第三の右腕・3

 天野の死を伝えた無線連絡から十五分後、行方をくらましていた三人の男たちが温室に集まった。

 柴田と芦沢は、天野の死を衝撃をもって受けとめたように見えた。

 最後に姿を見せた中森の動揺は、特に激しかった。

 パワーブックを小脇に抱えて温室へ現れた中森は、厳しい表情で芦沢に歩み寄った。

 芦沢がつぶやく。

「何だ――」

 芦沢の前に立った中森は、いきなり両手でつかんだパワーブックを振り上げた。

 危険を察した芦沢が腕を上げて顔を守る。

 中森は、その腕にパワーブックの角を叩き下ろした。

「死ね! 貴様が京子を殺したんだ!」

 芦沢は身体をよじって攻撃を避けた。

 スタッフは、とっさのことで動けない。

 中を割ったのは、大西だった。

「落ちついて!」

 中森はパワーブックを放り投げて、大西に飛びかかっていく。

 しばらく揉み合った末に、大西は中森の腕を背中にねじ上げた。

 中森は唇を震わせて、芦沢をにらみつけている。ぽつりとつぶやいた。

「殺してやる……」

 芦沢は、感情を失った目で中森をじっと見返していた。

 数分後、理性を取り戻した中森は、室井と仁科に懇願して死体を確認した。それ以降、一切口を開いていない。そして、芦沢を見る目には一段と激しい怒りが渦巻いた。

 そして全員が、医務室へ向かった。

 医務室は、たった一人の男――柴田だけを裁く〝法廷〟と化した。

 室井が言った。

「柴田君。これ以上、君の勝手な振る舞いを許すわけにはいかなくなった。微生物班は君を残して三人とも死んで――いや、殺されてしまった。しかも、全員が右手を切り落とされている。私たちは『君がその理由を知っている』と考えている。君が管理していた極秘の研究こそが大量殺人の原因だと判断している。さあ、話してもらおうか。君はここで何を研究していたのだ?」

 柴田は全員の冷たい視線を受け止めながら、それでも胸を張っていた。

「極秘の研究? スパイ小説まがいの言いがりですね。何の根拠があってそんな妄想を抱いたのですか?」

 室井も冷静に答えた。

「根拠は、君がジョージ・シマダであるという事実だ」

 柴田は、はっと息を呑んだ。

 シマダの名に気づいた何人かが悲鳴に近いうめきをもらした。

 ようやく落ち着きを取り戻した中森が言った。

「ジョージ・シマダって……バイオ界のIBMとまで言われている、あのBTIの創始者……⁉」

 大西は彼らの困惑を無視して、シマダに向かって身を乗り出した。

「あなたはナカトミの幹部をも騙して、強引にMSPのスタッフに加わった。理由は『ここでしか実行できない実験を行なうため』だったのでしょう? むろん遺伝子の組換えを基本にした生物工学上の実験です。しかもその実験は、生物災害を引き起こす危険を伴う。でなければ、マイクロスフィアほど完璧な閉鎖空間を必要とするはずはありません。さらにその研究は、完成後に巨額の利益を生むことになるでしょう。〝生物産業界の帝王〟と呼ばれるあなたが、身分を偽って日本の離れ小島に閉じこもる理由になるほどの〝事業〟なのですからね」

 芦沢が言った。

「ちょっと待って。柴田さんは本当にジョージ・シマダなんですか? いきなりそんなこと言われたって、信じられませんって」

 中森がうなずく。

「柴田さんは一年半もスフィアにいたんだ。なぜBTIのオーナーが? ナカトミは最大のライバルなのに。だいたい、そんなに長い間、自分の会社を放っておけるはずがないでしょうが」

 大西が応える。

「ジョージ・シマダは、とっくにBTIを捨てているんです」

 中森は苛立ったように言った。

「だから、なぜ⁉」

 大西はじっと柴田を見つめている。

「僕も、それを聞くためのスフィアにやってきたんです」

 中森の目が大西に向かった。

「あんた、ただの記者じゃなかったのか⁉」

「『科学新報』というのはでたらめです。でも、記者には違いありません。詳しくは、後で。しかし、柴田さんの正体は見誤っていなかったようですよ。ほら」

 大西を見返す柴田の目は、真剣そのものだった。

 衝撃からさめた芦沢が、ようやくうなずいた。

「そうらしいですね……。なんてこった、こんな展開は予想もしなかった……」

 中森の目が鋭く光った。柴田をにらんでつぶやく。

「しかし、ある意味では納得もできる。BTIが手を出すほどの儲け話が絡んでいるなら、人が殺されてもおかしくはない。研究成果の独り占め――名誉も財産も思いのままだ。貴様が京子を……天野さんを殺したのか?」

