エコロジカル・クライシス・1

 地下倉庫に収納されていた十本の酸素ボンベと、缶詰などの緊急用食料は、四人の男たちの手で2番出口に最も近い部屋――医務室に運び上げられた。最悪の事態が生じて篭城を余儀なくされた場合は、そこが最後の砦になるのだ。

 しかし、今は全員が温室内の休憩所に揃っていた。

 そこにはわずかながらも天然の明かりが届き、気持ちを和ませる緑の植物もある。一方、コア・キューブ内の照明はすでに完全に切られていた。

 だが、本来は安らぎの場であるべき休憩所は、互いの腹を探り合う暗闘の舞台と化していた。

 スタッフは誰もが〝二つの死体〟に精神のバランスを崩され、仲間を疑いの目で見はじめている。しかも『自分が犯人ではないことを証明しなければならない』と焦っていた。たとえ身に覚えがなくとも、一度疑いをかけられた者は拘束され、最悪の場合はリンチに合いかねないのだ。

 研究者たちのストレスを和らげる役割を担った仁科さえも、今ではその神経戦の渦中の一人にすぎない。スタッフは底無しの泥沼から抜け出すための命綱さえも失っていた。

 分かっていることは、ただ一つ――『殺人犯がスタッフの中に潜んでいる』という冷酷な現実だけだ。

 逃れようのない激しい嵐が、全員の心の中に吹き荒れていた。

 マイクロスフィアを呑み込んだ外の嵐も激しさを増すばかりだった。暗い空は鉛色の海と混じり合い、スフィアがそのまま宇宙空間に漂っているかのように錯覚させた。絶え間なく叩きつける豪雨の音もすでに単調なBGMと化し、宇宙の静寂と変わりない状態になっている。暗やみの彼方には、もはや管理センターの火災の明かりも見えない。

 全員が孤独だった。

 だが、その中でも特に強く疑われている人物が存在した。スタッフは自分の身を守るためにも、彼が〝犯人〟であることを心から望んでいた。

 重苦しい沈黙の後に室井は言った。

「柴田君、私たちの考えは分かったね。答えてもらおう。君たちはここで何を研究していたのだ? それが連続殺人の原因ではないのかね?」

 室井をじっと見つめた柴田は、憮然とした表情を崩さずにつぶやいた。

「何度質問されても答えは同じです。研究の目的は『有用微生物の開発』です」

 室井はうんざりしたように肩をすくめる。

「もっと詳細に説明してもらえなければ判断の下しようがない」

 柴田はこらえ続けた苛立ちを一気に吐き出すように言った。

「ならば、初歩から説明しましょうか? 室井さんでも理解できるように、ね」

 室井の目に憤りがふくれ上がる。

 それを察した大西が、すかさず口を挟んだ。

「お願いします。僕は素人ですから、右も左も分からなくて。初歩からの説明は大助かりです」

 柴田は大西を見て微笑み、小さくうなずいた。そして、語り始めた。

「『バイオスフィア2』が計算外の酸素の減少という危機に見舞われたことは知っていますね? 長い原因究明の努力の末に、異常な酸素減少は『土壌内の細菌がコンクリートと酸素を反応させて炭酸カルシウムに変えた結果だった』ことが明らかになりました。だからここでは、コアの建築素材に細菌への耐性が強い強化プラスチックを使用しているのです。しかし一方で、それほどの潜在能力を秘めた微生物たちを飼い慣らすことができれば、膨大な機器とエネルギーを必要とする化学処理を不要にする可能性が拓けます。汚染物質や大気の浄化や再生、廃棄物の処理などに活用できるはずです。特に微細藻類は有望です。彼らは、大気すら存在しなかった原始地球の苛酷な環境を生き抜いた強靭な生物の末裔で、そのDNAを現代に伝えている『生きた化石』なのですからね」

 大西が首をひねった。

「具体的には、どんな研究を?」

「紫外線を吸収する蛋白質を作るラン藻が、我々の研究対象の代表でした。彼らのDNAにわずかに手を加え、閉鎖空間での共生に耐える性質に変えることが目的です。酸素の発生源としてはもちろん、生活廃棄物の分解、そしてラン藻そのものを食料へと変換するところまで我々の応用計画は進んでいます。さらにその研究課程で、宇宙線に強い耐性を示す藻類も発見されました。他にも、特定の有害ガスを除去する性質を持った微生物が分離されています。現在は大がかりポンプを使って空気を土壌の中に通して有害ガスを除去していますが、この微生物を管理できれば、大量の電力を消費する装置は不要になるかもしれません。我々の使命は、これらの有用微生物の能力を限界まで引き出すことに尽きるのです」

