消えた右腕・3
空になった消火器を降ろした室井が、ぼんやりとつぶやいた。
「なんだって、こんなことが……」
火災の中心は十人余りのスタッフで囲まれていた。
コア・キューブ内を走り抜けて『森林』に出た仁科が、息を弾ませながら言った。
「どうしたんです⁉ なぜ、こんなところで火が……?」
答える者はいない。
仁科は、周囲が全く濡れていないことを確認した。
「スプリンクラーを作動させなかったんですか⁉」
室井が振り返りもせずにつぶやいた。
「もちろん、スプリンクラーのスイッチは入れた……だが、作動しなかった。だから、大慌てで消火器を集めさせたんだ……」
室井の脇に立った仁科はうめいた。
「作動しなかったって……? 故障ですか⁉」
「さあ……分からん……」
大西は記者の特権だと言わんばかりに、胸を張って仁科の後についていった。辺りには焦げ臭い空気に混じって、鼻を突くアルコールの匂いが漂っている。
大西はかすかに眉をひそめた。
「何だ、この臭い……」
キャンプ場でのバーベキューを思い起こさせる香りだ。肉が焼ける香ばしい臭い――。
スタッフは皆、思い思いのラフな服装をしていた。科学者らしい白衣を着ていたのは一人だけだ。それは、地方の消防団の緊急出動を思わせる光景だった。
室井が再びつぶやいた。
「なんだって……こんな……」
消火に駆けつけていたスタッフたちは無言で、身を硬くして現場を見つめるばかりだった。
異様な沈黙に気づいた大西は、改めて燃えた地面を観察した。火災は数本の低木を焦がすボヤにすぎなかったが、その中心に奇妙な物体があった。
煤けた金属の円柱が転がっていた。直径五センチ、長さ三メートルほどのシェルの支柱の一本が外れて、倒れている。そして、支柱の脇に横たわった物体は――黒焦げになった人体にしか見えなかった。
大西はつぶやいた。肉が焼ける臭いが強まったような気がする。
「まさか……」
仁科はさらに前に出ると、膝を突いてかがんだ。躊躇することなくその物体に手を触れる。そして肩越しに室井を見上げた。
「死体です」
スタッフの間に、悲鳴ともうめきともつかないどよめきが広がった。
放心状態から戻った室井は、始めて周囲を見回した。
「誰だ? ここにいないのは誰だ⁉」
みんなが互いを見つめ合う。
大西の来訪は室井から聞かされていたらしく、闖入者を不審がる視線はなかった。そして、ほとんど同時に声があがった。
「高崎だ……」
それを合図にしたように、たちまち辺りは喧騒の渦となった。
「何だってこんな馬鹿な……」
「事故だよ。支柱の下敷きになったんだ」
「支柱が外れただと?」
「高崎が外したんだ」
「それじゃあ、なぜアルコールで火を?」
「まさか……自殺⁉」
「あの高崎さんが?」
峰が冷たく結論を下した。
「冗談じゃないわ。あの高慢ちきが自殺なんて。シェルを破って逃げ出そうとして失敗したのよ」
室井が仁科の脇に進み出た。
「し……死んでいるんだね……」
身体を起こした仁科は、振り返ってうなずいた。
「ええ……」
そして、手に握った物体を室井に差し出した。
横から覗き込んだ大西には、それは燃えた木の枝のように思えた。
室井は首をひねった。
「何だね……それは……」
「腕――です。肘の下で切断されたようですね」
スタッフが沈黙した。
大西が言った。
「支柱に潰されて、もげたんですか?」
仁科はぼんやりと首を横に振った。
「支柱はかなり重いが……骨を折ることはできても、人の腕はそう簡単に切断できない。……切り取られたのかも……」
再び声が交錯した。
「何だと⁉」
「それじゃあ……」
「まさか……」
死体から腕が切り取られたなら、切り取った人物が必要だ。それは明らかに〝殺人〟を意味する。
室井が叫んだ。
「静かに! 仁科君、いい加減な憶測は謹みたまえ!」
仁科は室井に向かってさらに腕の切断面を突き出した。
「切り口をよく見てください。焼けて不鮮明になっていますが、皮膚には引きちぎられた痕跡が残っているし、骨もささくれだっています。一度の衝撃で切断された傷には見えません」
室井はじっと腕を見つめたまま、返す言葉を失った。
誰かがつぶやいた。
