危機の増殖・3

 二人が医務室に戻ったのは、二〇分ほど経ってからだった。

 しかし部屋に残っていたのは、額に擦り傷をつくってベッドに横たわっていた室井の妻だけだった。

 室井はベッドに走り寄って妻の手を取った。

「裕美! どうしたんだ⁉」

 室井の妻は喘ぎながら答えた。

「二階堂さんが、突然暴れて……温室に逃げ出したみたい。みんなで追っていったわ……」

「傷は大丈夫か?」

「かすり傷よ。それより、二階堂さんを救けて……。神経が参っているのよ……」

 うなずいた室井は身体を起こして振り返ると、大西に命じた。

「君も来たまえ!」

 大西は室井と温室へ走った。

 二階堂はシェルのドアに張りついて外に向かって叫んでいた。

 その向こう側では防護服の男たちが黙々と作業を続けている。

「出してよ! 出してよ! 出してよ!」

 抑揚を欠いた口調が、彼女の精神がすでに崩壊し初めていることを物語っている。

 スタッフはパニックに陥った二階堂を取り囲み、背を見つめて立ち尽くすばかりだった。

 その向こう側では防護服の男たちが黙々と作業を続けている。

 室井が進み出ようとすると、仁科が制した。

「危険です! 落ち着くまで待ったほうがいい!」

 言いながら差し出した仁科の腕には、三本のみみず腫れが走っていた。

 大西は、シェルを叩き続ける二階堂の手を見た。そこには食事に使う金属製のフォークが握られていた。

 大西は言った。

「みんなで一斉に飛びかかれば……」

 中森がふんと笑った。

「それが何になるっていうんですか。連中がシェルを突き破ろうって時に……」

 言われて始めて大西は気づいた。

 最初は二階堂の身体に隠れて分からなかったが、防護服の男たちはシェルに工作機械を押し当ててドリルで穴を開けようとしていたのだ。

 シマダはその様子をじっと見つめ、ぴくりとも動かずにいた。

 大西はつぶやいた。

「穴を開けてどうする気だ? 襲ってくるならエアロックを爆破すればいいのに……」

 答えたのは峰だった。

「もっと確実で簡単な方法があるからよ。あれを見て」

 峰が指差したのはセンター要員の後方に止められていた四輪駆動トラックの荷台だった。大型のボンベが十本ほど積まれている。ボンベの表面には何も書かれていない。

 大西は尋ねた。

「ボンベの中身が分かるのかい?」

「色でね。一酸化炭素よ。どんな小さな穴でもいいからシェルに開けられれば、大量のガスを注入できるわ。今のスフィアの能力では、あれだけの量の一酸化炭素は浄化しきれない」

「だって、ボンベは一ダースもないじゃないか……スフィアはこんなに広いのに」

「火をつけられたら、さっきの爆発どころじゃすまないもの。ただでさえ酸素が欠乏しているのに……。それに、センターにはいくらでも在庫があるんじゃない? たとえコア・キューブに立てこもっても、吸着フィルターの能力を超えればガスはじわじわと侵入してくる。窒息か中毒死が早まるのは確実だわ」

 室井が誰にともなくつぶやいた。

「そんなことをすれば殺人の証拠を残すようなものだ」

 峰は冷静だった。

「一酸化炭素は死体に痕跡を残しません。死因が窒息なら、実験に伴う事故ですませられるます。ガスが充満してから火を放ってしまえば、畜舎の爆発と区別はつかないし。シェルに穴を開けたのだって『エアロックが開かなかったから、スタッフを救けるためだった』と説明できます」

