第二章・嵐の球体《スフィア》
第三の右腕・1
休憩所を離れたスタッフたちは、『湖』を迂回して『農地』へ走った。室井がコア・キューブの1番出口に飛び込み、温室の全照明をつける。
二階堂が地面にぺったりと座り込み、湖面を指さしていた。身体は凍り付いたように動かなかったが、指先が小刻みに震えている。
隣に立った鳩村は、地面を見下ろしていた。唇を堅く噛みしめて涙をこらえている。二階堂を落ち着かせようとしているのか、あるいは自分を支えているのか――二階堂の肩に置いた手が、やはり震えていた。
真っ先に湖畔に着いた峰が、暗さに慣れきった目をしばたたかせながらうめいた。
「何よ、これ……すごい血……」
湖にうつぶせに浮かんだ人物の周囲の水面は、真っ赤に染まっていた。
〝それ〟が死体であることを見抜くのに専門知識は必要ない。
天野は『農地』側の岸から五メートルほど離れて、ゆったりと揺れる水面に浮かんでいる。明らかに呼吸をしていない。
死体の近くに寄ったスタッフたちは、真っ先に天野の右手首に目をやった。そして、手首が切り取られていることをはっきりと確認した。
コアから戻った室井が茫然とつぶやく。
「なぜだ……? みんな、身の回りには気をつけていたはずなのに……。なぜ、また……?」
峰が視線を死体から外す。
「あんまりよ……どうしてこんなことばかり……」
あふれた涙が地面に落ちた。
仁科が抑揚を失った声で言った。
「彼女も手首を切られている。連続殺人の動機は、やっぱり手首を集めることだったようだな」
大西が死体を見つめたまま応えた。
「それとも、私たちのそう思い込ませること、なのかも……」
その静かな声には、激しい怒りが込められている。
峰は、意表を突かれたように大西の横顔を見つめた。
大西は、湖面に浮かんだ死体を厳しい目でにらんだままだ。
仁科がつぶやいた。
「とにかく、彼女を湖から上げなければ……」
二階堂が、上げていた腕を下ろした。呪いが解けたように、身体が前のめりにぐったり崩れる。のどの奥から絞り出されたようなうめき声が漏れた。
「いや……もういや……」
鳩村は二階堂の横に座ると、その背中をそっと抱きしめる。
「ひどすぎる……私たちが何をしたっていうのよ……」
死体は一刻も早く水から出す必要があった。水中に放置しておけば殺人の証拠が消える恐れがある上に、岸に上げなければ検死すらできない。
だが、そのためには誰かが湖に入らなければならない。スタッフは全員、天野の血が混じった『湖』に触れることを嫌った。
『湖』を研究のフィールドにしている峰によると、死体が浮かぶ辺りの水深は急激に深くなり、場所によっては五メートルに達するという。たとえ泳ぎが得意でも、死体が流した血を飲み込む可能性は高い。度重なるプレッシャーに神経を痛め続けられたスタッフたちには『それでも死体を回収しに行こう』という気力は残っていなかった。
仁科は仕方なくコア・キューブに入り、医務室から二本の釣り竿を持ち出してきた。湖岸に戻った仁科は二本の竿を振り出して長くすると、細いワイヤーを巻きつけてつなぎ合わせようとした。それで死体を引き寄せようと考えたのだった。
その間、他のスタッフは仁科の作業を手伝うでもなく、赤く染まった『湖』から目を離せずに黙り込んでいた。彼らの間には恐怖と困惑、そして猜疑心が吹き荒れている。 長い時間をかけて作り上げてきた研究者同士の信頼感は、完全に崩壊していた。
大西は仁科の手元を見つめながら、スタッフの緊張を和らげようとあえて大して重要でもないような質問を口に出した。
「仁科さん、こんな実験施設に釣り竿なんてよくありましたね」
仁科は機械的に手を動かしながら、淡々と答えた。
「ノイローゼなどの行動療法に使っていたものだ。不自由が多い空間に閉じ込められていれば、誰にでも多少の精神の変調が生じる。それを解消するに、マンネリ化した生活に変化をつける必要があった。食用の魚を釣るだけでも、日曜日に釣り堀に行くぐらいのレクリエーション効果は得られる。閉鎖実験が始まってから気づいて、センターに無理を言って持ち込ませたんだ。もっとも気晴らしをいちばん必要としていたのは釣り場にいけなくなった私だ。魚も退屈しているんだろう、ミミズの切れ端や米つぶで簡単に釣れる。同じ釣り好きでもルアー釣りが専門の芦沢君からは白い目で見られているがね。それでも、少しはスタッフの退屈しのぎになっている」