 しかし柴田は、すでに冷静さを取り戻していた。

「ジョージ・シマダは、すでにその両方を手にしている。殺人を犯してまで今以上の名誉や財産を望みはしない」

 大西の口調は厳しい。

「しかし、名誉も財産も手にしているはずのあなたが、銀行家たちの戦略に手足を縛られて自由な研究を妨げられていたことも事実でしょう? そうでなければ、自分がビッグビジネスに育て上げたBTIを飛び出して、商売敵のMSPに参加するはずはない。それともあなたは、今でもBTIのトップとして働いているのですか? MSPのスタッフに加わったのは、一種のスパイ行為なのですか?」

 シマダはいくぶんか哀しげに肩をすくめただけだった。

 室井が念を押した。

「君は自分がジョージ・シマダであることを認めるのだね?」

 シマダはかすかに笑ったようだった。言葉づかいからも、それまでの控えめな態度が消え去っていた。

「隠していて殺人の濡れ衣を着せられるよりは、正体を暴かれたほうがましだ。その通り、私はジョージ・シマダだ」

 芦沢はじっとシマダを見つめている。

「驚きですよね、こんな有名人が身近にいただなんて……。そういえば、滅多に写真が出ることのない人でしたからね。僕が知っているシマダさんは……そうか、 MITを首席で卒業したときの記事だけだな」

 大西がうなずく。

「だから僕も、取材には苦労したんです」

 峰がシマダに言った。

「しかし、あなたは濡れ衣と言いますが、今まで起こった三つの殺人全部を行なえる条件にあったことは間違いありません。あなたは三人が殺された時、いずれも一人で行動していたんですから」

 シマダはそれでも動揺を見せなかった。室井に向かって言う。

「私のアリバイは、中森君や芦沢君と変わりはない」

 芦沢が叫んだ。

「石垣が殺された時、私はサロンにいたんだ!」

 シマダはうなずいた。

「それは事実だ。だが、『三人が同じ犯人に殺された』という証拠がないことも事実だ。私が微生物班を率いていたことが怪しいというなら、中森君はコンピュータを自在に操る能力を持ち、芦沢君は異常ともいえるミステリーマニア――どちらも連続殺人の犯人としては有望ではないか? 他の誰かと手を組んで何かを企んでいる可能性も充分に考えられる。何よりも、畜舎の爆発の一件が怪しいではないか」

 芦沢は言った。

「あれは私とは関係ない! あんたじゃないなら犯人は中森だ! こいつがセキュリティ・ガードを破ったに決まっている!」

 中森が反射的に叫ぶ。

「何度言えば分かるんだ⁉ 私はそんなことはしていない! 誰も殺していない! 石垣は私の親友で、京子は……結婚さえ考えていた相手だったんだ……それを……それを……」

 中森は頭を抱えてうつむいた。

 芦沢は不満げに鼻を鳴らした。

「ミステリーマニアが人殺しだっていう屁理屈よりはよっぽど現実性が高い」

 シマダは芦沢に向かって冷たく微笑んだ。

「退屈をまぎらわせるために人を殺す狂人など、この世には珍しくもない。畜舎の爆破について納得できる説明ができないなら、君はやはり容疑者から外せない」

 芦沢はうんざりしたように顔をそむけただけだった。

 室井が冷たい口調でシマダに言った。

「犯人が一人であると考えるのは、犠牲者が全員右手を切り取られているからだ。犯人は明らかに微生物スタッフの右手を――おそらくは右手の掌紋を収集している。それがエアロックを開く鍵であるかもしれないという情報を我々は得ている」

 シマダは眉間に深いしわを寄せた。

「掌紋……? 死んだ彼らの、か?」

「エアロックをスフィアの中から開けるには、四人、あるいは鳥居君を含めた五人の掌紋が必要なのだろう?」

 シマダは軽く吹き出した。

「なるほど……君らはあの掃除婦の妄想に怯えて、論理的な思考を停止したということか。そんなデマを言い触らしたのは鳥居なのだろう? それで、あの女は自分の右手を焼いたりしたのか……」

 室井は言った。

「鳥居君は、天野君の話を立ち聞きしたのだ」

 大西が中森に目をやった。

「中森さん、あなたは天野さんと掌紋が鍵になっている可能性を話し合いましたね? それは何らかの確証があってのことだったのですか?」

 中森は目を丸くした。

「天野さんと……? ああ、光ファイバーをチェックしに出た時ですか? とんでもない、彼女の話は単なる思いつきでした。私だって掌紋が鍵になるなんて真剣に考えていたわけじゃありません」

