疑惑の増殖・3

 それから一時間近くが過ぎても、仁科は戻らなかった。温室の休憩所に留まったメンバーは変わっていない。

 大西は室井から離れることを許されなかった。

 峰も何とか情報を探り出そうと、室井に質問を続けていたのだ。と同時に峰は、大西の傍らにいる時が一番落ち着けることに気づいていた。

 大西は、いつのまにか自分の横に座った峰に尋ねた。

「僕の第一印象、変わりました?」

 峰はにこやかに微笑んだ。

「もちろんよ。あなたがみんなのために一生懸命頑張っていること、ずっと見てきたんですもの」

「大した役には立ってないみたいですけどね。まだ、僕が犯人だって疑っている人もいるんでしょう?」

「私は違う」

「なぜ?」

「父さんに教えられたの。『男は見かけや言葉で判断するな。行動を見ろ』ってね。あなたは畜舎が爆発した時、身を投げ出して鳩村さんを救った。他人のために命を賭けられる男は信頼できる」

 大西は峰に微笑み返した。

「ね、つき合ってみると案外いい男でしょう?」

 峰はじっと大西を見つめ返していた。

「こんな場所でこんな事件に巻き込まれていなかったら、別のおつき合いができたかもしれないのにね……」

 大西は肩をすくめた。

「外の世界でだったら、第一印象だけで逃げ出していたんじゃありませんか? 僕って、いつもそれで損してるんです」

「それなら、ここで巡り合ったのが運命だったのかしら?」

 大西は、わずかにためらってから尋ねた。

「聞いていいですか?」

「なに?」

「サロンにみんなが集まって、鳥居さんにコップを投げられた後、『またやっちゃった』って言ったでしょう?」

「あら、そう? 覚えてないけど……」

「そうかな。なんだか、すごく悲しそうでしたよ」

 峰は長いため息をもらした。

「実際、悲しいもの。ここに来てから私、どんどん嫌な女に変わっていく。それが分かってるのに、どうにもできないの。今までだったら、鳥井さんみたいな人は無視できたし、些細なことで上司に楯突くこともなかった。なのに、自分でも分からないうちに人を責める言葉が出てしまう。すぐにかっとなるし……。ほんと、ヒステリーみたいでしょう?」

「長い間、閉じこめられていたんですものね。僕なんか、たった数時間でもう頭がおかしくなってます。自分を責めない方がいい」

「嫌な女よね……」

「本当に嫌な女って、自分が嫌な女だとは思ってませんよ。あなたは、正直なだけです。ちなみに、僕、好きですよ。正直な人って」

 峰は肩をすくめた。

「とかいいながら、結婚相手は絶対に逆らわない従順な人を選ぶんでしょう? 日本の男って、いつも同じ。それとも、もう選んだ後?」

「さらに、その後。逆らわない女を女房に選んで、後悔しました」

「なぜ?」

「僕も五年近くニューヨークで仕事をしていましたから。遠距離恋愛だったんです。でも、その間に僕があっちのセンスに慣れちゃったみたいで。料理が上手でおしとやかでも、人形のような女じゃね……。物足りなかったんです。別れ話の時にそう言ったら、『何もかも我慢して尽くしてきたのに』って、大泣きされました。我慢なんかしなければ、かえってみんなが分かり合えるのに……」

「その方とは元に戻れないの?」

「はんこ、押しちゃったしね。彼女、我慢したと言ってましたが、最初からやりたいことなんかなかったんです。だから、誰かの付属物になった方が落ち着けたんだと思います。中に綿しか詰まっていないヌイグルミみたいで……あ、ずるいですよね、僕が一方的に非難しちゃ。人それぞれ。彼女には、彼女が望む生き方があるはずです。だけどそれは、僕の望みとは違う。だから、この結果はお互いのために良かったと思いたいな」

