二重の密室・1

 大西は、室井を追って2番出口から温室に飛び出した。足を止めると、目の前をおおう光景に息を呑む。

「真っ暗じゃないか……」

 ほんの数十分前に比べて、空は一段と厚い雲に覆い尽くされていた。まばゆい照明に満ちたコアから出たばかりの大西には、まるでドーム全体が暗黒の海底に沈んでしまったかのように見えた。『森林バイオーム』の木々のシルエットも、黒い固まりになってはっきりとは見分けがつかない。

 太陽の光が届かない海の奥に広がる密林――そのブラックファンタジーめいた光景は、大西の原始的な恐怖感をかきたてた。

 大西の傍らで、峰がつぶやく。

「まだ八時にもなっていないのに……」

 その言葉に合わせるかのように、突然豪雨が降り出した。一斉にシェルに叩きつけられる大粒の雨が、広大な空間を無数の虫の羽ばたきのようなざわめきで満たしていく。

 仁科が淡々と言った。

「暴風雨圏に入ったようですね」

 温室の照明は点灯されていなかった。中森たちがどこで作業をしているのかは見当もつかない。

 と、頭上から声がかけられた。

「電源が切れた理由が分かりました!」

 中森だった。

 大西たちは、コア・キューブの三階からシェルに伸びる渡り廊下を見上げた。黒い空を背景にかすかに浮かび上がった影の中央に、三人が立っているのがかろうじて見分けられる。

