、腕や脚の露出の心配をしないで済む仕事をしたい、が第一希望だ。年中白衣を着てもいい医者や理系の研究者、食品加工、他人と会わなくてもいい作家や翻訳家、農作業も年中長袖長ズボンだ。脈絡もなく職業が浮かんでは消え、どれもピンとくるものがない。
本当は、普通になりたい、が第一希望だからだ。
同級生のようにミニスカートを履いて、夏はプールを楽しんで、大人になったらファッション誌に載っているような、キラキラ充実した普通の会社員になってみたい。
毛深いのを気にしなくていい人生を送りたい。それが遺伝である以上、結婚したいとか、子どもを育ててみたい、といった選択肢は消え失せた。結婚しなくても、自尊心が保てて、独りで生きていけるようになりたい。どうせなら、もっと夢見てみたらどうだろう。生きている人の遺伝子を組み替えて、毛深い人が毛深い遺伝子を残さずに済むようにして、あと遺伝子レベルで毛深くなくなる治療を開発したい。
いや、私が開発するんじゃ、私は私に向き合わなきゃならない。それは出来ない。どこかで誰かに取り組んでほしい。そして人知れずその治療を受けさせてほしい。
夢想ばかりで自分の将来については具体的な像を結ばない。とりあえず大学には行ってみたい、というか勉強頑張った先に大学があるのなら、このまま頑張り続けられることをそのままやるという前提で、普通科の進学校がいくつか候補になった。ほぼ何も考えてないに等しいのに、教師や親はこの希望を順当と判断して応援してくれるから、将来について考えるとどこまでも空虚な気持ちになった。
恐れていた日が到頭やってきた。中学三年の春の連休明け、家庭科の調理実習で、調理器具を洗おうと、つい腕を少しまくった。同じ班に小学校の頃のクラスメイトでお互いよく知った健人君がいて、
「恵、腕の毛くらい剃れよ」
と言われてしまった。
いつか誰かに言われるとは想定していたけれど、それが同じ班のもう一人の男子、これまで全く接点のなかった野崎君に対して、「オレは女子にこんなキツいことを平気で言える強い男」ってアピールに使われるとは思っていなかった。健人君は、なぁ?と野崎君に同意を求め、野崎君はどうしていいかわからない曖昧な返事をしている。私も、
「まぁ、そのうち」
と視線を合わさずに洗い物を進めた。もう一人の女子の奈々子ちゃんは聞こえていないフリをしてくれているのかもしれない。作ったものはポトフだった。美味しく出来たと奈々子ちゃんと食べながら喜んだけれど、実際私には味がしなかった。
汚い腕で調理されたものなんて食べたくないと思われていたらどうしよう。そもそも調理実習の班決めで私と同じだったらハズレ扱いなのかもしれない。中三ともなれば毛深い男子もちらほらいるけれど、男子の毛深いのと女子の毛深いのとでは汚い度合いも違う。
後から考えて、泣きながらでも健人君を引っぱたいてやったらよかったと思う。手に包丁を持っていたんだから、ブン回してもよかった。でも出来なかった。そんなに強くなれない。だって私が一番、毛を剃った方がいいと思っているし、自分の、女子の剛毛の腕を汚いと感じている。健人君が言いたくなる気持ち、私が一番わかる。
毛を剃った方がいい、じゃない。繰り返し自問した結果出てくるのはいつも、本当は私が毛深くなければいい、ということ。でも遺伝で毛深いのだから、その場しのぎの対処をすることに絶望しているなら、もう生きていたくない。こんな着ぐるみ脱ぎ捨てたい。
死ぬ気はないけど、今死んだらどうなるかを想像してしまう。
健人君が私をいじめたってことになるんだろうか。野崎君はよく知らない私のために健人君の言ったことを学校に報告するだろうか。奈々子ちゃんは聞いていたのなら言ってくれるかもしれない。でも、言ってくれるなら、それは健人君がひどいことを言ったって思ってもらえてないと無理なことで。私はこれまで気にしている素振りすら出してないし、健人君だっていじめのつもりというより野崎君へのアピールだろうし、ある程度知った仲だからこそ健人君も踏み込んで軽口叩いただけだから、いじめの扱いにはならないだろう。実際、健人君にいじめられたって被害者意識は私にはない。
勉強も運動も順調、友達とも仲良く、家族にも問題がない。誰にも何も言わなかったから、今死んでも誰にもわかってもらえない。そんなの自業自得だから、こんな幼稚な自己愛に満ちた想像はやめよう。選択肢としては死ぬことはいつもあるかもしれないけど、実際今死ぬ気はないのだから。
