『森』の崩壊・1

 仁科を除いた全員が、コア・キューブ一階のサロンに集められていた。

 仁科は『黒焦げの死体は動かすべきではない』という室井の判断に従い、温室に一人残って検証を続けていたのだ。

 サロンは、薄いクリーム色のプラスチックで包まれた二〇畳ほどの質素な空間だった。テーブルと人数分の椅子は実用本位で、飾り気はまったくない。サロンとは名ばかりで実体は単なる食堂にすぎず、遊具はもちろんテレビも置かれていないのだ。窓さえない壁に与えられた唯一の変化は、隣の厨房とつながったカウンターだけだった。部屋の奥に設置されたコンピュータのモニターが異様に浮き上がって見える。

 今はそこに男が腰かけ、素早くマウスを操作していた。

 室井は皆の気持ちを落ち着かせるために、妻に命じてインスタントコーヒーを入れさせた。スタッフ全員が、中空構造のアルミ製カップを愛しむように両手で包み、立ち上る湯気を見つめている。

 コーヒーと砂糖は、マイクロスフィアでは貴重品なのだ。外部と遮断される前に持ち込んだ段ボール一箱分が全てで、それがなくなればあとは我慢する他にない。カップに口をつけていないのは〝外の世界〟からやってきたばかりの大西だけだ。

 空気は淀んでいた。

 殺人という異常事態に巻き込まれたばかりでなく、目の前に犯人がいるという現実が口を重くさせている。皆が冷静に振る舞おうと努力はしていたが、恐怖と猜疑心と戦っていることは隠しきれない。

 スタッフの戸惑うような視線は時折、居心地悪そうに身をすくめた大西と、彼の隣に座った峰へと向かう――。

 峰が、殺される直前の高崎といさかいを起こしたことは全員が知るところとなった。高崎が殺されたなら、峰は強い動機を持っている。またスタッフは〝殺人事件〟に時を合わせたようにスフィアを訪れた大西にも強い疑念を抱いていた。

 しかし峰は、自分に向けられた疑いの目を真正面から受けとめ、自己弁護さえもせずに顔を上げている。

 大西もまた、動揺は見せていない。

 それでもスタッフは、不気味な焼死体から離れることで、落ち着きを取り戻し始めていた。彼らはすべて、それぞれの分野の第一線で活躍している優秀な科学者たちだ。理性的であって当然だった。

 高崎の死に涙する者は、ただの一人もいない。

 室井は小さな溜め息をもらしてから言った。

「君たちが、唯一の部外者である大西君を胡散臭く思う気持ちは分かる。峰君が高崎と言い争ったのも事実だ。しかし、高崎君の死を詮索するのは、警察の仕事だ。我々素人が軽率な判断を下すべきではない。まだ、仁科君の結論も出ていないんだからね」

 仁科と同様に濃い髭を生やした若い男が、苛立たしげにつぶやいた。

「管理センターとアクセスが断たれているっていうのに、どうやって警察を呼ぶんですか?」

 その男は火災現場で消火作業の先頭に立っていたという。着ていた紺のTシャツには大きな汗のしみができていた。細い目を神経質そうに伏せている。

 室井は、大西に向かって淡々と言った。

「石垣俊昭君だ」

 石垣は素早く視線を上げて、室井をにらみつけた。

「こんな非常時に、自己紹介でもしろって言うんですか⁉」

 大西はあらかじめ目を通していた資料を思い出しながら、石垣と呼ばれた男を観察した。

 石垣俊昭――年令は二〇代後半。消火に一番乗りしたのなら、緊急時の行動力はあると推測できた。だが、目を伏せながら喋る物腰からは、普段はやや引っ込み思案かとも思える。精神的な圧力に対してはもろそうな雰囲気も感じられた。

 石垣の横に座っていた女が、弟を諭すような口調で言った。

「石垣さん、それがいいかもね。私たちには今のところ、他にできることもないんだから。大西さんだって、みんなの名前ぐらい知らなけりゃ不便じゃない?」

 大西はその女性に目を向けた。

 女は、大西に言った。

「私は天野京子です。石垣さんたちとチームを組んで、微生物を研究しています」

 大西は、自分を真正面から見つめた天野に軽く頭を下げた。峰とは対照的な、小柄で日本的な美人だ。大西は、天野が峰に向ける視線に羨望のような色が見え隠れすることを見逃していなかった。