 大西が言った。

「そうすると、Mラボというのはバイオテクノロジーの研究室みたいなものなんでしょう? 何も不自由なドームの中で研究しなくても、外で作った生物を運び込んでくればいいのに……」

 柴田は冷静に答えた。

「ここが月面、あるいは火星の表面だと考えてください。我々は少人数のコロニーを作ってその星を研究しているわけです。そこで生物の痕跡や新種の微生物が発見されたらどうします? 地球から宇宙船が着くまで、何ヵ月も何年も放置しておくんですか? その星に住み着く以上、全ては自らの手で処理できるシステムができあがっていなければなりません。ドーム内部で遺伝子の分析や組換えを行なう理由は、そのノウハウを得るためです。閉鎖空間内でも安全に作業が続けられる体制作りを模索しています。したがって研究に使用している薬品類も、環境に害を与えにくいものを選んでいます。どうしても必要な有害薬品は、使用後も完璧に分離して保管します。そうやって研究を続けること自体が、MSPの目的を完成させるわけです」

 大西は当然のことながら、じっと聞き耳をたてていた室井も柴田の説明に不審な点を見いだすことはできなかった。

 室井は言った。

「君たちの研究課題がそれだけなら、どうして微生物チームのメンバーがたて続けに殺されたのだ? しかも、二人とも右腕を切り取られて……? 腕を切ることにどんな意味がある?」

 柴田は室井を見つめた。

「それを聞きたいのは、私の方ですよ。彼らが共に私の部下だったのは単なる偶然でしょう。それより私には、石垣君が残した血文字の方がずっと重要だと思えますがね。HD――でしたか? 彼が死に際してそんな文字を残したなら、それなりの意味があるはずでしょう? 手がかりらしいものは他にはないんですから」

 室井も考え込まざるをえなかった。

 謎が多すぎるのだ。

 スタッフの疑いの目は一時的に柴田に集中したものの、そうしたところで積み重なった謎は何一つ解明できていない。

 窮屈な地下倉庫から外に出られたことで落ち着きを取り戻した峰が、柴田の指摘にうなずきながら言った。

「ダイイング・メッセージ……死ぬ直前に犯人を名指しした、と考えるのが自然よね」

 大西は中森に質問した。

「HDって、コンピュータのハードディスクのことじゃありませんか? 石垣さん、コンピュータに詳しかったんでしょう?」

 中森は肩をすくめた。

「もちろん、あり得ます。私もずっと考えていました。でも、『ハードディスク』の意味だったらどうだって言うんです?」

「何かのデータを隠した、とか……」

「スフィアには、数十台のコンピュータや周辺機器があるんです。どこかのHDに何かを隠したとしても、探す方法なんてありません。石垣が本気で隠したのなら、日付の検索のような単純な方法じゃ出てこないように手を打っているはずですし。何を探したいか分かっていれば、話は別ですけど」

 芦沢が続ける。

「確かに、わざわざ血文字で残すには意味が漠然としすぎていますよね……。単純に考えれば、殺人犯の頭文字ということになるけど……該当する人物はいない。だとすれば別の意味なのか……?」

 仁科が言った。

「問題は他にもあります。『誰が石垣君を殺せる立場にあったのか』です。高崎君の場合、彼が夜のうちに殺されたなら、全員が容疑者といえます。しかし石垣君は、ついさっきまで我々と一緒にサロンにいたんですよ。その後に彼を殺せるのは、そこを出ていった者だけ……」

 いきなり金切り声を上げたのは鳥居だった。

「私は関係ないわよ!」

 仁科は軽く首を振った。

「容疑者から外すことはできないね。犯行が不可能だったのは、あの時サロンに残っていた者――つまり室井夫妻、峰君、芦沢君、大西君、そして私だけだ。残りのみんなは、今後、私たちの監視下に置かれることを承知してもらわなくてはならない」

 鳩村が溜め息混じりに言った。

「それは仕方ないとしても、二人を殺したのが同一人物とは限らないんじゃなくて?」

 室井がうなずく。

「しかし、たった十数人の中に殺人者が二人もいるとは考えにくい……」

 室井の本心は〝考えたくない〟ということだった。それはスタッフの共通した願いでもある。

 天野が言った。

「そもそも、こんな研究所で殺人が起こることが異常なんだわ……」

 峰はまだHDの文字にこだわっていた。

「Hの名前を持っているのは、誰?」

 室井が答えた。

「頭文字ではないといったはずだ」

「そういわれたって気になるわ」

 室井はうんざりしたように言った。

「中森君の洋、妻の裕美」

 大西がつけ加えた。

「私は宏伸です」

 峰の視線が大西に向かった。

「大西……OはDと間違えやすいわ」

 峰は依然として大西への疑いを捨て切ってはいなかったのだ。

 大西は肩をすくめた。

「しかし石垣さんが殺されたはずの時は、あなたと一緒にサロンにいたんですよ。僕はマジシャンじゃありません」

 峰は食い下がった。

「直接手を下してなくても、何か関係があるんじゃなくて?」

「僕は仕事でたまたまやってきただけの雑誌記者で、あなた方とは無関係な立場にあるんです。分かってほしいな、そこのところを……畜生……何だって、こんなにやっかいな取材を引き受けちまったんだろう……」