 大西はじっと峰を見つめた。

「君……なんだって急にそんなに冷静になったんだい?」

 峰は不意に、自分が恐怖を克服していたことに気づいた。絶え間ないストレスは二階堂のように精神を破壊することもあるが、それを乗り越えた者には強い力を与えるのだ。

 峰はかすかに微笑んだ。

「なぜだろう……自分でも分からない。あなたがいてくれるから、かしら……」

 芦沢が急かすように言った。

「奴らもう何本もドリルの歯を替えていますけど、シェルも傷つき始めています。長くは保ちませんよ。早くコア・キューブに立てこもったほうが利口です」

 室井がうめいた。

「しかし、二階堂君は……」

 二階堂は相変わらず単調な口調で叫び続けるばかりだった。

 仁科が首を横に振った。

「彼女をコアに入れては、他のスタッフに危険が及びます。肉体的な危険はもちろんですが、狂気は伝染する場合があります」

 二階堂の後ろ姿を見ながら迷う室井に、中森が言った。

「ロビイをここに残していきましょう。僕が遠隔操作しますから、シェルが破られてもしばらくは連中を防げます」

 仁科がうなずいた。

「外の奴らが敵だと分かれば、二階堂君も私たちの言うことを聞くかもしれませんしね……」

 室井も仕方なくうなずき返した。

「では、全員コアに退避だ」

 中森はロビイに走り寄って遠隔操作キットを抱えた。

 その背後から大西が声をかける。

「中森さん、頼みがあります」

 中森はコア・キューブの入り口に向かいながら答えた。

「何ですか?」

「エアロックのプログラムをなんとか破ってもらえませんか」

 中森は肩をすくめた。

「あいつには簡単に手が出せないって言ったでしょう」

 大西の後についてきた室井が口を添える。

「それでも他に脱出の望みはないのだ」

「仮にエアロックを開けられたって、外には銃を持った連中がうろついているんですよ。殺されにいくようなもんじゃないですか」

 大西はさらに言った。

「それは僕たちがなんとか解決します。だから頼みます、エアロックを開けられるかどうか試してください」

 峰も言った。

「他に方法はないなら、仕方ないじゃない。お願い、私たちのためにやってみて」

 医務室に入ってロビイの遠隔操縦装置を置いた中森は、仕方なさそうにうなずいた。

「試してはみます。でも期待しないでくださいよ、ガード破りに関しては石垣ほどのセンスはありませんから。火事場なら馬鹿力が出るかもしれませんが、突然頭が良くなったっていう話は聞いたことがありませんしね。とにかく、エアロックのシステムを調べてみましょう」

 室井は言った。

「みんなもついてくるんだ。ばらばらになると何が起こるか分からんからな」

 彼らは一団となってエアロックに向かった。何度も行き来した階段を下って地下通路を進み、さらに階段を上がる。

 階段を上がりきると、先頭に立っていた中森が叫んだ。

「何だ、これは⁉」

 唐突に足を止めた中森のまわりにスタッフが進み出る。

 全員の口から驚きのうめきがもれた。

 エアロックのすぐ前の床に、肘から切り落とされた一本の腕が転がり落ちていたのだ。

 廊下に落ちていた腕を見つめたシマダは、不意に身をひるがえして周囲を取り巻くスタッフをはねとばした。

 室井が振り返って叫ぶ。

「止まれ!」

 シマダは命令に従おうとしなかった。全力で階段を駆け下りて、コア・キューブへ戻っていく。

 大西は言った。

「追うんです!」

 一団となってコア・キューブに駆け上がった彼らは、Mラボの扉が開け放たれていることに気づいた。中に飛び込むと、Vラボへの扉も開いたままになっていた。

 大西はためらわずに狭い階段を下って、Vラボに入った。スタッフ全員が後に続いていく。

 シマダはVラボの中央で立ち尽くしていた。

 Vラボに入ったスタッフ全員が、その光景に息を呑んで凍りついた。

 シマダの前には、背の高い少女が立っていたのだ。

 顔つきから幼さが抜け切らない十二才ほどの少女は、全裸だった。焦点の定まらない目を虚空に漂わせ、風に吹かれる小麦のように頼りなげに揺れる。その白い肌と彫りの深い顔つきは明らかにアングロサクソン系の血を引いていた。

 スタッフたちは、密閉された実験空間の中では絶対にありえない光景に文字通り言葉を失った。

 シマダは突然、がっくりと膝をついた。目前の少女の右腕にすがって顔を埋める。

 その口から安堵のつぶやきがもれた。

「サリー……生きていたんだね……。よかった……本当に無事でよかった……」

 大西の背後で、最初に峰が声を絞り出した。

「誰なのよ……あの子? なんでこんな場所に……?」

 大西も我に返ってうなずいた。

「きっちり説明してもらわなければね……」

 放心状態だった少女の意識は、ようやく自分にしがみつくシマダを認めたようだった。自分を見つめて涙を流すシマダを見下ろし、夢の中を漂うようなぼんやりとした口調でつぶやく。

「とうさん……」

 シマダは膝をついたまま少女の細い腰を抱きしめた。

「そうだ……父さんだよ」

 室井が茫然と言った。

「まさか……シマダの娘なのか……? しかし、彼女はいったいどこから……?」

 一年半の間マイクロスフィアに閉じこめられていたスタッフにとって〝見知らぬ少女の出現〟は思考力を奪うに足る衝撃だった。

 しかし昨日まで外部にいた大西にだけは、事実を素直に受け入れる心の柔軟さが残されていた。

 大西は仁科に向かって言った。

「事情を聞く前に、とにかくあの子の服を見つけないと。医務室で休ませて構いませんね?」

 仁科はうなずいた。

「もちろんだとも。だが、あの少女はなぜ……」

「それを知っているのは、シマダさんだけでしょう。まずは、彼を落ちつかせるのが先です」

 しかしシマダはあふれる涙に声をつまらせ、背後のスタッフに関心を払う余裕は失っていた。

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