ガラスの要塞・3

 大西は、いったん医務室に入って手を消毒された。次に大西が捜査を指示したのは『湖』の底だった。そのためには、もう一度ロビイを動かさなければならなかった。

 ロビイは湖の中で動きを止めた状態のままだった。

 大西の説明を受けた中森は再び『湖』に入って、ロビイの胴体にナイロンロープを回した。湖水のウイルス汚染が心配されていたために、すでに感染した危険が高い中森が自ら買って出た役目だった。

 中森が差し出したロープを通路上から男たちが引っ張り、中森は水の中でロビイを押して岸に近づけた。湖底の砂の上を数メートル移動させることで、バッテリーの接続部分が水面から上った。それが終わると、中森は接続ターミナルをタオルで拭って予備のバッテリーを取りつけた。

 休憩所で待つスタッフたちは、中森が〝殺人ロボット〟のスイッチを入れるのを息を殺して見守った。鳩村の死体は、あらかじめ芦沢たちが移動してあった。

 仁科の陰に隠れるように背中にしがみついた二階堂は、じっとロビイをにらみつけていた。怯えを隠せない表情は、折檻を恐れる幼児のようだ。

 二階堂は鳩村が殺されて以来、口を開いていない。

 仁科は、肩をつかむ二階堂の手に、軽く自分の手を乗せていた。娘を守ろうとする父親にしか見えなかった。

 スタッフの恐れを感じ取った中森は、わずかに淋しさをにじませながら言った。

「怯える必要はありません。思考回路は基盤ごと取り外しましたから。コンピュータ内部に刷り込まれた殺人指令は簡単には消せませんが、もう自分の意志では動けません。センターとの光ファイバー回線も切断しましたから無線通信網に侵入される恐れもありません。今のロビイは、ただのリモコン人形です」

 言いながら中森は、バッテリーの反対側にある収納ポケットを開いた。そこから取り出したのは、頭をすっぽりと覆うフルフェイスのヘルメットだった。

 中森はアニメーションのロボットの頭部を思わせる黒いヘルメットを愛しげに抱え、さらに大きな手袋を二つ取った。手袋の指先は薄い素材でできている。肘までありそうな長い手袋の片方には小型のキーボードがセットされていた。

 ベンチで休む大西に、傍らに腰かけた峰が説明した。

「バーチャルリアリティ・ゲームのシステムを応用した遠隔操作機よ。ヘルメットのような物がヘッド・マウント・ディスプレイ。中の液晶画面にロビイのセンサーが感知した画像や音が流され、それを見ながらデータ・グローブを動かすの。180度以上ある広角画面だから、まるでその場にいるように錯覚するほど。黒い手袋がデータ・グローブ。指を動かすと、グローブの微妙な動きがロビイに伝わって、マニピュレータやリフトを動かす仕組み。私もやったことがあるけど、とても刺激的だったわ。自分がロボットそのものになったみたい」

 ヘルメットを取って岸に上がった中森に、仁科が質問した。

「君、まだ身体に異常はないかね?」

 中森は内心でウイルスの恐怖と戦っていた。だが、ロビイを狂わせたのが自分ではないことを証明するには、再び水に入る他に方法はなかったのだ。

 中森はかすかに引きつったような微笑みを浮かべた。

「今のところは、何とも。ウイルスが入っていたとしても、人間には危険がないんじゃないんですか?」

 仁科もうなずいた。

「だといいのだがね……」

 休憩所脇の通路に立った中森は、仁科のつぶやきを無視してヘッド・マウント・ディスプレイをかぶった。ディスプレイ越しのくぐもった声で、大西にロビイの説明を補足する。

「この遠隔操縦システムは、本来は原子炉なんかの危険区域で作業させるために開発されたんです。細かい上に間違いが許されない作業では、ロビイのファジーな面が事故を起こす可能性がありますからね。〝ここ一番〟っていう場面では、まだ人間がしっかり手綱を握らなければならないんです。最先端技術とはいっても、やはり『鉄腕アトム』ってわけにはいかなくてね」