 大西は頭をかきながら、間延びした口調で応えた。

「僕は、いかにも都合が悪いときに現われたようですね……」

 同時に大西は、相手を観察した印象を記憶していく。

 天野京子――年令は三〇歳近く。タイプは違うが、峰と〝女〟を張り合っているように思えた。あるいは、疑われても毅然としている峰の強さを羨んでいたのかもしれない。同じチームの石垣とは、はっきりした上下関係がある。理由は、年令よりも能力の差である可能性が高い。しかし、天野はそれを誇示しようとはせず、石垣に対して下手に構えている。女性であることのマイナス要素を認めた上での〝賢い対応〟なのだと、大西は判断した。

 と、コンピュータを操作していた小太りの男が、いきなり振り返って大西を見つめた。細い銀縁の眼鏡の奥の目は鋭く輝いている。

 男は何の前置きもなく、早口で言った。

「事件が起こったのは、あなたが着いた途端ですからね。私たちはすでに一年半もここに閉じこめられています。良くも悪くも、お互いのことは知り尽くしている。峰さんが高崎と争ったといいますが、あいつの性格からすればその程度の衝突はとっくに予想されていたことです。実際、前科があるしね。今まで峰さんが無事だったことの方が、私には意外です。むろん、それだけの理由で人を殺すはずがない。大体、誰の物とも分からない左腕がどうやってマイクロスフィアに持ち込まれたんです? ここは『細菌一匹入りこめない牢獄』です。理由はどうあれ、腕を持ち込むことが可能だったのはあなただけです」

 大西は男の顔をじっと見返していた。

「あの……前科って、何のことです?」 

「おっと、口を滑らしちゃったな。それ、忘れてください」

「忘れろって言われても……」

 男は、まだ名乗っていなかったことに気づいたように付け加えた。

「あ、私は中森洋。コンピュータと数学――主に統計学が専門です。といっても大半は電子機器類のメンテナンスに費やしていますがね。コンピュータの子守役、ってところです。登山や探険が趣味だったもので、ついMSPに関心を持ってしまって。冒険心は身を滅ぼす元、ってね。今では牢獄の住人になったことを後悔しています」

 大西は中森から犯人呼ばわりされても、微笑んでいた。彼が冷静に状況を観察していたことに安堵していた。なにより風貌全体から、温かそうな人柄が伝わってくる。

 中森洋――年令は三〇歳前半。論理的な思考に馴染み、しゃべるより早く頭が突っ走るタイプだ。単純な思い込みで結論を下すことはないように感じられた。小太りに見えるのは、筋肉質のためらしい。人情の機微も理解できそうな雰囲気を持っている。

 中森の言葉は、峰を殺人容疑者から外したことは別にしても、スタッフの疑問を率直に言い表していた。

〝謎の左腕〟が皆の頭を混乱させていたのだ。

 スタッフは全員、無事に左腕を使っている。死体に添えられていた腕は、一体どこからやってきたのか……。殺人犯はなぜ、切り取った右腕を他者の左腕と取り替える必要があったのか……。

 が、重大な疑問を口にした中森はすでに椅子を回して、コンピュータのモニターに注意を戻していた。

 大西は再び小さく笑って、かすかにつぶやいた。

「おやおや、落ち着かない人だな」

 中森の行動はとびきり早かった。しかし、スタッフの会話に神経を払っていることは感じられる。有能なのだ。

 室井は、誰にともなく言った。

「中森君の疑問はもっともだが、その点は説明したはずだ。私は計画統括者の責任として、大西君の荷物を徹底的に調べた。スフィアの環境を乱すような物を入れさせるわけにはいかないからな。断言する。不審な物は一切なかった」

 鳥居孝子が横目で室井をにらむ。

「室井さん……大西さんと一緒に、あなたが何か企んでいるんじゃなくって?」

 室井が不快そうに命じた。

「君は黙っていてくれ」

 鳥居の薄目が峰に向かう。

「じゃあ、高崎さんを殺したのはやっぱり峰〝先生〟なのかしら?」

 峰は表情も変えない。

 ついに室井は叫んだ。

「黙れ!」

 鳥居は室井に目を戻す。もともと甲高い声が、ヒステリックな金切り声に変わった。

「何よ! 私にだって――」

 鳥居が不意に口をつぐんだのは、自分に突き刺さるスタッフ全員の白けた視線を感じたためらしかった。鳥居の全身から、噴火寸前の火山を連想させるような苛立ちが発散されていた。