「いろいろあるんだ……」

「この年になると、ね。あなたの話も聞かせてもらえます?」

「私の恋、を?」

「そう」

「きっと、つまらないわ。イルカがお相手だったから」

 大西は、微笑みながら身を乗り出した。

「好奇心は強い方ですから」

 その時、仁科がコアから出てきた。真っ先に、大西たちに目を向けた。表情が険しい。

 大西と峰は、触れそうになっていた肩を慌てて離した。

 峰が恥ずかしそうに目を伏せる。

 仁科の後に続くスタッフはいない。

 一人で戻った仁科に、室井は尋ねた。

「二人は一緒じゃないのか? 見つからないか?」

 仁科は、疑い深げな表情で大西を見つめてから室井に言った。

「実は……二人でお話したいことがあります」

 室井は仁科の疑惑を感じ取って、言った。

「大西君のことかね?」

 仁科は小さくうなずいた。大西を見る目に、先程までのうちとけた様子は見られない。

 大西は言った。

「僕が何か……? 何かを疑っているなら、みんなの前で話してください。陰口を叩かれるのは嫌いです」

 室井も口を添えた。

「私も大西君に賛成だな。彼がスフィアに入ることを許可したのは私だ。不満があるなら、責任は私が負う。言ってみたまえ」

 うなずいた仁科は、室井にB5版ほどの文書の束を差し出した。それを受け取った室井に説明する。

「柴田さんを探してコアの個室を見回っていた時に、偶然見つけたんです」

 その文書はたった四つの文字でびっしりと埋め尽くされていた。アルファベットのA、T、G、C。DNAの組成を表す塩基配列であることは、科学を生業にするものにとっては一目瞭然だ。

 大西がその文書を室井の手から奪った。

「何ですか、これは? こんなものが僕とどんな関係があるんですか?」

 峰が横から、大西の手元を覗き込む。

 仁科は言った。

「室井さんの部屋で見つけたんだ。君が持ってきたバッグの中から、ね」

 大西は動じなかった。

「あなたこそ、僕の荷物をこそこそ探っていたわけだ。そういうのを〝偶然〟って呼ぶんですかね?」

 仁科も引き下がろうとはしない。

「仕方ないだろう、状況が状況なんだから。第一、君は唯一の部外者だ。真っ先に疑われて当然だ。しかも、その得体の知れない文書……それはいったい何のDNAだ? このスフィアとどんな関係がある? 君は何のためにそんなものを……?」

 大西は即座に言い切った。

「罠ですよ」

 温和な仁科の表情に、わずかな憤りが浮かび上がった。

「何だと? 言い逃れをする気か⁉」

 大西は淡々と応えた。

「あなたが簡単にこれを発見できたなら、誰かがそこに置いていくことだって簡単でしょう?」

「そんな屁理屈を……」

 室井が首を横に振った。

「仁科君……何度説明すれば分かる? 大西君の荷物は、私が完全に調べた。完全に、だ。そんな物は見ていない」

「しかし、薄い紙ならバッグの布の隙間とかにだって隠せます」

「君は疲れているんだ。あの二人のことはもういいから、少し休みたまえ」

「疲れてなんかいません!」

 室井の妻が言った。

「声を荒らげるなんて、仁科さんらしくありませんよ。あなたが動揺してはみんながうろたえます。夫の言う通り、しばらく休んでくださいな」

 仁科はそう指摘されて初めて、自分が不様に興奮していたことを悟ったようだった。

「奥さん……すみませんでした」

 目を伏せた仁科は、開いたベンチに腰をおろして、重たい溜め息をもらした。

 大西が握った文書をじっと覗き込んでいた峰がつぶやいた。

「DNAの塩基配列ですか……これが大西さんが持ち込んだものなら、彼は産業スパイってこと? でも、このスフィアには秘密にしているDNAなんか存在ないわ。温室にはいろんな生きものが詰まっていますけど、世界中のどこにでもいる、ありふれたものばかりなんですから」

 仁科は虚を突かれてうろたえた。

「そうは言っても、これが大西君の荷物の中にあったことは確かなんだ……。君だって、大西君を疑っていたんじゃないのか? それとも、死ぬ前にあわてて男を作ろうという魂胆か」

 峰の表情がこわばる。言葉が急激に冷える。

「げすの勘ぐり、ね。いくらあなたが――」

 大西が峰の腕をつかんだ。

 峰が厳しい目で振り返る。

 大西は峰にほほえみかけた。

「ほら、嫌な女になりたくないんだろう?」

 峰はじっと大西を見つめてから、小さくうなずいた。

「ありがとう。でも、言うべきことは言わなくちゃ。正直者の宿命よ」

「何?」

 峰は仁科をにらんだ。

「そもそも、スパイがDNAの組成まで知っているなら、それ以上何を調べる必要があるの? そんな文書を持ち込む意味はないでしょう? もっと物事を理論的に考えてください」

 大西は、峰に微笑みかけた。

「今度は僕が助けられたみたいですね」

 峰はわざとらしくウインクを返した。

「理屈に合わないこと、だからよ」

 仁科は首をうなだれた。

「くだらないことを言ってすまなかった。疲れているんだ……本当は……」

 大西がうなずく。

「当然です。こんなに働かされているんですから」

 峰が付け加える。

「それに、大西さんに好意を持っていることは認めます。一番頼りになる人ですから」

 大西は驚いたように峰を見つめた。

 峰はつぶやいた。

「言っちゃった……」

 大西は肩をすくめてから、仁科に目を戻した。

「しかし、そのDNAは重要な手がかりかもしれませんね。連続殺人犯は僕に罪を着せようと焦って、自分で尻尾を出したんです。僕が何かのDNAを探っていると見せかけたってことは、ここでそんな極秘研究が行なわれていることを認めたに等しいんじゃありませんか? 殺人まで犯す動機は、このDNAに関係しているはずです」