誰かにツラいと言ったら、それは本当にツラいことになる。私は余計にかわいそうで、みじめな子になる。きっと言い出したら止まらないだろう。聞かされた人は、そこまで思い詰めなくても、と慰めてくれるだろう。ネットで検索したときに望んでいたその答えは、今この想像をすると望まないものになっている。安易に気にするななんて言わないでほしい。ツラいんだねって共感だってどこまで理解してもらえているかわかったもんじゃない。慰めも共感も要らない。
言いさえしなければ、見えないフリをして、私は得意なことだけを無邪気に頑張っていられる。
健人君は、全然毛深くない(私は知り合いの毛深い度合いをたいてい把握している)。腕なんて女子の理想なくらいにツルツルだ。でも、私が知らないだけで、カミソリの恐怖に打ち勝って、髭を剃っているのかもしれない。男としての身だしなみのために、これまで全く不要だった髭剃りのルーチンワークを嫌々ながらに毎朝こなしていて、だからこそ社会生活に必要なルーチンワークに目を背けてサボっている私に、言わずにはいられなかったのかもしれない。
少女漫画を読まなくなった。主人公のコンプレックスがぬるすぎて腹が立つ。どうせ太り気味かそばかす程度のもので、かっこいい男子にいいところを見つけられてくっつくだけの話、どれもこれも。少年漫画は面白いけれど、時々出てくる記号としての男らしさの表現、腕の毛や脛毛に、被害妄想を掻き立てられる自覚があって止められない。私の全身をイラストにするのなら、こんなふうに毛を描き足されるのだろうか。流石に生身の絵描きは女子に向かってそんなことはしないと信じたいけど、健人君のように多少の悪意があったり、そうでなくてもAIだったらそんな配慮はしてくれないに違いない。
テレビも観ない。ドラマはだいたい少女漫画と同じで、主人公なんてコンプレックスの現実味が全くない美しい人々じゃないか。バラエティ番組で身体的特徴をあげつらうシーンは少なくなったとはいえ、その身体的特徴ってせいぜいチビデブハゲブス程度のものだ。毛深い女子を登場させた上で「身体的特徴をあげつらうのはやめていこう」というなら賛成だけれど、私には現状「怒られるからやめよう」くらいにしか見えない。多様性って何なんだよ、みんなどうせきれいなものが好きなんでしょう?
自然と小説を読むようになった。イラストの全くない、昔の男性作家の書いたものが、私のコンプレックスとは切り離された世界で心地いい。芥川の『鼻』なんか、主人公のコンプレックスがこんなかたちでまとまるなら最高だなって、滑稽を狙って書いてあるのに、私は祝福されたような読後感だった。同じことが私に起こったとして、きっと同じ結末にはならないけれど、それでも自分と違う主人公がいることが救いになると知った。
次第に流行がわからなくなる。でも受験も相まって、もうみんなそれどころではなくなってゆく。休み時間にひとり本を読んでいても、もうそれはかわいそうな子ではない。人が変わったように休み時間も黙々と勉強する子、受験の危機感を覚えつつもこれまでの学校生活を惜しむように友人と談笑する子、受験が近づくにつれて、健人君のこともどうでもよくなって薄れていく。健人君も私に見向きもしない。誰もが自分に一生懸命だ。
私は近隣の進学校じゃなくて、片道一時間半かかる県庁所在地の、県で一、二を争う公立の進学校を目指すことにして、それからは必死に勉強した。
そこを受けるのはこの中学からは私だけだった。
脇用のカミソリを買ってもらって、石鹸を塗りたくった腕と脚に恐る恐る滑らせたら、憧れてやまなかった毛のない肌が泡の間から覗いた。自分の腕はこんなに白かったのかと驚いて、嬉しくなってどんどん剃った。これほど簡単なことだったのかと拍子抜けして泣きたくなったけど、それはおかしいと思いなおしてニヤニヤした表情を作った。
とりあえず剃りたいところを剃ったら、風呂にいた時間は一時間を超えていた。慣れていないから時間がかかるのかもしれない。でもこんなに長い時間を、身体のケアに割かないといけないのか。多くの人はやらなくていいこの作業のために。