「殺されたんだ……」
再び不気味な沈黙が訪れた。
仁科は自分が握っていた焦げた腕に気づき、気味悪そうに死体の脇に戻した。
その時、大西は死体の近くに落ちていたもう一つの物体に気づいた。溶けたプラスティックの塊だった。その中から、焦げた乾電池が露出している。
大西はかがんで拾い上げると、それを室井に見せた。
「これ……懐中電灯ですよね。ガラスも電球も割れている。あれ、これは何だろう……?」
溶けたプラスチックの本体に、箸のような木の棒が食い込んでいた。その棒がスイッチを押すような形で固まっている。
懐中電灯の燃えかすを無表情に受け取った室井は、ろくにそれを調べもしないでつぶやいた。
「高崎はここで何をしていたんだろう……?」
峰が頬をこわばらせながら言った。
「だから、逃げようと……夜中にシェルを壊そうとして、しくじったのよ……」
男の一人が応えた。
「シェルがそんな簡単に壊せると考えるほど、高崎は間抜けじゃない」
峰は死体から目を背けた。
「でも、『女はみんな自分の言いなりだ』と自惚れる程度には、間抜けだったわ」
一人の死が、スタッフ間の緊張を加速させ始めていた。
それを察した仁科は、誰にともなく命じた。
「みんなはいったん個室に戻ってほしい。私は室井さんと事故の処理を検討したい」
室井がうなずく。
「動揺は禁物だ。何が起こったのか、詳しく調べてみなければ結論は出せん」
峰が言った。
「でも、まだセンターとは連絡は取れないのよ」
それを知らないスタッフが、一斉に峰を見つめた。
室井が慌てて峰をにらみつける。
「落ち着け。通信回線はすぐに復旧する」
峰は引き下がらなかった。
「だって、高崎が殺されたのなら――」
室井は不意に怒りをあらわにした。
「馬鹿なことを言うな! 科学者らしく冷静に振る舞え! それとも君は、何か知っているのか⁉」
峰は室井の腹の内を察してにらみ返した。
「私が殺したっていうんですか⁉」
「『殴り殺してやりたい』と言ったのは君だ! 昨日の夜、何があった⁉」
「私は高崎に襲われたのよ!」
「だから強姦される前に殴り殺したんじゃないのか⁉」
峰は一瞬息を呑んでから、毅然と言い放った。
「あなたこそ科学者らしく振る舞いなさい。冷静に状況を分析して対処することがリーダーの責任ではありませんか?」
言い返そうとした室井は、スタッフの視線が自分に集まっていたことに気づいて口をつぐんだ。
傍らに立っていた年配の女性が、小声で言った。
「あなた、峰さんの言う通りよ。落ち着いてくださいな」
彼女は、室井の妻だった。
室井は小さくうなずいて峰を見て、口調を和らげた。
「すまん、動転していた。その件は後でゆっくり……。とにかく今は、みんな部屋に戻れ」
さらに何か言いかけた峰は、それを呑み込んで背を向けた。そして、生い茂る樹木の間の通路をコアに向かって歩き始める。
室井は動揺を押さえながら妻に命じた。
「裕美、みんなを中へ」
室井の妻は、溜め息をついてうなずいた。
「分かったわ」
その瞬間、力なくうつむいていた仁科がはっと顔を上げた。不意に重大な何かを思い出したかのように叫ぶ。
「何だと⁉」
仁科は素早く身体をひるがえし、再び死体に覆いかぶさるようにかがんだ。
その声を聞きつけた峰も、通路の途中で足を止めて振り返っていた。
仁科は独り言のようにうめいた。
「何かが不自然だと思っていたんだが……こんな馬鹿な……いったい、どういうことなんだ……」
室井が苛立たしげに仁科を見下ろした。
「なんだ? 何があった?」
仁科は、再び切り取られた腕をスタッフの前に差し出した。焦げた手のひら見せて、指を曲げる。
「よく見てください。親指の位置を……」
室井は声を荒げた。
「それがどうした⁉ 問題があるなら、はっきり言いたまえ!」
仁科は冷静だった。切り取られた腕を、死体に残っていた左腕の横に置く。親指の位置は二本とも同じだった。
「切られているのは左腕なんです。そして、死体に残っている腕も、左腕……。つまり左腕が二本で、右腕がなくなっている……」
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