 緊迫した沈黙が重くのしかかる。

 大西の脇で峰がつぶやいた。

「彼女には、今朝、会ったわね。鳥居孝子さんよ。スフィア内の清掃を一手に引き受けてくれる、奉仕精神に富んだ得難い人材」

 峰の小声は、全員の耳に異様に大きく届いた。

 鳥居ははっと息を呑んで峰をにらんだ。

 室井が振り返る。 

「峰君! 他人を誹謗するような言動は謹みたまえ!」

 それでも峰は冷静だった。

「こんな異常時に、彼女のヒステリーに振り回されたくないんです。それに、〝雑用係〟というしか鳥居さんの仕事は説明しようがありません。他人を誹謗したのは彼女のほうが先だし」

 コンピュータ画面を見つめたままの中森が、くすりと笑い声をもらす。大笑いを必死にこらえているのか、後ろ姿の肩が小さく揺れていた。

 峰に喧嘩を吹っかける鳥居の醜態は、スタッフにとっては見慣れた茶番にすぎなかったようだ。

 自分が笑われているとも気づかぬ様子で、鳥居は腰を浮かせた。峰を見据えて叫ぶ。

「何よ、偉そうに! アメリカ帰りだからって! 私だって大学を――」

 峰はうんざりしたように応えた。

「出たようね。でも、知能は大学では買えないものよ」

 鳥居は短い腕でテーブルを叩いた。テーブルのコーヒーカップが倒れたが、中身はすでに空だった。

「何さ、お利口ぶって! あんた、高崎さんを殺したんでしょう⁉ あんたならできるわよね。眉一つ動かさないで豚を殺せる、野蛮な女なんだから。他に誰が人を殺せるっていうの⁉」

 峰はあくまでも落ち着いていた。鳥居を哀れむように見つめる。

「もう一度言うわ。今は、あなたの相手をしていられないの。考えなくちゃいけないことがたくさんあるんだから。でも、これだけは言っておくわ。私が豚を殺せるのは、生活習慣が違う土地で育ったからよ。だいいち、私が殺した豚に鼻を鳴らしながら噛りついたのはあなたでしょう? 私たちベジタリアンの分も平らげたんだから、量もみんなの三倍以上」

 鳥居はさらに声を一オクターブ上げた。

「関係ないでしょう、そんなこと!」

 峰はひと呼吸置いてから、室井に言った。

「私から言わせてもらうなら、鳥居さんこそ一番の容疑者よ。『女ならだれでもいい』っていう高崎にさえ相手にされなかったんだから」

 鳥居は、首を絞められた鶏を連想させる奇妙な叫び声を上げた。空のカップを手に取って、峰に向かって投げつける。

 脇に座ったスタッフには止める余裕もなかった。

 峰はじっと自分に向かってくるカップをにらんだ。

 大西はすかさず手を伸ばして、空中のカップを鷲掴みにした。

 大西は小声で言った。

「いて……」

 峰は首だけを回して、無表情に大西を見る。

「ありがとう。でも、受け止めなくても壁に当たっただけよ」

 大西は軽く頭を下げて席を立ち、カップをテーブルに置いた。

「いつも『お節介だ』って言われるんですよね、僕……」

 鳥居はぼんやりと立ち尽くしたままだ。発作的な暴力に呆れ果てたスタッフは、誰も彼女に声をかけようとしない。

 大西は、その間も鳥居の反応を見ていた。

 鳥居孝子――年令、三〇歳前半。スタッフ全員からひどく軽蔑されていることは明らかだ。峰が言うとおり、無能だとしか思えない。なぜMSPのメンバーになっているのかが不思議だった。