それでも感じたことない爽快さに、心躍るとはこういうことかと。どこに出しても恥ずかしくない腕、スカートに躊躇しなくていい脚、見せてもいいけど、夜着の布がペタっと肌に貼りつく感覚も心地いいから服を着るのも楽しい。何をしても楽しい。毛深くない人は人生の初期設定がこんな心持ちなのだろうか。
めでたく志望校に合格して、誰も私を知る人がいないから、私は毛深くない人生を、人並みの人生をこれから始めることに浮かれていた。真新しいブレザーの制服に身を包み、流行のカバン、無理して買った人気ブランドの腕時計。毛深い原因が遺伝ってことは置いておこう。今日日の高校生は結婚する気がなくても恋をすることは許されている。いろんな人に会って、刺激を受けて、人生楽しめたらいい。蛹が蝶になれるのなら、私も毛のついた皮を捨てて新しい身体で新しい生活を謳歌してやる。
そんなふうに浮かれていられたのも、せいぜい三日。
毛はこんなペースで伸びるのかと落胆した。それはもう、剃って狂喜乱舞していたから落差が激しく、落ち込む、というよりはもう文字通り身の毛がよだつ恐怖。そりゃそうだ、父が毎日髭を剃っているのは、毎日剃る必要があるから剃るわけで、それくらい毛は伸びるということで。
肌の表面上で刈りそろえられた毛は一斉に伸び、幼い頃に父に頬ずりされたときのあの感覚を、自分の腕や脚から思い出すことになろうとは。剃らなければこんなジョリジョリにはならなかった。剃ったからこその不快感、毛に逆らって腕を撫でれば引っかかる、自分の肌がおろし金になるんじゃないか。こんな女子、ほかにいる?
まだ長袖を着ていればいい季節なのをいいことに、絶望のあまり何も出来ず、更に二日ほど毛を放置してみた。そうしたら、栗やウニのような、世界に対する悪意、敵対心、拒否、自分の心より先に、身体が力いっぱいそういうものを表現しはじめた。毛を剃らなかった頃は毛が長かったこともあって、肌に沿って一定方向に流れていたのに、生え始めはこれほど直角に屹立して、全世界に対して拒否を示すものなのか。
でも今の自分の肌を知っているのは私しかいない。それならおろし金ですり下ろされているの、世界じゃなくて私じゃないのか。自分の身体に拒否されているの、私自身じゃないか。私の方が先にこんな身体を拒否したかったのに。私は世界に受け入れられたいのに。
このまま毛が元通りに伸びきるまで放置して、私も世界も拒否しない元通りの身体に戻すことも考えた。考えて、戻さないことにした。イタチごっこ、モグラ叩き、それでも、一時味わったあのコンプレックスから解放された高揚感には抗えなかった。マメに剃ればいいし、最悪触られなければ数日は気づかれることもない。毛深いことを隠して、毛深くない人として生きたい。剃って隠せば、言わなければ、触られなければいいのだ。折角の高校生活を諦めたくない。
強迫観念に追い立てられる高校生活の始まりだった。
剃れば濃くなる、という呪いのような脅しを極力回避するために、なるべく剃りたくない。実際問題、毛を剃る時間もなるべくとりたくない。それとは反比例して、加速度的に気になる毛、鼻の下、眉、指。脚に剃り残しを見つけたときは新しい級友に見られていなかったか、そればかり気になって、階段を上るときなんかはなるべく一番後ろにいたい。カミソリで傷を作りながらも、毛を剃ることには慣れていき、同時に剃らなきゃならない面積は広がり、風呂の時間は全く短くならなかった。そして剃っているから、濃くなった気すら、する。腕を触ってジョリジョリし始めるのが早まっている気がする。毛が太くなって、おろし金が強くなっている気がする。
毛を抜くようになるまで、そう時間はかからなかった。
悪意に満ちた強い毛の方が抜きやすい。毛抜きでやっと掴めるようになった毛を一本一本、見つけたところから無心で抜きまくる。抜くのが追い付かなくなったら剃ればいい。抜く瞬間痛むこともあるけれど、傷んでいるのは結局私自身なのに、憎い毛穴を痛めつけている嗜虐趣味ですらあった。
県下トップクラスの進学校で、みんな私と同じくらい勉強して入学を勝ち取った、という想像は見事に打ち砕かれた。確かに、よく言えば努力家、悪く言えばガリ勉タイプもいる。それと同じくらい、天才肌というと大げさかもしれないけど、幼い頃から勉強は得意なんだよねと、自慢じゃなく、好きな食べ物を言うのと同じノリで自己紹介する生徒がゴロゴロいる。それは口だけじゃなくて単なる事実で、授業を理解するスピードの違いを見せつけられるようだった。そう、私はそっちじゃなくて、ガリ勉タイプなのだ。