 室井は虚を突かれたように中森を見つめた。

「しかし掌紋が必要なら、手が消える理由は説明できる……」

 中森もシマダの顔色をうかがいながらうなずいた。

「瓢箪から駒――ってこともありますけどね……。手首が盗まれていることは事実なんですから……」

 しかしシマダは悠然と微笑んだままだった。

「冷静に考えたまえ。仮に掌紋でエアロックが開くなら、私は今頃スフィアの外で笑っていられる。すでに四人の手首は揃ったのだからな。天野君の身体からは血液が抜かれていたというのだろう? その作業に一体どれだけの時間がかかる? 十分間か? 三十分か? 彼女の右手を切断すればエアロックを開けられるなら、私はなぜスフィアで時間を潰した? 右手が手に入れば、血液を抜く必要はない」

 大西が言った。

「鳥居さんの掌紋が足りなかったからでは?」

「天野君が死んだ時点では、鳥居君が自ら手を焼いたことは全員が知っていた。それでも掌紋が目当てで天野君が殺されたのなら、鳥居君の手は必要ないということだ。大体、スタッフとして認められてもいない厄介者がそのような役目を担うはずもない。もしも掌紋が鍵になっているとすれば、それを狙っている犯人は私ではない。私は次の犠牲者だ。もっとも、そんなばかげた話はとうてい信じられないがね」

 シマダの主張は全員の口をつぐませた。確かに筋が通らない点が多すぎた。

 仁科がつぶやく。

「だが、それならなぜ犯人は右手を切り取るんだ……?」

 シマダは、自分を取り囲んだスタッフを哀れむように見回した。

「では、決定的な情報をお教えしようか。そもそも、マイクロスフィアのセキュリティー・システムでは生体反応のない掌紋は受けつけない。人の手のひらは、指の長さや関節の位置だけでなく、血管の場所や心拍数、そして体温の分布も異なる。掌紋センサーをそのすべてを総合的に分析するのだ。いくら本人の手であっても、切り取ってしまったら体温も脈動も失って〝鍵〟としての機能を失う。BTIの研究室ではP2区画でさえ同様のシステムを採用している」

 室井がようやく口を開いた。

「証明できるのか?」

「中森君に聞いてみたまえ」

 室井は中森を視線でうながした。

 中森は小さく答えた。

「その通りでしょう.。そういう保安システムが使われている研究所をいくつも知っています」

 室井はシマダに言った。

「しかし君は、なぜセキュリティー・システムの細部まで知っているのだ?」

「それは、私がマイクロスフィアの設計段階からMSPチームに加わっていたからだ」

 室井はうめいた。

「何だと……? では、君はナカトミとどういう関係にあったんだ……?」

「むろんナカトミは〝ジョージ・シマダ〟にMSPへの参加を求めてきたんだよ。マイクロスフィアで使用されているセキュリティー・システムは、産業スパイの暗躍がはなはだしいアメリカでの体験から私が進言したものだ。指紋と同じように、プロは掌紋でも偽造するものでね」

 一瞬絶句した室井は、すぐに落ち着きを取り戻していた。

「君の言葉は信用できない。密閉されたこのスフィアではスパイ対策など不要だ。それほど厳重なシステムを取りつける意味はない」

 シマダは鼻の先で室井の反論を笑い飛ばした。

「スパイ対策は無意味でも、鍵としての掌紋センサーは必要だった。ここで使用しているセンサーには始めから『産業スパイ対策機能』が標準装備されているのだ。ナカトミが売り出している、最もポピュラーな製品だよ。安価で信頼性が高いのでBTIでも使用していたものだ」

 大西がつぶやいた。

「するとやはり、あなたはずっとナカトミと……?」

 シマダは深くうなずいた。

「それがもう一つの事実だ。君たちは『ナカトミが私の正体を知らずにいた』と考えているようだが、それは間違いだ。私は〝BTIの創始者〟としてナカトミの誘いを受け、承諾した。名前を偽ったのは、彼らの方から『偽名を使って身分を隠してほしい』と懇願してきたからにすぎない」

 大西がうめくように言った。

「僕がナカトミに騙されていたのだ、と……?」

「考えてもみたまえ。日本の巨大資本と私の才能の結合は世界の同業者を震撼させる脅威だ。それは即、BTIの牙城を脅かすことになる。BTIを作り上げた本人の私が、銀行家どもに乗っ取られた古巣に牙を剥こうというのだからな。これほどの大事件を迂闊に公表すれば、どんな妨害工作を受けるか予測もできない。ナカトミが『どこからか秘密を探り出してきた目ざわりな記者の口を塞ごう』と考えたのも当然だろう?」