 それでも鳥居の発言は、スタッフの気持ちを代弁していた。峰が疑われていることは事実なのだ。

 スタッフの疑いを承知している峰は、それ以上何も語らなかった。言い訳をすればするほど信用されなくなると考えているようだ。

 緊張と失笑が入り交じった沈黙を破って、別の女が口を開いた。農夫並みのがっしりとした体格にふさわしい、太い声で鳥居に言う。

「鳥居さん、子供じみたことは止めてね。こんな諍いをしていたんじゃ、恥ずかしくて大西さんを疑ったりできないわよ。峰さんの言い分は、さっき聞いたでしょう? 勝手な思い込みで事を荒立てないで」

 鳥居は立ったまま、ふんと鼻を鳴らしてそっぽを向いた。

 鳥居を諭した女が大西に目を移す。

「私は鳩村夏枝。ここでは獣医をしています。専門は熱帯雨林の動物で、主にボルネオでオランウータンの研究をしていました。それをきっかけに、地球環境全般の研究を手がけることになったんです」

 大西は軽く会釈を返した。

 鳩村夏枝――年令は三〇代前半。声も容貌もまるで男のようで、髪をポニーテールにしていなければ見分けがつかない。性格も男性的なようだ。普段は出しゃばることはなさそうだが、いざというときには行動力を発揮する力強さが感じられた。女性たちのまとめ役になっているのかもしれない。

 鳩村は峰に目を移した。

「ちなみに、私も高崎から誘いを受けたことはないわ。ま、自分でも男みたいだと思ってるぐらいだから、不満はないけど。でもそれ、だから私も容疑者だってこと?」

 峰はうつむいた。

「ごめんなさいね。ついかっとして……」

 鳩村はほほえんだ。

「いいのよ。あなたの気持ちは分かるから。誰だってこんな時に普通じゃいられないもの」

 その言葉で、サロンの空気はわずかに和んだ。

 ようやく室井が口を開く。

「鳥居君、座りたまえ。峰君も挑発的な言動は控えるように」

 しかし、その声は力を失った投げやりなものだった。

 峰は小さくうなずいた。悲しげにつぶやく。

「またやっちゃったな……」

 そのか細い声は、大西の耳にしか届かなかった。

 鳥居が無言のまま腰を下ろすと、緊張を解いたスタッフが一斉に身じろぎする。

 鳩村に寄り添うように座っていたもう一人の女が、何事も起こらなかったかのように言った。

「私は二階堂恵です。有機農業を中心に生態学を研究しています。趣味で料理も。ほとんど『社員食堂のおばさん』してます」

 一瞬前の緊張が嘘のようだった。誰もが、二階堂の弾んだ声に違和感を見せない。まるで『鳥居の態度は無視しよう』と口裏を合わせたように……。

 感情的な衝突を無視することは、閉鎖空間内で集団のバランスを保っていく知恵の一つのようだった。

 大西も、スタッフに培われた知恵に便乗することに決めた。

 二階堂恵――二〇代後半。病的なほど痩せているが、精神面では健康さが感じられた。見た目は、研究者というよりは女子高生といった方が似合う。こんな緊迫感を和らげるためにも、マイクロスフィアには必要なキャラクターなのかもしれなかった。

 大西の視線を逆に観察していた鳩村が言った。

「二階堂さんが子供に見える? でも彼女、北海道の農場の生まれで小学生の頃から畑で実務をこなしていたのよ。大学卒業と同時にタイの農業研究所から招聘を受けたほどの秀才でね。私がナカトミに推薦して、引き抜いたの。理論だけじゃなくて、堆肥づくりに関しても最高の腕を持っているんですから。彼女の知識と経験がなかったら、スフィアの畑は害虫の被害で一ヶ月で全壊するでしょうね 」

 二階堂ははにかんだような微笑みを浮かべた。

「私はただ、泥まみれになって働いているのが好きなんです。田舎育ちだから。それから、これだけは言わせてください。みなさん、とっくに感づいていたと思うんですけど――」

 鳩村が二階堂の腕に手を添える。

「よけいなことは言わなくていいのよ」

 二階堂は小さく首を振った。

「でも、大事なことかもしれないし……」

 大西が促す。

「なにか? 僕は何も知らないんで、良ければ聞かせて欲しいな」

 二階堂がうなずく。

「さっき中森さんが言っていた、高崎さんの〝前科〟のことです。私、襲われたことがあるんです。間一髪で、鳩村さんに助けられて……」

 後を鳩村が引き継ぐ。

「スフィアが密閉されたすぐあとだから、もう一年以上も前のことよ。二階堂さんは小柄だから、力ずくでどうにでもなると思ったらしいの。思い切り急所に蹴りを入れてやったから、あれ以来暴力を振るうことはなくなったけど。室井さんには報告してあることです」