頑張って入学した進学校で、そこでもトップクラスにいられると思うほどおめでたくはない。単に学力勝負なのが受験なのだから、入学しても自分がビリになる可能性だって充分にある。私はこの学校では全く凡庸だ。優等生タイプですらない。努力を続けなければ、あっという間に成績は転がり落ちていくだろう。
わかっていても、毛抜きをやめられない。自室で勉強しているフリをして、一心不乱に私は毛を抜いていた。無数に、無限に思えるほど毛穴はあって、到底全てを抜くことなんて不可能だ。それでも、たかだか一センチ四方でも、剃ったのとは違ってそこは本当に、しばらく生えてこなくて、私の望む肌になったような錯覚で小さな達成感がある。毛は何の感覚もなくするっと抜けることもあれば、肌の奥にひっかかって痛むときもある。毛穴を痛めつけて、毛穴が再起不能になって、ステップを経て砂漠になればいい。
自宅でこんなことをしていては、勉強についていけるはずもない。そもそも知り合いのいない遠い高校を選び、通学時間は片道一時間半、ガリ勉を地でいくように、私はバスや電車の中で宿題や予習をするようになった。
今更、勉強の努力を放棄することも出来なかったのだ。
何だかんだ言って、学校というところは、勉強が出来さえすればそれなりに評価される。多少の可愛さや醜さは受験では大した用をなさない。進学校なら尚更、学力で個人の価値が測られる。それは入学したときから全員大学受験を意識するからで、でもそれは、今ほど強くではないけれども、小学校でも中学校でも、勉強が出来ること、学問に対して努力出来ることが、一番認められやすい価値だった。私が毛深くても、醜くても、少なくとも教師はそんなことで私の成績を判断しなかったし、教師がそういう姿勢だったら他の子だって口には出さない。自分の身体をこれほど呪っているのに、学校では席がちゃんと用意されていた。努力を続けているから。
同じ方向に通勤する、かつての級友の父母に、ガリ勉の様子を見られる。彼らは、
「頑張って偉いね」
などと声をかけてくることもある。私が家で一心不乱に毛を抜いていることは、私の父母でも知らない。毛抜きが出来ない外ではじめて勉強をしているだけだ。中学のときの優等生は、高校ではもう優等生ではないことを想像だにしない。いつバレるのだろう。見栄を張って背伸びして遠くの高校に通って、私はそこではすでに優等生ではなく、でもただ、凡庸であるという椅子にしがみつくために、こうやって勉強しているだけの。
「毛深いと処理が面倒くさいんだよね」
「昔から丸暗記は得意だったんだ」
私だって言ってみたい。みじめさも恥ずかしさも感じずに、天気の話をするかのように気楽に自分のことを語ってみたい。でももう、得意だった勉強も、しがみついていた努力も、いつの間にか他人に語るほどの中身を失ってしまっている。
ひと夏が過ぎ、久しぶりに長袖に腕を通してほっとした頃には体育祭も終わって、クラスが違っても目立つ子がチラホラわかってくる。
先ずは新入生総代、入試トップの成績の男子は、何となく成績トップクラスの生徒のいいライバルとして一目置かれている。厚かましくも私だって顔と名前は一致するくらいだもの。話したことはないけれど、どうせ「数学の公式を証明するのが趣味」とか言うのだろう。それから進学校に似つかわしくないくらいの、隣のクラスのチャラい男子、同じクラスの派手なギャル。他人を見た目で判断してはいけない、の最悪なシチュエーション、つまりガリ勉の私より賢い。
それとは別のベクトルで、高田葵。
同じ校舎のフロアが違うから、滅多に顔を合わせない女子だけど、一度見たらちょっとびっくりする。肌がラバー状というのだろうか、眉毛が抜け落ちるほどのひどいアトピー性皮膚炎だと噂できいた。
アトピーの子はそれまでも何人か知ってはいた。寝ているときに身体を搔きむしって血だらけになるとか、夏は暑くて汗をかいた状態だと痒くて眠れないから、エアコンを二十度の設定にしてやっと安眠出来るとか。その子たちだって高田葵よりは酷くなかっただろう。私からすると想像を絶する苦しみだろう。
痒そう、可哀そう、と安っぽく同情しながら、自分の仄暗い感情も無視出来ない。その肌、彼女は隠したいだろうか。その持病で世界を呪っていたりするのだろうか。身勝手な親近感、そして更に奥のドス黒い感情、
