消えた右腕・2

 大西は仁科の後に従って三階のドアを出た。空気がねっとりと重い。息苦しいほどの臭気が鼻を塞ぐ。開発途上国のスラムを思わせる〝生活の臭い〟だった。

 大西が顔を歪めたことに気づいた仁科は、言った。

「臭いには慣れる。この温室は密封されて外の空気を取り入れることはできないから、耐えるしかないんだ。悪臭の元凶が我々の食料を提供してくれることが理解できれば、不満は言えんよ」

 大西は仕方なさそうに肩をすくめた。

「臭いに慣れた頃には、僕は紫煙が渦巻く編集室で締切に追われているわけだ」

「羨ましいかぎりだね。ここで絶対に望めないものは新鮮な空気だからね」

「東京の空気なんか誉められたものじゃありませんって」

「ここだって、東京都の一部だよ」

 二階の屋根に当たる回廊状のバルコニーは、びっしりと茂る植物に埋め尽くされていた。さらにその先には、吹き抜けになった広大な温室がぐるりと広がっている。

 大西にも、マイクロスフィアが扁平なドームだという予備知識はあった。実際には二重構造になっていて、昨夜、大西が長いトンネルを潜って入ったのは、温室の中央に位置する強化プラスチック製の内側の建造物だった。そこがスタッフの居住や研究室に用いられているのだ。施設全体はその上に巨大なガラスの器をすっぽりと伏せたような形になり、間に生まれた空間が温室として利用されている。

 大西は首をめぐらせて温室を見回し、つぶやいた。

「しかし、どうしてこんな巨大なドームをこしらえたんです? 東京ドームよりもでっかいって聞いてきましたが……。『バイオスフィア2』は、施設を細分化して廊下で結んでいましたよね。なにも無理して一つのドームに押し込まなくてもいいのに……」

 仁科は呆れたように言った。

「それでよく科学記者が勤まるね」

 大西は悪びれずもせずに答えた。

「編集長の指名だったんです。『何も知らない方が、かえって素人の興味を誘う記事が書ける』ってね」

「安直な判断だな」

 大西は声を上げて笑った。

「意見が合いましたね。本当のところは、予定していた同僚が胃炎で倒れましてね。みんなが仙人まがいの長期取材を嫌ったもので〝何でも屋〟の僕にお鉢が回ってきたんです。『バイオスフィア2』に関しても、大慌てでバックナンバーを探して予習したんですけど……」

 ドームのガラスは、一辺が五メートルほどの三角形を連ねるように組まれた金属製の骨組みにはめ込まれていた。さらにその骨組みは、無数に張り巡らされた円柱状の支柱と梁に支えられている。白く塗られた支柱は、乱れたクモの巣のように絡み合って見えた。

 さらにその支柱の隙間を縫うように、ガラスの壁の内側をぐるりと一周する回廊が取りつけられていた。回廊の高さはちょうど三階の床に当たり、バルコニーからのびた渡り廊下が空中に渡されている。渡り廊下は所々を支柱に固定されて安定を保っていたが、手摺りは腰の高さにつけられた一本のパイプだけだ。

 仁科は生い茂る植物を植えたプランターを避けながら、渡り廊下に向かった。そのまま、肩幅ほどしかない渡り廊下をずんずんと進む。

「君、なかなか正直だね。そういうことなら、私も初歩から噛み砕いて説明しよう。それぞれの研究の詳細については担当者でなければ分からんがね。高所恐怖症ではないだろうね?」

 ためらいがちに渡り廊下に踏み出した大西は、手摺りを握りしめた。

「そういう大事な質問は、歩き出す前にしてほしかったな……」

「まあ、我慢するんだね」

「これも因果な商売のうちですから……」

 仁科は、かすかに足を震わせている大西に合わせて歩調を落とした。

「この空中通路の長さは五〇メートル以上。高さは六メートルを越える。ドームの直径は二五〇メートルで、総面積は約五万平方メートル。『バイオスフィア2』の四倍近くになるし、ずっと高度なシステムを取り入れている。バイオスフィア2の実績を徹底的に分析した上で建造したんだから当然だがね。峰君はあの実験をあまり評価していないようだが、彼らの貴重な経験がなければ我々は一ヵ月で研究を放棄していたに違いない。生活の些細な部分にいたるまで、彼らの試行錯誤の成果を活用させてもらっている。アメリカのベンチャー精神が先鞭をつけた技術を、日本が横取りして完成させる――それがこの国のお家芸ではあるんだが、申し訳ない気がするよ。それはともかく、我々のマイクロスフィアが最先端の建築技術を集めた現代のピラミッドであることは間違いない」

