サイバネティクス・クライシス・2

 五分後に意識を回復した中森の指示で、芦沢、仁科、大西が管理センターとつながる光ファイバーを切断しに向かった。地面を掘り起こすためには、男の手が必要だったのだ。

 峰も、大西を追うように同行した。

 全身に傷を負った中森は休憩所に残り、パワーブックを開いた。

 スフィアのコンピュータのシステム維持プログラムが改編されていないかを確認する必要があった。ロビイに〝殺人〟を命じたセンターが、プログラム全体を破壊することも考えられたのだ。

 室井がパワーブックを見つめる。

「まだ使えるのか?」

 チタン合金製のマックは外装がへこんでいたが、電源は無事に入った。

 中森はつぶやいた。

「アップル万歳……ですね」

 中森は、コンピュータウイルスのチェックの他にも、すべてのシステム診断ソフトを走らせた。幸い、どこにも異常は発見されなかった。

 再びスタッフが集合した時には、分断された鳩村の死体には医務室から持ち出した毛布がかけられていた。

 おびえきった二階堂は死体に背を向けて座り込み、ベンチにもたれかかっている。ベンチには仁科が座り、二階堂が振り返っても死体を見ないですむように視界を遮っていた。

 仁科は飼い犬を落ち着かせる時のように、二階堂の髪に軽く手を添えている。

 スタッフは自分たちが置かれた状況を思い知らされていた。

 管理センターの爆発は、スフィアを孤立させるための偽装だった。緊急脱出用の鉛ガラスの装着もスタッフを閉じ込めるための欺瞞だった。さらにセンターはそれ以後、スフィアで起こった全ての事件を知りながら放置していた。そして今や、あからさまにスタッフ全員の命を奪おうとしはじめている――。

 理由は分からなくとも、センターの殺意を疑う余地はなかった。ロビイを殺人機械に仕立て上げられるのはスタッフの中では中森だけだが、彼が命がけでロビイと戦ったことは全員が目撃した。犯人はセンター以外にありえない。

 沈黙を破って仁科が中森に聞いた。

「身体の具合はどうだね? 気分はおかしくないか?」

『湖』に未知の病原体が混入しているなら、傷を負いながらその中に浸っていた中森に影響が出てもおかしくはない。

 中森は引きつった微笑みを浮かべた。

「ウイルスがいる……とは限らないんですよね?」

 仁科は返事をためらった。

「必ずしもウイルスとは……」

「でも、魚は死んだんですもんね……。毒かもしれないんだ……」

「何か異常が?」

 中森はじっと自分の手のひらを見つめた。かすかに震えている。

 仁科もその手を見つめる。

 中森は言った。

「大丈夫……でしょう、たぶん。震えは、緊張の製だと思います」

 仁科は安堵の溜め息をもらした。

「しかし、具合が悪くなったらすぐに教えてくれたまえ」

 中森は真剣な目で仁科を見つめた。

「助けてもらえますか?」

 仁科は応えられなかった。

 二人のやり取りを見ていた大西は、中森を励ますように言った。

「あなたのおかげで、みんなが命拾いしました」

 中森は肩をすくめた。

「湖になんか、入りたくなかった……。でも、ああしなければ私がロビイを操ったと疑われる。それに、鳩村さんは……。こんな酷いことはもうたくさんです。奴ら、ロビイに人を殺させたんですよ……許せません……絶対に……」

