エコロジカル・クライシス・2

 透明なアクリル板で覆われた畜舎には、体長三、四〇センチほどのブタとヤギ、そしてニワトリの死体が合わせて三十体ほど転がっていた。

 大西はアクリル板に両手をつけて中に目を凝らした。アクリル板の内側は細かい傷や動物の糞で汚れ、しかも内部の水蒸気によって曇りガラスに近い状態になっていたのだ。

 畜舎はマイクロスフィアのドームを縮小したような構造になっていた。アルミ製の太い枠が組まれ、そこに一片が二メートルほどの正方形のアクリル板をはめこんで巨大な箱を作り上げている。内部はいくつかの柵に仕切られ、動物たちが眠る場所らしいプレハブの建物が中央に配置してあった。動物は自由に建物を出て柵の内側で運動ができる構造になっているようだった。

 さらに建物の脇にはいくつかの四角い穴を穿たれた円筒が立てられ、円筒の上部から伸びたパイプが建物に繋がっている。大西は、動物に餌を与える装置なのだろうと判断した。

 辺りには、まだ高崎を黒焦げにしたボヤの臭気が立ちこめていた。殺人犯が放火した現場は、畜舎から一〇メートルほどしか離れていない。

 スタッフの先頭に立っていた鳩村はTシャツの上に酸素ボンベを背負っていた。顔面を覆ったマスクや口にくわえたチューブもスキューバダイビングの用具だ。普段は峰が『海』の調査や清掃の際に使用するものだという

 ガスが充満する建物に入るには危険がともなう。それでも、畜舎の内部で何が起こったのか、誰かが確かめなければならない。鳩村は、『畜舎の責任者である自分の仕事だと』いって譲らなかった。

 他のスタッフたちは、彼女の背後から畜舎の内部を観察している。

 鳩村は畜舎のドアに向かった。

 仁科の言葉が聞こえた。

「酸素ボンベをつけていれば窒息や中毒の危険はない。火さえ出さなければ……」

 その時、大西は中の装置のパイプの継目からかすかな煙が立ち上っているのを発見した。さらに注意して見ると、内部のプレハブ全体からわずかな煙がもれている。

 大西は鳩村に向かって飛び出しながら、叫んだ。

「ドアを開けるな!」

 が、鳩村はすでにドアの掛けがねを外していた。鳩村が突進してくる大西に顔を向けた瞬間、ドアが急激に内側に吸い込まれた。畜舎にどっと流れこんだ空気が、鳩村の髪を前方になびかせる。

 仁科も叫んでいた。

「伏せろ! 爆発だ!」

 急激に傾く大西の視界に、スタッフに襲いかかった光景が、音のないスローモーション映像のように映った。

 最初に、畜舎の内部が真っ赤に染まった。建物全体が風船のように膨張しはじめる。大西はその時なぜか、ダリが描く柔らかい時計に似ている――と感じた。次の瞬間、爆発の圧力が畜舎の強度を打ち負かした。

 格子状に組まれたアルミの枠が歪む。アクリル板にクモの巣のようなひび割れが走り、砕けながら飛び散る。轟音が辺りを包み、衝撃波がスタッフを巻き込む。赤く膨れあがる火の玉の周囲で、粉々になったアクリル板の破片がきらきらと光る。

 音と熱が一体となった〝壁〟が、彼らに激突した。

 スタッフを間一髪で救ったのは、仁科の警告だった。

 雷の直撃さえ凌ぎそうな激しい振動と熱風が膨れあがったとき、彼らは一斉に地面に身を投げ出していたのだ。それでもスタッフは、つむじ風にもてあそばれる枯葉のように地面を転がった。熱風が彼らの息を奪いながら、その頭上を駆け抜けていく。爆風が一瞬で過ぎ去らなければ、全員肺を焼かれて死んでいたはずだった。

