『湖』の崩壊・1

 魚が死んでいた。

『湖』の表面は、腹を見せて浮かんだ大小さまざまな魚たちでおおい尽くしていたのだ。

 身を切られるような叫びを発したのは、先頭になって岸辺に駆けつけた峰だった。

「嫌よ! 何だって、こんなことに! 誰がこんなひどいことを……」

 湖岸に座り込んで打ち上げられた魚を手に取ろうとした峰に、背後から仁科が命じた。

「触っちゃいかん!」

 凍りついたように動きを止めた峰はゆっくりと振り返り、肩越しに仁科を見上げた。

「いけない……って?」

 仁科は魚の死骸に覆われた水面を見つめながらつぶやいた。

「分からないか? なぜ急に、こんなに大量の魚が死ぬんだ? さっきまでは何ともなかったのに……」

 峰は息を呑んだ。

「毒が……?」

「他に理由があるか?」

 遅れて駆けつけた室井が、仁科の言葉を聞いて言った。

「『湖』を毒で汚染して何の得があるんだ? スタッフ全員が閉じこめられているっていう時に、そんな無謀なことを……」

 大西が不意に気づいた。

「飲み水は大丈夫なんですか?」

 室井は大西を見つめた。

「備蓄はある。しかし、多くはない。今のようにシステム全体が狂ってしまっては、正常な大気循環から回収できる水も期待はできない。それが切れれば『湖』の水を濾過して飲むしかなかった……」

 シマダが質問した。

「備蓄量はどれぐらいだ?」

「飲み水だけに使えば、一週間は保つ。……人数も減ったことだしな」

「貯めてあるのはどこです?」

 室井はコア・キューブ上の水蒸気回収タンクを見上げた。

「あそこに――」

 室井は、その先を続けられなかった。

 暗がりに慣れた目をこらすと、球形のタンクのすぐ下のパイプから水が吹き出しているのがはっきりと見えたのだ。

 芦沢が叫んだ。

「大変だ!」

 芦沢は考える間もなくコア・キューブに飛び込んだ。

 中森が叫びながら後に続く。

「水漏れを止めます!」

 室井は茫然とタンクを見つめたまま立ちすくんでいた。

「まさか……まさか、そんな……」

 シマダが淡々とつぶやいた。

「これで犯人が『湖』に毒を入れた理由は分かったな」

 室井がシマダを見る。

「どうしてだ?」

 シマダは言った。

「むろん、スタッフから飲み水を奪うためだよ。しかし、なぜ犯人は、そんなことをしなければならないのか……?」

 答えたのは大西だった。

「ミスターXの目的は、畜舎の爆破と同じでしょう。犯人はきっと『生き残ったスタッフの中の誰かがエアロックを開ける権限を与えられている』と考えているんです。だから、次々にスフィアで生存できる条件を悪くしていって、自分を含めた全員を外に出す他にない状況を作り出そうとしている……」

 そして大西は、室井とシマダを交互に見つめた。

 大西の考えが正しいなら、エアロックの〝鍵〟を握る人物はその二人の他には考えにくい。しかし二人は、それらしい気配を表情には現わさなかった。

 大西の意図を察した峰が、ぼんやりと立ち尽くす室井の肩を両手で掴んで揺すった。

「室井さん! どうなんですか! あなたはエアロックを開けられるんですか⁉ 本当のことを言ってください!」

 室井は我に返って首を振った。

「私は違う……。私が掌紋で開けられるのは、地下倉庫の扉だけだ。シマダさんのことは知らんが……」

 峰に見つめられたシマダもうなずいた。

「私の答えも同じだ。私の掌紋が使えるのは地下のVラボ関係のものだけで、他には通用しない。もし犯人が、私にエアロックが開けられると考えているなら大きな間違いだ。こんな愚かなことをしていれば自滅を早めるばかりだぞ」