 仁科が結論を下した。

「床に書いてあった血文字のDには、縦線に小さな横棒が添えてあった。手書きの文字がOと間違えられないようにするためだ。あれは確実にDだと判読できる」

 と、不意に柴田が口を開いた。じっと中森を見つめていた。

「中森君……確か君は、東工大の中森亮佑先生の所に養子に入ったんじゃなかったかね?」

 うつむいて考え込んでいた中森が、はっと顔を上げた。

「ええ……」

 室井も目を光らせた。

「そうだ、私も知っている。旧姓は……」

 中森は溜め息をもらしてから、自らその名を口にした。

「大門です。D……ですよ……」

 峰が両手で口を覆ってつぶやいた。

「HDじゃない……」

 中森は峰を見つめた。

「いずれは分かると思っていました。でも、犯人は私じゃありません。動機だってありません。石垣は大学時代からのハッカー仲間だったんです。今だって本心を曝け出すことができるただ一人の男だったのに……。なぜ私が、奴を殺したりするんです……?」

 仁科が言った。

「つまり、石垣君も君の旧姓を知っていたということだね?」

 中森は苛立ちをあらわにした。

「私じゃありません!」

 天野が中森を見つめる。その目は、不気味な昆虫を見つめるように冷たい。

「あなた、コンピュータが専門よね。もしかしたら、掌紋を使わなくても地下倉庫の鍵を開ける方法を知っているんじゃなくて?『セキュリティー・ガードを破ってお小遣いを稼いだこともある』って自慢していたぐらいだもの」

 中森は目を見開いて天野を見返した。味方だと信じていた彼女の言葉にショックを受けたようだった。

「君まで……? 何度言ったら分かる⁉ 私じゃない!」

 腰を浮かせた中森を、横から仁科が取り押さえる。

「落ち着け!」

「私じゃない! 奴は親友だったんだ!」

 大西が穏やかに言った。

「なるほどね……。もしかしたら、こうやってスタッフ間の信頼感を分断していくのが犯人の狙いなのかもね……」

 室井が、大西の間のびした口調に誘われるように冷静さを取り戻した。

「大西君、何か気づいたことでもあるのかね?」

 大西は自信ありげにうなずいた。

「ええ。中森さんは無実だと考えるべきでしょう。少なくとも、石垣さんの殺人に関しては」

 意外そうな視線が大西に集まった。

 室井が問う。

「なぜだね?」

「血文字が書かれていた位置ですよ。おかしいと思いませんか? HDの血文字は切り取られた右手のすぐ先に残っていたんですよ?」

 室井は言った。

「だから、石垣君がそれを書いた後で、犯人が腕を切った――あ、そうか! 確かにおかしいぞ!」

 大西はにやりと笑った。

「でしょう? 犯人は、石垣さんの腕を切り取る時に床の血文字に気づいたはずです。自分を名指ししていた頭文字なら、そのまま残しておくはずはありません。手首から流れ出た血を上から塗りたくれば簡単に消してしまえるんですから。なのに、なぜ放っておいたんでしょうね?」

 芦沢が得意げに言った。

「そうか! 文字の内容が、偶然、推理の方向をミスリードするものだったからだ!」

 大西はうなずいた。

「血文字は、推理を混乱させるために犯人自身が書き記したものだということも考えられますけどね」

 芦沢が身を乗り出す。

「偶然と見なすより説得力があるね。血文字に指紋が残っていれば犯人を特定できるかもしれない」

 仁科がかすかに首を横に振った。

「残念ながら、指紋らしい痕跡はなかった」

 大西は続けた。

「しかし僕は、血文字を書いたのはやっぱり石垣さん本人だと思うんです」

 芦沢が問う。

「理由は?」

「犯人が中森さんを罠にかけようとしていたなら、頭文字は『HN』と記すのが自然でしょう? それがスタッフ全員が知っている彼の名前なんですから。しかも血文字によって中森さんの旧姓を知っていることを匂わせれば、そのこと自体が犯人を特定する手がかりになりかねません。トリックどころか、墓穴を掘ることになります」

