二重の密室・2

 コア・キューブの出口の脇には五坪ほどの空間が取られ、木製のテーブルとベンチが置かれていた。休憩所の周囲は熱帯のジャングルと見まごうばかりに茂る植物に囲まれている。その空間は、スタッフのストレスを癒すための〝閑談の場〟として設けられたものだった。

 しかし今は、ベンチに腰をおろしたスタッフは重苦しい緊張に生気を失っていた。お互いからできるだけ離れて座ろうとする彼らの間には、誰が殺人犯かが分からない不安と恐怖が見えない壁になっていた。皆がぐったりと首をうなだれている。

 その輪から外れて、室井夫妻と仁科は小声で何かを話し合っていた。

 まるで、激しくシェルを打つ雨が彼らの心までを水浸しにしたかのようだった。

 テーブル上には中森が持ち出した銀色のノートパソコンが置かれ、マイクロスフィア内に設置されたカメラで状況が把握できるようになっていた。各種のセンサーによって収集されている詳細なデータをリアルタイムで知ることができるのだ。

 中森がデータをチェックする間、大西はその傍らでモニターをのぞき込んでいた。

 大西が、次々と大気の状況を確認する中森に質問する。

「それが無線ネットワークですか……」

 中森はトラックパッドをたどる指を止めずに答える。

「このパワーブックがあれば、スフィアのどこにいてもメインコンピュータを呼び出せます。残念ながら、センターのホストとの接続はまだ回復してませんけどね」

 大西はノートパソコンの液晶画面の雰囲気が見慣れないものであることに気づいた。

「あれ、それってマックですか? ナカトミはウインドウズ陣営の代表格じゃありません? なぜスフィアでマックを?」

「ここでは両方のOSを混在させています。僕には、マックのセンスの方が合うんでね」

「不便じゃありません?」

「逆です。マックじゃないといらいらして頭が働かない研究者は多いんです。僕も含めて。データのやり取りだって、昔ほどややこしくないし」

「じゃあそのノートは、中森さんの私物ですか?」

「まさか。商売敵の製品を研究することも、企業の仕事ですからね。だいたいウインドウズは、なりふり構わずにマックの見た目を真似たからシェアを拡大できたんです。今でも学ぶ点は多い。ナカトミも、マックの柔軟さを製品に取り込みたいと願っているわけです。噂ですが、ナカトミは次世代の演算素子として光子を研究しているって聞きました。案外、独自のOSを開発したいのかもしれませんね」

「マックって、そんなに優れているんですかね……僕の目には、難しそうに見えるけど」

 中森は作業の手を休めることなく話し続けた。

「そういう声って時々聞きますよね。反面、どんなにマック嫌いでも、操作がシンプルで初心者に分かりやすいことは認めるんです。そもそも、100対1以上でウインドウズ製品が圧倒しているのに、アップルはたった1社で独自のOSを維持しているんですよ。何も優れた点がなかったら、生き残れるはずがありません」

「飛び抜けているのはデザインだけかと思っていました」

「確かに、アイマックはパソコンの概念を変えちゃいましたからね。でも、ウインドウズとマックはもっと根本的なところから違うんです。ウインドウズCPUがカローラなら、マックはフェラーリだという人さえいます」

「じゃあ、なぜ標準にならないんですか?」

「グラフィックや設計、音楽とか一部の研究者の間ではずっと標準でしたよ。セキュリティーの強さが買われて、米軍でも採用している部門があります」

「でも、一般的にはね……マックを選ぶと友達をなくすって言いますよ」

 中森は苦笑いをこらえている。

「だって、ピザの配達にフェラーリを使う経営者はいないでしょう? インターネットとゲーム、それと年賀状づくりに使うだけなら、ウインドウズで充分ですから。伝票書きやデータベースの整理だって同じです。価格が安い分、ウインドウズが有利なのは当然です。どっちがいい悪いじゃなくて、それぞれにふさわしい場所があるんです。でも、クリエイティブな仕事にはね……」

「初心者向きなのに、マックが有利なんですか?」

「柔軟性が高いから使い手と一緒に成長できるんです。自分のマックを、子供かペットのように思っている人っていっぱいいますよ。コンピュータなのにアナログ的な感覚も持っているから、想像力を邪魔しないし。そもそも、初心者に使いやすいことが過小評価されすぎなんです。高度な仕事をすればするほど、シンプルな操作は重要です。頭の働きが乱されませんからね。他人と同じことをしたい、ただひたすらコンテンツを消費したい――ってユーザーならウインドウズでいいんじゃないですか? でも、独自の何かを作りたいなら、相棒を選ばなくちゃ。たとえ友達をなくしても、ね。僕はマックが好きです。だから、自由に選べるようにしていたいんです。――さて、チェックは終了」