 大西は芦沢を見た。

 彼もまた、ロビイにしがみついた際に腕に傷を負い、室井の妻に包帯を巻かれている。

「芦沢さんも勇敢でしたね」

 芦沢はぼんやりと大西を見返した。

「勇敢……? この私が? とんでもない。臆病者ですよ、私は……」

「でも、あなたが二階堂さんを救ったんです。ロビイの〝目〟を塞がなければ、今頃みんな切り刻まれていたかもしれません。あの時は、ちょっと無謀に見えましたけどね」

 芦沢は自嘲気味な微笑みを唇に浮かべた。

「今度逃げ出したら、それこそ隠れる場所さえなくなってしまいますからね……」

 大西は首をかしげた。

「どういうことですか?」

 芦沢は力なく語り始めた。

「私がMSPに参加した理由をまだ話していませんでしたね……。実は昔、インドの密林に植生の調査に入ったことがあるんです。インドの国立大学との協同調査でした。ところが調査中に私たちはトラに襲われて……それまで一度もトラの出没が確認されたことのない地域で、私たちは十分な武装もしていなかったんです。そいつは、大規模な森林の伐採によって住みかを追われて狂暴化した〝はぐれトラ〟だったんです。奴は飢えてました。生き抜くために必死に獲物を求めていたことが、目を見たとたんに分かりました。怯えた私は、一人で車に飛び込んで逃げ出しました。取り残されたインド人の大学教授は、無残に食い殺されて……。それ以来私は、インドへの立ち入りを拒否されています。幸い国際問題化はしませんでしたが、私はまだ自分を許すことができません。そんな時にナカトミからMSP構想が発表され、スタッフの公募が行なわれたんです。私は世間との関係を絶ちたくて、参加することを希望しました……」

 大西は微笑んだ。

「でも、今度は逃げなかった。あなたの〝トラ〟は退治できたようですね」

 芦沢は大西に微笑み返した。

「だといいんですがね……」

 室井もうなずいたが、その声は沈んでいた。

「しかし、なぜセンターが……? 中森君、くどいようだが、センターがロビイを操ったことは間違いないのだろうね?」

 中森は断言した。

「確実です。シェルの破壊を命じた時におかしいとは思ったんです。私がはっきり命じたことを聞き返したりしてきたもので。あの時からセンターはロビイのプログラムを改編し始めていたのかもしれません。鉛ガラスの件もあります。センターは最初から私たちに事実を知らせずに、内部から脱出する手段を奪っていたんです」

 大西が尋ねた。

「しかし、光ファイバーだけでしかつながっていない管理センターから、ロビイのプログラムを変えることができるんですか? 遠隔操縦の装置も使っていないんでしょう?」

 中森はうなずいた。

「ロビイは自律的な頭脳を持っていますけど、遠隔操縦の際にはマイクロスフィア全体に張り巡らされた電波網からの指示を受けつけるように設定されているんです。私たちが使う遠隔操縦用のコントロール・キットも直接ロビイに指令電波を送るのではなく、いったんスフィアのコンピュータを介して情報を伝達する設計になっています。そうしておけば、ロビイがスフィア内のどこにいても電波の死角に入ることを防げるからです。携帯用の操縦キットの電波出力では、壁越しには命令が届かないことがありますから。つまり、コントロール電波を送り込むのは常にコンピュータなわけで、そっちのプログラムに侵入できればロビイを好き勝手に操れるんです」

「なるほど。するとセンターはロビイの仕組みを完全に把握していて、それを悪用したのか……」

 中森は言った。

「センターで私たちの慌てぶりを笑っている誰かさんには、私以上の知識があると考えて間違いないでしょう。ロビイを作ったのはナカトミなんですから、私が知らない仕掛けが隠されていてもおかしくありません」

 そこに、仁科が口を挟んだ。

「センターがこっちのコンピュータを乗っ取っていたのなら、監視カメラの映像も見られるわけだね?」

 中森が答える。

「当然です。今まで起こった事件は、全てセンターに筒抜けになっています」

「それなら、殺人犯も分かるのか⁉」

 中森は首を横に振った。

「私が見たところでは、殺人は全てカメラの視界に入らない場所で行なわれています。センターにも真相は分かっていないと思いますよ。私たちの知らない〝隠しカメラ〟なんかがあるなら、話は別ですけど」

 シマダが言った。

「隠しカメラや秘密のセンサー類は存在しないと考えてさしつかえないだろう。私が『そのような小細工はするな』と厳命しておいたからね」

 大西がシマダを見た。

「そうは言っても、ナカトミの幹部連中があなたの意見に従ったとは限らないでしょう?」

「少なくとも『私の活動を監視するようなことが発覚すれば、その時点で研究は中断する』と、正式に契約してある。私の部下には気難しい者も多かったから、余計に邪魔はされたくなかった。何かの拍子に隠しカメラなんかが見つかることがあれば、部下が腹を立てて職務を放棄しかねない。その危険性は充分すぎるほど説明してある。さらに、セキュリティー上の問題もある。センターのスーパーコンピュータは、通常はインターネットに接続されていない。しかし、ネット上から大量のデータをダウンロードする際に、一時的に接続できるシステムは備えている。その際にハッカーが侵入すれば、どれだけ厳重にガードしていても情報を盗まれる危険がある。だから最初から、研究の根幹に関わる場所にはカメラ類を設置していないのだ」