 が、仁科はシマダを鋭い目でにらんでいた。

「『湖』に毒を入れたのはあなたではないのですか?」

 自分が非難されていると気づいたシマダは、首をひねった。

「私が? この『湖』に毒を……?」

 仁科はシマダのいぶかしげな視線を見返しながら言った。

「そう。あなた自身が造り出した毒を」

「何を言っているのだ?」

「あなたは、ヒトへの感染性を持つレトロウイルスに遺伝子組み替えを行なったことを認めた。そしてその作業を行なう研究所としてこのスフィアを選んだのは、バイオハザードを防ぐためだった。つまりあなたは、生体に危険をもたらす実験をしていたわけだ。万一そのウイルスに天野君が感染していたのなら……」

 室井がうめいた。

「血液か……」

 仁科はうなずいた。

「天野君は血液を抜かれていましたが、その多くは『湖』に流れ込んだはずです。水の色が真っ赤だったのは見たでしょう? もし魚を殺したのが、天野君の血液に混入していたウイルスだとしたら……」

 シマダは鼻の先で笑った。

「妄想だな。私が研究していたのは、そんな危険なウイルスではない。人類に明るい未来をもたらすエイズ治療薬だ」

 仁科は引き下がらなかった。

「それが事実だとしても、実験の途中で生体に有害なウイルスが発生しないとは言いきれない。さらにそれをナカトミが知れば、生物兵器としての可能性を考慮してウイルス株を保存しようと画策するかもしれない。そもそもMSPの目的自体が生物兵器開発だった可能性だってあります。そうだとしたら、必要以上の知識を持った研究者を抹殺する理由にもなりかねない。もしもシマダさんの研究が、すでに完成していたのだとするならば……」

 峰がシマダを見つめて叫んだ。

「三人は口封じに殺されたって言うの⁉」

 仁科は哀しげに首を振った。

「ありえない話ではないだろう? それとも、彼らがシマダさんが開発した未知のウイルスに感染していたことを隠蔽するために……とかね。殺した後に右手を切るのは、ウイルス汚染から目をそらせる偽装だったのかもしれない。だとすれば、殺されるのは彼らだけじゃなくて、私たち全員なのかも……」

 シマダは、呆れ果てたというように肩をすくめた。

「仁科君、君の役目はスタッフの精神を正常に保つことではないのか? その君が、ハリウッド映画まがいの妄想に取りつかれてどうするのだ?」

 しかし、仁科は真剣だった。

「あなたが秘密研究のリーダーだったことは事実なんでしょう? ならば、天野君たちの身体に新種のウイルスを植え込むことも可能だったのでは? 天野君の血液を抜いたのはウイルスのサンプルを保存するためか、人体への影響を調べる試料を残すためだったのではありませんか?」

 峰がつぶやいた。

「生物兵器の生体実験……?」

 シマダは溜め息混じりに答えた。

「何の根拠があって、そのような空想をもてあそぶのだ?」

「畜舎の動物が殺されたこともあります。直接の死因は一酸化炭素による窒息でしょうが、なぜ犯人はあんな仕掛けを施したのか……。畜舎を爆破したことも証拠湮滅だった可能性が高い。私には、あなたの作り出したウイルスが原因だとしか思えません」

 シマダはいくぶん声を荒らげた。

「ウイルス感染の危険性を誰よりも知っている私が、自分自身をそれほど危険な環境に閉じこめると思うのか? しかも、スフィアを出る方法さえ発見できない、こんな時に⁉」

 仁科は、シマダの反論を聞こうとしなかった。

「あなたはナカトミと独自の連絡網を持っているんじゃありませんか? でなければ、責任者の室井さんに気づかれることなくウイルスの研究を続けることは不可能です。だとするなら、どんな場合でも自分だけは助かる抜け道を確保していても不思議はありません。なにしろ、ナカトミの幹部が味方についているんですから。あなたは、彼らの命令で動かされているのですか? たとえば、スタッフ全員を殺した後でエアロックが開く、とか……」

 シマダは仁科の疑いを鼻の先で笑い飛ばした。

「それならなぜ、私は今、これほど愚かな中傷に耐えていなければならない? 君が言うように私がマッド・サイエンティストであるなら、とっくに君たちを見捨ててシェルの外から人体実験の成果を楽しんでいる」

 だが仁科も引き下がろうとはしない。

「さて、どうでしょうかね。あなたが外に出ないのは、出ることを許されないからだということだって考えられます。ナカトミの幹部は、まだあなたに任務を与えているのではありませんか?」

