二重の密室・3

 コア・キューブの一階中央を貫く廊下は、突き当たりが下りの階段に繋がっていた。階段は地下数メートルまで下ると再び長い廊下に変わり、『農地』とシェルの下をくぐり抜けて外部へ続く。シェルの外側で階段を上った先に、マイクロスフィアの唯一の出入口であるエアロックが設置されているのだ。

 地下倉庫ヘ下る階段は、コア・キューブ側の階段の脇から、折り返すような形で伸びていた。

 その奥は暗闇だった。

 階段を覗き下ろした峰がつぶやいた。

「何だか、気味悪いわね……」

 室井は無言で壁のスイッチを入れた。とたんに狭い階段は光に満たされ、まがまがしさが消え去る。

 室井は言った。

「階段が急で狭い。気をつけて」

 階段は人がすれ違うのがやっとの幅しかない。降りる角度も四十五度近くあるようだった。まるで軍艦の階段を思わせた。強化プラスチックの階段が、じっとりと湿気を含んでいるように冷たく感じられる。

 大西は、無意識のうちに壁に手を触れてバランスを取りながら室井の後を追った。

 階段を下りると、同様に窮屈な廊下が伸びていた。そこもプラスチックの空洞で、低い天井の蛍光灯が取ってつけたような不自然な印象を与えている。

 廊下の十メートルほど先が、突然頑丈そうなスチールのドアで塞がれているのが見えた。室井に続く一行は、身を寄せ合うようにして先に進んだ。

 廊下の壁の途中に、赤い枠に縁取られたガラスの扉をつけた棚があった。中に消火器が収められているのだ。

 そのガラス扉はわずかに開いていた。ガラス戸の縁に貼ってある黄色い紙の封印が、破られている。

 封印を調べてから中を覗き込んだ室井が、振り返った。

「誰かここから消火器を持ち出したか?」

 スタッフの間から答えはなかった。

 彼らは燃え上がった高崎の死体の炎を消すためにコア・キューブ内の消火器を集めた。だが、この廊下にも消火器があることに思い当った者はいないらしい。

 鳥居がつぶやく。

「私、こんな場所があることも知らなかったわ……」

 室井は誰にともなく言った。

「消火器が一本消えている……。一緒に入れてあった、斧もだ……」

 大西が首をひねった。

「おの、って……? あの、薪割りなんかに使う斧、ですか?」

 室井は小さくうなずいた。

「倉庫のドアを破るために用意してあったものなんだが……」

「超未来的な研究施設に斧の取り合せは意外ですね」

「スフィア全体の電源が切れて、倉庫をこじ開けなければならない――という種類の事故も考えられる。宇宙ステーションであっても、緊急時に頼れるのは人間の知恵と力だ。サバイバルの基本だよ」

「でもそこのドアは斧なんかで簡単に破れるんですか?」

「詳しい設計は知らないが、本気で挑めば可能なんだろう。簡単ではないかもしれんがね」

「それにしても、そんな刃物を置いておくなんて危険すぎる気もしますがね……」

 殺人者が徘徊している密閉空間で斧が消える――その状況だけで、スタッフは寒気を感じていたのだ。

 その場でしばらく考え込んだ室井は、溜め息とともに言った。

「人が殺されることまでは考えていなかったからな。斧の扱いは〝今後の課題〟だ」

 室井は先に進んだ。前にドアが立ち塞がる。

 倉庫のドアにノブはなく、のっぺりとした金属板にすぎなかった。代わりに、脇の壁にB5サイズほどの大きさの薄い箱が取りつけられている。全面に暗色のガラスがはめ込まれた箱の表面は平坦で、操作ボタンらしきものはない。

 しかし、それが〝鍵〟であることは全員が一目で理解した。

 大西は尋ねた。

「なぜ、倉庫のドアにだけ電気的な保安装置をつけているんですか?」

 大西が見てきたコア・キューブのドアは全て、普通の鍵を使って人の手で開けるものだった。大西は『それが最も確実でエネルギーを消耗しないやり方だからだ』と説明されていた。

 室井は言った。

「ここは、本来開いてはならない場所だからね。中身は緊急用の食料がほとんどだ。簡単に開けられるようでは、腹をすかせた誰かが盗み食いに忍び込む恐れがある。だから、このセンサーは私以外の掌紋では開かない仕組みになっている」