 立ち止まって足元を見下ろした大西は、まるで自分が空中に浮かんでいるような錯覚を覚えた。

 渡り廊下は蜂の巣状に組み合わされた、きわめて薄い金属板でできていた。その六角形の穴を通して、真下が見えている。地上部分から生えているバナナの木らしい植物の葉が、金属板に触れていた。木の根元には、色とりどりの珊瑚を沈めた人工の『海』が透けて見えた。

「この板……穴が開いたりしないでしょうね? 僕、結構体重があるんですけど……」

 仁科は笑った。

「ハニカム構造――つまりこの蜂の巣のような形は、最も丈夫な構造の一つだ。下が素通しに見えるからといって心配する必要はない。この板なら、象だって渡れるさ」

「へえ……それは、ありがたいですね」

 仁科はつけ加えた。

「まあ、象にも大小いろいろあるだろうがね」

 大西は頬を引きつらせ、視線を上げた。

「きれいな海ですね」

 仁科は、声と足を震わせる大西と目を合わせて苦笑したまま説明した。

「その通り、ここが地球上の『海』に相当する部分だ。鋼鉄のプールに石灰岩を並べてサンゴを定着させ、海水を引き込んだ。海水中のプランクトンや微生物がこの人工環境の中で世代交代を繰り返している。さらに藻類、そしてそれらを食べる魚類やエビや貝を入れた。ドームを閉ざすまでに一年の準備期間があって、その間に『海』の生態系として自律できるように、収容する種やその量を調整していった。このやり方もバイオスフィア2の二番煎じだ。『海』と同じように、コア・キューブの反対側には淡水の『湖』が作られている。それぞれの水辺の周囲には、湿地に相当する部分もある」

「あの……コア・キューブって?」

「私たちが暮らしている、内部のプラスチック製の建物だ。みんなは省略してコアと呼ぶ。コアは一階が研究室、二階が個人居住区、三階が倉庫や機械室になっている。水温や空調などを制御する大型の機械は、ほとんど地下に収容されているがね。そして『海』と『湖』の二つのバイオームが、かの人魚姫の〝お城〟ってわけだ」

「バイオーム?」

「おいおい、予習をしてきたんじゃなかったのかね? バイオームとは、『一定のシステムを保っている環境』のことだ。マイクロスフィアには海洋と湖沼の他に、森林と農地のバイオームが収容されている。ほら、向かって右側が農地、左側が森林だ」

 大西は渡り廊下の左右を見比べた。左側には欝蒼と茂る大木の群れがあり、右側の『海』の先には畑と水田が広がっていた。畑は細かい正方形に区分され、それぞれに植えられた作物の色は一様ではない。水田の色合も微妙に異なっている。植物の種類や生育段階に違いがあるようだった。

 大西は、吸い寄せられるように視線を下に戻した。足の震えを止められないまま、それでも仁科を追って歩き始める。

「なるほど。ここにはバイオスフィア2みたいな砂漠はないんですか?」

「やっと記者らしい質問が出てきたね。バイオスフィア2には主に二つの目的があった。一つは環境問題を解決するためのデータを集めることで、『ミニ地球』の中での炭酸ガスの振る舞いなどを徹底的に分析している。もうひとつが宇宙進出に向けて閉鎖空間の維持技術を探ることだ。だが、ロシアの『バイオス3』を別にすれば初めての実験で、しかも桁違いに規模が大きかった。だから何もかもが前例のないことばかりで、実験の継続自体が目的化された部分もあった。その点、このマイクロスフィアは、あくまでも実用実験を目的にしている。だから内部で暮らすスタッフの生存にあまり役立たない環境は大胆に省かれた。地球環境の研究よりは、海底や宇宙へ進出する際のノウハウを蓄積することに重きが置かれている」

 かすかに動物の鳴き声が聞こえた。大西はその声を頼りに、緑の木々の間に巨大なガラス張りの『檻』があるのを発見した。大きさは二階建てアパートほどだ。その透明な天井には直径50センチぐらいのパイプが接続され、コア・キューブの3階に向かって伸びている。