 中森の両脇に立った女性たちが誰であるかは、体型から判別できた。

 天野と鳥居だ。

 中森は遠くの山を指さしている。

 室井が叫んだ。

「何だって⁉ 原因は何だ⁉」

「センターが燃えています!」

 一瞬、全員が言葉を失った。

 大西は振り返って、中森が示した方角に目をこらした。暗い空と見分けがつかなくなった岩山の稜線が、確かにぼんやりと赤く光っている。

 大西は室井に尋ねた。

「あっちがセンターなんですね?」

 と、その方向がいちだんと明るくなった。同時に、遠くの雷鳴のような音とかすかな振動が伝わってくる。

 室井は困惑したように眉間にしわを寄せた。

「何だ、今のは……」

 大西がつぶやく。

「爆発……でしょうか」

 室井は驚きの目を大西に向けた。

「何だと⁉」

「爆発、です。センターに大事故が起こったんじゃありませんか?」

「まさか……こんな緊急時に、センターが……?」

 室井のつぶやきからは、恐れと失望、そして運命を呪う気持ちしか読み取れない。スタッフの生命を守るために緊急事態に立ち向かおうとする責任者の気概は感じられなかった。

 仁科が中森を見上げて叫んだ。

「温室に電気はつけられんのかね⁉」

 中森は鳥居を押して渡り廊下を戻りながら、大声で答えた。

「センターがダウンしたなら、貯えてある電力を無駄にできません。この程度の暗さにはすぐ慣れます。そこで待っていてください。降りますから」

 鳥居を先頭にした三人はコア・キューブの中に消えた。

 峰が、石像のように硬直した室井を見つめながらつぶやいた。

「まさか、センターが死んだなんて……どうやってここを出ればいいのよ……」

 芦沢が室井の肩にそっと手を置く。

「室井さん、しっかりしてください。スフィアから出る方法はあるんでしょう? こんな場所に閉じこめられて窒息死を待つだなんて、あまりに非現実的です……」

 室井は芦沢に目を向け、ぼんやりとうなずいた。

「方法はある。あるはずだ……。しかし、それを知っているのは、センターだけなんだ……」

 芦沢はその答えに、口を半開きにした。喉から出かかった反論が凍りついてしまったかのようだった。

 室井の姿を見ていた全員が同じ結論に達した。

 最高責任者の室井が方法を知らないというのなら、脱出できる者はいない――。

 室井にしがみついていた妻がうめいた。

「あなた、そんな……」

 しかし室井は、それ以上何も語れなかった。『何も語れない』という事実が、スタッフに真実を語った。

 内部からマイクロスフィアのエアロックを開く方法は存在しないかもしれないのだ……。

 彼らは、重苦しい沈黙の中で立ち尽くすばかりだった。

 中森がコア・キューブの出口から駆け出してきた。天野が後に続く。

 中森は赤い消火器を抱えていた。息を切らせた中森は、センターの方向に目をこらしてから言った。

「上からでも、ここ以上のものは見えません。センターに大規模な火災が発生したようです。何かが爆発したように見えました。光ファイバーの断線もそれが原因でしょう。向こうも、消火に精一杯なのかもしれません。誰かがこっちのことに気づくといいんですがね。あ、それから、こいつが三階の大気浄化装置の吸気口のそばに置かれていました」

 中森は消火器を室井に差し出した。

 中森の目には、知的な好奇心が輝いている。それが何を意味するのであれ、殺人事件に関わりがあるだろうということを直観的に見抜いていたのだ。

 中森は続けて言った。

「奇妙ですよね、上で火が出たわけではないのに、消火器だなんて――」

 だが、放心状態の室井は反射的に消火器を受け取ったが、何も調べずに仁科に手渡しただけだった。その目は、見知らぬ街で道に迷った幼児のように落ち着きがない。

 中森は、室井の投げやりな態度に不快感を隠さなかった。

 しかし仁科は、室井に向かって嫌な顔は見せない。現実の苛酷さによって精神を蝕まれた人間は、精神科医にとっては保護すべき対象なのだ。例えそれが自分の生命を左右する人物だとしても――。

 仁科は消火器をスタッフたちに見せる。

「軽いな。中身は空のようだ。誰か上で消火器を使ったのか?」

 大西が進み出て、消火器のグリップを示した。そこには、太い輪ゴムが何重にも巻いてあった。

「妙な仕掛けがありますね」

 中森がうなずく。

「私も最初にそれに気づきました」

 仁科が消火器をかかげて首をひねった。

「仕掛け……?」

 大西が黒いレバーを指さす。

「ほら、そこ」

 その時、やや遅れて温室に出てきた鳥居が甲高い声で叫んだ。

「私、嫌よ、閉じこめられるなんて! 約束が違うわ! 何とかしてよ!」

 大西に寄りそうようにして消火器を見つめていた峰が、振り返りもせずに冷たく言い放った。

「嫌なのはあなただけじゃないわ。黙ってなさい」

「何よ、偉そうに! あんたがMSPを仕切っている訳でもないのに。私が命令される筋合いなんてないわ。自惚れないで!」

 峰が背筋をのばし、口を出しかける。

 と、室井が素早く動いて峰を制した。鳥居に向かって毅然と命じた。

「ここの責任者である私の言うことなら、聞けるかね? 君は黙っていたまえ!」

 スタッフの目が室井に向かう。

 室井の脳はようやく困難な事態を咀嚼し、対策を練る方向へ働き始めたようだった。

 鳥居は口を尖らせて顔をそむけた。

 仁科が大西をうながした。

「仕掛けとは、この輪ゴムのことだね?」

 大西がうなずく。

「消火器を普通に使ったのなら、こんな物を巻く必要はありません」

「では、なぜ?」

 大西は芦沢に尋ねた。

「空気の浄化装置の吸気口は、コアの三階の他にはないのですか?」

 芦沢は言った。

「温室の大気を取り入れてるのは一カ所だけですが……。それがなにか?」

 峰が唐突に叫んだ。

「そうか! その消火器が炭酸ガス増加の原因ね!」

 芦沢がうなずき、安堵の笑みを浮かべた。

「言える。高精度の大気成分分析機は浄化装置に組み込んであるだけだから、吸気口の近くで消火器を空にすれば急激に炭酸ガス濃度が増える。慌てずに、他のセンサーのデータと突き合わせるべきだったな」