 大西が不安そうに言った。

「本当に『またセンターに操られる』なんてことはないんでしょうね?」

「遠隔操縦にはスフィアのコンピュータを仲介させますが、ま、心配ないでしょう。それができるなら、とっくに大暴れしているんじゃないんですか?」

 そして、中森は操作グローブに腕を通した。

 仁科が大西に身を寄せて質問した。

「君はあの危険なロボットに何を探させようというんだね?」

 大西は肩をすくめた。

「何ってわけじゃないんですが……。ただ、どうしても気になるんです。犯人はなぜ死体を捨てる時にわざわざ大きな水音を立てたのか……」

「その答えが水中にあると?」

「あれば助かるな、とは思っています」

「頼りない返事だな……」

 中森は誰にともなく言った。

「少し離れてください。他人の声が入るとロビイが混乱しますから。では、動かしますよ!」

 中森はヘルメットの耳の辺りについていたスイッチを入れた。

 ロビイの頭部に『作動中』のランプがともる。

 中森のささやきが大西の耳に入った。

「身体を回せ……そう、そのまま……そこで前進……もっとゆっくり……いいぞ、そのまま前へ……ちょっと右側を見せてくれ……そいつは、ただの岩だな……いいよ、もっと前進だ……」

 ロビイは中森の声に従って、コア・キューブの壁へ向かって進んでいった。水深が次第に深くなり、魚が浮いた水面にその巨体が沈んでいく。今のロビイの鈍重な動きからは、鳩村を殺した時の狂暴さは微塵も感じられなかった。

 と、二階堂が仁科から手を離した。

 仁科が振り返る。

 二階堂はかすかに涙をにじませた目で仁科を見つめ、つぶやいた。

「ありがとうございました」

 仁科はほほえんだ。

「大丈夫か?」

「なんとか……でも、見たくない……」

 二階堂はロビイからようやく視線を外して、そこから離れた。

 室井の妻が仁科にささやく。

「目を離していいの?」

「現実を受け入れるために、苦しんでいるんです。今はそっとしておきましょう」

 室井裕美もうなずいた。

 大西はじっとロビイの動きを見守っていた。ロビイを操作する中森の動きと見比べながら、峰にささやく。

「彼はロビイと話しているのかい?」

「思考回路を切れば会話にはならないはずよ。彼がロビイを操るときのくせじゃない? でもロビイは、音声でも周囲の状況を伝えてくるのよ。たとえば水温が知りたかったら、データ・グローブのキーでコマンドを打ち込むの。すぐに正確な温度を言葉で知らせてくれるわ。こんなに忠実な召使いなのに、なんでさっきは……」

 大西は不意に思いついた。

「ロビイに水質の検査はできるかな?」

 峰は首をひねった。

「水質? ものによっては可能だけど……。何が知りたいの?」

「『湖』に毒物が混入していないかどうかをはっきりさせたいんだ」

「毒って……天野さんの血から入った病原体のこと?」

「その仮説を確認したい。魚が死んだ本当の原因を突き止める必要がある」

「それなら、ロビイが上がってきてから中森君に頼みましょう。ロビイはガスクロも内蔵しているから、きっと簡単にできるわ」

「ガスクロ?」

「ロビイの鼻よ。ガス・クロマトグラフィーっていう、液体や気体の成分を分析する装置のこと」

「役に立ちそうだね」

 そう言った大西は、室井の許可を取るために辺りを見回した。と、ぽつりと一人離れた二階堂の姿に目がとまった。

 大西はつぶやいた。

「二階堂さん……ショックだったんだな……」

 峰も二階堂のはかなげな様子にうなずく。

「愛し合っていた人を目の前で殺されたんですから……」

「鳩村さん? やはり二人は、そういう関係だったんだ」

「私、鳩村さんから聞いたことがあるの。彼女、昔、二階堂さんの家庭教師をしていたことがあるんですって。でも鳩村さん、性ホルモンに異常があったのか、心の中は男に近い人だったのよね。で、二人はいつのまにか同性愛の関係になってしまった……。これまではその関係を周囲に隠していたんだけど、自分を欺くことに耐えられなくなってしまったそうよ。で、人目の少ないこのMSPで、二人の生活を続ける決断を下したわけ」

「何だかまるで、駈け落ちみたいな話だな……」

 峰はうなずいた。

「まさにその通り。彼女たちにとっては、ここは誰にも邪魔されないパラダイスだったの。なのに、こんな結果になってしまって……」

 二階堂を見つめる峰の目には、深い同情が現われていた。アメリカで暮らしてきた峰にとっては、同性愛は異常でもなければ珍しくもない。峰は愛した者を失った苦しみに素直に共感していたのだった。