 室井がうなずく。

「あの時も、高崎にはきつく注意したんだがね」

 二階堂が付け加える。

「でも私、高崎さんを殺そうとは考えなかった。峰さんだって、それだけのことで人を殺すはずはないと思う」

 峰は二階堂にほほえみかけた。

「ありがとう。気づかってくれて」

 と、もう一人の男が言った。長身で痩せていたが、ひ弱な印象は与えない。

「私は芦沢政義。熱帯雨林の植物が専門ですが、ここでは機械類のメンテナンスの責任者を担当しています。大西さんに一つ聞いておきたいことがあるんですが」

 大西は芦沢の目を見返しながらうなずいた。

「何でも」

「あなたがここに来ることは、いつ決まったんですか?」

「昨日……いや、一昨日の夜です。それまでは同僚が来る予定でした」

 芦沢は即座に応えた。

「それが本当なら、あなたはこの殺人事件と関係なさそうですね。高崎さんが殺された理由は見当もつきませんが、犯人が偽の腕を準備していた以上、計画的な犯行ですから」

 石垣が大西から目をそむけたまま言った。

「それが本当なら、だろう?」

 室井が溜め息をもらした。

「センターとの通信が回復するまでは『科学新報』に確認することもできない。それまでは軽々しい推測は謹むように」

 芦沢は冷静に言った。

「しかし、死人が出たんですよ。しかも殺人犯は確実に、今、このサロンの中にいる。マイクロスフィアは、入ることも出ることも不可能な広大な密室です。『考えるな』と言うほうが無理です」

 大西は、室井と視線をぶつけ合わせる芦沢をじっと見つめていた。

 芦沢政義――二〇代後半。明晰な頭脳とバランス感覚を備えている。態度にも実力に裏づけられた自信が満ちていた。だが一方で、殺人事件を楽しんでいるような気配が感じられた。自分で『殺人犯がここにいる』と言いながら、その落ち着きようは尋常ではない。

 室井は芦沢に言った。

「何度も言わせるな。勝手な行動や不用意な発言は控えたまえ。これは小説とは違う。君がいくら熱狂的なミステリーマニアでも、現実に対処する助けにはならん」

 芦沢は不満そうにつぶやく。

「短絡的に決めつけないでください」

 室井は芦沢を無視した。横に座った女の肩に手を添え、大西に言う。

「妻の裕美だ。私と共に人間工学を専門にしている。宇宙ステーションの内部構造を合理的に構成するデータを集めるためだ。むろん、みんなと一緒に農作業やメンテナンスにも参加している。そうやって閉鎖空間の問題点を洗い出していくわけだ」

 室井裕美は大西に穏やかにうなずきかけた。その目には芯の強い研究者の光が宿っていたが、口を開こうとはしない。ここでは夫の陰に隠れることを美徳とする日本的な〝妻〟を決め込むつもりらしかった。

 大西は彼女に微笑んだ。

 室井裕美――四〇代後半。物腰に研究者の自信が漂っているが、それを隠そうとしているように見える。夫へ遠慮しているようにも思えた。

 そして、気まずい沈黙が訪れた。

 皆の視線がまだ何も発言していない男に向かった。

 中肉中背の目立たない男は、白衣の膝の間からじっと床を見つめている。

 気配に気づいた男が顔を上げた。そしてか弱い声で言った。

「柴田邦男です」

 それきりで口をつぐんだ柴田に代わって、室井が説明する。

「柴田君には微生物の研究グループを統率してもらっている。MSPで特に力を入れている研究でね。死んだ高崎君もそのチームの一員だったのだ」

 大西の目は、すぐに顔を伏せてしまった柴田から離れなかった。

 柴田邦男――四〇代半ば。重要な研究を進めるチームの統率者であるなら、無能なはずがない。だが、態度は異常といえるほど控えめだった。リーダーシップを取れる人材には見えない。単に寡黙なのか、意図して口を閉ざしているのか……。だが、スタッフは誰も彼の態度に関心を示していなかった。目立たない態度は、柴田の生来の性格なのかもしれない。