 中森が言った。

「さっきの警報、そのことだったんですか?」

「コンピュータが二酸化炭素の急上昇を報せてきたんだ。空気組成が変化したのが吸気口の周辺だけなら、スフィアの大気はまだ呼吸に耐えられる。よかった……これで窒息はしないですむ……」

 大西もうなずき返したが、表情は暗かった。

「だからといって――いや、むしろ〝だからこそ〟安心はしていられませんよ。誰かが、消火器に〝時限装置〟を仕掛けたんです。目的もなしにこんな手間はかける人間はいません」

 中森が首をかしげた。

「時限装置? もしかして、その輪ゴムが……?」

 大西はきっぱりとうなずいた。

「そうです。あらかじめグリップを固定する安全ピンを抜いておき、代わりに何かを挟んでグリップを一時的に止める。それから、輪ゴムをきつく巻きつける……」

「何か……って?」

「たとえば……氷はどうでしょう?」

 芦沢が大西の考えを理解した。

「三階に置いて何一〇分か後に氷が溶けて、輪ゴムが握りを締めつける。すると消火剤が噴出して、吸気口の周辺に充満するわけですね」

「スフィアにも氷はありますか?」

 中森がうなずいた。

「実験用に常に用意してあります。しかし、誰が、なぜそんな仕掛けを?」

 大西は答えた。

「余所者の僕なんかには分かりませんよ。でも、これはきっと高崎さんを殺した犯人の仕業です。殺人犯にとってはこの仕掛けが重要な意味を持っているはずです……」

 室井がつぶやいた。

「まだ誰かを殺そうとしているとでもというのか⁉」

 大西はその質問に、質問で応えた。

「ずっと気になっていたんですが、ここではどうして炭酸ガスを出す消火器を使っているんですか? こんなに危険なのに……」

 室井は言った。

「確かに二酸化炭素は大量に使用すれば、窒息死を招く場合がある。しかし、スフィアに備えつけた消火器を全部空にしたところで、スタッフの生命に危険はない。このスフィアを満たすほどの量にはとうてい足りないのだ。さっきは吸気口を直撃されたので計測数値が跳ね上がったにすぎない。ボヤを消す程度の炭酸ガスなら、短時間で温室の植物が吸収できる。炭酸ガスは植物に欠かせない栄養素だからね。消火剤としての同じ効果を他の種類の消火器に求めれば、結果はもっと悲惨になるのだ。たとえば、ハロゲンの消火剤を用いれば、植物にもダメージを与えて大気組成はいつまでたっても正常化できないし、そもそも法律で密閉した空間での使用が禁止されている。粉末の消火剤もナトリウムやカリウムの化合物を含んでいるために、使った後の中和作業に手間がかかる。どのみち消火器で消しきれないような大火災を出したら研究は続けられない」

「窒素は? ビルなんかに据えつける大型の消火装置は、二酸化炭素から窒素に切り替えられていますよ。二酸化炭素の消火システムで何度か事故を起こしていますから」

 室井は小さくうなずいた。

「人間への害が少ない分、窒素は消火力の面で劣る。火災を素早く鎮圧できなければ、どんなに安全な消火剤でも使用価値はない。特に大気組成の変動に弱いスフィアでは、一秒でも消火スピードが早いことが求められるのだ」

 大西はなおも質問を続けた。

「しかし、スプリンクラーは?」

 室井は大西のしつこさに顔をしかめた。

「こんな時に取材かね?」

 大西は厳しい目つきで答えた。

「もう、仕事なんかどうだっていい。僕は、こんな場所で死にたくないだけです」

 室井は、スタッフの目が自分に集まっていたことに気づいた。大西は、図らずもスタッフの疑問を代弁するような立場に立っていたのだ。

 室井は続けた。

「もちろん、コアには消火用のスプリンクラーが設置されている。しかし温室には、そこまで念入りな設備は必要ないと考えられていた。自然に火を出す可能性は皆無だからだ。最悪の場合は、散水用のスプリンクラーが使用できるしな」