大西は仁科が使っていた針金を見た。きわめて細い金属線が、プラスティックの輪に巻かれている。
「その糸みたいな線は何ですか?」
「ビーズ手芸の材料さ。このワイヤーにビーズ玉を通して色々な形を作っていく。これも精神の安定を保つための手段の一つでね。手順を守れば小学生でもできる単純な手芸だが、細かい手作業に没頭することで精神のバランスを取り戻すきっかけを得られることがある。痴呆症のリハビリなどに使われてる方法の応用だよ。これもスフィアが閉じてスタッフのストレスが高まりはじめてから持ち込んだ、私のささやかな商売道具だ」
二本の竿をつなぎ終えて先端に釣り針を固定した仁科は、立ち上がって死体に向かって竿を突き出した。
長さは充分だったが、細い竿先をつなげた竿は左右に大きく揺れて、安定しない。何度か的を外した後に、ようやく針先が死体の衣服に引っかかった。
仁科はゆっくりと竿を引いた。
大西は、仁科の作業をじっと見守る峰を見た。膝を抱えて岸辺にしゃがみ込んだ峰は、涙をにじませてぴくりとも動かない。
大西には峰の姿が、親たちにはぐれた幼児のように思えた。
峰の傍らにかがんだ大西は、そっと尋ねた。
「ここで食べる魚は、いつもあの竿で釣っているんですか?」
話しかけられた峰は、死体から目を離すきっかけを得たことを喜んだようだった。大西を見つめて穏やかに微笑む。
「普段はみんな忙しいから、大体は私が獲っています」
大西は、意外だ、というように目を丸めた。
「獲るって……網かなんかで? すばしこいでしょう?」
「もっと簡単な方法があるの。イルカの『エコロケーション』って、ご存じ?」
峰の強ばった気持ちは、大西と言葉を交わすことでほぐれ始めたようだった。
大西は肩をすくめた。
「海洋生物学者の学術用語は経済記者の辞書には載ってなくて」
「私がカリブで研究していたテーマなの。イルカは額から特殊な音波を発射して、前方にいる動物の位置を探ることができます。動物ならコウモリ、機械ならソナーと同じ原理で、反響してくる音をキャッチしてその時間差を計るんです。この仕組みを、反響音――つまりエコーで相手の位置を特定することから『エコロケーション』と呼ぶんです」
「位置を知ることは分かりますけど、それが網代わりにも?」
「イルカやシャチの場合、エコロケーションで海底に小魚を発見すると、今度は音波の波長や強さを変えて相手を一時的に麻痺させることができます。衝撃音で気を失わせるわけ。だからイルカには網なんか必要ないんです」
「じゃあ、その方法をこの『湖』にも使っているんですか?」
峰は満足そうにうなずいた。
「あなた、やっぱり理解が早いわね。ここでは水中スピーカーでエコロケーションの衝撃音を流すことができるの。その後五分間ぐらいは、痺れて浮かんできた魚が手掴みできるわ。それを過ぎると、魚は意識を回復してまた元気に泳ぎだすんです」
「魚を痺れさせるほどでかい音を出すんですか?」
「魚を失神させる周波数は超音波に近いから、人間の耳には全然気にならないのよ。人には聞こえない音だから、魚を脅かしすぎて殺してしまわないように音量を調整することがかえって難しかったぐらい」
「なるほど、便利なものですね」
「私の研究が予想もしなかったところで役に立ったわけ……」
峰の目は虚空に漂った。カリブの青い海の記憶を手繰り寄せているようだった。
大西は敏感に峰の心の動きを察した。
「カリブ海でイルカの研究、か……。いいところだったんでしょうね……?」
「ええ……」
大西はわずかにためらってから言った。
「あなたはなぜ、こんな窮屈な研究所に来たんです? 〝恋人〟を捨ててまで。こう言っちゃなんですが、峰さんみたいな元気な女性にマイクロスフィアは似合いません。カリブ海でイルカと泳いでいるほうがずっと絵になります」
仁科の手でじわじわと岸に引き寄せられる天野の死体に目を戻した峰は、長い溜め息をもらした。
「本当に私、なんでこんなところに来ちゃったんだろうな……」
「やはり、日本が恋しくて?」
峰は大西を見つめた。
「私がそんなウエットに見えて?」
「確かに見えませんよね……お世辞にも」
峰はうなずいた。
「私も同感」
「では、なぜ?」