 芦沢は素直にうなずいた。

「なるほど、理論的ですね……」

 峰も感心したように大西を見つめた。

「あなたもミステリーマニアなの?」

「マニアだなんて、とんでもない。暇つぶしに時々読むだけですよ。犯人を当てられることは、めったにありませんけど……」

 芦沢は言った。

「しかし、私なんかよりずっと頭が働くようですね。いざ自分が事件に巻き込まれると、何一つ冷静に見ることができません。マニアぶっていた自分が情けない」

 大西は微笑んだ。

「あなたはこの異常事態に充分冷静に対処していますよ」

「お褒めいただいてありがとう。お返し、というわけではありませんが、私もあなたの意見に賛成です。血文字は犯人が書いたものではなさそうです。でも、そうなるとHDとは何だろう……?」

 大西は肩をすくめた。

「僕には分かりません。科学者じゃありませんから。研究に関する専門用語か何かだという気がするんですが……」

 仁科が言った。

「医療現場では血液透析をHDと呼ぶことはあるが、今の場合は関係なさそうだな……」

 峰がつぶやいた。

「可能性はまだあるわよ。犯人は始めから、石垣君が書いた血文字に気づかなかったとか……」

 大西がうなずく。

「人を殺して動転していたでしょうし、手首を切断するのにも焦っていたでしょうからね。でも、あれほどはっきりと書かれていた文字を見逃しますか? 僕らだって真っ先に気づいたのに」

 芦沢が言った。

「石垣が殺された時に倉庫の明かりが消えていたってことは?」

 中森が話に加わった。

「それはないでしょう。電気回路の図面を調べたところでは、照明のスイッチは赤外線センサーとドアの作動に同調しています。ドアが開いている状態でセンサーが室内に人間の存在を感知すれば、そこではじめて明かりがともるわけです」

 大西は、落ち着きを取り戻した中森の目を覗き込んだ。

「めったに人が入らない地下の倉庫に、なぜそんな複雑なセンサーが必要なんです?」

「電気の消し忘れを防ぐためでしょう。照明の消費電力は馬鹿にできませんから。センサーといっても中学生の工作程度の初歩的な仕掛けで、複雑だとは言えませんし」

 峰はさらに言った。

「じゃあ、血文字はいつ書いたの? 犯人は石垣さんが文字を書き終えるのをじっと待ってから手首を切ったわけじゃないでしょう?」

 それに答えたのは仁科だった。

「石垣君の手首を切断した凶器は、消火器置場から持ち出された斧だ。おそらく犯人は倉庫内で石垣君を殴ってから、斧を取りに廊下へ出た。きっと殺したつもりでいたのだろう。しかし石垣君は気絶しただけだった。犯人がいない間に石垣君は最後の力を振り絞り、頭の傷からにじみ出した血で文字を記したわけだ。倉庫に戻った犯人は、意識を回復した石垣君の頭をさらに斧で殴った。刃の部分ではなく、反対側でね。頭蓋骨の陥没の状態からそう判断できる。頭に刃先を振り降ろすのが恐かったか、単に動転していたのだろう。ともかく完全に石垣君の脳を破壊した犯人は、そこで初めて血文字に気づいた。大西君の考えが正しいとするなら、落ち着きを取り戻した犯人はその血文字が偽装に使えると思いついて手首だけを切断したということになる。手首の先の血だまりがわりに小さかったことは、完全に心臓が停止してから切断されたことを示している」

 芦沢が独り言のように言った。

「ここで、第一の殺人と同じ問題が発生するわけだ……。切り取られた腕はどこに持ち去られたのか……」

 仁科が大西を見ながら説明するように言った。

「隠し場所ならいくらでもある。いくら密閉されているといっても、マイクロスフィアはこんなに広い。地下には空調設備や水を循環させるためのポンプやパイプ類がぎっしり詰まった機械室がある。大学の体育館以上の面積があるはずだし、ゴキブリやネズミのパラダイスになるほど入り組んだ構造をしている。ドーム内の気圧をコントロールするための気圧調整室だって相当の容積がある。水田の泥の中に埋め込むことだって簡単だ。犯人が腕を隠したとするなら、捜すのは時間の無駄だろう」