 中森が溜め息混じりにモニター画面から振り返った。

「やっぱり、いけませんね……。考えられる限りの方法を試しましたが、センターは全く反応しません。これじゃ、連絡の取りようがないし、メインコンピュータのデータバンクにもアクセスできません」

 室井が中森に目を向ける。

「やはり回線が切れたのか?」

「他に原因は考えられません」

 芦沢が天井の蛍光灯を指さした。

「しかし、こうして電源は正常だ。おかしいじゃないか」

 大西が言った。

「センターでは回線切れに気づいていないんでしょうか?」

 中森が答えた。

「そんなはずはありません。私たちが気づいてから、もう一時間以上になりますから。とっくに誰かが調査に来てもいいはずなんだが……」

 大西が質問を続ける。

「センターとの回線が切れると、ここの機能は停止してしまうんですか?」

 中森は滑らかに答えた。

「いいや。基本的には独立したシステムを持っていますから、心配はありません。陽が出れば太陽電池も働きますし、バッテリーにはまだ貯えもあるし……。しばらくはこうして普通に生活できます。もちろん、センターのメインコンピュータを利用できなければ研究は滞ります。こっちのコンピュータは容量が小さくて処理能力が格段に劣りますから。しかし、こんな非常時に研究を続けるお人好しもいないでしょう」

 大西は、中森の背後のコンピュータ端末を示した。

「そこのコンピュータは正常に動いているわけですね?」

「今のところ。センターからの電力供給が止まれば、およそ一日で電力の貯えを使い果しますがね。今のような悪天候が続いている間は、太陽光発電も期待できません。しかし、燃料電池はいつでも使えます。水素が底をつくまで、こちらのコンピュータで管理しているスフィアのシステムは何の影響を受けずに作動します。たとえば各種のセンサーとか――あっ!」

 中森は不意に何かを思いついたらしく、椅子を回すとキーボードを叩き始めた。

 同時に、芦沢がつぶやく。

「カメラだ。中森さん、殺人現場はモニターカメラの視界に入っていますか⁉」

 中森はマウスを動かしながら答えた。

「今、調べている」

 二人は偶然、同じ時に同じ可能性に思い当ったのだ。芦沢と中森には知能や性格、物の見方に類似した点があるようだった。

 大西は芦沢に問いかけた。

「モニターカメラ……って?」

 芦沢は、中森の背後に歩み寄りながら答えた。

「施設が広いもんで、温室のあっちこっちにモニターを設置して、コンピュータを介して内部を点検できるように設計してあるんです。異常が発生した場合にその原因を突き止めるために、モニター画面は常に二時間分録画されるようになっています」

「殺人現場にカメラがあれば、犯人が写っていると⁉」

 中森が溜め息をもらした。

「カメラがあれば……ね。残念でした。ボヤが出た場所は、ちょうど5番と6番カメラの間の死角に入っています。周辺の木が生長しすぎて、現場を取り囲むようになっているんです」