 室井は壁の装置のガラス面に右手を押しつけた。同時に、ガラス面全体が光った。掌紋を判別するセンサーが作動したのだ。

 人の手のひらには指紋と同様、個人を識別することができる〝模様〟が刻まれている。掌紋センサーは一瞬でその全てをデジタル信号化して『それが誰の手のひらか』を判断し、ドアの開閉を許された人物であるかどうかを照合するのだ。

 ガラスの光が消えた次の瞬間には、プシュッというガス音とともにドアが横にスライドしていた。

 室井が無言で中に入ると、自動的に天井で蛍光灯がまたたく。

 ドアの奥には、家一軒がすっぽり納まるほどの空間が広がっていた。コンビニエンスストアを思わせる数多くの棚に、段ボール箱がぎっしりと並べられている。

 仁科がつぶやいた。

「私もこの中を見るのは初めてだ……」

 大西は小さくうなずいた。

「開かずの間、か……。何です、この臭いは……?」

 大西はかすかに、鉄錆のような臭いを嗅ぎ取ったのだった。

 と、室井が叫んだ。

「まさか、これは⁉」

 異常を感じ取った背後の全員が、室内になだれ込んだ。茫然と立ち尽くす室井の脇に広がる。

 クリーム色のプラスチックの床に、人間がうつぶせに倒れていた。後頭部から血をにじませ、手足を大の字に広げた男――。

 大西が嗅いだのは、鮮血の臭いだった。

 一瞬で血の気を失った仁科が、茫然とつぶやく。

「そんな馬鹿な……石垣君じゃないか……」

 女たちが後ずさった。押し殺した悲鳴がもれる。

 男たちが前に出ようとした。

 室井が両腕を広げてそれを制した。

「触るな! 仁科君!」

 我に返った仁科が、うなずいて進み出た。

「はい、私が……」

 室井もうなずく。

「頼む」

 室井と仁科は、死体の脇に身をかがめた。

 大西が立つ場所から、死体の右腕がはっきりと見えていた。

 大西はつぶやいた。

「そんな……右手がない……」

 石垣の右手は手首で切断されていた。流れ出した血が床に広がっている。血だまりの中に小さな斧が落ちていた。さらに一メートルほど離れた場所に、無造作に転がされた赤い消火器――。