 大西はつぶやいた。

「僕はスフィアに〝幽閉〟されたのだ……と?」

 シマダはうなずいた。

「事実を否定してつまらぬ噂を言い触らされるより、はるかに利口だ。いったんスフィアに取り込んでしまえば、君をいつ外に出すかはナカトミの自由になる。君の雇い主にはナカトミがそれとなく圧力を加えれば、行動は起こせん。ナカトミには彼らを黙らせるだけの財力があるのだからな。掲載公告をキャンセルされた上に政治家が口を挟んだりすれば、それ以上この件に探りを入れることはできまい?」

 大西はぼんやりとつぶやいた。

「僕は、ここで殺される運命だったのか……?」

 シマダは微笑んだ。

「とんでもない。マイクロスフィアのエアロックが開くのは、私が満足できる研究成果を上げた時だ。その時点で、私とナカトミの協力関係は秘密にする必要がなくなる。逆に、どうやってそれを世に知らしめるかの方が関心事に変わる。そんな場合に、研究を間近で見続けていた記者がいれば好都合ではないか? 君は、私とともにスターになるべくスフィアに取り込まれた不可欠な人材だったのだよ」

 大西はシマダの目を見つめながら尋ねた。

「ご自分の推測にずいぶん自信がおありのようですね」

「推測ではないからだ。ナカトミの上層部に君の扱い方を進言したのは、私自身なのだ」

 大西はそれでも食い下がった。

「しかし、あなたはなぜ、このスフィアを研究室に選んだのですか? 本国でならもっと優れた研究室を持てたでしょうに……」

 シマダは冷たく微笑んだだけで、答えようとはしなかった。

 口を開いたのは峰だった。

「柴田さん……いいえ、シマダさん。あなたはここで何らかの病原体を操作していたのね? それも、人間への感染力を持った危険なものを……」

 室井がうなずいた。

「ジョージ・シマダともあろう研究者がマイクロスフィアの環境を必要としていたなら、理由は他にはない。ここは完璧な閉鎖空間――しかもどんな危険な実験をも妨害されない、世界にただひとつの場所だ。君は、この閉鎖性と秘密保持の体制を求たわけだ。私たちの命は実験材料の一部……最悪の場合、捨て石になる実験動物だったのか……?」

 シマダは仕方なさそうにうなずいた。

「もはや認めないわけにはいかんだろう。確かに私は、ここで極秘のウイルス研究を行なっていた。しかし『生命が危険にさらされていた』と言うなら、それは私も同じことだ。スタッフが危機に見舞われる時には、実験に携わっている私は真っ先にその矢面に立つ。当然、生物災害は起こさない自信はあった。アメリカではBTIからの妨害で私が望んだ研究が実行できなかっただけだ。その理由は、作業の危険性や倫理的な判断ではなく、企業利益を守ろうとするだけの極めて政治的なものだった」

 大西は言った。

「今は仮に、あなたの言い分が正しいとしておきましょう。それであなたは……いや、あなた方はここで何を作ろうとしていたのですか?」

 シマダはわずかに考え込んだ。そして一人うなずくと、言った。

「管理センターが崩壊した今となっては、隠しても意味はあるまい。私たちが開発しようとしていたのはレトロウイルスを基盤としたエイズ治療薬だ。逆転写酵素の生成を根本的に阻害する、画期的な治療ワクチン――あと数か月を見込めばそのワクチンが完成できるところまで作業は進んでいた。これは現在化学治療に広く用いられているAZTなどの逆転写酵素阻害剤とは全く性質が違うものだ。いったん投与すれば死ぬまで効果が持続する。しかも耐性は生じないし、全く副作用を起こさない」