 芦沢もモニター画面で映像を確認すると、小さくうなずいた。

「あのあたりの木を刈り込むのは来週の予定にしていたからな……。なるほど、殺人犯は周到に犯行現場を選んだってことか……」

 室井がさらに念を押す。

「芦沢君、何度言えば分かる? 軽率な発言は迷惑だ」

 席に戻って室井を見つめた芦沢は、穏やかに言った。

「私は、自分の身を守りたいだけです。そのためにも、勝手に犯人探しをさせてもらいますよ」

 室井は腹立たしげに唇を歪めただけだった。

 大西は、室井の統率力がスタッフから高く評価されていないことを嗅ぎ取っていた。

 そこに仁科が戻った。

 ぐったりと肩を落として扉を開いた仁科は、額に汗をにじませている。

 室井が、力なく椅子に座った仁科に言った。

「ご苦労だった」

「ええ……」

 その呆けたような返事は、質問を拒んでいるように聞こえた。

 大西は室井に尋ねた。

「あなたの判断でマイクロスフィアから外に出られないんですか?」

 しばらくためらっていた室井は、皆の視線に促されて渋々と答えた。

「エアロックの外扉は、内側からは開けられない」

 大西は呆れたようにうめいた。

「そんな……」

「高度の閉鎖空間では、精神に異常をきたす者が発生する危険がある。そんな時に独断で逃亡されては、長い時間をかけて積み重ねた研究が台無しになる恐れがあるからな」

「こんな緊急事態には、どう対処する計画だったんですか?」

「…………」

 全員の視線が、室井を非難するように冷たく変わった。スタッフも、緊急時の対策についての知識は与えられていないようだった。緊張感が膨らんでいく……。

 大西は、スフィアの運営システムの細部を了解しているのは室井一人だと考えた。

 峰が横目で大西をにらみながら、室井をかばうように言った。

「今まで一年半、こんなことは一度もありませんでしたからね」

 峰の口調には、外の世界から〝騒動〟を持ち込んできた大西を非難するような響きがあった。

 室井がうなずいた。

「全く予想外の事態だ。管理マニュアルではスタッフの〝暴動〟までは想定しているが、殺人までは考えられていない。しかも、センターが頼れないとは……。だが、非常用の食料や酸素ボンベは充分に用意してある。あと一時間以上連絡が取れなければ、地下倉庫を開くことを許可する」

 仁科が不意に顔を上げて、きっぱりと言った。

「それより、今すぐ脱出を決断すべきです。高崎の死体は一刻も早く警察に引き渡す必要があります」

 室井は仁科の真剣な眼差しをしばらく見つめてから、ゆっくりとうなずく。

「最終的にはそうなる。人が死んだことは事実だからな。ボヤによって大気組成も大きく撹乱されてしまった。このまま研究を続けても意味がないかもしれん。だが今は、出たくとも方法がない。センターの指示を仰ぐことが先決だ」

 再びコンピュータと対話をしていた中森が、モニターから目を離さずにつぶやいた。

「おかしいな……断線の位置がどうしても特定できません……」

 室井が言った。

「どういうことだ?」

「モニターには何も異常が出てこないんです」

 室井は、顔を伏せていた石垣に向かって言った。

「石垣君、君は調べられんかね?」

 石垣は顔も上げずに首を振った。

「中森でだめなら、俺にもできません。火を消すんで、疲れたんです……」

「君が一番乗りして消火に力を尽くしてくれたことは分かっている。しかし、コンピュータの扱いは君の方がうまいんじゃないのか?」

「俺の腕だって中森と変わりゃあしません」

 室井は仕方なさそうに中森に尋ねた。

「復旧できないのか?」

「断線した場所がスフィア内なら、可能性はあります。しかし、人海戦術で捜し出すとなると時間がかかりますよ」

「それでも、調べんわけにいかん」

 中森はマウスを置いて席を立った。

「仕方ない、ケーブルを点検してきましょう。土木工事は契約に入っていないんですけどね。スフィアの配線図は……資料室でしたっけ?」

 室井がうなずく。

「図面がマップケースにしまってあったはずだ」

 大西が首を傾げる。

「コンピュータの中には保存してないんですか」

 中森が応える。

「コンピュータに異常が生じたときに使うものですから。念のために印刷物も保管してあるんです」

 室井が鳥居を見つめながら言う。

「手伝いが要るだろう。……そう、鳥居君に行ってもらおう」

 鳥居は不満げに鼻を鳴らした。

「なんで私が⁉」

 峰がうんざりしたように答えた。

「だって、雑用が仕事でしょう? それにあなた、ワキガがひどく臭いわ」

 鳥居は椅子を倒しかねない勢いで立ち上がると、顔をそむけた。音をたててドアを開くと、憤然と廊下へ消える。

 その間に、大西は再び峰のつぶやきを聞きつけていた。

「ほんとにイヤな女、私って……早く逃げたい……」

 大西には、峰が嘲笑したのは自分自身だったように感じられた。

 中森と石垣は目を合わせて、呆れたようにうなずき合う。

 石垣が言った。

「俺も行きますよ」

 室井は首をひねった。

「疲れているんじゃないのか? 休んでいたまえ」

「頭を使うのは勘弁ですけど、ここに座ってるのも息苦しいだけですから」

 室井は黙ってうなずいた。

 石垣と中森は部屋を出た。

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