 大西は管理センターで見せられた平面図を思い浮べていた。

「動物も飼っているんですか?」

「ヤギとニワトリ、そしてミニブタだ」

「ミニブタ?」

「品種改良で育てた、体長三〇センチ程度にまでしか育たないブタさ。普通の大きさになられては我々の手に負えないからね。それに、動物を育てるには体重の十倍近くの穀物を与える必要があるので、多くは飼えない。しかし計画段階では、食事に変化を持たせることが心理的に重要だと考えられていた。実際にヤギのミルクはチーズやバターにできるし、ニワトリの卵は最高のご馳走だ。彼ら家畜は、人間が消化できない植物の葉や茎、そして虫などをタンパク源に変えてくれる。ニワトリはゴキブリの処理係としては最高の働き手でね。バナナの皮で集めたゴキブリを平らげて、せっせと卵を産み落とす。ブタを入れたのは、肉類も必要だろうと考えたからだ。ところが一緒に暮らしていると情が移って、みんなが殺すのを嫌がってね。たまに峰君が処理してくれるのを楽しみにしている始末さ。豚たちに無駄に穀物を消費させているわけにもいかないので、誰かが処分しなければならないのだ」

「彼女に動物が殺せるんですか? あんなにスリムな身体で?」

「体力よりも、慣れの問題だ。カリブのご婦人がたにとっては、ニワトリの首をはねるぐらいは日常的な仕事だそうだ」

「ここで食べられる肉類はそれだけなんですか?」

「哺乳類の肉は、ね。水田に放し飼いにしてあるアイガモが繁殖すれば、我々の口に入ることもある。しかし肉が少ない分、ティラピアなどの魚が数多く飼われている。淡水魚は環境を整えておきさえすれば計算どおりに繁殖させられるし、誰でも料理できるから扱いが簡単だ。予定外に増えすぎた時には、釣り大会を開いたこともある。しかし、栄養の大部分を植物に依存していることは確かだね。それがもっともエネルギーを浪費しない、効率的な生活だからね」

 と、大西の目の前を一匹のハエが横切った。

「あれ? ハエですか? ここには昆虫もいるんですか?」

 仁科はうなずいた。

「これだけの動植物を運び込んでいるだから、それらに付着していた昆虫を排除することは不可能だ。むしろ、積極的に利用している。作物の交配を助けるためにも必要だ。有機栽培をしている農家などで使っているハチも飼っている。これはわずかではあるがハチミツも作り出してくれる。その他にも、クモなどの虫をずいぶん導入しているはずだ。植物を食い荒らす害虫を減らすために、肉食性のダニも入れてあるということだ。予定外の動物は、ネズミだ。地下の機械室にコロニーを作っているらしい」

「なるほど、現代のピラミッドの中身は農家のビニールハウスと違いはないわけか」

 仁科は肩をすくめた。

「見かけほど大それた研究はしていない、ってところかな。それでも、食べるだけで精一杯というほど農作業に追われているわけではない」

「食物の話に戻りますけど、普段の食事の内容はどんなものなんですか?」

「玄米、大豆、胡麻、小松菜などの野菜、ジャガ芋、ソバ、果物やナッツ類……。素材が限られているから、料理の腕が物を言う。残念なことに、私の料理はひどく評判が悪い」

「あなたも厨房に立つんですか?」

「基本的には、全員が参加する当番制だ。得手不得手はあるから、厳密には守られていないが」

「栄養はそれで充分に摂れるんですか?」

「栄養学的には全く問題ない。一日あたりおよそ2500カロリー程度の、低カロリー高栄養の食事だ。砂糖はもちろん脂肪もほとんど摂取していないが、繊維質やタンパク質、ミネラル類も十分だ。量が少ないことには不満が出るがね。満腹できるまで食べられないということは、精神的には悪影響を及ぼす。しかしそのおかげで、スタッフ全員の健康状態はずいぶん向上したよ。コレステロール値、血糖値が下がって、免疫力が強まる傾向も現われている。粗食より飽食の方が人間に害を与えることが証明されたわけだ。特に室井さんなどは高血圧と高脂血症の症状がほとんど改善されてしまった。一時はストレスが重なって、大量の薬が欠かせないほどだったのだがね」