 峰がつぶやいた。

「エイズワクチン……」

 室井が言った。

「本当なのか? 実験動物もいないスフィアの中で、どうやってそんなワクチンを開発できるのだ?」

 シマダは微笑んだ。

「実験動物は飼っているのだよ。私たちの足元の、森林バイオームの地下でな。もっとも、数は充分ではないがね」

 室井が息を呑んだ。

「そんな……私は、そんな重要なことも知らされていなかったというのか……?」

 シマダはかすかにうなずいた。

「私の研究はナカトミが財閥の命運を託したプロジェクトだからね。安易に多くの人間に知らせることはできない」

 室井はもはや反論すらできずにいた。

 仁科が目を見開いてうめく。

「まさか……。君たちがワクチンを開発していたことが事実だというなら、それを証明してみたまえ! どんな方法で逆転写酵素を阻害するのか、説明できるのか⁉」

 シマダは冷静に仁科を見つめて、肩をすくめた。

「君に理解できるといいのだがね」

「私だって医者の端くれだ。HIVに関しては一応の知識は持っている」

 シマダは、息を詰めたスタッフ全員を見渡した。

「よろしい、なるべく噛み砕いて説明しよう。仁科君、HIVの遺伝情報――すなわちRNAがいくつの文字で出来上がっているか知っているかね?」

「ほんの一万足らずだ」

「その通り。だが彼らはその限られた情報を何重にも使って複雑な機能を発現させる。なぜそんなことが可能なのか……それはHIVがフレームシフトというトリックを駆使するからだ」

 大西は首をかしげた。

「フレームシフト……?」

 仁科が説明した。

「生物は全てDNA、あるいはそれを転写したRNAの文字を三つずつに区切って、その暗号をアミノ酸に翻訳する。そうやって生命活動に欠かせないタンパク質を合成していく。三文字の暗号で指定されたアミノ酸をビーズ手芸のように順番につなげていくことで、結果的に複雑な立体構造を持ったタンパク質を作り出していくわけだ。その三つの文字の集まりを『コドン』と呼ぶが、延々と並んだ暗号をどの場所で区切るかはそれを指令する『開始コドン』が決めている。その区切りをフレームと呼ぶ。フレームは理論上では三種類あるが、正しい蛋白質を組み立てられないフレームで翻訳してしまっては生物が成り立たない。区切りの位置がひとつずれて翻訳されるとまるで違ったアミノ酸がつなげられて、意味をなさない単なる〝物質〟が出来上ってしまう。だから開始コドンは非常に重要だ。ところがHIVには、逆転写酵素を作る遺伝子に開始コドンが存在しない。しかも、遺伝子――HIVの場合はRNAを遺伝子として使用しているが、そのRNAを蛋白質に変換している途中で、突然あるフレームから別のフレームに乗り替えるという離れ業をやってのける。これが『フレームシフト』で、生物学の常識を覆す振る舞いだった。HIVはこの非常識な方法を用いなければ子孫を残せない奇形生物だとも言えるわけだ。むろん、自己増殖能力を持たないウイルスを〝生物〟と呼ぶとして、の話だがね」

 シマダはうなずいた。

「なかなか要領よくまとめていただいた。それだけの知識があるのなら、私が行なってきた研究も理解していただけるに違いない。今、仁科君が説明してくれたフレームシフトは、ウイルスだけが持つ、しかも繁殖には絶対に欠かせない特殊な仕組みだ。この仕組みだけを選択的に阻害する方法が発見できれば人体に全く副作用を及ばさない治療ワクチンを実用化できるのだ。そして実際に、私はそれを完成させた」

 仁科が身を乗り出した。

「どうやって⁉」

「フレームシフトは簡単に起こる現象ではない。それをを起こさせるには、RNAのテープ上に特殊なシグナルが必要だ。シグナルの要件は、第一にRNAその部分に似通った文字が並んで判別しづらいこと。そして、その直後にRNAが絡み合った二次構造――簡単に言えば突起物が生じていることだ。フレームシフトが起こるのは、メッセンジャーRNAに並んでタンパク質を合成していくリボゾームが、その突起によって進行を妨げられるためらしい。このようなシグナルはウイルス以外には存在しない。当然、人のDNAに転写されてプロウイルスと化した情報にもこのシグナルが特異的な配列を表す。そこで私は、プロウイルスのシグナル部分を感知して、その部分のDNAだけを選択的に分断する高感度の制限酵素を開発した」

 大西がつぶやいた。

「専門用語が多すぎて、僕には理解できません。プロウイルス――って、いったい何ですか?」

 仁科が苛立たしげに言った。

「HIVに代表されるレトロウイルスは、遺伝情報としてRNAを持っている。それに対して普通一般の生物は、遺伝情報を収めるテープとしてDNAを使用している。それは、DNAがRNAより格段に物理的強度が強いからだ。しかしレトロウイルスは逆転写酵素を用いることで、自分のRNAをDNAの形に書き替えて宿主の細胞のDNAに侵入させる。人間のヘルパーT細胞に感染したHIVは、その細胞の機能を乗っ取って自己を複製する。この場合のように、宿主のDNAに同化してしまったウイルス由来のDNAを、プロウイルスと呼ぶ。レトロウイルスは細胞に侵入して〝自分そのもの〟を複製するのではなく、自分と同じ物を作り出す〝情報〟をヒトのDNAの中に忍び込ませるのだ」