 大西は言った。

「月並みな台詞だけど、時間が傷を癒すのを待つしかなさそうだね……」

 その時、大西は中森の仕草が活発になったことに気づいた。

 中森は虚空に突き出したグローブを不意に左右に振ったりひねったりしながら、指示をつぶやき続ける。

「いいぞ……それにもっと近づいて……よし、掴んだぞ……何だろう、こいつは……放すなよ。そのまま後退しろ。上がるぞ」

 ロビイはスタッフ全員が息を詰めて見守る中、巨体をゆっくりと浮上させた。左右二本のマニピュレータで掴んだその物体が、何匹かの魚の死体を上に乗せて水面上に現われる。

 峰がつぶやいた。

「何かしら……」

 それは、長さ五、六メートルの板のように見えた。銀色に輝いていることから金属であることが分かる。

 湖岸近くの水中でロビイを停止させた中森は、ヘルメットを外して言った。

「やっぱりだ。あれ、渡り廊下の床材です。何だってあんな物が『湖』の底に沈んでいたんだろう……?」

 全員が恐る恐るロビイに近づいていく。

 室井が振り返って言った。

「ロビイの電源は切ったかね?」

 中森はデータ・グローブを外しながら答えた。

「当然です。これ以上、ロビイを嫌われ者にしたくありませんから」

 湖岸に歩み寄ってロビイが掴んだ板を見た大西は、小さくうなずいた。

 大西は今朝早く仁科に案内された際、その板の隙間から『海』を覗き下ろして冷汗をかいたのだ。蜂の巣のようになった金属板の周りをぐるりと細長い板で補強した床材は、案外簡単に外れる構造になっていたのかもしれない。

 大西は誰にともなく質問した。

「あの板は外れやすいんですか?」

 答えたのは室井の妻だった。

「いいえ。人間の力とドライバーだけで外そうとすれば、二、三十分は汗をかくことになるわ。それに、渡り廊下はどこも足場が悪いし……。倉庫に入れてあった予備の分じゃないかしら」