 その二つが廊下の棚から持ち出されたことは確かめるまでもない。

 芦沢が身を乗り出した。

「また右腕か……?」

 背後で峰がかすれた声で叫んだ。

「なんでこんなことが……。あなた方、なんでそんなに落ち着いていられるのよ⁉」

 大西は振り返った。

 峰は立ちすくんだまま、かすかに足を震わせている。他の女たちは、身を寄せあって互いの身体にしがみついていた。皆が血の気を失っている。

 その集団の背後に、柴田がぽつんと立っていた。

 仁科が、倒れた石垣の後頭部に手を触れた。わずかに顔の向きを変えて目を覗き込む。

「頭蓋骨が陥没している。高崎君の時と同じ手口だ……消火器で殴ったのだろう」

 室井がうめいた。

「死んで……いるんだね……?」

 仁科は投げやりに答えた。

「当然でしょう? この状況は誰が見たって殺人現場です。しかも、手首を切断されている。全身麻酔でもしなければ、そんな痛みには耐えられません。生きているなら……」

 室井はつぶやいた。

「なぜ、石垣君が殺されたんだ……どうして右腕なんだ……」

 そして仁科は、床に残されていた血のしみに目を止めた。

「なんだ、これは?」

 切断された右腕から広がる血だまりの少し先に〝それ〟は残されていた。

 芦沢が進んで死体の手元を覗き込んだ。

「血で書いた文字のようですね……アルファベットに読めませんか?『HD』……のようですね? 何のことだろう……犯人の頭文字かな……?」

 室井が顔を上げて叫んだ。

「君たちはさがっていたまえ!」

 芦沢は動じなかった。穏やかな口調で反論する。

「そうはいきません。事態は連続殺人になってしまったんです。次は私が襲われるかもしれない。事実を知る権利があります」

「分かっている! しかし……」

 仁科が苛立ったように言った。

「大勢で現場を荒らすことは避けなければならん! 死体の検証は私の責任だ。結果は後で残らず教える。だから今は、廊下に出ていてくれたまえ!」

 芦沢は身を起こしてうなずいた。

「分かりました」

 そして、大西に目配せを送った。

 うなずいた大西は、ドアの周辺で震えている女たちを押し出すように廊下に出た。

 芦沢は大西の耳元でつぶやいた。

「第二の殺人……」

 芦沢は、消火器と懐中電灯に仕掛けられた〝時限装置〟を見抜いた大西に深い信頼感を抱いていたようだった。

 大西も小声で応えた。

「共通点は、右腕……」

「しかし、なぜ石垣はこの倉庫に入れたんだろう……」

「確かに不思議ですね。ドアを開く鍵になるのは室井さんの掌紋だけ……の、はずなんですよね?」

「だが室井さんは、石垣がサロンを出てからずっと僕らと一緒にいた。ということは……?」

「室井さんの他にも、このドアを開けられる人物がいる……?」

 はっと息を呑んだのは、天野だった。

「まさか……」

 天野の目の奥に怯えがあることを、大西は見逃さなかった。

「まさか、何です?」

 天野は大西を見つめた。

「いえ、何でもないの……」

 芦沢が天野の気持ちを読んだかのように言った。

「中森さん――じゃありませんか?」

 天野はうろたえたように視線を床に落とした。

 大西が問う。

「中森さんがどうかしたんですか?」

「コンピュータのエキスパート。いたずら好きなハッカー。このドアも破れるかもしれない……」

 大西は天野の表情を見た。芦沢の疑いを認めている。

「そうなんだ……そんな人には見えなかったけど……」

「見かけじゃ判断できませんから」

「でも……」

 天野の不安げな仕草を見た芦沢は、話をそらすように言った。

「このスフィアそのものが巨大な密室だというのに、その中にさらにこんな密室があったとはね……」

 大西もうなずく。

「二重の密室、ですね……」

「それにしても、犯人はなぜこんな場所で人を殺したんだろう? しかも、センターと隔離され、全員の命が危険にさらされているという非常時に……」

 二人の会話をじっと聞いていた峰が、口を挟んだ。

「あなた方、恐くないの?」

 芦沢は冷静に答えた。

「恐いですよ、もちろん。でも、謎が多すぎるじゃないですか。それを解決しなければ、自分の命が守れないかもしれないんです。だいたい、こんな非常事態が重なるなんて不自然すぎます。もしかしたら、センターの火災だって連続殺人と関連があるのかもしれません。だから私は、その原因を知りたい。自分が可愛いからです」

 不意に鳥居が叫んだ。

「何よ、みんな! 変な人たちばかり! 人殺しだなんて……人殺しだなんて……」

 室井の妻が鳥居の肩に腕を回して、ゆっくりと語りかけた。

「鳥居さん、落ち着いて。一人が取り乱すとみんなが怯えるわ」

「だって、だって……あの人たち、みんな気が変なのよ……なんで私が、こんなことに……」

 峰が小声で言った。

「うるさいわよ」

 鳥居は目を釣り上げて峰をにらんだ。

「なによ、この高慢ちきが!」

「やめなさい!」

 鋭く叫んで鳥居に平手を叩きつけたのは、天野だった。

 目を見開いた室井裕美が、鳥居から離れる。

 鳥居は硬直したまま言葉を呑み込んでいた。

 一部始終を聞いていた大西は、鳥居の言葉に引っかかるものを感じた。

「『あの人たち』……って?」

 鳥居は大西に視線を向けて、かすかにうなずいたようだった。何かを言おうとしたようだが……。

 大西の前に進み出た天野が、鳥居の言葉を封じた。

「大西さん、この人の言うことを真に受けないでね。低能、無能、無神経な嫌われ者なんですから」

 大西は、天野が何かを隠そうとしている気配を嗅ぎ取った。鳥居が口を開こうとしたのを必死に食い止めようとしている。

 大西は天野の目を正面からにらみつけた。

「でも、僕は知りたい。鳥居さん、今、何を話そうとしたんですか⁉」

 天野は鋭く大西を見返した。

「あなた、ホームズにでもなったつもり? 余所者はでしゃばらないで。あなたが来なければ、こんな災難は起こらなかったのかもしれないのよ!」

 大西は、じっと天野を見つめながらうなずいた。

「その通り、僕は余所者です。だからこそ、この騒ぎには無関係だと断言できるんです。それなのに今は、当事者の一員としてこのスフィアに閉じこめられている。事実は知らなければなりません」

 天野は大西を無視し、顔をそむけて鳥居に命じた。

「鳥居さん、余計なことは言わないでよね。私たちの研究には守らなければならない機密だってあるんですから。あなたにだって、雑誌記者なんかには知られたくない過去があるんでしょう?」