 大西はうめいた。

「やっぱり、よく分からない……」

 仁科は吐き捨てた。

「分からないなら黙っていたまえ! シマダさん、『開発した』っていったい何のことですか⁉ DNAの特定の部分を捜し出して操作する技術なんて、まだこの世には存在しないはずだ⁉」

 シマダはうなずいた。

「私が世界で初めて作り出した技術だからね。プロテイン・エンジニアリング――蛋白質工学と総称されるノウハウを応用したものだよ。この基本技術は、ナカトミが私に接触する以前から形を整え始めていた。しかしBTIという、利益だけを求めるモンスターと化した私企業に食い潰され、研究の成果を公表することは許されなかった。そして私はナカトミと手を結び、MSPの進行と同時に『拡張制限酵素』――つまり、数百から数千にわたる複雑なDNA配列を感知して、そこだけを切断する酵素の生産技術を完成させた。その技術を用いてマイクロスフィアの内部で画期的なエイズ治療ワクチンを作り上げたのだ。プロウイルス化したフレームシフト・シグナルの部分に、HIVの増殖を抑える酵素を組み込む方法を実用化したのだ」

 シマダを取り囲んだスタッフたちはその言葉に意表を突かれ、口を開くことさえできずにいた。

 ただ一人、仁科がうめく。

「嘘だ……ヒトのDNAに同化した情報を書き替えるだなんて……そんな方法が開発されていただなんて……遺伝子が外部から改竄できるだなんて……」

「君が、いや全世界の研究者たちが知らなのは当然だ。それはBTI――いや、今やナカトミに属する最高度の企業秘密なのだからな。私を失ったBTIには、この拡張制限酵素を作り出すための最新データは残っていない。一方のナカトミにとっても、まだ完全な実用化には程遠いこの技術を今の段階で公表して得るものは何一つない。確実な利益を約束する成果を得て、なおかつ他社の技術レベルに決定的な差をつけてからでなければ、公表するわけにいかないのだ」

 その時、大西が尋ねた。

「技術的なことは全然分かりませんが、それで本当にエイズが治療できるのですか?」

 シマダは大西を見つめ、深くうなずいた。

「完全に治せる。といっても、治療ワクチンが出来上がったのは単なる偶然のいたずらだったのだがな」

 大西は首をかしげた。

「偶然……って?」

 シマダは、依然としてショックから立直れずにいるスタッフたちを見渡す。

「不当な誤解を避けるためにも、私の研究過程を明らかにしておいたほうがよさそうだな。さっき話した『拡張制限酵素』の基本技術を完成させた私は、マイクロスフィアの完成によってバイオハザードの危険を最小にできる研究室を得て、HIVの組み替えに取りかかった。当初作り出そうとしていたのは、単にHIVの増殖を抑えるワクチンウイルスだった。無害化したHIVをベクター――つまり遺伝子の運び屋として選び、ウイルスのタンパク質を作るRNAを増殖阻害酵素を作る遺伝子と置換したのだ。私はこのワクチンウイルスを『タイプA』と呼んでいる。タイプAには拡張制限酵素が組み込んであるために、悪性のHIVに感染している細胞にしか侵入することができない。たとえ健康な人の細胞に入り込んでも、自己の遺伝子を転写してプロウイルス化する能力を持っていないのだ。しかもタイプA自身はタンパク質を作る遺伝子を持たないために増殖能力がなく、感染後は消滅する予定だった」

 大西は、シマダの説明に敏感に反応した。

「予定だった……? 予定外の事件が起こったのですね?」

「その通りだ。我々は、タイプAを導入した感染細胞内でプロウイルス化したHIVが活性化して大量のクローンウイルスを作り出していく状態を観察した。当初は予定通り、HIVの増殖は押さえ込まれていた。しかしウイルスの増殖が最大に達した点で、異変が生じた。増殖力が抑制力を超え、タイプAの能力では完全に封じ込めることができなくなってしまったのだ。いったん活性化したHIVの増殖力は、それほど凄まじいものだった……」

「では、あなたの研究は全く無駄だったのですか?」

「とんでもない。通常HIVが活性化してウイルス粒子を生産しはじめると、宿主にされたヘルパーT細胞はズタズタに破壊されてしまう。だからこそ、免疫力を失う〝エイズの発症〟という悲劇的な事態に陥るのだ。ところがタイプAを感染させた細胞は、プロウイルスが活性化しても死ぬことがなかった。増殖阻害酵素がウイルス生産のスピードを極端に遅くするために、ヘルパーT細胞は機能を保ったまま活き続けることができるようになったのだ。これは当初の計画からすれば不様な失敗だった。だがこの失敗が、次の驚くべき飛躍をもたらした」