 中森はパワーブックを閉じると室井に声をかけた。

「室井さん、オーケーです。今のところ、スフィアの環境は悪いなりに安定しています」

 大西も振り返った。

「室井さん、次は何をするんですか?」

 仁科が答えた。

「食料と酸素だ」

 室井が力なくうなずく。

「地下倉庫に置いてある。そこのドアは、私の掌紋で鍵が開く仕組みになっている。全員が集まったら、必要な物資を運び上げよう。まだ戻らないのは……やっぱり柴田たちか」

 芦沢が言った。

「酸素ボンベを使うなら、もっと小さな部屋にこもった方がいいですね」

 峰が応えた。

「今すぐ酸素が欠乏するわけじゃないわ。そこまで追い詰められる前に、やるべきことはやってみなくちゃ」

 うつむいていた天野が顔を上げる。

「やるべきこと、って?」

「スフィアから脱出する方法を探すのよ」

 室井がつぶやく。

「分からんのか、それはセンターしか知らないんだ……」

 しかし峰は、平然と言った。

「シェルを壊せばいいじゃない。人間が出られなくたって、空気を取り入れる穴ぐらいは開けられるんじゃないんですか? 酸素さえ取り込めるなら、こんな檻の中で干涸びる心配はなくなるもの」

 室井は峰を見つめた。

「壊すだなんて、とんでもない。このスフィアはナカトミの財産なんだぞ。私らの勝手には――」

 峰は苛立ちを抑えながら言った。

「こんな事態に陥ったのは、そのナカトミの責任なのよ。ろくな安全対策も取らないから。ナカトミが気に入らないって言うなら、告訴でも何でもすればいいわ。私は受けて立つわよ。ここで死んでしまったら、法廷で裁かれる〝権利〟さえ失ってしまうんですものね」

 仁科が峰を諭すように言った。

「簡単に『壊す』というがね、ここは宇宙ステーションそのものなんだぞ。どうやってシェルを破るんだ? 冷静に考えたまえ」

 峰はにやりと笑った。

「その通り、冷静に考えるのよ。シェルを破る方法を、ね」

 と、目を伏せていた室井が小声で言った。

「やむをえないな……状況が好転しない場合は、最後の手段を取るしかない」

 スタッフの視線が室井に向かった。

 峰が質問する。

「最後の手段……って?」

 室井は顔を上げた。通路の先のシェルを指さす。

「シェルのあの部分が大きな扉になっていることは知っているね。大型の器材や樹木をドームに搬入する際に使用したドアだ。今は外側から何百という数のボルトで締めつけているが、ドア部分のだけは通常の鉛ガラスをはめ込んである。いざという時に破壊しやすいようにした安全対策だ」

 大西がにやりと笑いながら言った。

「勝手に破られると困るんで今まで秘密にしていた――ってことですか。ぶち破ってもいいんですね?」

 室井は渋々ながらうなずいた。

「許可する。あくまでも、最悪の場合に限ってだがな。だが、普通のガラスだといっても厚さは2センチに近い。簡単には壊せないぞ」

 中森がぽつりと言った。

「ロビイがいますよ」

 峰が目を輝かせて身を乗り出した。

「あの子で何とかなるかしら?」

 中森はうなずく。

「力仕事なら人間よりはるかに頼りになる」

 仁科が言った。

「なるほど、シェルにはそういう仕掛けもあったのか……。では、さっそくロビイに働いてもらおう」

 大西は首をひねって、傍らの仁科に質問した。

「ロビイ……って?」

 仁科は大西の顔を見た。

「ああ、そうか。君にはまだ説明していなかったね。ロビイとは、マイクロスフィアでテストしている人工知能ロボットの愛称だ。正式名は『NRS3200』。今のところは主に、重量物の運搬や畑仕事に使っている。〝彼〟がいるから、私たちが農作業に費やす時間が最小限ですむんだ。本来は宇宙空間や危険区域での作業を目的としたマシンだから、人間以上に繊細な作業をこなす潜在能力を備えている。ナカトミの企業秘密になっている最先端のプロセッサを搭載しているから、プログラム次第ではどんな命令でもこなす。実際に、石垣君が芋掘りをやらせたこともあった」