「船が欲しかったのよ。自由にイルカを追いかけていられる、自分だけの研究船が。二年間ここで我慢すれば、その願いがかなうはずだったんだけど……」
大西もまた、天野の死体に目を向けた。
「あとたった半年だったのにね。こんな事件が起こってしまったんじゃ……」
「いいのよ。私の今の願いは、一日も早くカリブに帰ることだけ。こんな事件が起こらなくたって、うんざりしていたもの……」
峰はこのところ、すっかり白く変わってしまった自分の肌を見て涙を流すことがあった。底抜けに明るい珊瑚礁を離れたことを後悔し、実験が終わりしだいアメリカに帰ることを決心していたのだ。
「船、買えるといいですね」
「それもいいの、もう。カリブに行きさえすれば、私を乗せてくれる研究船のあてはあるから。不自由な環境をちょっと我慢すればいいだけ……。我慢だけは、このマイクロスフィアで充分に学んだわ。それより、あなたこそ災難だったわね。仕事とはいえ、殺人なんかに巻き込まれてしまうなんて。こんなに危険なことって、しょっちゅうあるの?」
大西は軽く肩をすくめた。
「取材のたびに命を張ってたら、気が変になっちゃいますよ。今回はたまたま蛇の穴におっこちちゃっただけでね。ま、好きでやってることですから文句は言えませんけど」
峰は、わずかにためらってから聞いた。
「記者の仕事って、忙しいんでしょう? 奥さんとは、それが原因でだめになったんじゃなくて?」
大西は虚をつかれてうろたえたように峰を見た。
「なぜそう思うんです?」
「だって、五年も待ってくれた奥さんを簡単に捨てる男には見えないもの。別れ話を切り出したのは、奥さんからのような気がしたの」
「女の勘、ですか?」
「あなた、お節介だから。人が困っていると、つい手を出してしまう。相手が女でも、ね。あなただけを頼って待っている人には、それが辛かったかもしれないな、って……」
大西は視線をそらした。
「それより、ほら」
大西は岸辺に近づいた死体をあごで示すと、肩が触れそうになった峰から離れ、不意に立ち上がった。
峰はかすかに首をかしげて、大股で仁科に近づいていく大西の背中を見つめた。話をはぐらかされたように感じたのだ。
ゆっく立ち上がった峰は、さみしげに独りつぶやいた。
「私も、第一印象がよくないからな……なんであんな余計なこと言っちゃったんだろう……」
そして峰も大西を追った。
仁科に手を貸した大西は、湖岸に引き上げた死体の手首を見つめながら言った。
「切った手首の上に、縛ったような痕がありますね……」
仁科はうなずきながらつぶやいた。
「確かに妙な傷だ……。みなさん、ちょっと下がっていてください。傷を調べるんで、服を脱がせますから。室井さん、もう温室の照明を消しても構いませんよ」
脇から死体を覗き込みながら、室井は言った。
「検死はできるのかね?」
「懐中電灯で充分でしょう。この先どうなるか予測がつけられないんじゃ、電力は無駄にできません」
室井がうなずく。
「では検死は仁科君に任せて、全員いったんコアに入ろう」
大西が室井に抗議するように言った。
「僕らだって死因は知りたいですよ」
大西をたしなめたのは、室井の妻だった。きっぱりとした口調で命じる。
「天野さんは女よ。どんな理由があれ、他人に自分の身体をさらしたがるはずがないでしょう? まして……。失礼よ。こちらにいらっしゃい」
室井裕美はかすかに涙をにじませていた。
大西は母親に叱られた子供のように軽く口を尖らせた。しかし、反論はできない。
室井も『湖』の周りに集まったスタッフを見回しながら言った。
「我々は医務室で待とう。ここにいないのは、柴田君、中森君、芦沢君か……。とにかく、三人を集めなければならないな」
天野が『湖』に落下した時点で所在が知れなかったのも、その三人の男だけだった。
鳩村にしがみつくようにして震えていた二階堂が、消え入りそうな声で言った。
「集めるって……誰が探しにいくんです? 私たちは嫌よ、人殺しを捕まえるだなんて……」
二階堂と鳩村は、ずっと一緒に『森』の中にいたと言った。事実、天野の死体を最初に発見したのは彼女たちだ。そして二人は、自動的に容疑者から除外された。
天野が休憩所にまで届くほど大きな水音をたてたことは、彼女がコア・キューブの三階バルコニーから落下したことを物語っている。温室内にはシェルに叩きつけられる豪雨のざわめきが充満しているのだから、死体が岸から投げ込まれたなら水音が休憩所まで聞こえるとは考えられなかったのだ。