「それが、あなたが言う『エイズ治療ワクチン』なんですか?」

 シマダはうなずいた。

「私はタイプAに、さらに拡張制限酵素を作り出す遺伝子そのものを組み込んだのだ。タイプBと呼んでもいいだろう。その結果は、私の予測をはるかに凌いでいた。タイプBが感染した細胞内でも、プロウイルスが活性化すればウイルス粒子の緩やかな増殖が起こる。しかし、そこから吐き出される粒子には、いったんDNA化したタイプBの遺伝情報が〝乗って〟いるのだ。つまり、拡張制限酵素と増殖抑制酵素を作る遺伝子が、最初から組み込まれている」

 大西がつぶやく。

「あれ? それって、タイプBとどこが違うんですか?」

 シマダはにやりと笑った。

「機能的には全く同じといってもいい。むろん、タイプB自体は一度感染すれば消滅する。遺伝子治療のベクターには始めからそういう加工がなされているからだ。しかしタイプBの作用によって新たな遺伝子を組み込まれたHIVのプロウイルスは、タイプBと同じ性質のウイルス粒子を生産することになるのだ。この粒子はHIVに感染した他の細胞に侵入し、またそれを無害化していく」

「じゃあ、悪玉だったウイルスが薬を作り出していく……ってことなんですか?」

「それが、私が予測もしなかった偶然の采配だったのだよ」

 と、仁科がつぶやいた。

「しかし、プロウイルスの段階で組替えられた新しいHIVには、感染力が残っているはずだ。正常細胞にだって感染できるのではありませんか?」

 シマダは動じなかった。

「そこで、拡張制限酵素を組み込んだことがが威力を発揮する。この新たなウイルスをネオHIVと呼ぼう。ネオHIVは、悪性HIVと同様にヘルパーT細胞のCD4レセプターに結合する。しかし拡張制限酵素の作用によってDNA内に悪性HIVのプロウイルスを〝感知〟しないかぎり逆転写を行なわない。単にレセプターを塞ぐだけにとどまるのだ。これが意味するところが分かるかね?」

 仁科はうなずいた。

「モノクローナル抗体と同じだ……」

 大西が恐る恐る質問した。

「何です、それ?」

 仁科はシマダの説明に気を取られ、大西の知識不足をとがめることすら忘れていた。

「抗原の特定の部分にだけ結合するタンパク質だ。HIVはCD4レセプターの一部に結合して細胞内に侵入する。このレセプターは、言ってみればウイルスが入り込むドアのようなものだ。その鍵穴にあたる部分を塞いでしまえば、悪性のHIVが接近してきても結合を妨げることが可能になる。現在盛んに研究されている『抗ウイルス剤』の根本原理さ……」

 シマダがうなずいた。

「これで、私たちがやってきた作業の全貌が理解できたはずだ。タイプBに感染することによって起こる事態は、次の三つだ。第一に、すでにHIVに感染したヘルパーT細胞を殺させずに機能を保ち続けさせる。第二に、タイプBと同質の〝治療ワクチン〟粒子、すなわちネオHIVを生産させる。最後に、ネオHIV粒子は悪性HIVの感染を妨げる抗ウイルス剤としても機能する、ということだ」

 仁科は再びつぶやいた。

「信じられない……」

 それまでじっと彼らの会話に耳を澄ませていた室井が、複雑な専門用語の応酬を打ち切るように言った。

「シマダ君、君の話はおおむね分かった。それが事実なら、確かに画期的なワクチンだろう。しかし私は理論だけでは納得できない。君がここでエイズワクチンを開発していたことを具体的に証明する方法はないのかね?」

 シマダは答えた。

「データはセーブしてある。だが、それを見たところで君たちには何を意味するか理解できまい。しかし、研究室そのものならいつでも見せられる」

「私が知らない場所なのか?」

「もちろんだ。位置としては地下倉庫の隣に当たる。出入口はMラボに隠されている一ヶ所だけだ。そのVラボ――つまりウイルス研究室を見れば、私の行動がナカトミの全面的な支援の下にあったことは明白になるだろう。つまり私には、貴重なスタッフを殺して研究を止める理由などないということだ」

