疑惑の増殖・1

 鳥居は一通り言い分をまくしたてると、二度目の鎮静剤を射たれて沈黙した。

 鳥居は眠り込む前に、『天野が中森との会話の中で、微生物班スタッフの掌紋がエアロック開ける鍵になっている可能性をほのめかした』と言った。二人から無視されていた鳥居は単独行動を命じられたにもかかわらず、彼らを追って物陰から会話を盗み聞いていたのだ。

 さらに室井が鳥居に問いただすと、天野は『掌紋が鍵だ』と断言したわけではなかった。そう思い込んだのは鳥居の早合点にすぎないと室井たちは結論した。

 だが、たとえ鳥居の言うことが的外れの思い込みであっても、天野がみんなの前で『何かを隠そう』としたことは事実だ。大西をはじめとして、多くのスタッフは天野が鳥居の言葉をさえぎったことを知っている。鳥居に命令を下せる立場にある天野が『特殊な情報を握っている』という可能性は捨てきれなかった。

 また、天野に確信がなかったとしても〝掌紋集め〟が連続殺人の動機だという仮説は検討に値した。死体の右手が持ち去られるという突飛な状況を説明するには、そんな突飛な原因が必要なのかもしれないのだ。

 鳥居が意識を失ったことを確認すると、仁科は室井を見ながら言った。

「やはり柴田さんたちは公にできない研究を行なっていたようですね。室井さん、本当に何もご存じないんですか?」

 室井はわずかにためらいを見せてから、小さくうなずいた。

「計画の統括者の立場にありながら、恥ずかしい話だがね。柴田君は私が関与できないほど上の、ナカトミの最上層部からの直接指令で行動していたのだ……」

 仁科は落胆を隠せずにうつむいた。

「さっき地下倉庫で天野君が鳥居君を脅すようなことを言ったのは、微生物チームの本当の活動の秘密がもれると自分に危険が及ぶと恐れたからだろう。うかつに話せば制裁を加えられるということだ。こんな状況になってまで打ち明けられない機密だとなると……」

 仁科の不安げな表情をうかがって、室井もうなずいた。

「柴田の奴……いったいここで何を……?」

 大西は室井に質問した。

「本当に、彼らの掌紋でエアロックが開く可能性はないんですか?」

「私はエアロックに掌紋センサーがついていると聞いたこともない。エアロック用の宇宙服のロッカーには鍵がついているが、それは個室の扉と同じ普通の錠前だ。しかし、柴田が直接ナカトミ上層部の指令で〝何か〟を研究しているなら、私以上の権限を与えられていることも考えられる。『脱出を決断する権限を与えられている』という可能性も否定できない。どこかにセンサーが隠されていてもおかしくはないな……」

 仁科がうなずきながらつぶやいた。

「柴田さんが指揮する極秘の研究が完成した時には、微生物班スタッフ全員の合意で外に出る――ということか……」

 室井が言った。

「誰であれ、たった一人の決断でエアロックが開くシステムにしておいては、精神に異常をきたして逃げ出すことも考えられる。事実、鳥居君は半狂乱だ。まさか鳥居君の掌紋まで登録してあるとは思えんが、微生物スタッフの合意がなければドアが開かないという仕組みは保安対策上は有効だろう。つまりナカトミは、チームリーダーである柴田君さえ信用していなかった……ということになるな」

 大西は溜め息をもらした。

「やはり犯人は、鍵を手に入れるためにスタッフの右手を集めているんでしょうか……?」

 仁科がうなずいた。

「ありえない、とは断言できないね。犯人は、我々をとり残したまま自分一人で脱出するつもりなんだろう」

 大西は考えながらつぶやいた。

「仮にそうなら、犯人は掌紋のことを知っている人物……鳥居さんを除外していいなら、柴田さんと天野さんの二人に絞られたわけですよね」

 室井がうなずく。

「そう結論するしかあるまい」

 だが大西は、まだ考え込んでいた。

「しかし、なぜ天野さんはそんな大事なことを中森さんに打ち明けたんだろう。しかも、鳥居さんが盗み聞きできるような場所で……。不用心すぎませんか?」

 仁科が言った。

「天野君は、脱出に中森君を誘うつもりでいたのかもしれん。彼らの仲はみんなが知っている」

「でも、高崎さんに乗りかえたんじゃ?」

「ほんの気まぐれだろう。中森君を嫉妬させたかった……とか、ね。高崎と本気でつき合う女はしない」

「それでも秘密の打ち合せをしたかったなら、二人きりだと確信できる場所を選ぶんじゃありませんか? 鳥居さんが近くにいなかったとしても、一応は三人で行動していたわけでしょう? 二人は単に可能性を話し合っていたとしか思えないんですがね……」