「それはすごい。だから峰さんもあんなにスタイルがよかったのかな?」

「彼女はスフィアに入る前からああだった。意志が強い人だから、肥満とは無縁なんだろう。他のスタッフには、見違えるように変わった者もいる」

「でも、いくらシェイプアップできても、こんな檻の中で暮らすのは淋しいでしょう? 皆さん、家族との連絡なんかはどうやっているんです?」

「電話が中心だ。それも週に三〇分程度に限られている。無制限に通信を許すと、閉鎖空間での心理面への影響が掴みにくくなるのでね」

「テレビやインターネットなんかは?」

「テレビやビデオは原則的に使用を禁止されている。極限に近い環境を保つためだ。多少の本は持ち込みを許されたがね。セキュリーティー上の問題で、インターネットにもつながっていない」

「セキュリティ?」

「ハッカー対策だ。スフィアからセンターに通じた回線はメインコンピュータに接続しているが、そのコンピュータそのものがネットにつながっていないと聞いた。これだけ巨大な実験施設だ。システムに侵入しようとする〝腕自慢〟も多いようでね。センターは、何度か深刻な攻撃を受けたらしい。万一ここのコンピュータが狂わされたら、我々の生命が脅かされる。ハッカーにはお遊びでも、我々には死活問題だからね」

「でも、携帯のメールなんかは?」

「それもネットに接続していることには違いない。危険は同じだ。スフィア内部では無線でコンピュータのローカルネットワークを組んでいるが、電波は一切外に漏れない。ガラスの壁がすべて吸収するらしい。つまり、外の電波も入ってこられないわけだ」

「つらいですね。差し入れも許されないんでしょう?」

「当然だ。基本的には外部からは何物も入れない。そして、何物も出さない。とは言っても、例外はある。過去に三回、物資の搬入が行なわれたことがある。天候不順の時に炭酸ガスの吸着剤を追加したり、緊急に必要になった医薬品などをセンターに依頼した。建物自体にも微量ながら大気の漏れがあるはずだ。構造上の欠陥は発見されしだい外側から補修されているがね」

 大西は天井を見上げた。

「こんなに頑丈そうなのに、空気が漏れるんですか? でもそれじゃあ、実験にならないんじゃ……?」

 仁科は肩をすくめた。

「顕微鏡レベルの微細な穴まで塞ぐというのは、これほど大規模な建造物では不可能だ。実際、バイオスフィア2でも年間10パーセント程度の空気漏れがあった。ロシアが作った閉鎖システムのバイオス3では、年間50パーセント。このマイクロスフィアの1年目の実績は、年間わずか1パーセントに満たない。画期的な水準といっていい。しかも温室内に設置した200以上のセンサーが、常に大気組成を監視している。わずかでも空気漏れが観測されれば、すぐに管理センターが修理にやってくる。つまり、マイクロスフィアの気密性は年々高まっていくわけだ。だから、ここから出ていった物質は全くないと断言できる」

「穴が開いているのに出ていく空気がないんですか?」

「君、エアロックから内部に入った時に耳の中が痛まなかったかね?」

「ああ、そういえば、なんだかツーンって……」

「実は、温室の中の大気圧は常に1気圧を下回るように調整されているんだ。この圧力差によって外壁が内側に向かって圧迫され、気密性が高まるように設計されている」

 大西はうなずきながら言った。

「外からいつも押しつぶされているわけですか。なるほど、僕が知らないことばかりでたまげますね。スタッフの皆さんに詳しい研究内容を聞くのは、あなたにもっとお話をうかがってからの方がいいようですね。それにしても、空模様が……」

 大西は目を上げた。

 ガラスの外は、見る間に濃いグレーの雲に覆い尽くされていた。すでに夜は明けているが、空の色は夕暮に近い。周囲にはまばらな草しか見当らない岩場が広がるばかりだ。農地側の彼方には、重くうねる太平洋が見えていた。反対側の視界は小高い岩山が塞いでいる。

 その荒涼とした風景は、大西の心の奥に原始的な恐怖心をかきたてた。ドームの南側に並べられた太陽電池の群れの機械的な姿が、かろうじて剥出しの自然の狂暴さを和らげているだけだった。

 大西の不安を感じ取ったのか、仁科は足を止めて振り返った。

「初めての君が怯えるのも無理はないが、心配は無用だ。台風の直撃は初めてではないし、スピードが早いそうだから半日ほどで通り過ぎるだろう。ガラス細工のように見えても頑丈な建物だからね。シェル――つまり温室の外壁は、隕石の直撃を受けても跳ね返せるそうだ。マイクロスフィアは宇宙ステーションを想定して建造されているんだからね。基本的には、このまま月の表面に建てても維持できるように設計されている。この設計が実用に耐えるかどうかを検証することが、巨大ドームを必要とした最大の理由だ。大げさなエアロックを出入口に取りつけたのも、実用化へ向けた実験の一部なのさ」