 大西は、それでも目をつぶらなかった。つぶれなかった。悪魔に魅入られたかのように、瞬きすらできなかった。

 世界が回転する。きりもみしながら落下するジェット機のように、大西は鳩村の身体を抱えたまま振り回された。そして、背中に衝撃が走った。大木の幹に衝突したのだ。大西は肺の中の空気を絞りだされ、うめくこともできなかった。

 爆風が次に牙を立てたのは、畜舎を取り囲んだ森だった。

 大きく枝を開いて葉を密生させた植物たちは、爆発の衝撃を真正面から受けとめた。豊かに茂った葉が一斉に吹き飛ばされる。だが、過去一年以上、天然の風に曝されていなかった植物は、どれもひ弱になっていた。巨木の幹が音を立てて折れる。大地に張った根が、呆気なくちぎれる。二〇本を越える大木が、爆発を中心にして一気に薙ぎ倒された。植物たちがあげた断末魔の〝悲鳴〟は、大西の耳にはっきりと届いた。

 だが、大西が聞いた音はそこまでだった。不意に静寂が訪れる。

 瞬く間に起こった大爆発の轟音と圧力がスタッフの意識を空白にさせ、感覚を奪ったのだ。

 全員が、身を投げ出した場所から一〇メートル以上吹き飛ばされていた。

 それは、爆撃を受けた直後の、内戦に怯える村の光景のようだった。誰が生き、誰が死んでいるのかも分からない。

 そのまま数分が過ぎた――。

 爆風と振動が収まって耳鳴りが消えると、大西は鳩村の上から立ち上がった。激しい痛みが背中を突き抜け、足がふらつく。それでも数回の深呼吸で、肺に必要な酸素を取り入れることができた。

 大西はぼんやりと辺りを見回した。

「ひどい……」

 しゃがれた声が、自分の口から出たことに驚く。

 しかしスフィアは、大西以上に傷ついていた。

 畜舎には黒ずんだアルミの枠しか残っていなかった。吹き飛んだアクリル板の破片が、あたり一面に散らばっている。立ち上る煙の中に、動物たちが焦げる臭いが漂っていた。内部のプレハブも粉々に崩れていたが、炎は出ていなかった。爆風が強すぎて、逆に火を吹き消してしまったらしい。

 鳩村も意識を取り戻し、上体を起こした。

「大西さん、ありがとう……」

 大西は背中に走る痛みをこらえながら、鳩村に手を差し出した。

「間に合ってよかった」

 鳩村の目が、大西がぶつかった木の幹に止まる。地面から一メートルほど上でへし折られた木には、手のひらの大きさほどのアクリル板が突き刺さっていた。

「あなたが気づいてくれなければ、私がああなっていたわ……」

 他のスタッフたちも衝撃から醒めて、身体を起こし始めていた。幸い、命に関わる怪我を負った者はいないようだった。

 仁科が足元をふらつかせながら二人に近づいた。

「まさか、中に火種があったとは……なぜこんな爆発になったんだろう……」

 立ち上がった者たちが、大西の周囲に集まる。

 大西は鳩村の手を引いて立たせると、言った。

「バックドラフト……ってやつでしょうね。映画で見たことがあります」

 峰が軽く頭を振りながら大西の傍らに立った。顔は泥で汚れ、額の擦り傷から血がにじんでいる。ショックが大きすぎて、驚きを顔に出すことさえできずにいるようだった。

「バック……? 何なの、それ……?」

「犯人はきっと畜舎の餌に火をつけたんです。メンテナンス・モードで大気の循環装置が止められていたから、その火は不完全燃焼を起こして檻の中に一酸化炭素が充満しました。そして、動物は窒息死。畜舎には可燃性のガスがいっぱい詰まったままです。ドアを開けたとたんに外の空気――つまり大量の酸素が吸い寄せられて、くすぶっていた火種が急激に発火したわけです。で、ガスに引火して、ドカン!」

