『湖』の崩壊・3

 火葬を終えたスタッフたちは、シマダの地下ウイルス研究室――Vラボを確認するためにコア・キューブに戻った。2番出口から真っすぐ伸びた廊下の先は、エアロックにつながる階段に続いている。

 が、仁科はコア・キューブに入ったとたんに異常に気づいた。

 廊下の突き当たりに明かりが見えていたのだ。

「なぜ照明がついている?」

 そこは、室井が照明のスイッチを切った場所だった。

 室井は周囲を見回した。

「誰かエアロックに行こうとしているのか⁉」

 仁科がつぶやく

「しかし、ここにはみんな揃って――」

 はっと身をひるがえした仁科は、医務室のドアに飛びついた。ベッドに寝ているはずの鳥居が消えている。

「鳥居だ!」

 室井は叫んだ。

「止めろ! エアロックに入ったら、とんでもないことになる!」

 仁科は走り出した。大西たちが続く。

 大西は走りながら叫んだ。

「エアロックは中から開けられるんですか⁉」

 仁科が答える。

「内側のドアはスイッチを押すだけで開く。だが外のドアは、外からしか開けられない。しかもドアを閉じると、エアロック内は自動的に真空になる! 宇宙服のロッカーの鍵は室井さんしか持っていない!」

「彼女は知っているんですか⁉」

「もちろん!」

 室井夫妻が彼らのスピードについていけずに、遅れ始める。

 息を荒らげたスタッフたちがエアロック前に駆け上がった時には、内部扉は半分以上降りかけていた。そしてさらに、ゆっくりと下がり続けている。

 ドアの脇のガラス扉の中には三着の宇宙服が手つかずで残されていた。

 先頭に立ってエアロックのドアに飛びついた仁科は、強化ガラス越しに鳥居が宇宙服を着ていないことを確かた。

「鳥居君! スイッチを切れ! 扉を閉じるな! 死ぬぞ!」

 鳥居は扉の向こうから叫び返した。

「騙されないわよ! 私はここを出るんだから!」

「馬鹿な! 空気がなくなるぞ!」

「私は出るのよ!」

 ドアはさらに下がっていく。床との隙間はすでに三〇センチほどしか残されていなかった。壁の内部に仕込まれたモーターで動かされているドアは、人間の力では止めようがない。そのドアが降り切ると同時にエアロック内の空気は排出される。

 ドアの強化ガラスの窓から、スタッフは鳥居の顔を見た。

 分厚い眼鏡の奥の目は、熱に冒されたように狂気をにじませている。

「私は逃げるのよ……ちゃんと迎えが来るんだから……ここを出て大金持ちになるのよ……」

 仁科は着実に下がっていくガラスを拳で叩いた。

「何を言っているんだ⁉ 狂ったか⁉」

「狂ってる? 狂っているのはそっちよ。ナカトミなんかにいいように使われて、こんな場所で殺されていくなんて……。私は出るのよ……ははは……出るのよ……BTIに行って、大金持ちになるのよ……あははは」