 峰があっと息を呑んだ。

「まさか、微生物班の本当の仕事は……」

 大西は峰にうなずきかけた。

「実は僕も〝違法な遺伝子操作〟なのかもしれない、と考えていたところだったのさ」

 仁科もつられて小さくうなずいていた。

「そうか……Mラボには最先端のバイオテクノロジー器材が揃っているんだから、どんな研究でもできるはずだ……」

 峰が茫然と言った。

「マイクロスフィアは完全な封鎖空間だわ。スタッフの出入りは許されない、空気さえ外界と交わらない――たとえ人体に危険な細菌やウイルスを作り出したって、絶対に外部にもれ出る心配はない。しかも壁は頑丈で、壊すこともできない……。こんな完璧な封じ込めができる施設は、地球上のどこにも存在しない。P4どころじゃない――このマイクロスフィアはその上をいく、言ってみればP5施設なのかもしれないわね。ドーム内を負圧に保っている点だって、P4施設と同じですもの。だとしたら、いったいどんな無謀な研究が行なわれているやら……」

 室井が溜め息をもらした。

「どうやら、これ以上は隠しきれんようだな。確かに我々は、微生物班の秘密の研究活動をカムフラージュするためにMSPのスタッフに選ばれた可能性があるのだ……」

 そうつぶやいた室井を、仁科は見つめた。

「室井さん……何か知っているんですか⁉ 私たちに隠していたんですか⁉」

 室井は小さくうなずいた。

「知っている……。といっても、ほんの数日前に知らされたばかりなのだがな」

 仁科は大西に目を移した。

「大西君が関係しているんですね? だからあなたは、彼をこんなに信用しているのですね?」

 室井は驚きの表情を隠せずにいる妻にうなずきかけてから、大西に尋ねた。

「どうだね、事実を明かしていいか?」

 大西は小さく肩をすくめた。

「仕方ないでしょうね、事態がここまで深刻になった以上……。連続殺人が起こるだなんて、予想もしていませんでしたから……」

 峰はわずかに大西から身を引いた。

「あなた……何か隠していたの⁉」

 仁科が、室井と大西を見比べてつぶやく。

「大西君……君はいったい何者なんだ?」

 答えたのは室井だった。

「彼は科学記者などではないのだ。私は、彼がこのスフィアに入った本当の目的をセンターから聞かされていた」

 峰が大西を見つめていた。

「まさか、本当に産業スパイだなんて……?」

 大西は微笑んだ。

「とんでもない。もちろん僕は雑誌記者ですよ。ただし『科学新報』の、ではありません。フリーのジャーナリストで、もともとは『ウォール・ストリート・ジャーナル』の出身です。専門は科学ではなく、経済なんです」

 仁科が首をひねった。

「何だと? どういうことだ……?」

「ここで、ある調査活動をしていたんです」

 仁科の目が室井に向かう。

「ということは、あなた方二人は……」

「君たちの前で、ずっと芝居をしていたんだ。上層部から命じられてね。だがもはや、そんな状況ではなくなった」

「芝居って……?」

 大西は淡々と説明をはじめた。

「背景から説明しましょう。アメリカ最高のバイオ研究者――日系二世のジョージ・シマダのことは聞いた事がありますか?」

 峰がうなずいた。

「バイオビジネス界のビル・ゲイツ――彼がどうしたの?」

「二年以上前から行方不明になっていたことが、つい最近判明したんです。彼自身が創立したBTI社からはじき出されてしまったようなのです」

「そんな⁉ だってBTIは彼の会社なんでしょう?」

「バイオ業界のトップ企業であるBTIの経営権は、すでに頭の堅い銀行屋に握られていましてね。消息不明になる直前のシマダは経営陣と対立し、自由な研究さえ許されない窓際に追い込まれていたということです。僕はずっとその一件を追ってきました。シマダは今どこにいて、何をしているのか……。記者の本能ででかいスクープになるという予感がしたんです。で、たどり着いたのがMSPでした。どうやらシマダは、かつての研究仲間だった柴田邦男さんと身分をすり替えてマイクロスフィアのスタッフにまぎれ込み、独自の研究をしているらしいと……」