「だとすれば、やっぱり殺人犯は自分たちの手で探すしかなさそうですね。しかも、センターがこっちの敵だったとなれば、なおさら……。たとえ向こうが殺人犯の正体を知っていても、教えてはくれないでしょうから……」

 口をつぐんだ大西に代わって、室井がうめいた。

「中には殺人者、外にはセンター……。センターの援助がなければ脱出など不可能なのに……。私たちは、スフィアで干涸びるのを待つしかないのか……? いったいなぜ、こんな事態に……? センターは何を考えてこのようなことをしたのだ……? これでは、何も知らずに殺されてしまった方が、救いがあったかもしれん……」

 峰はきっぱりと首を振った。

「とんでもないわよ。私は戦う。何があっても生きのびて見せる。ナカトミが何かを企んでいるなら、それを暴いてやるわ」

 大西がうなずいた。

「その通りだ。弱気を吐いては奴らのいいようにされるだけだ」

 峰は大西の手を取って目を見つめた。

「ありがとう。あなたのおかげで、私は殺されずにすんだわ。鳩村さんには気の毒だったけど……」

 が、峰の期待に反して、大西は彼女の手を握り返さなかった。かといって、降り払うわけでもない。

 峰は、大西の全身から不意に気力が抜け去ってしまったように感じた。

 何かに迷っているかのように、大西の返事は歯切れが悪い。

「彼女は運が悪かっただけです。あなたが気に病むことはありません……。それよりここを脱出して、この事件を公にしなくては」

 峰は突然、大西に拒絶されているのではないかという不安に襲われた。

 大西に触れた手をどうしていいのか分からないまま、激しく動揺した自分自身に驚く。彼女はすでに『大西以外に頼れる者はない』という直感に従おうと決断していたのだ。

 ここで大西との信頼関係を失えば、完全に孤立する。

 それでも峰は、気力を奮い立たせて応えていた。

「死んだ――いいえ、殺された人たちのためにも、ね」

 しかし、二人を見つめる室井は放心状態のままだ。

「そうは言っても、どうやってシェルを破ればいい? スフィアの生態系は完全に崩れた。ボンベの酸素だけでは、どう頑張っても半日以上は生きのびられん。センターが我々の敵なら、外からの救助は望めんのだからな……」

 室井の妻が落ち着いた口調で言った。

「できることをやるしかないわ。障害があるなら乗り越える道を探るのが科学者よ。長くは篭城できないというなら、何とかセンターを説得する方法を探さなくちゃ」

 彼女の力強い一言は、スタッフの士気を高めた。

 芦沢が気を取り直したようにうなずいた。

「こっちから出られないということは、向こうも入ってこられないってことですからね。ガラスの檻というよりは、ガラスの要塞と呼ぶべきでしょう。それを生かす方法を見つけ出すんです」