 室井はじっと大西を見つめていた。

「二人は右手が消える理由を検討していた。それを小耳に挟んだ鳥居君は〝可能性の一つ〟を〝事実〟だと思い込んで錯乱し、自ら手を焼いた――というのかね?」

 仁科は、ベッドに横たわった鳥居を哀れむように見下ろした。

「鳥居君は無能だが、異常にプライドが高い。だから、自分の掌紋も必ず登録されている――と思いたかったのだろう。しかも、連続殺人で神経が参っている。心理学的には、室井さんが言ったような事態も起こりうるでしょう。それにしても、この振る舞いはお粗末すぎる……」

 室井は言った。

「それでも、彼女のおかげで腕が消える理由が見えてきたわけだ。『犯人が掌紋を集めている』という考えには、それなりの現実性がある。天野君には詳しい事情を聞いてみよう。中森君にエアロックのプログラムを調べさせれば、どんな保安システムが組み込まれているのか正確に掴めるかもしれないしな。この件は頭に入れておいた方がいいだろう。残る問題は連続殺人犯が誰か、だが……」

 仁科は言った。

「むしろ『次の犠牲者は誰か』と考えるべきです。殺人を防ぐ方が重要です」

 室井もうなずいた。

「私には天野君に人が殺せるとは思えない。彼女はむしろ犠牲者だと考えている。見張るべきは、柴田だろう。とはいえ、芦沢君も充分に怪しいがね。畜舎の爆破は彼でなければできそうもないからな……」

 仁科は言った。

「私はやはり、石垣君が残した仕掛けだと思いますがね……」

「しかし、大西君の疑問はもっともだぞ。芦沢君をマークしておく必要はある。彼が天野君と陰で手を組んでいるという可能性だってあるのだからな」

 大西が釘を刺すように言った。

「先入観を持つのは禁物です。まあ、あなた方はスタッフとつき合いが長いから、そう言っても無理かもしれませんがね。その点、僕なら冷静に事態を検討できます。でも、僕も芦沢さんと柴田さん、そして天野さんを監視することには大賛成です」

 仁科が疲れ果てたようにうなずいた。

「それが結論か。……それにしても、恐るべき状況に追い込まれたもんだ。なんとか逃げ道が見つかればいいのだが……。実験が始まる前には、予想もできなかったアクシデントだ……」

 大西は仁科を見つめた。

「聞いてもいいですか? 仁科さんは、どうしてMSPに参加することになったんですか?」

 仁科は首をかしげた。

「こんな時に〝スタッフの取材〟かね?」

「そんなつもりじゃありませんが、あなたほど優秀な医者なら〝外〟のほうが楽に稼げるんじゃないかと思いまして……」

「優秀だと言ってくれるのはありがたいがね……。もしそうなら、優秀であるがゆえにMSPに引き抜かれたんだろう。私はもともと大坂の『ナカトミ総合病院』で、新薬臨床試験の効果測定を指揮していた。新薬の効き目を正確に計るには、医学の知識と同時に心理学の基礎がなくてはならないからだ。病院長からMSPの話を持ちかけられた時は、たまたま女房と別れたばかりでね……十二才になったばかりの一人娘も持っていかれた後だった。彼女からせびられた慰謝料と養育費を都合するには、MSPの特別手当てが必要だったのさ。逃げ込める穴ぐらが欲しかっただけかもしれないがね」

 大西は言った。

「なんか、まずいこと聞いちゃったみたいですね……」

 仁科は唇を引きつらせて笑った。

「なに、今ここで起こっている奇怪な事件に比べれば、ありふれた離婚話なんて砂つぶ一つの重みもないさ……」

 それでも大西は、仁科がこれまでマイクロスフィアの封鎖性によって離婚の痛手から救われていたことを感じ取った。

 大西は室井に目を向けた。

 室井は軽く肩をすくめた。

「私と妻がMSPに参加したことには、仁科君ほどの大きな理由はない。ナカトミの社員であり、好奇心が有り余った研究者だった……というだけだ。実は私の父親は、ナカトミの科学部門の基礎を固めた人物でな……。立場上、二十一世紀のナカトミの帰趨を決するMSPから逃れるわけにはいかなかった。社員の中には私が『親の七光りでMSPの責任者に納まった』と陰口を叩く者もいると聞いたが、私はこんな場所に閉じ込められることを望んではいなかった。首脳部から『是非に』と請われ、二年間の〝島流し〟を覚悟したまでだ。今では、きっぱり断っておけば良かったと後悔しているよ……」

 大西は力を込めてうなずいた。

「それは、僕も同じです。『特別手当て』にすっかり色気を出しちゃって……」

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