双子の密室・1

 スタッフたちは、消火用スプリンクラーの散水で水浸しになったMラボの奥に進んだ。鳥居が起こしたボヤは、コアに残されたわずかな量の水をさらに浪費させていたのだ。

 シマダが管理していた極秘の研究室――Vラボへの入り口は、スタッフ全員の出入りが許されているMラボの中にあった。『倉庫』と書かれた、ごく普通のドアだ。扉を開けると、ハシゴと呼ぶ方が似つかわしいような長く急な階段があった。そこを下りると狭いプラスチックの廊下が続いている。

 通路の構造は地下倉庫と同じだった。廊下の先は金属の扉で遮断され、壁には消火器を収めた棚が作りつけられている。しかし扉の封印は破られておらず、中身が取り出された痕跡はなかった。先頭に立ってスタッフを案内したシマダは、壁のセンサーに手を押し当てて扉を開いた。

 Vラボの広さは大西が考えていたよりもはるかに小さく、五、六〇坪ほどの面積しかなさそうだった。そのほとんどを実験装置類が埋め尽くしている。やはりプラスチック製の壁の一面をスチールの書棚が占め、関係資料らしいものが並べられていた。コア・キューブの居住区に比べると天井も低く、大人十人が入った今は息苦しくさえあった。

 スタッフは皆、極秘の研究室が実在していたことを目のあたりにして声を失った。

 シマダは言った。

「ここには超高速DNA自動解析装置の試作機からコンピュータ制御のマイクロマニュピュレータ、そして最新の電子顕微鏡までが設備されている」

 中森が装置の一つに目を止めた。金魚鉢を伏せたような、半球状の形をしている。

「3Dディスプレイか……。現物は初めて見たな……」

 シマダがうなずく。

「DNAやタンパク質の分子構造を立体化して表示できるシステムだ。もっとも、完璧なデータが必要だから、下準備に時間がかかることもあるがね。装置の面では、世界で最も進んだバイオ研究所といっていい。当然一年半前に導入したものだが、未だに市販されていない試作機も多いからな。コンピュータの処理能力も、可能な限り高めてある。さらに管理センターのデータバンクには『ヒトゲノム・プロジェクト』の最新成果も入力されているから、情報量の点でも世界一ということになる」

 大西が首をひねった。

「たったこれだけの面積で、世界一?」

「むろん、この部屋だけで全てを処理しているわけではない。エイズ治療ワクチンのベクターに使えそうなウイルス株やその他の研究用生物細胞、そしてDNA組み替えを行なったウイルスは、隣の気密保管室で厳重に保存している。実験に使用するマウスやその飼育に必要な酸素や飼料も、専用室を作って管理している。そちらの部屋は倉庫のようなものだから、ここよりはるかに大きいし、完全なクローズド・システムで空気浄化や糞の分解装置に必要な電力はセンターから直接供給されている。実は鳥居君の最大の仕事は、その部屋の清掃や動物たちの世話だったのだ。峰君が〝雑用係〟と呼んだのは正しい。それでも、バイオテクノロジーの研究現場はおおむねこんなものだ。私が研究を初めた当時は、大学の一部屋が研究所の全てだった。スフィアの中にあるからといって、ここが特別に狭いわけではない。バイオの世界は核物理学などと違って大がかりな実験設備は必要としない。コンピュータの解析性能さえ高度であれば、後は家内工業的な手作業を根気よく繰り返していくだけなのだ。成果の優劣を分けるのは研究者のアイデアに尽きる」

 芦沢が、丹念に壁を探っていた目をシマダに向けて言った。

「ここは地下倉庫の隣に当たると言っていましたよね。もしかして、倉庫に通じるドアがあるんじゃないんですか?」

 シマダは芦沢を哀れむように見返した。

「私がそこから倉庫に入って石垣君を殺したとでも考えているのかね?『ミステリーマニアだ』と公言している君にはふさわしくない、ご都合主義のトリックだな」

 芦沢は平然と答えた。

「マニアの美学にこだわっていられる場合じゃありません。それに、現実世界の犯罪者は、使える手段は何でも利用するでしょうから」

 シマダは満足そうにうなずいた。

「君が常識を保っていることが分かってうれしいよ。こんな非常時に、あまり奇抜な空想ばかりをもてあそばれたのでは迷惑だからね」

「誉めていただいた……と受けとめておきましょうか。で、通路がないことは確かなのですね?」

「無論だ。倉庫への通路はウイルス研究に必要ないし、万一の生物災害を防ぐ上でも不利にだ。この部屋は一般のP4施設と同様に外部に対して低い気圧に保たれ、空気は浄化装置を通して循環させている。そこまで神経を使っておきながら、不必要な扉を設置するのは馬鹿げているだろう? 私が細部までを設計したわけでないから断言はできないが、少なくともナカトミから『通路がある』と聞かされたことはない」