 大西は心底驚いたように言った。

「知りませんでした」

「呆れたものだな、秘密でも何でもないことだよ。『科学新報』だって、マイクロスフィアが完成した時には取材陣を送ってきたはずだが?」

 大西はばつが悪そうに言った。

「急に命令されたもんで、全部のバックナンバーまで目が通せなかったんです……」

 仁科は苦笑いで応えた。

「ま、マイクロスフィアは民間企業の基礎研究施設だから、無駄な投資はしない。そもそもこのプロジェクトは、長期的には宇宙開発の基礎作りを目的にしている。二一世紀には地球上の資源が枯渇し、宇宙空間から持ち込まれる資源が巨額の利益をもたらすことになるだろう。それは絵空事ではなく、企業の生き残りを賭けた人類最大の開発計画だ。今から切符を買っておかなければ、いざという時にバスに乗ることができなくなる――ってことさ」

「でも、宇宙開発ってそれほど現実的なんですか? こんなに大きな実験に投資するのはまだ早いって気がするんですけど……」

 仁科は足を止めた。

「現実に、国際協力による宇宙ステーション建造が始まっているではないか。それに君は……いや、人類の多くは、現実を甘く見すぎている。あるノーベル賞学者が言っていた。現代人一人が消費するエネルギー量は、中型の恐竜に匹敵する。地球上には、その〝恐竜〟が60億も住んでいる。しかもその数が爆発的に増え続けている。このまま生き続けることは不可能だ。種としての人類が生き残る道は三つ――。一、エネルギー消費を劇的に抑える。二、宇宙へ進出して恐竜であり続ける。三、人類自身の脳を改造して地球に負荷をかけない生命体に生まれ変わる――。三は論外としても、欲望を抑えることも難しい。今時の若者に五〇年前の暮らしが耐えられるか? 恐竜であることを止められないなら、宇宙へ向かうしかない。今は現実味を感じないかもしれないが、一〇年後はそれこそが現実だ。現実にできなければ、人類は今世紀を生き残れない」

 大西は感心したようにうなずいた。

「ここって、そんなに壮大な役割があったんだ……」

「それが、ナカトミの試みが国際的に評価されている理由だよ」

「ナカトミ・グループって、明治時代からの大財閥ですものね。自動車、建設、エレクトロニクス、鉄鋼、エネルギー、食料、医療、金融、軍事、エトセトラ……ハイテクの全てを覆い尽くす巨大パワーです。日本人としては、誇りを感じるべきなんでしょうね」

「私企業がこれほど基礎研究に貢献したことは歴史に残ると思う」

「スフィアって、やっぱり宇宙ステーションなんですね」

「やっと分かってもらえたようだね。つまり、管理センターは宇宙ステーションコントロールの実験場に当たるわけだ。シャトル打ち上げの時のヒューストンのようなものだ。遠く離れたステーションをどうやって地球から維持管理するか――そのノウハウを探っている。だからセンターは、わざわざスフィアからの視界に入らない島の反対側に設置された。全てを電子装置によって管理して、目視による心理的偏向を防ごうという発想さ。こちらも、相手が見えないことで、依存心が抑制できる。宇宙で孤立した状況に近い心理状態を、研究員の間に作り出すことができる。だから、通信に際しても独自の工夫がされている。センターとの会話に、月と地球の間を電波が飛ぶのと同じだけの時間差が生じるように設定されているんだ。相手の返事が返ってくるまでに一秒以上の間ができる。我々はこの間延びした会話に慣れたが、困るのは家族などと電話をする時だ。故障だと早合点して切ってしまう相手が後を断たなくてね」

「そんな手間までかけているんですか……。僕は単純に、地球規模の環境問題を研究するための施設だとばかり思っていました」

 仁科は再び歩き始めた。大西は手摺りを頼りに彼を追った。

「むろん、それもMSP――マイクロスフィア・プロジェクトの任務の一つではある。だが何より重要なのは、CELSS――閉鎖生態系生命維持技術を実用化することだ。この技術が確立されれば月や火星への進出はもちろん、身近なところでは地底や海底での長期の生産活動も可能になるんだからね」