 仁科は目をむいていた。

「柴田君がBTIの創設者だというのか⁉」

 大西はきっぱりとうなずいた。

「間違いないでしょう」

 仁科は茫然とつぶやく。

「そんな……。しかし、それが事実だとしても、経済記者にすぎない君がどうしてスフィアの中にまで入り込めたのだ?」

「シマダがナカトミに接触したらしいことを探り出した僕は、ナカトミの幹部に取材を申し入れました。そこで『シマダにMSPで何をやらせているのか』と真正面から切り込みました。しかし驚いたことに、彼らはシマダがスフィアに侵入していることに全く気づいていなかったのです。逆に、僕が揃えていった資料に肝を潰してしまったぐらいでね。シマダほど高名な人物が日本の財閥の研究機関に、しかも身分を偽って入り込んで何を企んでいるのか……。誰かがその目的を探らなければならないという結論になったわけです。運悪く、選ばれたのが僕でした」

 室井がつけ加えた。

「大西君が来ることが決まって、私も初めてその事実を知らされた。上層部は柴田に遺伝子組み替えをやらせていたことは認めたよ。あくまでも、彼が柴田邦男だと思い込んだままで、だ。しかし現実には、彼が実際に何を研究しているかは誰一人掴めずにいた。遺伝子操作の内容を外部の目から隠すために、管理センターのメイン・コンピュータにはデータをセーブできないシステムになっているからだ。これは、管理センターからの情報もれを防ぐには不可欠な保安措置だった。スフィアの内部と違って、管理センターには産業スパイも侵入しやすいからね。微生物班の活動――つまり柴田、イコール〝元BTIのシマダ〟がMSPで命じられていた研究は、そうまでしてでも守りぬかなければならない機密だったようだ。しかし同時にそれは、スタッフへの監視が外部からは行き届かないことを意味していた」

 仁科は呆れたよう言った。

「MSPほどの大規模な設備を与えておいて、後は野放しにしていた――と?」

「もちろん、MSPは柴田君のためだけに作られた施設ではないし、彼のチームにはナカトミから研究のテーマが与えられている。だがここ半年ほど、『微生物研究班』からは全く成果が報告されていなかったのだ。ナカトミの幹部たちはそこで始めて『〝柴田〟が命令を無視して勝手な研究をしていてもセンターからは確かめようがない』という単純な事実に直面した。上層部は、MSPにこもったシマダが現実に何を研究しているかを熟知しなければならなかった。シマダほど有能な科学者が、ナカトミの言いなりになるためにこんな場所に来るはずはない。ナカトミの幹部は考えた。『シマダがBTIを捨ててナカトミに侵入した理由は、マイクロスフィアの安全性とその設備、そして高度な機密保持の体制を求めたからだ。そしてその環境の中で独自に〝遺伝子工学的な何か〟を作り出そうとしている』と……」

 大西がうなずいた。

「結果的に僕は、柴田さんの正体を教えるためにナカトミに乗り込んでいったようなものです。誘蛾灯に吸い寄せられる虫ように、ね。お人好しもいいところです」

 仁科は考え込んだ。

「つまり、大西君はナカトミ幹部の意向でMSPに送り込まれてきたというわけなのか……」

 室井はうなずいた。

「だから、これほどの無理を効かせることができた。大西君がスフィアにやってくることが一週間も早まったことは、私でさえ直前になってから知らされたぐらいだからね。しかも、今回の連続殺人とは無縁だと言い切れる」

 仁科は言った。

「確かにそうですね……。しかし、そんな重大な事実を知っていたのなら、もっと早く教えてくれてもよかったのに……」

 室井は言い訳をするように声を落とした。

「すまなかった。スタッフ全員に知らせるわけにはいかない情報だからね。殺人が起きなければ、大西君と二人で極秘に柴田君の活動を調査する予定だったのだ」

 大西がうなずいた。

「しかし柴田さん――いや、シマダさんの研究が連続殺人に関連しているなら、これ以上隠しておくわけにいきません。この際、何もかも明らかにしてスタッフ全員の力を結集した方がいい。何があろうと、これ以上の犠牲者は出せませんからね」

 その時、彼らの耳に大きな水音が届いた。そのような音が起こりうる場所は、二つしかない。温室の三分の一近くを占める『海』か『湖』のどちらかだ。

 何か大きな物体が落下したらしい。

 彼らのいぶかしげな目が『湖』に向かうと同時に、二階堂の悲鳴が届いた。

「誰か!」

 悲鳴に引き寄せられて『湖』に走り寄った室井たちが見たものは、暗く淀んだ水面に浮いた人間のシルエットだった。

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