 芦沢は床に視線を落としてつぶやいた。

「スフィアの底には密室が二つ――双子の密室ってことか。ところで、この研究室の扉はあなたの掌紋で開いたわけですが、他には誰が開けることができたんです?」

 シマダは答えた。

「私の部下なら、全員だ。鳥居君でさえ開けることができた。マウスの世話は時間を厳守しなければならないし、繊細な作業中に騒がしく掃除をされては神経に触るのでね」

 芦沢はうなずいた。

「なるほど、天野さんの掌紋も登録されていたわけだ。彼女が『犯人は掌紋を集めているのかもしれない』と思いついたのは、そういう体験があるからに違いありませんね……」

 中森がつぶやく。

「私は昨日までそんなことを聞かされたことはありませんけど……。あれほど、身近だったのに……」

 その声には、わずかな落胆がにじみ出していた。真剣に結婚を考えた天野が、仕事の根幹に関わる重大事を自分に隠していたことに心を痛めていたのだ。

 シマダは静かに言った。

「中森君、彼女がウイルス研究を秘密にしていたのは君を信じていなかったからではない。ウイルススタッフ以外には極秘の事項だったのだ。しかも彼女には、ナカトミの命令を無視できない事情もあった」

 中森はシマダを見つめた。

「天野さんは、他にも隠し事をしていたんですか?」

 シマダは室井の顔色をうかがった。

 室井は言った。

「言ってみたまえ。私も、スタッフの過去には関心がある。今起こっている事態を打開する役に立つかもしれんしな」

 室井の表情は険しかった。責任者であるはずの自分が、ナカトミから何も知らされていなかったことを認めることが腹立たしかったのだ。それでも、任務を全うするために情報を集める必要があることは認識していた。

 シマダは中森に目を向けた。

「天野君はかつて、アメリカ陸軍のウイルス研究施設で働いていたことがある」

 仁科が小声で叫んだ。

「ユーサムリッド⁉」

 シマダが小さくうなずく。

 大西が溜め息混じりに言った。

「また専門用語ですか? あなた方は科学者ですからお馴染みでしょうが、一般人の僕にも理解できるように説明していただけませんかね?」

 峰が言い添える。

「私だって、そんな名前は聞いたことがないわ」

 仁科が答えた。

「アメリカ陸軍伝染病医学研究所――その頭文字を取ったのがUSAMRIIDだ。軍の内部では単に『研究所』と呼ばれているようだがね。創設当初のユーサムリッドは生物兵器の開発を目的としていたため、最高機密として扱われていた。だがニクソンが攻撃的生物兵器を禁止して以来、その目的は防御に必要なワクチンの開発に重点を移した。そして今では、エマージング・ウイルスに対する最先端のノウハウを持つに至っている」

「エマージング・ウイルス?」

「ある日突然発生したように見える、ヒトに大きな害をよぼす狂暴なウイルスのことだ。エイズを引き起こすHIV、マールブルグなど。彼らはもともとこの地上の存在していたウイルスなんだが、人類が活動の幅を広げて森林を破壊することで、今まで接触がなかったウイルスとの遭遇が始まった。君でもアフリカのザイールで発生したエボラ・ウイルスのことは聞いたことがあるだろう?」

「あ……それって、映画になりました? ダスティン・ホフマンの」

 仁科はうんざりしたように肩をすくめた。

「それなら君はユーサムリッドを知っている。あの映画自体はフィクションだが、背景になっていた軍の組織が〝それ〟なんだよ。だがエボラが合衆国に、それも首都のすぐ近くに上陸したことは歴史的な事実だ。幸い人間には害のない東南アジア系統の種だったが、そのエボラ・ウイルスを封じ込めたのがユーサムリッドだ」