 鳥居は怯えたようにうなずいた。

 大西は、もう鳥居の口を開かせるのは難しいと悟った。苛立ちを込め、吐き出すようにつぶやく。

「どうせ僕は『なんか』って程度の記者ですけど……」

 天野は、大西の挑発に応えようともしなかった。

 その時、柴田が室井の妻に言った。その口調は、命令することに慣れた者の自信を感じさせた。

「裕美さん。ここにいては混乱が増すばかりです。我々はサロンに戻って、事実が分かるのを待ちましょう」

 室井の妻は、はっと我に返った。

 これまで進んで意見を言おうとしなかった柴田をまじまじと見つめる。しかし彼女は、すぐに柴田の意見が正しいことを認めてうなずいた。

「ええ、その通りね」

 天野の態度への怒りをはぐらかされた大西は、二人のやりとりを興味深かげに見守っていた。

 芦沢が倉庫の中を振り返ってつぶやく。

「しかし、証拠は自分で確認しなければ――」

 室井裕美はきっぱりと言った。

「事実は必ずお知らせします。私が責任を持ちます。だからこの場はいったんサロンに戻ってください」

 廊下での言い争いに気づいて倉庫のドアから姿を見せた室井が、決断を下した。

「そうしてくれ。裕美、すまんが頼んだぞ。温室の中森君も呼び寄せて、しばらく一緒にいてくれ。こんなことになっては、ばらばらに行動することは許可できない」

 柴田がうなずいて、真っ先に廊下を戻りはじめた。

 女たちが後に従う。

 しかし、芦沢は動こうとしなかった。

「私はここに残りたいですね」

 室井は苛立ちをあらわにした。

「まだ言うのか⁉ 君は私の命令に従えないのか⁉」

 芦沢の目には揺るぎない意志が宿っている。

「単に仕事上の指示なら、もちろん従います。しかし今は〝平時〟ではありません。ミステリーマニアでなくたって黙っていられない状況です。命に関わっているんですから。私なら、役に立つ意見も出せるかもしれませんよ」

 室井はしばらく芦沢を見つめてから、仕方なさそうにうなずいた。

 自分の命令を軽んじることに不満はあっても、芦沢の知力と冷静さを高く評価していることは確かなのだ。

「そうまで言うなら、いいだろう。しかし、私から見えるところにいたまえよ」

「じゃあ中に入ります」

 大西も言った。

「私も」

 室井は首を振った。

「君はサロンへ。部外者は困る」

 大西は〝新たな発見〟の意味を確認するまでは引き下がるつもりはなかった。

「部外者だからこそ客観的な判断ができます。お話したいこともあります」

 大西に目を向けた室井の表情が曇る。

「話……だと?」

 大西は、いきなり問題の核心を突いた。

「さっきの鳥居さんの態度が、ひどく気になるんです。ここでは秘かに外部に知られたくない研究を行なっているんじゃありませんか?」

 室井はしばらく大西をにらみつけてから、声を落とした。

「入るがいい」

 大西は再び倉庫の中に進んだ。

 死体の傍らでは、仁科が黙々と検証を進めている。

 室井は大西に言った。

「で、何だね、話とは」

「二人の死者の共通点です」

 芦沢が会話に加わる。

「右手の他に?」

 大西はうなずいた。

「右手が消えていることは〝結果〟です。僕が言っているのは、被害者の二人が共に『微生物研究チームの一員だった』という事実です。しかも、鳥居さんが何かを喋ろうとした時にそれを遮った天野さんの態度……そして急に事態を先導しようとしはじめた柴田さんの発言……。奇妙な振る舞いを見せている者は、全員そのチームのメンバーです」

 室井は虚を突かれたようにうなずいた。

「なるほど、君の言う通りだ……」

 大西は室井に噛みつくような視線を投げ、語気荒く問いただした。

「彼らはここで、いったい何を研究していたんですか? その研究こそが、連続殺人の動機ではないんですか⁉」

 室井の反応は、しかし大西の予想を裏切るものだった。

 彼の表情には困惑だけしか現われていなかったのだ。

「そう言われてみれば……確かに彼らの研究がこの事件の鍵かもしれんな……」

「何なんですか、それは⁉ 彼らはここで、隠さなければならないような研究をしていたんですか?」

 芦沢はじっと室井を見つめていた。

 肩越しに振り返った仁科も、手を止めて彼を見上げている。

 室井はゆっくりと答えた。

「実は私も、柴田君が何を研究しているのかは知らないんだ。いや、知らされていないといったほうが正確だ。微生物研究チームの行動には一切口を出すなと、上層部からはっきり命じられて……。彼らが〝アンタッチャブル〟だというのは、まさに真実なんだ……」

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