「企業秘密に芋掘りを⁉」

 仁科は笑いながらうなずいた。

「相手は形がまちまちで柔らかい野菜だからね。傷をつけずに掘り出すのは、人工衛星のネジを締めるよりも困難だ。ロビイの成績は五〇点というところだった。しかし、最近では着実に腕を上げている。学習の効果が現われ始めているのさ。そろそろ水田での稲刈りにも使ってみようかという話も出ているぐらいだ。ロビイが〝作業経験〟として蓄積したデータは、二代目、三代目のロボットに移植されていく予定になっている。そうやって人間と親和性の高いロボットを形づくっていくことがナカトミの狙いだ。宇宙での作業に耐える信頼性を高めるために、言ってみれば〝実践教育〟を施しているわけさ」

 大西はつぶやいた。

「なるほど、ロボットの教育ね……。おもしろい記事が書けそうですね」

 室井がぽつりと言った。

「企業秘密だといったはずだ」

 大西は肩をすくめた。

「またも、お叱りだ」

 中森が室井の顔色をうかがった。

「ロビイを使う許可をいただけますね?」

 室井の表情は暗かった。

「私としては、もうしばらくセンターの復旧を待ちたいところだが……」

 室井の妻が口を開いた。

「あなた、今の状態ではセンターがいつ正常に戻るかは予測できないわ。やるしかないじゃない。人命がかかっているんですから。それに……」

 言葉を呑み込んだ彼女が何を言わんとしているかは、全員が理解できた。

 スフィアには、確実に〝殺人者〟が潜んでいる。閉鎖空間に人殺しと共に閉じこめられる恐怖には、並みの神経では耐えられない。

 室井はうなずいた。

「やむをえん。では一つだけ条件を出す。まず先に、地下倉庫から当面必要な物資を運び上げる。その間にセンターの機能が回復しなければ、ドアを破る。いいか?」

 芦沢がつぶやく。

「時間稼ぎか……」

 室井は言った。

「その通り、小賢しい時間稼ぎだよ。だがいったんドアを破壊してしまえば、修理には莫大な費用と数か月の時間を要する。これまでの研究成果もゼロに戻りかねない。一方センターの機能が回復すれば、エアロックを開かずに高崎君の死を処理する方法を見いだせるかもしれない。私は科学者だ。自分が一年半も管理してきた研究を途中で投げ出したくはない。だから少しでもチャンスを生かしたい。不満があるかね?」

 芦沢は軽く肩をすくめただけだった。

 室井は中森に命じた。

「では、君はロビイを倉庫から出してくれたまえ。いつドアを破るかは私が決断する。くれぐれも勝手な行動は謹んでくれたまえよ。ところで、ロビイのバッテリーは充分なのか? 今から充電するのでは電源が保たないぞ」

 中森が答える。

「昨日は丸一日動かしていませんから、完全にチャージされています。予備もあります。しかし、無駄には使いたくありませんね。地下から物資を運ぶのには、我々が汗を流した方がいいでしょう」

 室井は、うなずきながらつぶやいた。

「それがこのスフィアでの最後の仕事になるかもしれんな……」

 そこに、建物に散っていた他のスタッフが集まりはじめた。スフィアが置かれた危険な状況が口々に伝えられていく。

 全員を見渡した室井が言った。

「みんな揃っているか?」

 鳩村が言った。

「あれ、石垣君は?」

 二階堂が応えた。

「天野さんの所に行ったと思っていたけれど……?」

 天野は首を振った。

「知らないわよ。私、ずっと中森さんと一緒だったし……」

 鳥居が投げやりにつぶやく。

「どこかに隠れているんじゃない? きっと彼が高崎君を殺したんだわ」

 室井が苛立ちをあらわにして叫んだ。

「黙れ!」

 鳥居は、むっとしたように顔をそむけた。

 スタッフからやや離れてコア・キューブの壁にに寄りかかっていた柴田に、仁科が尋ねた。

「柴田さんは知りませんか?」

『森』をぼんやりと眺めていた柴田は、肩をすくめた。

「私は一人でMラボの回線をチェックしていましたから」

 大西が首をかしげた。

「Mラボ?」

 答えたのは仁科だった。

「微生物研究室だ。マイクローブ・ラボラトリーの略。コアの一階中央にある」

 中森は室井に言った。

「もう一度無線で呼びますか?」

 室井は溜め息混じりに答えた。

「いや。それより作業を開始しよう。一刻も早く物資を運び上げて照明を切りたい。中森君はロビイのスタンバイにかかってくれ。他の者は、私と地下倉庫へ来るんだ」

 室井は先頭に立ってコア・キューブに戻っていった。

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