 大西の目が芦沢に向かった。

「また倉庫ですか……。確か、バルコニーに散らかっていた土の袋もそこにしまってあったんですよね?」

 中森がつけ加える。

「消えた二酸化炭素吸着剤も、です」

 芦沢は苛立たしげ言った。

「私は開けていない!」

 大西は芦沢の言葉を無視して、再び室井の妻を見た。

「で、この板の重さは?」

「ハニカム構造を採っているから指一本で持ち上げられる程度よ。スペースプレーンの内部材として使う素材なんですけど、スフィアで実用試験を続けていたの」

「スペースプレーン?」

「大型のスペースシャトルよ。地上から宇宙まで飛び出す旅客機。極限まで重量を減らすために、こんな素材が必要になるの」

 うなずいた大西は峰の腕を取って小声で質問した。

「君にはあの板が沈んでいた理由が分からないかい?」

 峰は小さく首を横に振った。

「見当もつかない。『湖』は私が管理していたけれど、あんな物を沈めたことはないもの。きっと、さっき落とされたのよ。死体を運ぶのに使ったのかも……」

 大西はなるほどというようにうなずいてから、室井の妻に尋ねた。

「あの板で手摺りに傷をつけることはできるでしょうか?」

 一瞬大西を見つめた室井裕美は、大きくうなずいた。

「できるわね。アルミよりずっと堅い金属ですから。なるほど、六十センチ離れてついていた平行な傷は、あの板の外枠が引っ掻いた跡だったのね。それじゃあ……」

 大西は言った。

「犯人はあの板に乗せて天野さんの死体を運んだのでしょう。そして、板ごとバルコニーから落とした」

 室井の妻は首をひねった。

「何だかとても面倒そうね。担ぎ上げて落としたほうが簡単じゃない? なんでわざわざ板に乗せたりしたのかしら……?」

「それとも、別の理由があるのかな……」

 と、大西の目が金属の板の端に止まった。そこで傷のようなものがきらりと光って見えたのだ。

 大西はかがんでそれに目を近づけた。

 中森が言った。

「何か見つけましたか?」

 大西はうなずいた。

「細い糸が結んであるんです。これ、釣り糸みたいだな……。ほとんど結び目のところで切れているけど、何だってこんなものが……?」

 わずかに光ったのはその糸だったのだ。

 スタッフが大西に近づき、その発見を確かめる。

 室井が言った。

「なるほど、釣り糸のようだね」

 芦沢が糸に手をふれながらうなずく。

「細いですね……3ポンド、いや、2ポンドテストぐらいかな。そういえば、医務室に置いてある釣具の中にストレーンのラインが入っていたはずだな……」

 かつてはルアーでの釣りを趣味にしていた芦沢は、糸のメーカーまでを見極めようとしていた。

 大西は奇妙な〝手がかり〟に興奮したスタッフに場所を譲ろうと、その場を離れた。

 傍らの峰に笑いかける。

「名探偵がいっぱいで、僕の出番がなくなっちゃいそうだね」

 言いながらうつむいた大西は、低木の脇の土に目を落とした。そこには、ロビイが暴走した跡がくっきりと刻まれていた。キャタピラの跡が、U字型に曲がっている。

 二階堂を襲った際に、いきなり方向転換した場所だ。

 大西はつぶやいた。

「なんであんなふうに向きを変えたんだろう……まっすぐ進めば簡単に彼女を突き刺せたのに……」

 大西はU字型の先端へ進んだ。さらにその先に目をやる。

 と、五〇センチほど先の草むらの中に、土を掘り返したような痕跡があった。ロビイが掘り返した場所ではない。

 大西はかがんで、素手で土を掘った。中から透明なビニール袋の端らしいものが現れる――。

 大西は袋を取り上げた。

 手のひらに乗るほどの大きさの袋に、透き通ったゼリー状の液体が密封されている。

 大西はつぶやいた。

「冷たい……」

 そして不意に、にやりと笑った。

 ロビイの周囲に集まったスタッフたちは、ほとんどが大西の仕草に気づかなかった。唯一関心を見せたのは、大西を追ってきた峰だけだ。

「何、それ?」

 大西はそのビニール袋をポケットに突っ込みながら答えた。

「ここの土の中から出てきたんだ。有力な手がかり。もう『謎は解けた』といってもいいかもしれない」

 峰ははっと息を呑んで大西を見つめた。

 彼女を見返した大西の目には、それまで見せたことのない冷ややかな自信が浮かんでいた。

 その時二階堂は、ロビイが破壊しようと試みたシェルのドアに近い場所から、遠巻きにスタッフたちを見つめていた。二階堂の脳裏に、ロビイのフォークリフトで分断された鳩村の姿が蘇える。二階堂はそれ以上ロビイを正視することができずに、休憩所に背を向けた。

 外では相変わらず暗く激しい嵐が続いている。二階堂はぼんやりとシェル越しの風景を眺めた。

 と、その先で何かが動いた。

 じっと目を凝らすと、亡霊のような影が浮かび上がる――。

「きゃああああ!」

 両手で口を覆った二階堂の悲鳴が全員を振り返らせた。

 室井が叫んで駆け寄った。

「どうした⁉」

 二階堂は震えながらシェルを指差した。

「あ、あれを……」

「あれって、何だ……?」

 その瞬間、厚い雲の間から稲妻が走った。辺りが閃光に照らされる。

 彼らは、はっきりとその〝正体〟を見た。

 ドアの向こうに、純白に輝く宇宙服のようなものを着た三人の人間が立っていたのだ。緑色の長いゴム手袋と黄色のブーツを履いた彼らの姿は、B級SF映画に描かれる〝異星からの侵略者〟を連想させた。

 それは、生物災害に対処するための防護服だった。頭部をすっぽりと覆ったヘルメットの中は暗く、表情は全く読み取れない。しかも彼らの手には、自動小銃のようなものが握られている。

 一瞬息を呑んだ芦沢が、中森を見つめた。素早く状況を把握して、つぶやく。

「中森さん……謝らなけりゃなりませんね……。やっぱりセンターは生きていたんだ。そして、私たちみんなを殺す気なんだ……許してくれますか?」

 中森は小さくうなずいた。

「殺し屋どもめ、とうとうお出ましか」

 芦沢は大西を見た。

「あなたにも、申しわけないことを言ってしまいました。すっかり動転していたもので……」

 大西が言った。

「気にしちゃいませんよ。こんな状況じゃ、誰だって普通じゃいられません。でも、恐れることはありませんよ。センターの奴らだってそう簡単にこっちに手出しはできないはずですから。ここはあなたが言ったように、今や『ガラスの要塞』に変わっているんです」

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