 大西はようやく納得した。

「なんだ、そういうことだったのか……実は徹夜の後だったんで、あの映画、途中から寝ちゃったんですよね……」

 仁科は大西のつぶやきを無視してシマダに尋ねた。

「それで、天野君はユーサムリッドで何をしたのですか?」

 シマダが答えた。

「天野君はP3区画で作業に当たっていた。だが、作業の過程で致命的なミスを犯してね。バイオハザードを引き起こす寸前にまで事態が悪化した。幸い大事にはならなかったが、それ以来彼女は危険人物としてチェックされていた。能力はあるものの、合衆国内はもとより各国の〝業界〟から締め出されていたのだ。彼女が研究者として活動を続けるためには、『MSPのスタッフに加われ』というナカトミの誘いに乗る他はなかった。研究生活から離れることは、彼女の好奇心とプライドが許さない。つまり天野君は、ナカトミの指示には逆らえなかったのだ。迂闊に口を滑らせるような人物なら、スタッフには選ばれなかった」

 中森は不思議そうにシマダを見つめていた。

「まさか、彼女がアメリカ軍の仕事をしていただなんて……」

 大西が言った。

「じゃあ、あなたの部下はみんなそんな過去を持っていたんですか? あの鳥居さんが口が堅かったとは思えないんですが……?」

 シマダはうなずいた。

「事実、彼女は誰にも秘密をもらしはしなかったろう? ああ見えても、スタッフの一員だというプライドだけは高かったのだ。それに彼女にも他人には知られたくない秘密があった」

 室井が言った。

「それも教えていただけるんだろうね?」

「本人が死んだ今となっては、隠しておく理由もない。実は彼女は、『BTIジャパン』の職員だったことがある」

 スタッフが一斉に息を呑んだ。

 峰がつぶやく。

「まさか……彼女が産業スパイだったっていうの……?」

 シマダはふんと笑いながら答えた。

「逆だよ。当時、下っ端の事務員だった鳥居君はワイドショー的な好奇心からBTIジャパンの幹部の性的スキャンダルを嗅ぎつけて、それをナカトミに売り込んできた。BTIジャパンは、言ってみれば優秀な日本人研究者を引き抜くための出先機関で、ナカトミは長い間その存在に悩まされてきた。そこでナカトミは鳥居君から得た情報を最大限に使って、その幹部を再起不能なまで叩きのめした。おかげで鳥居君はBTIから追い出され、再就職の道もことごとく妨害されることになった。もはやナカトミの提案にすがる他にない状況に追い込まれた。つまり彼女もまた、ナカトミを機嫌を損ねれば返り血を浴びる立場にあったのだよ」

 室井が信じられないというように肩をすくめた。

「しかし全員に自由な出入りを許すほどそれほどルーズに管理していて、よく今までこの研究室を隠していられたものだな」

「ナカトミは周到に研究者の個人的な弱みを掴んでいる。私は研究の能力以外に関心はなかったが、相当悩んでいる部下もいた。しかも彼らは、常にスフィアを出た後のことを考えて暮らしていた。秘密を守り抜いて成果を上げれば膨大な報酬を得られるが、ナカトミを裏切れば死ぬよりつらい制裁を覚悟しなければならない。これほど人の口を固くさせる薬はない」

「だが、一年半だぞ。そんなに長い間……」

「普通の会社に勤めていても同じ事だ。通勤路以外は町の様子も分からない。用のないフロアには足を踏み入れることもない。給湯室に入ったことがない管理職など、無数にいるのではないか? まして私の部下に用事があれば、その場で無線を使えばすむ。だいたい君たちは、Mラボにさえ滅多に入らなかった。『身近な場所だから知っている』という先入観が、かえって物を見る目を曇らせるのだ」

「確かに盲点だったな……」

「一方で、スフィアの内部では産業スパイの侵入を警戒する必要が全くない。だから、研究者の個性や意欲、そしてインスピレーションを削がないためにも管理はルーズな方が効果的だった」

 室井は首をひねった。

「つまりスタッフはそれぞれ勝手気ままに研究をしていたというわけか?」

「もちろんエイズ治療ワクチン開発は、私の指揮に従って一元的に行なわれていた。彼らは私のアイデアを具体化する手足にすぎなかったのだ。しかし、それ以外の時間に〝独自の研究〟を手がけることは、スタッフの裁量に任されていた」

 大西は、不意に思いついたように室井に言った。

「そうだ、室井さん、さっきのDNA配列表持っていますか?」

 室井はズボンの尻ポケットに手をやってうなずいた。

「これだ」

 大西はDNA配列表を受け取ってシマダに差し出した。

 紙面に目を落としたシマダが眉間にしわを寄せる。

「これは?」

「仁科さんが見つけたものです。僕の荷物に隠されていたそうで。誰かが僕に罪をなすりつけようと企んだわけですが、その手段にこんなものを使う以上『犯人はこの秘密研究室の役割を知っていた』と考えた方がいいと思うんですが……」