 大西はふと首をかしげた。

「あれ、でも宇宙って空気はないんでしょう? それなら温室の中の気圧を低くするのは逆じゃないですか? 中の方を高くしても破裂しないように設計しなくちゃならないはずでしょう?」

 仁科はにやりと笑った。

「いいところに気づいたね。このドームの設計段階では、内部圧力を高める方法も検討されたんだ。しかし、結果的にはこういう形に決定された。大きな理由は二つある。第一は、宇宙進出よりも海底でのドーム建設が先に実現するだろうという判断だ。海底では当然外部圧力の方が高くなる。第二点は、補修の問題だ。穴を塞ぐには、気圧の高い側から修理するほうが効果的だ。補修剤が穴に吸い込まれていくわけだからね。内部の圧力を高くした場合、補修は我々が行なわなくてはならない。修理には接着剤やパテが必要だが、その際に有機溶剤などの化学物質がドーム内に蓄積してしまう。それを防ぐためにも、内圧を低くするほうが有効だった。いずれにしても、外と中との気圧差を利用してシェルの気密性を高める効果は計測できる。宇宙に同じ物を建てる時には、表裏をひっくり返せばいいだけだから技術的な問題はない。重要なのは、より完全に近い閉鎖生態系を作り出すことだった」

 大西はつぶやいた。

「閉鎖生態系、か……。この建物、ものすごい手間をかけているみたいですね。僕は単純だから、ドーム球場みたいなものかと思っていたんですけど……」

「峰君の言葉ではないが、ここはテーマパークではないのでね」

「つまり僕は今、水草とエビを詰め込んだガラス玉に閉じ込められたようなものなんですよね。なんだか、息苦しくなってきたな……」

 大西は、スフィアに入る前に管理センターで簡単な説明を受けていた。その際に、バスケットボールほどの大きさのガラスの球体を見せられたのだ。中には海水と空気、そして小さなエビと水草が封じ込められ、完全に密閉されていた。それでもエビは決して死なないという。

「管理センターで見てきたんだね。あのガラスの球体は外界から遮断されている。1立方メートルに満たない空間に、閉じられた生態系を形づくっているんだ。太陽光による光合成で藻が酸素を発散し、それによって生きるエビが出した排泄物を、今度は藻が養分にする。そうやって限られた資源を回転させ、お互いの生命を支えあっている。最も基本的な食物連鎖のシステムだ」

「バイオスフィア2もマイクロスフィアも、あのガラス玉を大規模にしたわけだ……」

 仁科は小さくうなずいた。

「むしろ『地球そのものが』と言うべきだね。バイオスフィアという造語は、地球上で生物が生存できる範囲を示した概念でね。確か一九七〇年代の中頃に提唱された考え方だ。地球上の生物はいかに多様に見えても、この惑星のほんの薄い表面の部分でしか生きられない。生物はおおむね海面の上下、それぞれ一〇キロメートルの範囲内に生息している。地球を直径一メートルに縮めたとすると、このバイオスフィアの厚さは二ミリにも満たない。地球をリンゴに例えるなら、皮みたいなものさ。この薄っぺらな空間に封じ込められた資源だけを利用して、人間を含めた全ての生物は生存していかなければならない。外部から持ち込まれるのは太陽エネルギーだけ。そして余ったエネルギーは再び宇宙空間に放出され、全体としての均衡を保っている。人類が宇宙に進出する時は、そのバイオスフィアを丸ごと持ち出さなければ長期間の滞在は不可能になる。バイオスフィア――つまり人間を安全に包むこの〝球体〟をどれだけ小さくできるかを探り出すのが、MSPの最終目標だ。しかしMSPの場合は、自然界に存在するシステムだけにこだわってはいない。目的は人間の生存に適した閉鎖空間を作り出すことだ。そのためには電力は欠かせないし、空気を浄化する化学処理装置なども徹底的に活用している」

 大西は感心しきったようにつぶやいた。

「ここのスタッフはそんなに複雑な作業をしているんですか……。バイオスフィア2では、食べるための農作業でみんな手いっぱいだったって聞きましたが?」

 仁科は辛抱強く説明を続けた。

「単に『閉鎖空間内で生きること』を目的とした実験なら、それでも充分だろう。しかしMSPは、極限空間での〝生産活動〟を可能にする技術を実用化しようとしている。中のスタッフが生きるだけで精一杯で研究さえできないなら、そもそも閉鎖空間など作る意味がない」