 立ち上がりはしたものの、ぼんやりと畜舎の残骸を見つめるばかりだった室井が、不意に振り返って叫んだ。

「これも破壊工作だというのか⁉」

 室井の妻は腰が抜けたのか、夫の傍らに座り込んだままだった。驚きに目を丸くして大西を見つめる。

 大西は二人に向かって断言した。

「当然です。でなければ、大気循環装置を止めたりはしません。犯人は最初から畜舎を爆破したかったんです。それとも爆発は単なる偶然か、予定外のアクシデントだったのか……。少なくとも、一酸化炭素でマイクロスフィアの空気を汚染しようと企んだことだけは間違いありません」

 峰が言った。

「でも、どうやって? 畜舎で火災が起こったなら、炎か煙をセンサーが感知するはずでしょう? 何の警報もなかったなんておかしいじゃない」

 中森がアクリル板の破片で切った左の二の腕を押さえながら、答える。

「システム全体がメンテナンス・モードに入っていましたからね。センサー類も機能を休止していたんです」

 大西が、全身泥まみれの中森を気づかう。

「怪我を?」

「かすり傷です。見た目はひどいようですけどね」

「よかった。あなたに倒れられたら、脱出できなくなるかもしれませんから……」

 中森は苦笑した。

「自分の心配が先、ですか?」

「これで案外、小心者ですから」

 中森は真顔に戻ってうなずく。

「誰だって怖いですよ。でも、シェルさえぶち破れば解放されます。ただ、壊すのにどれだけ時間がかかるか見当もつきません。こんな爆発を起こされたんじゃ、温室の空気がいつまで保つか分からないし……。殺人犯の仕業なんでしょうね」

 大西がうなずく。

「周到に練られた計画的な行動です」

 室井はうめく。

「犯人とてスフィアから逃げられないのに……。何のためにそんな自殺行為を……?」

「犯人には、犯人の狙いがあるはずです」

 厳しい表情の芦沢が、二階堂の脇に腕を差し入れて支えながら近づく。芦沢の頭からは、一筋の血が流れていた。

 足を引きずる二階堂は、誰にともなくつぶやいた。

「私……なんであんなところまで飛ばされたんだろう……」

 中森が二人に駆け寄った。芦沢から奪うようにして、二階堂に手を貸しながら言った。

「ほんと、ゴジラに蹴られた――って感じでしたもんね」

 その声には、命拾いした喜びが素直ににじみだしていた。

 芦沢はその場に取り残された。当然、爆破の犯人だと疑われていることは承知している。スタッフから時折向けられる射るような視線にも、何も応えられなかった。

 仁科が改めて周囲を見回した。

「みんな無事なのか……?」

 柴田と天野は、肩を並べて畜舎の焼け跡を見てめている。二人とも、怪我をした様子はない。

 室井がつぶやく。

「鳥居君は……?」

 倒れた木の陰に、横たわる人影があった。鳥居だ。

 鳥居の元に歩み寄った仁科は、かがんで様子を調べた。

 スタッフの目が鳥居に向かう。

 仁科は振り返って言った。

「気を失っているだけです。伏せるのが遅れて、頭を打ったらしい。呼吸は安定していますから、危険はないでしょう」

 口々に、安堵のため息が漏れた。と同時にスタッフの目が、スタッフの輪に溶け込めずにいる芦沢に向かい始める。

 芦沢はついに、彼らの視線に耐え切れずに叫んだ。

「私は何もしていない!」

 大西は険悪になりそうな気配を遮るかのように言った。

「まずは傷の手当てが先です。こう身体が痛むんじゃ、頭も働きませんから……」

 峰が応える。

「それもそうだけど、早く空気を正常化しなくちゃ。今の爆発で酸素を急激に消耗したはずよ。私は、もう息苦しい……」

 芦沢がうなずいた。

「このままじゃ、シェルを壊す前に窒息する。とりあえず、二酸化炭素の吸着フィルターを取り替えて浄化能力を上げましょう」

 大西は、はっと芦沢を見つめた。

「もしかして、今取りつけてあるフィルターは、さっきの消火器で能力を失っているんですか?」

 芦沢もその点に気づいた。

「まさか……犯人はフィルターを役立たずにするために、消火器に時限装置を仕掛けたのか……⁉」

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