 仁科がつぶやいた。

「それじゃあいったい、三人を殺したのは誰だって言うんだ……? そもそも彼らは、なぜ殺されたんだ……?」

 シマダは室井を見つめて言った。

「私の身の潔白を信じてもらえるなら、ぜひ推理に協力したい。今はスフィアから脱出することが最大の命題になってしまった。そのためには、殺人の動機の解明が重要になるかもしれん」

 仁科は言った。

「私が分からないのは、なぜ天野君の血液が抜かれたのかなんだ……」

 大西がつけ加える。

「死体の右手が切断される理由も分からないままです」

 シマダが大西を見つめて言った。

「私は、三つの殺人が同一犯人の犯行だとは思っていない」

 全員がシマダに目を向けた。

 室井が問う。

「そう考える根拠は?」

「右手を集める理由が存在しないからだ――と言ったら、君たちは笑うかな?」

 芦沢が叫んだ。

「なんだって⁉」

 シマダは芦沢に微笑みかけた。

「ミステリーマニアを自認するなら、その可能性も提示しておくべきだったね。つまり、右手の消失は犯人の偽装手段にすぎなかったのだ」

 芦沢は不満げに言った。

「可能性だけなら、何とでも言えますからね」

「むろん、そう言う以上は理由がある。まず『掌紋がエアロックを開く鍵になる』ということが〝事実〟だと仮定してみよう。犯人にそれほどの知識があるなら、生命反応を失った手が〝鍵〟として役に立たないことも知っていて当然ではないか? なのに犯人は、無用の手首をたいへんな労力を費やして切り取っていく。しかも、現時点では誰一人スフィアから脱出できてはいない。この結果はつまり『犯人が手首を集める理由は、スフィアからの脱出ではなかった』ことを示しているのではないか?」

 室井は言った。

「君は偽装と言うが、いったい何を隠そうというのだ?」

 芦沢が続けた。

「それに、何らかの偽装に『手首を切る』という同じ方法を使うなら、『同一人物の犯行だ』ということになるじゃありませんか。別々の犯人が偶然に同じ偽装を施すなんて、ナンセンスだ。それに、残った我々の中に三人もの殺人者がいるなんて……」

 しかし、シマダは自信を崩さなかった。

「第一の殺人を思い出していただきたい。高崎君の腕は肘から切り落とされていた。掌紋が必要なら、あるいはそう見せかけたかっただけなら、後の二人のように手首だけを切ればすむ。その方が、切った後の腕を隠すにも都合がいい。しかも、どこからか左腕を持ってくるなどという大げさなトリックを使う必要もない」

 芦沢がうめく。

「確かに、それは言える……。だとしたら高崎を殺した犯人には、手首ではなく〝腕〟を切り取る必要があったんだろうか……?」

 シマダはうなずいた。

「私はそう考えている。高崎殺しの犯人があえてナンセンスな行動を選んだ以上は、そうしなければならなかった理由があるはずだ。理論的に納得できる理由が、ね」

 仁科がつぶやいた。

「そうだ……あの左腕を忘れていた。あれはいったいどこから持ってきたんだろう……?」

 シマダはうなずいた。

「それが最も重要な点だ。つまり、全ての謎は第一の殺人に集約されていたのだよ。続く二つの殺人は、同一犯人の犯行だと見せかけるために手首を切断しただけのことだろう。つまり別の犯人が、第一の殺人者の仕業に見せかけようとしたのではないのか?」

 大西は首をひねった。

「じゃあ、どうして高崎さんは腕を切られたんですか? それに第二、第三の犯行は、誰が、なぜ起こしたんだ?」

 シマダは肩をすくめた。

「私にはまだ分からないが、理由は必ずある。ここで起こった全ての事件――高崎君の腕が奪われたこと、どこからともなく左腕が現われたこと、石垣君が残した密室内のメッセージ、畜舎の爆発、そして血を抜かれた天野君の死体……。すべてに理由はある。次なる悲劇が待ち構えているとするなら、それを防ぐにためにもその〝理由〟を探り出さなければならない……」

 と、その時、スタッフが持つ双方向無線器が警告音を発した。

『湖が異常です。コンピュータ画面で確認してください』

 室井が頭を抱えるようにして叫ぶ。

「またか! いい加減にしてくれ!」

 中森が振り返ってモニターを読んだ。

 そこに現われていたのは、すっかりお馴染みになってしまった、生態系の崩壊を警告する真っ赤な画面だった。

『湖沼バイオームに異常発生。魚類の生体反応が急速に減少しました』

 峰が茫然とつぶやく。

「今度は『湖』……? いったいどうしちゃったのよ、ここの生態系は……」

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