 シマダは答えた。

「だが、少なくとも私には関係ない。部下は全員死んでしまったし……。これをどうしろというんだ?」

「確かに、僕の荷物にこれを入れた人物はもう死んでいるのかもしれません。しかし、それが誰だったかを探る手がかりが欲しいんです。このDNA配列が何のものかお分りにならないでしょうか?」

「おいおい、いきなりとんでもない注文を出してきたな。いくら私でも、塩基配列を見ただけではな……。データ化されているならコンピュータで検索することも容易だが、こんなプリントアウトでは……」

「それでは、この書式に見覚えはありませんか? 資料の本からコピーしたものではないんでしょうか?」

 シマダはさらに紙片を注意深く見つめた。

「記憶はないな。おそらくMラボのプリンターで出力したものだろう。スフィア内では基本的にペーパーレスのシステムを使っているが、ラボには一機だけプリンターが設置されている。センターとの回線が切れた後に出力したのなら、スフィアのコンピュータに記憶されている情報ということになるが?」

 中森が身を乗り出した。

「私がそのデータを入力してみましょうか?」

 大西が言った。

「これを全部?」

「とんでもない。まずは千文字ぐらいでバンクの情報と照らし合わせれば、元が何かは割り出せます」

 大西は室井の顔色をうかがってから言った。

「お願いします」

 文書を受け取った中森は壁ぎわのコンピュータを立ち上げると、素早くキーを叩いていった。その手つきは流れるように滑らかで、初めての場所で初めての装置を扱っているようには見えなかった。

 中森にとっては、全てのコンピュータが自分の仕事場だったのだ。

 しかしシマダは、すまなそうに大西を見つめていた。

「管理センターとの回線が通じないと、メインデータバンクにはアクセスできん。スフィアのバンクだけでは遺伝子に関する情報量は千分の一にも満たない。ここに目的の情報が入っているかどうか……」

 それを聞きつけた中森は、しかし鷹揚にキーを叩き続ける。

「これぐらいなら無駄になっても大した手間じゃありません……でも、まずは五百文字ぐらいで試してみますか」

 シマダは肩をすくめて、部屋の隅に置いてあったスチールのロッカーに近づいた。誰にともなくつぶやく。

「死体を運んだ時かな……白衣に血がついてしまった」

 シマダは言いながらロッカーを開いて新しい白衣を取り出し、袖を通した。

 他のスタッフの目は、瞬く間にモニターを埋めていく四文字のアルファベットに引きつけられていた。中森の作業の素早さは魔術的な魅力を備えていたのだ。

 準備を終えた中森は言った。

「さて、こんなものかな。では、チェックしてみますよ」

 中森がマウスを使ってデータ検索のプログラムを走らせると、一分もしないうちにモニターに答えが出た。

『該当するデータはバンクに登録されておりません』

 白衣のポケットに手を突っ込んで画面を覗き込んでいたシマダがうなずいた。

「やはり情報量が足りないのだ。それとも、そこに書いてあるDNAはでたらめなのかも……」

 中森はあきらめなかった。

「データの冒頭部分だけを突き合わせましたからね。ちょっと時間はかかりますが、今度はデータ全体を通して、どこかに同一の箇所がないかを検索させましょう」

 中森はさらにマウスとキーボードを操作した。その結果は中森の予測に反し、一分もかからずに表示された。

『サンプルのDNAは九八・八パーセントの確率でC・ELEGANSの消化器官のDNA配列と一致します。さらに詳しいデータを必要としますか?』

 にやりと笑った中森はマウスを離すと、パンと両手を叩き合わせた。

「ビンゴ。でも、C・エレガンス……って、何です?」

 シマダが感心したようにモニターを覗き込んだ。

「線虫の一種。地中に棲む、体長一ミリ程度のミミズのような生きものだ。ケンブリッジの医学研究所の手でゲノムが完全に解析されて現在の遺伝子工学の基礎になっている。君、思っていた以上に腕がいいな。一時間は待たされると思っていたよ」

