エコロジカル・クライシス・3
スタッフはまず、医務質で仁科の応急処置を受けた。
軽い脳震盪を起こしていた鳥居は、小量の鎮静剤によって眠らされた。傷は打ち身だけで骨にも異常はなさそうだったが、鳥居のヒステリックな振る舞いに手を焼いた室井が命じた処置だった。
傷の手当てが終わって落ち着きを取り戻したスタッフは、一団となって三階のバルコニーへ向かった。そして、芦沢の推理が正しかったことを思い知らされた。
底無しの恐怖と絶望感とともに――。
コア・キューブ三階の倉庫の鍵は、開いていた。そして、交換用の二酸化炭素吸着フィルターは一つ残らず消え去っていた。さらに、保存していたアルコールのタンクやオイル缶には穴が開けられ、床にあふれていた。
狭い倉庫に満ちた異臭の中、全員が言葉を失った。
燃料電池での発電も不可能になったのだ。
泥と煤で汚れた服をまとい、あちこちに包帯を巻かれた者たち――。足を引きずり、腰を折り曲げ、一歩進ごとにうめき声をこらえる亡霊のような集団――。畜舎の爆発によって身体中に傷を負った彼らから、さらに〝希望〟までが奪われようとしていた。
室井はフィルターが消えた倉庫の棚を見つめたまま、金縛りにかかったように動かなかった。自分の気持ちを落ち着かせようとするかのように、大西に向かってかすかに震える声を絞りだす。
「マイクロスフィアでは、二酸化炭素量が増大した場合は化学的に回収して酸素に変えている。吸着フィルターに入れられた『固体化アミン』は、常温では二酸化炭素と結合して炭酸アミンに変化する。全てのアミンが化合を終えるとフィルターを交換して、使用済みフィルターは分離工程へ回される。高温をかけることで二酸化炭素だけを分離して、水素を反応させる。サバチエ反応と呼ばれる工程だ。これには二種類の段階があってね、第一反応では二酸化炭素と水素から、メタンと水が生じる。第二反応はメタンを熱解離して炭素と水素に変える、メタンクラッキングだ。ここではメタンは燃料として使うこともあるがね……」
大西には単調な室井の言葉が、まるで神にすがるための祈りのように聞こえていた。
大西は言った。
「交換フィルターがないとどうなります?」
「今装着しているフィルターでは、これ以上二酸化炭素を分離できない。これからは二酸化炭素濃度が一方的に上昇していく……」
「その、なんとか反応でフィルターを再生できないんですか?」
室井の返事には力がなかった。
「可能だが、かなりの時間と電力を消耗する。燃料電池が使えない状態でサバチエ反応を行なえば、数時間で電力が底を突くかもしれない……」
大西はうめいた。
「電気か空気か……どちらかを選ばなけりゃならないのか……」
と、中森が、茫然と立ち尽くす芦沢に向かって言った。
「この倉庫には、確かダイヤル錠がついていましたよね。個人コード同様、その番号はあなたしか知らない」
芦沢はようやく声を絞り出した。
「私じゃない……私じゃない……あんな鍵ぐらい、ちょっと器用な奴なら開けられる……」
「でも、コードはあなたしか知らない」
芦沢は中森をにらんだ。
「悪戯好きのハッカーならコードがなくてもコンピュータに命令を出せるんじゃないのか⁉ 君は機械メンテナンスの補佐係なんだしな!」
「私がやったっていうんですか⁉」
二人はにらみ合った。
スタッフは酸素欠乏の息苦しさに耐えながら、じっと彼らを見つめ続けた。
不意に、仁科が言った。
「畜舎の大気循環が止められたのは、一時間も前のことでしょう? 火を出した高崎君の死体や、ここにあったという消火器――どれも時限装置をセットされていたわけですよね……」
室井は仁科を見た。
「それがどうかしたのか?」
「仕掛けをすませた後は、犯人が何もしなくても自動的に事故が起こる状態になっていたということです。しかも犯人は、個人コードがなくてもコンピュータを操れた可能性がある……」