 大西は答えた。

「僕は、火災を発見した仁科さんが『スプリンクラーで散水しろ』と言ったのを聞いています。誰も作動させなかったんですか?」

 室井は虚を突かれたようだった。

「そうだ……なぜ忘れていたんだろう……? 私は中森君に散水を命じたのに、スプリンクラーは作動しなかったんだ……」

 大西は中森を見た。

「スイッチを入れなかったんですか?」

 中森は言った。

「とんでもない。温室の全スプリンクラーを作動させました。それなのに水は出なかった……。原因を調べている余裕なんてありませんでしたから、手近な消火器を掴んで温室に飛び出したんです。すっかり忘れていました……」

 室井が慰めるように言った。

「君が悪いわけではない。私とて、この騒ぎで落ち着いて物を考えることができない」

 中森はつぶやいた。

「でも、なぜ散水システムが死んでいたんだろう……。緊急消火コードを使ったんだから、コマンドを間違えたはずはないのに……」

 大西がつぶやく。

「それも、犯人の妨害工作……かもしれませんね」

 芦沢がうなずく。

「時限装置を仕掛けた消火器を使うような相手なら、やりそうなことですね」

 室井が言った。

「スプリンクラーの件は、後で調べる。この場でどうこう言い合っていても、埒が明かない」

 大西はうなずいた。

「確かに。問題は、火の気のないはずの温室で火が出たという事実です」

 室井はつぶやいた。

「だから、さっきのボヤは何者かが意図的に火を放ったのだ。でなければあんな火災は――」

 大西は室井を無視して言葉を続ける。

「しかし、スプリンクラーが作動しなかったことが偶然ではなかったら……? さらに謎の殺人者〝ミスターX〟は、無害なはずの二酸化炭素の消火器で何かを企んでいる……。いったい何のために、コアの上で炭酸ガスを出したりしたんだろう……」

 芦沢がうなずく。

「もっともな疑問だな……」

 と、大西は突然叫んだ。

「あ、そうか!」

 二人に無視された室井は、不愉快そうに大西を見つめた。

「どうしたんだ?」

 大西は興奮ぎみに言った。

「ほら、懐中電灯ですよ、死体の傍に落ちていた。覚えていませんか? あの燃えかすに、箸のようなものがくっついていたでしょう? あれ、もしかしたらこの消火器と同じ仕掛けじゃありませんか?」

 芦沢が即座にうなずいた。

「うん、考えられるね。スイッチを押す位置に棒をゴムで止め、氷を挟んでおく?」

 大西は芦沢を見つめた。

「最初から電球を割っておけば、氷が溶けてスイッチが入り、燃えたフィラメントがあらかじめ振り撒いておいたアルコールに火をつける――」

 中森がうなずいた。

「ゴムは炎で溶けてしまったはずだ……。なるほど、消火器と同じ仕組みの時限装置ですね。でも、何だって犯人はそんなややこしい仕掛けを……?」

 芦沢は即座に断定した。

「決まってるさ、アリバイ工作だ」

 と、背後から鳥居が叫んだ。

「何をごちゃごちゃ言ってるのよ! そんなことより、早くここから出してよ!」

 ついに峰が振り返って、きつい視線を鳥居に叩きつけた。

 仁科は峰が口を開く前にそれを制して、室井に言った。

「今は脱出の方法を考えるのが先でしょう。とりあえず、窒息の危険はなくなったようですが、センターを頼るわけにもいかないようですしね」

 室井はうなずき、中森に尋ねた。

「他のスタッフはどこにいる?」

「分散して光ファイバー回線をチェックしてもらっています。スフィアに篭城することになるなら、コアの電灯も消して電力を温存した方がいいんじゃありませんか?」

「そのようだな」

 室井は腰から無線器を取り『00#』のキーを押した。それは、スタッフ全員の無線に一斉に連絡する際のナンバーだった。

 室井の言葉と各人が持つ無線器からの音響が反響して、あたりにこだました。

『全員、2番出口脇の休憩所に集合するように。緊急事態が発生したため、コアの照明を消す。全員、温室の2番出口に集合するように……』

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