「誰にでも理解し同情してもらえるメジャーな病気なら、私よりまだマシかもしれない」
こんなことを考えても私は幸せにはなれない。私よりマシなはずがない。そんなわけない。彼女は顔にも症状が出ている。寝ている間に血だらけになったり、無性に痒かったりする方がイヤに決まっている。私は触らなければ、剃らなければ、肉体的な痛みや苦しみは全くないのだから。
そんなことはわかっていても後から後から染み出してくる。
ニキビだろうがアトピーだろうが、肌ツルツルじゃないにしても、同情してもらえる。それは貴方のせいじゃないって。高田葵のせいでアトピーになったんじゃない。私だって毛深いのは私のせいじゃないし、同情してもらいたいわけじゃないけど、それでも身だしなみの一環としてこの世界では処理していないと、悪いのは私になる。剃りさえすればいいのだからと。男子が髭の処理をするのと変わらないじゃないかと。
健人君に言われたことはある。それも一回だけだし、その他の人には何も言われたことはない。健人君の時だって、彼に言われてショックだったというよりは、もう何となくこの世界がそういうものだと私自身わかっていた。
「世間というのは、君じゃないか」
夏休みに読んでみた、太宰治の有名なくだり。
「私じゃない。世間が、ゆるさないのでしょう?」
誰かに言われるまでもなく、そもそも世間がそうなのを知っている。
「私じゃない。世間でしょう?」
誰が独り自分を可哀そうがって悦に浸っていたいものか。
「私じゃない。葬るのは、世間でしょう?」
高田葵に興味を持つのは同情なのか優越感なのか敵愾心なのか、わからない。そもそも高田葵のことはアトピー以外何も知らない。出身中学、家族構成、友人関係、得意科目と不得意科目、どんな声なのかすら、知らない。その程度のくせに、私が彼女と話してみたいのはコンプレックスについてだから、仲良くなりたい動機としては最低だ。違う、私じゃない。誰だってあんな奇異な肌はつい見てしまうはずだ。それをなかったことにして、内面を知りたいなんて、誰もそんなことは出来るわけがない。
想像上の高田葵は千変万化する。
「わかる、ツラいよね」と私に甘い共感を示してくれる。「アトピーのことは言わないで」とピシャリと扉を閉めるタイプ。あっけらかんと「見た目ほどひどくはないよ」と、こちらほど重く考えていない場合もある。そもそも不審な視線を向けてきて遠巻きに警戒される可能性もある。もう充分に友達に囲まれていたり、友人関係に興味がなく、新たな人間を必要としていないことだってあり得ることだ。そしてそれら全てが複雑に重なって立体の人間になっている可能性もある。
だって私自身が、毛深いのを気にしないフリをして生きてきた。毛深いと知って話しかけられてもイヤだ。私と比べて楽そうな人に同情されるなんてまっぴらだ。でも毛深くなく見える今の私を見て、肌ツルツルでいいね、なんて無邪気に言われたとしたら、どんな顔していいかわからない。
私に友達になる資格なんてないのだ。それなら。
どうせ独りなら、苦しんでいい。高田葵と比べてマシだからといって、私に苦しむ資格がないと思考を封じ込めることをやめる。アトピーはきっとツラいだろう。でも私は私で、私だけは、自分が苦しむことを許したい。誰かと比べてマシだから、苦しい気持ちに蓋をしなきゃいけないんだったら、最終的には世界一不幸な人しか苦しめない。苦しみを競い、自分の順番を待つことは私には出来ない。高田葵だってきっと世界一じゃない。でも苦しんでいい。
私は単に、自分が毛深いことが、ツラい。何もしなければ痛くも痒くもなかったのに、世間のせいで、不用意に誰かに見られたり触られたりすることを恐れ、毛の処理に膨大な時間を割き、「濃くなっているんじゃないか」「伸びるのが早くなっている気がする」と怯える日々が、ツラくないはずがない。私が悪いんじゃない。世間のせいだ。女子の腕や脚に毛が生えていない前提の世間が悪い。私のせいで汚いんじゃない、醜いんじゃない、だらしないんじゃない。私をそういう人間だと決めつける、世界が全面的に悪い。
けご 吉村アリス @AliceYoshimura
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