 中森は事もなげに言った。

「ちょっとしたアイデアでね。最近引き出されたことがあるDNAデータから優先的に検索させたんです」

 シマダはうなずいた。

「今度は私の下で働いてみないか?」

 中森は肩をすくめた。

「檻から生きて出られたら考えてみましょう」

 室井が割って入った。

「その線虫のDNAデータは、スフィアの端末でも引き出せるということなんだね?」

 中森がうなずく。

「こっちのデータバンクに入っていましたから、どこからでもアクセスできます」

「それじゃあ手がかりにはならんな……」

 中森が言った。

「そうでもありませんよ。この種の情報を引き出すには個人コードの入力が必要です。取り出したのが過去一ヵ月以内なら、記録が残っている可能性はあります」

 中森は言いながら、すでにマウスをクリックしていた。モニターと素早く対話を繰り返しながら情報を絞り込んでいく。

 大西が呆れたように言った。

「手が早い人だな……」

 中森はマウスを止めないまま笑った。

「別にガードを破ろうってわけじゃありませんから。こんな素直なシステムなら居眠りしていたって――ほらね、捕まった」

 室井が言った。

「もう分かったのか。で、いつ引き出されている?」

「つい、一時間ほど前」

 全員が息を呑んだ。

 しかし椅子を回してスタッフと向かい合った中森は、困惑をあらわにしていた。

「まいりました……鳥居さんですよ。彼女がDNAのデータを引き出したなんて……何をやらかす気だったんだろう……?」

 大西が言った。

「僕を罠にかけようとしたのが鳥居さんだったと? 何だか信じられませんね……。失礼ですが、間違いはありませんか?」

 中森は答えた。

「画面を見てください。少なくともファイルにはそう書き込まれています。個人コードは他人に知らせられないから、記録には使った人物の名前が残るんです。誰の仕業であろうと、鳥居さんのコードで入力したことは確かですね」

 仁科がつぶやいた。

「彼女、かつてはBTIの社員だったのだろう? しかも、死ぬ前にもBTIがどうとか言っていた……」

 室井がうなずいた。

「我々は〝不愉快な雑用係〟としか考えていなかったが、それ以上の秘密を持っていたんだろうか……」

 仁科は言った。

「もしかしたら鳥居君は、石垣と組んでスパイ行為を働いていたのかも……。だとしたら、石垣を殺したのは彼女かもしれない」

 大西は首をひねった。

「それでは、天野さんを殺したのも鳥居さんだと?」

 仁科はうなずいた。

「考えられないことではあるまい? 少なくとも、我々に監視されずに自由に動き回れる立場にはあった。医務室で眠っていると思っていたから、誰も気に止めていなかったしね……」

「だとしたら、どうして鳥居さんはエアロックなんかに? 死ぬと分かりきっていたんじゃありませんか? 手を焼いたことだって妙です」

 仁科はしばらく考えてから応えた。

「掌紋を消したのは、容疑者の枠から外れるための偽装だったのではないか? しかもそのおかげで医務室に一人で残り、自由に活動できる時間を得たのだしね」

「でも、鎮静剤を射っていたんでしょう?」

「ごく小量だったからね。全く意識を失うほど射ったら、移動しなければならない時に手がかかると思ったからだ。極端な緊張状態にあったなら効果が薄れることもある。体重や体質でも効果は大きく左右される」

「それにしたって、あの〝自殺〟は解せませんよ……」

「うむ……だが、精神的に追い詰められた人間は思わぬ行動に走るのが常だ。それまでは何とか正常な意識を保っていたものの、土壇場で本当に精神に異常をきたしたということも考えられる……」

「本当にそうなら、辻褄は合いますがね……」

 大西は考え込むばかりだった。

 その間にも中森は、何かを思いついたようにマウスを操作していた。

 手を止めた中森は芦沢に言った。

「やっぱりだ。もっと早く調べてみるべきだった」

 芦沢は中森をにらみ返し、苛立たしげに言った。

「何だ? まだ私が犯人だと言いたいのか⁉」

「メンテナンス・コードの指示記録を調べたんだ。考えていた通り、今日だけで三回も入力されていた。温室のスプリンクラーと畜舎の大気循環装置、そして水蒸気の循環装置だ……」

 室井が身を乗り出す。

「指示した人物が特定できたのか⁉」

 中森は室井に目を移した。

「もちろん」

「誰だ⁉」

 中森はつぶやくように言った。

「予想していた通り、芦沢さんの名前になっています」

 室井は芦沢に問いただした。

「何か言い分があるかね?」

 芦沢はうめいた。

「馬鹿な……犯人のトリックだ……私は、何もしていない……」

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