 仁科は大西に命じた。

「つっかえ棒になるものはないか⁉ ドアの下に挟むんだ!」

 大西は辺りを見回した。壁に、消火器と斧が取りつけられていた。大西は斧を外して仁科に手渡した。

「これを!」

 斧を受け取った仁科は、その柄をドアの下に突っ込んだ。

 わずかな隙間に挟まった木の柄が、辛うじてドアの降下を止める。かすかにモーター音が変化すると、動きを阻まれたドアが上昇していく。

 仁科が叫ぶ。

「鳥居君、出るんだ!」

 仁科の背後には息を切らせた室井たちが駆けつけていた。

 鳥居は異常に釣り上がった目で、ガラス越しにスタッフたちをにらみつけた。

「邪魔させないわよ! 私は出るのよ! 大金持ちになるんだ! それだけの仕事はしたんだから!」

 鳥居の言葉を無視して、室井が叫んだ。

「ドアが閉まると空気がなくなるぞ!」

「嘘よ……騙されないわよ……私はあんたたちほど馬鹿じゃないのよ!」

 鳥居はエアロックの中から斧の柄を蹴った。斧は滑らかなプラスチックの廊下を滑り、二、三メートル離れた。

 仁科は叫びながら斧を押さえようと身をひるがえした。

「馬鹿な!」

 再び斧を握ってドアに向かう。

 しかし障害物を取り除かれたドアは、すでに降下を再開していた。もう柄を挟み込む隙間さえ残っていない。

 仁科はガラスに張りつくように身を寄せて命じた。

「鳥居君! 中の解除ボタンを押せ! まだ間に合う! ドアを開くんだ!」

 鳥居の目は、仁科の背後を見つめていたようだった。

「みんな、人殺しよ……騙されるものですか……死ぬもんですか……BTIが助けてくれるんだから……」

 仁科は叫んだ。

「みんな離れて!」

 スタッフが退くと仁科は斧を振り上げた。渾身の力を込めて刃先を強化ガラスに叩きつける。しかし斧は虚しく跳ね返された。

 さらに斧を打ち込む仁科の背後で、室井たちが正気を失った鳥居の顔をじっと見つめていた。

 室井がつぶやく。

「無駄だ……このガラスはどうやら、シェルと同じ素材らしい……」

 ドアが完全に閉じた。

 壁の中で新たな音が起こった。空気を排出するポンプ音――。

 仁科は斧を捨てて、両手でドアのガラスを叩いた。

「解除ボタンを押せ! 壁の赤いボタンだ! 開けろ! 早く! 早くボタンを押せ!」

 中の鳥居は何事か答えたようだった。しかしその声は厚いドアに阻まれて、外には届かなかった。

 大西がつぶやく。

「空気を抜くのを止められないんですか、こっち側から……?」

 室井が茫然と首を振った。

「解除ボタンは中にしかない……」

 仁科たちを嘲笑うように見つめていた鳥居が、不意に天井を見上げた。空気がなくなりつつあることにようやく気づいたのだ。

 峰が叫ぶ。

「ボタンを押して! 早く!」

 しかし鳥居は喉をかきむしってもがき始めた。その目は恐怖に見開かれ、焦点を失っている。

 仁科が叫ぶ。

「まだ間に合う! ボタンを押せ! 頼む、押してくれ……」

 鳥居はガラスに顔を張りつけて唇を動かした。

 スタッフたちは一様に、その言葉を聞いたように感じた。

『たすけて……』

 室井が叫ぶ。

「ボタンを押すんだ!」

 鳥居の見開かれた目が眼鏡の奥でゆっくりと膨れあがり始めた。額に血管が浮き、激しく波打つ。右手の火傷に巻かれた包帯がほどけて垂れ下る。両手の爪が虚しくガラスをかきむしる……。

 仁科はつぶやいた。

「だめだ……手遅れだ……」

 直視できずに目をそらした大西は、茫然とガラス面を見つめる峰の視線に気づいた。

 峰は恐怖に我を失い、悪魔に魅入られたように目を離せずにいるのだ。

 大西は峰の肩に手を添え、そっと身体の向きを変えた。峰は無言で大西の肩に顔をうずめた。

 大西の耳にかすかな嗚咽が伝わる。

 女たちは皆、真空状態の中で膨れあがる鳥居の顔から視線を外していた。

 中から激しくドアが叩かれる。

 大西は峰の頭を抱いたまま振り返った。

 鳥居が最後の力を振り絞ってガラスを打ちすえていた。その顔はすでに人間のものには見えなかった。

 膨れ上がった顔から飛び出した眼球で眼鏡は外れかけ、鼻や口からは沸騰する鮮血が噴き出している。顔の皮膚全体が無数の生き物の集まりのようにざわざわと波打ち、引きつっていた。ホラー映画のモンスターさながらの不気味なオブジェは、それでも懇願するように大西たちを〝見つめて〟いる――。

 ドアを叩く間隔は次第に長くなり、力は弱くなっていった。

 鳥居は喉に手をやった。自らかきむしった爪の先で、皮膚が大きく剥がれて肉が露出した。そして次の瞬間、鳥居の顔は、大西たちが見つめる前で弾け飛んだ。ドアのガラスは鮮血と肉片で真っ赤に染まった。

 空気排出のポンプ音が止まった。真空状態に達したのだ。

 顔を上げた峰は視線をドアに戻し、静かに言った。

「エアロックはもう開けられないの?」

 肩を落とした室井が事務的な口調で答えた。

「五分以内に外側のドアが開かなければ、また室内の空気が入る。そうすれば、こっちから開けることができるが……」

 仁科がぽつりと言った。

「これで四人目か……」

 芦沢が応えた。

「しかし、殺人じゃありません。明らかに自殺ですよ……」

 だが、大西はつぶやいていた。

「本当にそう言えるんでしょうかね……?」

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