「でも、食料生産はどうやって支えているんですか?」

「たとえばロボットの活用や、エネルギーの大量投入によって大幅に人手を省いている。スタッフの食料はおおむね温室内で生産できるが、地下にはクロレラの養殖プールもある。これは太陽光の届かない場所での食料生産を想定した実験だ。人工の照明によって最低の食料を確保しているわけだ。だから万一温室での食料生産が滞っても、スタッフが飢餓に陥ることはない。味の点では目をつぶる必要があるがね。そういったテクノロジーが現実にうまく噛み合って、人の活動と共調して働くかどうかを確認することも私たちの仕事だ。日本人が苦手としてきた〝システム作り〟に前向きに取り組んでいるわけさ」

「その他にも目的はあるんですか?」

「もちろん、スタッフの研究課題は多岐に渡っている。地球環境への理解を深めることも重要だ。だからこそ、温室にはさまざまな生物を収め、それを研究するスタッフも充実させている。この研究自体は、バイオスフィア2の延長線上にあるといっていいだろう。MSP独自のテーマとしては、このドームそのものが上げられる。ここでは宇宙ステーション建造技術の実験が行なわれ、追跡調査が続けられているんだ。この構造や素材が宇宙の苛酷な環境にどれだけ耐えられるのかがモニターされている。もっとも新素材に関する情報はほとんど機密扱いで、管理センターの一部の研究者しか把握していないがね。しかし内部構造に関しては、実際に人が活動をしてみなければ机上のプランの欠陥が確かめられない。ここでも、人間工学上の問題を解決してハードとソフトの親和性を高める必要がある。改善すべき点があり、それが探り出せなければ、実際に宇宙開発が動き出した時に大惨事につながる恐れもあるからね。そのためにも、スタッフが実際に研究作業に携わることが必要になってくるわけだ。他にも、管理センターの周囲ではクリーンエネルギーを利用したさまざまな発電技術が磨かれている。燃料電池を始め、太陽光発電、風力発電、地熱発電、海の波や潮の満ち引きを利用した発電――これらは全て、二一世紀のエネルギー源を確保するための基礎研究といえる。万一宇宙開発に手間取っても、地球の環境を温存して足元を固めておけば慌てる必要がなくなるからね。これらの電力がなければスフィアはとうてい維持できない」

「そうすると、電力は全て外部から得ているんですか?」

「大半はシェルの周りに設置した太陽電池で独自に賄える。少なくとも、そのように設計されていると聞いている」

「コンピュータなんかも太陽電池で動かしているんですか?」

「基本的にはそうだが、研究に必要な装置には管理センターから電力が回されることもあるし、バッテリーにも相応の貯えがある。最悪の場合は、コアの研究室のバイオリアクターでアルコールを作り、燃料電池で発電することも可能だ。実は、アルコールはたまにスタッフの口に入ることもある。学術的な研究とはいえ、息抜きがなければ神経が保たないのでね。とはいっても、それらの原料は温室で育てた植物――我々の食べ残しだから、スフィア内の物質の総和に変化はもたらさない。限られた資源の中で娯楽を作り出すことも、研究の一貫だというわけさ。さらには、家畜の糞から発生するメタンなどの可燃ガスも回収してある。料理は主に電磁調利器を使っているが、炎が必要な場合の燃料はそれで賄える。畜舎の天井からコアに通じているパイプはメタン回収のための設備だ」

「じゃあ、飲み水はどうやって調達しているんですか?」

「基本的には、蒸気の循環による。このドーム全体が太陽エネルギーによって大きな対流をもたらす構造になっている。あれを見たまえ」

 仁科はドームの天井を指差した。

 コア・キューブの中心から伸びた太い支柱に、直径五メートルほどの球状の装置が固定されていた。

 大西は装置を見上げながら言った。

「気になっていたんです。何ですか?」

「水蒸気の液化装置さ。温室の植物が発散した蒸気はドーム内の気体の対流によってあそこに集められ、凝縮されて水に戻る。そして『海』と『湖』に分配される。排泄物からも水分は完全に抜かれ、固体成分は堆肥などになって植物に還元されるわけだ」

 大西は顔をしかめた。

「つまり、自分が出した小便を飲んでいる、と?」

「スタッフは誰も気にしちゃいないよ。イオン交換フィルターで浄化しているし、湿地の微生物や土壌の浄化作用も利用している。そもそもそれがこの惑星の基本的なシステムなんだからね。ここでの物質の循環は、地球という惑星のそれを極小のサイズに縮めたにすぎない」