 大西は、自分の手に重ねられた峰の手をじっと見下ろしていた。次第に強く握られていく手のひらから、追い詰められた者の恐怖とかすかな希望を求める暖かさが伝わる……。

 大西は『峰を守りたい』と強く願った。

 そして、心を決めた。

「皆さんに話しておかなければならないことがあります」

 峰が大西を見た。

「なに? 急に改まったりして」

 大西はじっと峰の瞳を見つめ返した。ようやく彼女の手をしっかり握り返す。

「すみません、僕はこれまで皆さんを騙していたんです。実は僕――雑誌記者なんかじゃなかったんです……」

 全員が大西に困惑の目を向けた。

 しかし声を出す者はいない。

 大西の目は、峰に秘密を作っていたことを素直に詫びている。

 峰は、大西が〝秘密〟を持ち続けながらも自分を大切に思っていたことを知った。その秘密との板挟みになって、好意を素直に出せなかったのだと考えたかった。

 だが、何を隠していたのかを問いただす勇気は持てなかった。大西が自分を含めた全員に危害を加えるためにスフィアに侵入した可能性は、今でも残っているのだ。

 峰は目を伏せ、期待と不安が入り交じったつぶやきをもらした。

「あなた、やっぱりまだ何か隠していたのね……? 私の勘って、どうしてこんな時だけしか当たらないのかな……」

 仁科が大西をうながした。

「それでは君は、いったい何者なんだ?」

 大西は溜め息をもらして、峰から目を離した。きっぱりと言う。

「ナカトミの社員です」

 峰は大西の手を突き放した。

「社員⁉ どういうことなの⁉」

「僕はナカトミの『総合保安部』に雇われている調査員なんです」

「調査員……? だから、急によそよそしく……?」

 大西はうなずいた。

「このスフィアからの情報リークのルートを探るよう命じられていましてね。職務上、皆と親しくしなければなりません。でも、特定の人物とは……」

 峰は、大西が言わんとしたことを正確に理解した。〝仕事〟が絡んでいなければ、二人はもっと正直になることができるはずなのだ。

 峰はかすかに微笑み返した。同時に激しい不安が胸をよぎる。

「じゃあ、この事件もあなたが起こしたの……?」

「まさか。今起こっている事態は、僕にも理解できないことばかりです」

 真剣に峰を見つめ返した大西の目は、嘘は言っていない。

 芦沢がぽつりとつぶやいた。

「保安部員ね……。どおりで理論的な推理がお得意なわけだな」

 室井は呆然と大西を見つめていた。

「君……ずっと私を騙していたのか……?」

 大西は深く頭を下げた。

「申し訳ありませんでした。それが仕事なんです」

「しかし、リークを調査していただと? 信じがたいな……こんな閉鎖空間から何が盗めるというんだ?」

 大西は室井に目を移した。

「ある物質が漏れ出ていたんです。それを外部に流した人物が、ここにはいます。そしておそらく、その人物が連続殺人の犯人でしょう」

 中森が言った。

「じゃああなたは、今までセンターが生きていたことを知っていたんですね?」

「もちろんです。知っていて、隠していました」

 室井が叫んだ。

「何人も殺されたのにか⁉」

「センターがスフィアを開くと決断しない以上、僕は内部で調査を続けるしかなかったんです。僕には、あなた方に隠れて連絡を取る手段さえ与えられていないんです。繰り返しますが、ここで起こったことは僕にも全く予想もできなかったんです」

「だがセンターは、どうして人殺しを放っておいたんだ……?」

「おそらく、情報リークのルートを解明する事を優先させたためでしょう。機密漏洩の阻止は、ナカトミの死活に関わる問題です。それは個人の命に優先する――トップがそう判断したに違いありません」

 室井は言葉を失ってうなだれた。

 中森がつぶやく。

「私たちの命は使い捨てライターに等しい――か……」

 大西をじっと見つめていた峰が尋ねた。

「で、あなたはこれからどうするの? どっちにつくの? 私たちか、ナカトミか」

「考えるまでもありません。センターは僕まで殺して事実を闇に葬ろうとし始めました。戦わないわけにはいかない」

 峰はじっと大西を見つめた。

 大西はつけ加えた。

「僕は、君を守りたい」

 峰は言った。

「信じていいの、今度こそ?」

 大西は微笑んだ。

「初めまして、大西です。三十五才、独身。離婚歴が一回、子供はなし。詳細は後程、ゆっくりと」

 峰は微笑みを返して、再び大西の手を握った。

「本当に守ってね、私たちみんなを。私、あなたから離れないから」

 大西は言った。

「初対面の印象が悪かった割りには、すぐに親密になれましたね」

 峰は少女のような微笑みを見せた。

「あなたと一緒にいるのがいちばん安全だもの。私、父の教えは忘れないわ」

 大西も微笑んだ。

「僕は合格ですか?」

「命の恩人ですから」

 大西は厳しい目に戻ってうなずいた。

「これ以上、死人は出させません。誰一人」

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