それは同時に『音が聞こえた時点では、犯人はバルコニーの上にいた』ということを示唆している。
仮に鳩村たちが犯人だとすれば、六メートルの高さがあるコアのバルコニーから飛び降りたことになる。たとえそのアクロバットが可能だとしても、『湖』か『海』に落ちれば身体が濡れる。休憩所の側に降りれば室井たちに目撃される。唯一残った『農地』側に跳んだとしても、岸辺を回って来たのでは時間がかかりすぎる。室井たちの先を越して『森』の中から現われることは不可能だ。
鳩村と二階堂が天野殺害の容疑者から外されたのは当然だった。
そして、容疑者は三人に絞られた。
だが、姿をくらました彼らを連れ戻すのは困難だと思われた。マイクロスフィアは狭い閉鎖空間だが、隠れようとする人物にとっては充分に複雑な構造を持っている。しかも相手が殺人犯なら、命がけの抵抗に合う可能性が高い。
室井は自信なそうに言った。
「無線で天野君が殺されたことを知らせるしかないか……。まあ、コアに戻って相談しよう」
室井夫妻は『湖』の岸辺に沿った通路を1番出口に向かった。コア・キューブの中を通り抜けるのが医務室への最短距離なのだ。
スタッフたちも後を追う。
しかし大西は足を止め、改めて『湖』に面したコア・キューブ外壁を観察した。
コア・キューブの壁は平らな強化プラスチックで、窓や換気口などは何一つ取りつけられていない。その下部がいきなり『湖』の中にそそり立ち、水深五メートルの真水に洗われているのだ。壁の上部は欝蒼と茂る植物に覆われ、枝や蔦が垂れ下っていた。さらに周辺にはシェルにつながる支柱が複雑に集まっている。蔦状の植物はその支柱にも這い登り、全体として小さなグリーンのドームを作り出していた。その周辺の植物層の厚みは〝熱帯のジャングル〟といっても通用するほどだった。
その時、照明が消えた。室井がスイッチを切ったのだ。
大西は外の暗さを改めて思い知らされながらつぶやいた。
「植物の陰に簡単に隠れられる場所だな……。真下から見上げなければ、死体を突き落とす姿さえ見えない……。しかも、この暗さじゃあ……」
大西の傍らに立ち止まった峰が言った。さっきまでの打ちとけた口調が堅く変わっていた。
「天野さん、あの上から突き落とされたんでしょう……? なんだってわざわざ死体を落としたりしたのかしら。大きな水音がするって分かりきっているのに。犯人は三階の倉庫の鍵だって開けられたぐらいなんだから、そこにでも隠しておけばいいものを……」
それは大西自身の疑問でもあった。
大西は峰を見つめてうなずいた。
「殺されたのは別の場所かもしれませんね。バルコニーを調べるまでは何とも言えないでしょう……あ!」
突然叫んだ大西に、峰が言った。
「何よ、脅かさないで」
大西は興奮を隠そうともせずに、峰の肩を両手でつかんだ。
「監視カメラですよ! コアのバルコニーにカメラはないんですか⁉」
峰は興奮した大西をじっと見つめながら、溜め息をもらした。
「残念でした。カメラは温室にしか設置していないのよ。あそこは本来、植物を置く予定じゃなかったから。それに、カメラがあることを知ってて、その前で人を殺す?」
大西は峰を掴んだ腕を所在なげに下ろしながらつぶやいた。
「また、的外れですか……。どうも僕は、いい探偵にはなれそうにありませんね……」
峰は、不意に射るような視線を大西に向けた。
「それはどうかしら? あなた、右腕の秘密を知っているんでしょう? お願い、教えて」
大西はじっと峰の目を見つめてから言った。
「どうしてそんなことを?」
「これも、女の勘。あなたは絶対、まだ大事な何か隠している」
大西は一瞬目を丸めたが、峰から視線をそらせずに答えた。
「その時がきたら、室井さんが話します。右腕に関係があると考えられているのは、柴田さんの部下だけですしね……」
峰は不満げに唇を尖らせた。
1番出口で立ち止まっていた室井の妻が振り返った。
「あなた方、検死の邪魔よ。いらっしゃい」
大西は大げさに肩をすくめた。
「また叱られちゃった。さあ、医務室に行きましょう」
峰は無言でうなずいた。
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