ガラスの牢獄・5

 医務室では仁科と室井、そして大西の三人がベッドに横になった鳥居を囲んでいた。部外者である大西は、責任者の室井の傍を離れることを許されなかったのだ。

 残るスタッフは精神力を使い果し、温室の休憩所で休んでいる。常軌を逸した鳥居の挙動に振り回される気力はとっくになえていた。

 意識を取り戻した鳥居に、仁科が怒りをあらわに尋ねた。

「なぜ、こんな愚かな真似をしたんだ⁉」

 鳥居は何重にも包帯を巻かれた自分の右腕を、ぼんやりと見下ろしていた。

「火傷の傷……残りますか?」

 仁科は腹立ちを必死に呑み込んだ。

「もちろん、一生消えない。君は死ぬまで自分の不始末を忘れることはできない。こんな非常時に火をつけるなどという馬鹿なことが、どうしてできたんだ⁉ 君には知能がないのか? スタッフ全員の命を危険にさらしたんだぞ。万一、コア全体に火災が広がっていたら、我々は蒸し焼きになっていたところだ!」

 鳥居の目は焦点を結んでいないようだった。

「殺人犯は、微生物班のスタッフの右手を狙っているんでしょう? だから……」

 仁科は怒りにまかせて言った。

「峰君なら『誰が掃除のおばさんを殺したりするもんですか』と言うところだ。私も、百パーセント同意する。殺されるのが嫌なら、自分で首でもくくりたまえ。縄が嫌いなら、私のメスを貸す。私がその首をかき切ってやってもいい。少なくとも、他人の命を危険に巻き込む恐れはないからな!」

 鳥居は不意に身を起こして怒鳴った。

「私だってスタッフなのよ!」

 仁科の口調は冷たかった。

「それならスタッフとして振る舞え。自ら火を放つなど言語道断だ。君の頭では、それがスフィアに与える影響など理解できるはずもないがね。今度という今度はうんざりだ。もはや、君の馬鹿さ加減を弁護する必要は認められない」

 鳥居は仁科を見つめた。

「みんな、お利口さんですものね。どうせ私なんか相手にされてないんでしょう? でもね、私だって知っていることはあるのよ。室井さんだって知らない秘密を、ね」

 部屋の隅に腰掛けていた室井が、うんざりとしたように目を上げた。

「また誇大妄想かね? 私からもはっきりと言おう。君は無能だ。大学の名を被せた営利団体を〝卒業〟したことは事実だろうが、それに相当する知識も技術もセンスも持ち合わせていない。研究者としては全く使いものにならん。どんな企業に勤めたところで、コピー取り以上の仕事を任されることはないだろう。自分がいっぱしのスタッフだと考えるのは思い上りもはなはだしい」

 室井の声にはまるで力がなかった。そのことが余計に、室井の本心を際立たせている。

 初めて聞かされた率直な評価に虚を突かれた鳥居は、茫然と室井を見つめた。

「だって面接の時は、私が『貴重な人材』だって……」

 室井は鳥居と目を合わせようともせずに、吐き捨てた。

「事実、貴重だったのだ。君のその非常識と無神経さが、な」

 仁科が後を引き取った。

「君の役割はマイクロスフィアを維持していくために欠かせないものだと考えられていたんだ。スケープゴートとしてね」

 大西が仁科を見て首をひねった。

「どういうことですか?」

 口を半開きにして言葉を返せずにいる鳥居を見つめながら、仁科は続けた。

「宇宙開発プログラムでは、スタッフ間に絶え間ない緊張が生じることを計算に入れておかねばならない。ハードウェアの整備は重要だが、心理面のケアはそれ以上に重大なんだ。どんな世界にだって嫌われ者はいるし、誰にだって反りの合わない相手はいる。特殊な技能を必要とするスタッフなら、なおさら個性が強いことが予想される。マイクロスフィアは逃げ場のない閉鎖空間だ。二年間、二四時間ずっと、嫌な相手とも顔をつき合わせていなければならない。小さな〝好き嫌い〟が積み重なって、システム全体を危機に陥れることもある。特に有能な研究者同士が対立することは、計り知れないロスを生む。少なくとも、能率の低下は避けられない。いい例が、殺された高崎だ。有能だが、人間的には甚だしく問題があった。それでも今まで、何とかやってこられたのは、案外、鳥井君の力だったのかもしれない」

 大西には仁科が言わんとすることが理解できなかった。

「どういうことです?」

「誰からも嫌われる無能な人物をチームに一人を加えると、全員の非難がそこに集中する。より小さな好き嫌いは、意に介さなくなる。『敵の敵は味方』という心理だ。その結果、システムの機能が良好に保たれる可能性が開けるわけだ。鳥居君……それが君の役目だったんだよ。君は、みんなから嫌われるためだけにMSPに招聘されたのだ。そしてこれまで、立派に私たちが望んだ〝職務〟を果たしてきた。もっとも、君がシステム全体を根底から揺るがすほどのずば抜けた〝才能〟を発揮したことは私たちの誤算だったがね」

 積もり積もった不満を一気に吐き出させた仁科を、鳥居はじっと見つめるだけだった。その目からは、全ての感情がすっぽりと抜け落ちてしまったかのようだった。

 大西は仁科を見つめてつぶやいた。

「あなたはスフィアで、その人間関係を研究していたんですか……」

「言ったろう、『私企業は無駄をしない』って。必要がないなら、掃除以外に能力がない人物がスタッフに選ばれるはずがない。CELSSと人間の心理の問題は切り離せないものなんだ」

 さらに、室井が鳥居に命じた。

「君はここで眠っていたまえ。うろうろされては邪魔だ」

 しかし鳥居は唐突に、その目に怒りをあらわにした。

「なにさ、私だって掌紋を登録されているのよ! あんた、知らないんでしょう? 私たち五人の掌紋が揃えばエアロックが開くんだから! 犯人はみんなの掌紋が欲しくて右手を集めているんだから! 私、天野がそう言っていたのを聞いたんだから! 私は馬鹿じゃないわよ! 黙って腕を切られるほど馬鹿じゃないわよ! だから掌紋を消すために――殺されて腕を切られる前に、自分で手を焼いたのよ!」

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