「任務だと?」

「少なくとも、実験の後始末は命じられていたはずです。そのために、脱出の機会を失ったという考え方もできます。まず第一に、あなたはウイルスを使用した人体実験の結果を見届けなければならなかった。第二に、何らかの理由で実験動物を処分しなければならなかった。第三に、生きたウイルスの標本を確保しなければならなかった――それだけの大仕事が終わったのは、天野君が死んだ後だったのではありませんか? あなたは逃げ出す準備が整う前に、私たちに捕えられてしまったのではないんですか? それとも、残った我々をまだ実験材料にしようと企んでいるのか……。自分だけが新種のウイルスに対するワクチンを投与していることだって考えられます。なにしろあなたは、遺伝子操作においては人類最高の頭脳なんですからね」

「君は、死んだ三人に病死した痕跡でも残っていたとでもいうのか⁉」

 スタッフの視線が仁科に向かった。

 仁科はシマダをにらみつけながらも、急速に自信を失ったように答える。

「いいえ、私の検死では打撲や窒息の他の症状は発見できませんでしたが……」

「当然だ。私が開発したウイルスには人体への危険性はない。そんなものがなぜ生物兵器などと呼べる⁉」

 峰がシマダに目を移し、うめくように言った。

「人体には影響がなくとも、水中の生物を殺せるなら立派に兵器と言えるんじゃないかしら? たとえば、ヒトの体内で繁殖して、排泄物を通じて海の食物連鎖を破壊するとか……」

 シマダは、わざとらしい溜め息をもらして肩をすくめただけだった。

 仁科は室井を見ながら言った。

「確かに、死体には疾病を感じさせる痕跡はありませんでした。だからといって、ウイルス感染を否定する気にはなれませんね。これが馬鹿げた妄想なら、その方が助かります。しかし、これ以上スタッフへの危険が増大する可能性だけは封じ込めておくべきです」

 室井はシマダの腹立たしげな表情をうかがいながら答えた。

「何か方策があるのか?」

 仁科はうなずいた。

「三人の死体を完全に焼き払います。できれば畜舎の動物の死体も」

「高崎と石垣君の死体も、か?」

「彼らも、ウイルス感染を隠蔽するために殺されたのかもしれませんからね」

「どうしても必要なのか? 殺人の証拠になる死体をむやみに焼却すると、後々の捜査を妨げることになるが……?」

「最終的な判断はあなたにお任せしましょう。しかし、このスフィアに未知の毒素を持ったウイルスが放たれた可能性は否定できません。医師としては、感染の拡大を防ぐ手段を講じることを進言せざるをえません」

「死体は重要な証拠物件なのだがな……」

「今は、我々が生き残ることの方がはるかに重要です」

 室井もうなずかざるをえなかった。

「焼くといっても、方法はあるのか? ただでさえ異常になってしまった大気組成を、さらに危険な状態に変えないか?」

「酸素ボンベが一本必要になるでしょう。全ての死体を集めて、酸素を送り込みながら火を放ちます」

 室生はスタッフを見渡した。

 峰がうなずく。

「私も仁科さんの判断に賛成です」

 シマダは苦々しく笑っていた。

「無駄なことを……」

 室井は最後に、妻の顔色をうかがった。

 室井裕美は小さくうなずいた。

「やるしかないようね」

 かすかな溜め息をもらした室井は、仁科に命じた。

「すぐに準備を始めてくれたまえ」

 そこに芦沢と中森がコアから戻った。二人は、ぐったりと肩を落としていた。

 室井は結果を知りながらも、問いたださないわけにいかなかった。

「タンクの残量は?」

 芦沢が答えた。

「ほとんどゼロです。パイプは接続部分のボルトを外されていました。明らかに破壊工作です」

「なぜコンピュータは異常を報告しなかったのだ?」

 中森が芦沢を横目で見ながら説明した。

「またしても、メンテナンス・モードです。十五分ほど前に水量感知センサーが切られていました。犯人がスフィアの管理システムを隅々までを知り尽くしていることは確かです。これで私たちは、飲み水まで奪われたわけです」

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