中森が仁科を見つめた。
「まさか、石垣が……?」
「彼ならメンテナンス・モードを命令できるかね?」
中森は小さくうなずいた。
「時間はかかりますけれど、プログラムをじっくり分析すれば……」
「時間は一年半もあった」
芦沢も言った。
「石垣さんが全ての事件の犯人だったっていうんですか?」
仁科はうなずく。
「そうとしか考えられないじゃないか。高崎君を殺したのも、きっと彼だ。だから一刻も早くスフィアから逃げ出したかったんだ。その手段としてスフィアの生態系を破壊して、スタッフを外に出すしかない状況にセンターを追い込みたかったんだろう。ところがセンターは火災を起こしてスフィアにかまっていられなくなった。しかもいったん仕掛けた時限装置は止めることができずに、刻々と時間を刻んでいく……。それに彼なら、地下倉庫のセンサーだって掌紋なしで破れたかもしれないだろう?」
中森が言った。
「確かに石垣はガード破りの天才でしたからね……」
峰が首をひねった。
「でも、それなら彼はどうして倉庫になんか入ったの? 誰に、なぜ殺されたの?」
仁科は視線を落とした。
「そこまでは、私にも分からない……」
仁科の推理をじっと聞いていた大西が、小さく首を振った。
「大体、辻褄が合いませんよ。あちらこちらに時限装置を仕掛けたのは、当然アリバイを作って容疑を逃れるためですよね。でなければそんな仕掛けで時間差を作りだす必要はありません。その装置は、高崎さんの死体が燃えた時にも使われていました。なのに石垣さんは、一番乗りで消火に駆けつけた。それじゃあ彼が火を放ったと疑われたって仕方ないじゃありませんか。時限装置を仕掛けた意味がありません。自分の部屋で寝たふりをしているほうが利口です」
仁科は反論できなかった。
中森が安心したようにうなずいた。親友が殺人者であった可能性は考えたくなかったのだ。
「それもそうですね。やっぱり奴は、犠牲者なんだ……」
芦沢が言った。
「ともかく、私はサバチエ反応装置を点検します。いつでも使える状態にしておきたいんでね」
室井がうなずく。
「そうしてくれ」
芦沢は倉庫の隣のドアへ向かい、機械室のダイヤル錠を開き始めた。
峰がコアの縁から爆破された畜舎を見下ろしてつぶやいた。
「いずれにしても、もうこのスフィアはスクラップよ。一年半もかけてやっと安定させた生態系が、たった数時間で全壊……。ここを脱出できなければ私たちも道連れね……」
3階から見下ろす『森』は、畜舎を中心に円形に焦げていた。無残になぎ倒された木々は、極めて近い将来のスタッフの姿を暗示している――。
大西は冷静に言った。
「犯人が誰かは分かりませんが、『ミスターX』も爆発でスフィアの機能が崩壊することは知っています。知っていながら、爆薬も時限装置も必要ない急ごしらえの爆弾を畜舎に仕掛けたんです」
室井がぼんやりと大西を見た。
「何が言いたいのだね?」
その時、機械室のドアを開けた芦沢が動きを止めてつぶやいた。
「まさか……ここもか……」
その声を聞きつけて、室井に答えようとした大西が振り返る。
「どうしたんですか⁉」
大西を見つめた芦沢は力なく答えた。
「機械室がメチャクチャです。サバチエ反応機も壊されている……見ただけで、使いものにならないと分かります……」
スタッフが息を呑む。
大西は、確信を込めて言った。
「これで犯人の目的がはっきりしました。さっき仁科さんが指摘したとおり、ミスターXの望みは『マイクロスフィアに人が住めなくする』ことだったんです」
誰一人、大西の結論に異を唱えることができなかった。
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