 大西がうなずく。

「重要なのは、犯人が腕を蒐集する目的です。そこにこそ『連続殺人』の本質が隠されているはずなんです」

 室井は疲れ果てたように彼らの間に身を乗り出した。大西に向かって言う。

「名探偵たちのご高説は興味深いが、今はそれを楽しんでいる余裕はない。君は中森君をどうしたらいいと考える? 血文字を信じて拘束するか、脱出の指揮を任せるか……」

 質問された大西は、意外そうな目で室井を見つめ返した。

「僕の判断が知りたい……と?」

「その通り。唯一、スタッフと関わりのない人物だからね」

 大西はためらわずに答えた。

「拘束なんてとんでもない。中森さんがいなければロボットはうまく操縦できないんでしょう? 選択の余地はありません。それに僕は中森さんの無実を信じていますから」

 中森は大西に微笑みかけた。

「ありがとう。少なくとも、一人は味方がいたわけだ。命拾いしたよ」

「大げさですね」

 その時、またしても全員の無線器から警報ブザーが鳴った。

『システム異常です。コンピュータ画面で確認してください』

 峰がはっと身を起こした。

「今度は何⁉」

 芦沢がコンピュータに向かい、ディスプレイに映し出された文字を見て目をむいた。

「何だと……?」

 そうつぶやいた芦沢は、言葉を呑んで硬直した。

 傍らに進み出た峰が、モニターの文字を読み上げる。

『畜舎大気循環システムのメンテナンス・モードが六〇分を超えました。メンテナンス・モードを継続しますか?』

 大西が芦沢に尋ねた。

「メンテナンス・モードとは?」

 モニターを見つめたままの芦沢は、答えなかった。

 代わって室井が言った。

「メタンの分離装置の点検や二酸化炭素の吸着フィルターを交換するために、畜舎の空調システムを停止する措置だ。長時間止めると動物たちが吸う空気が汚れるので、一時間放置すると警告音が鳴るプログラムになっている。つまり、すでに一時間、畜舎の大気循環は滞っていたわけだ……」

「畜舎のシステムは温室とは別なんですか?」

 鳩村が立ち上がって、心配そうに畜舎の方を見ながら答えた。

「動物の糞から発生するメタンガスを回収して不快な臭気を遮断するために、アクリル板の檻で囲ってあるんです。畜舎の空気の九〇パーセント以上は独自のシステムの中を循環しています」

「一時間機械が止まると、いったいどうなるんです?」

「その程度なら動物には影響ないでしょう。でも、私にも正確には分かりません。今までそんなに長く止めたことはありませんから……。メンテナンスで機械を止められるのは芦沢さんだけなんです……」

 大西は、芦沢が茫然とモニターを見つめて続けている訳を理解した。

「あなたが装置を止めたんですか?」

 芦沢はゆっくりと振り返った。

「そんなことはしていない……」

 中森が冷たく言った。

「でも、コアの機械類はあなたの担当ですよ。あなたの個人コードを打ち込まなければコンピュータはどんなコマンドも受けつけない。そして、あなたのコードはあなたしか知らない」

 全員の視線が芦沢に集まった。

 大西が仁科にささやいた。

「個人コード?」

「スフィアの装置類はそれぞれ担当者が決まっていて、一人一人が持っているコードを入力しないと命令は実行されない。相反する指示が重複して、混乱したり暴走したりすることを防ぐために、責任者を明確にしているんだ。全てに通用するのは室井さんのマスターコードだけだ。いや、火災時の緊急コード――すなわち『119』も誰でも使えるコードだな」

 大西がはっと目を開いた。

「それって、スプリンクラーの⁉」

 仁科も大西が言わんとすることに気づいた。

「そうか! もしかしたら、散水スプリンクラーもメンテナンスモードで止められていたのかも! 中森君、君は119を使ったんだろう?」

 中森はうなずいた。

「もちろん」

「やはりメンテナンス・モード以外には考えられない。でなければ、散水できないはずがない!」

 と、鳩村が誰にともなく命じた。

「詮索は後にして! とにかく循環装置を動かしてください。動物たちが苦しむわ」

 芦沢はうないてキーボードにコードを打ち込み、マウスを取った。モニターは即座に反応した。

『メンテナンス・モードを解除いたします』

 室井が言った。

「芦沢君、説明できるね? 君はなぜ大気循環装置を止めたのだ? コアの上で見つかった消火器も君の仕業なのか⁉」

 芦沢は振り返って叫んだ。

「私は何もしていません!」

「しかし、現実に大気循環装置は止まっていた!」

「コアの機械はあなたのマスターコードでも止められるでしょう⁉」

 室井は一瞬息を呑んだ。

「何だと⁉ 君は私が――」

 と、またしても11台の無線器からいっせいに警報が発せられた。

『大気異常です。コンピュータ画面で確認してください』

 芦沢がモニターを見る。

「……何⁉ 大変だ! 一酸化炭素です! 畜舎に有毒ガスが充満している!」

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