「それだけ、水は貴重品だ……ってわけですか?」

「一番の贅沢がシャワーの利用だからね。一日五分間。それが、我々に許されたぎりぎりの権利さ。しかも微生物が分解しづらい石けん類は使えないため、バイオスフィア2でも使用していたカツラムギから作った石けん以外は置いていない。何か香料が欲しいという場合は、温室からハーブを取ってくるしかないわけだ」

「つまり、宇宙ステーションではシャワーを奪い合って人殺しが起きかねない?」

 仁科は大西を見つめた。

「君の飛躍的な想像力は、記者より作家に向いているんじゃないか?」

「全ての犯罪の原因は、人の欲望にありますからね」

「確かに、重大な問題を指摘していることは認めよう。人工的な閉鎖空間では、人の行動様式が根本的に変わりかねない。何もかもが〝普通の生活〟とは違う。トイレにトイレットペーパーはなく、洗浄器で洗い流すだけ。女性の生理用品もプラスティック製で、洗って再利用する。農作業で靴が擦り切れても、サイズが合うものがなくなれば裸足ですごす。どんなにコーヒー好きでも、普段は簡単に栽培できる緑茶やハーブティーで我慢するしかない。最大限の機械化を進めてはいるが、それでも水田の作業や海の清掃で泥や汚物にまみれることも多い。スタッフの大部分はフィールドワークの体験があって多少の不自由は我慢できるが、時に限度を超えることもある。訳もなく狂暴になったり、些細な事にこだわるといった変化は珍しくない。そのわずかな変調が増幅され、人間関係を破壊することも考えられる。私のような心理学者がメンバーに加えられたのも、その危険性を回避するマニュアルを作るためだ」

 大西は小さくうなずいた。

「さっきも、ずいぶん熱い言い争いでしたよね」

 温室のガラス面の通路にたどり着いた仁科は振り返った。

「峰君と鳥居君は特にそりが合わなくてね。街でなら帰りに一杯引っかけるだけで解消されてしまうようなストレスが、閉鎖空間の中では命がけの衝突に発展しかねない。嫌な相手の体臭さえ避けることができない世界だから、当然なんだがね。特にここひと月は、小さな対立が絶え間なく起こっていた。いがみ合ったまま硬直化した人間関係をほぐすためにも、私は君が参加することを歓迎していたんだ」

 シェル面に接した通路は穴のない金属板で作られ、幅も五メートル以上あった。安定した通路に立った大西は安堵の溜め息をもらした。

「心理学者は大急がしというわけですね」

「化学療法、行動療法、システムズアプローチ、催眠療法――持てる技術は全て発揮しているが、眠る暇がないほどではないよ」

 大西は矢継ぎ早に繰りだされた専門用語をまるで理解できなかった。仕方なく、最後の一言にだけ質問した。

「催眠? テレビのショーみたいに、他人を操るんですか?」

 仁科は軽く吹き出した。

「私にはそれほどの才能はないし、必要もない。専門書を二、三冊読んだだけだからね。それでも、患者をリラックスさせる役にはたつ。そしてリラックスさせることが、最も重要な治療法なのだ」

「その上に医者としての役割もあるのでしょう?」

「センターに高度な診察プログラムが用意されているから、その点は負担にはならない。問診の結果を入力すれば、どの分野でも最高の専門医の知識が引き出せる。私のようなどっちつかずの医者には願ってもないシステムだよ。最悪の場合は外部の医療機関に患者を輸送する仕組みになっているが、今のところそんな状況は起こっていない」

 と、大西は下の温室を見下ろして一画を指差した。

「あれは……? 何かの実験ですか?」

 畜舎の先のシェル際の樹木の間から、わずかな炎と煙が立ち上っていたのだ。

 仁科は目を丸くして叫んだ。

「まさか!」

 大西は恐怖に捉われた仁科を見つめた。

「火事⁉」

 仁科はすぐさま腰のベルトに挟んであった装置を取り出した。携帯電話のような形状の通信機だ。素早くテンキーを押して通信機に叫ぶ。

「火災発生! 森林バイオームに火災発生! 緊急体制! 誰か、大至急スプリンクラーで散水しろ!」

 同時に、大西の耳元でけたたましいサイレンが鳴った。

 両手で耳を塞いだ大西は叫んだ。

「また騒動ですか⁉」

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