第一章・嵐の到来

消えた右腕・1

 それが、バイオスフィア――すなわち〝生命圏〟の崩壊を予告する最初のシグナルだった。

 室井清次は、鋭い刺を含んだ言葉を峰恵子にぶつけた。

「管理センターと連絡が取れないだと⁉ どういうことだ?」

 寝呆けた目をこすりながら勝ち気な部下と向かい合った室井の姿は、過労死寸前の中間管理職そのものだった。身体つきは崩れ、たるんだ腹がゆったりとしたガウンを通してもうかがえる。

 それでも『マイクロスフィア』での苛酷な閉鎖空間実験は、過去一年半で十キロもの脂肪を室井から奪っていた。外界から完璧に遮断されるという大がかりな実験のリーダーに任命されていなければ、室井は高血圧治療のために長期入院が避けられない運命にあったのだ。

 だが室井の個室の戸口に強引に入り込んだ峰は、一歩も引かない。身長一七〇センチを越える峰は、上司を真っすぐ見下ろしながらくり返した。

「言葉通りのことよ。モニター画面に誰も出ないんです。私の操作ミスじゃないわ」

 室井はうんざりしたような溜め息をもらして、挑みかかるような峰の目から視線を外した。

 室井の妻の裕美は、まだ奥の寝室で眠っている。理由はどうあれ、個人居住区のドアを開かせるには不作法すぎる時間だ。しかも彼が不機嫌な理由は、早朝にベッドから引きずり出されたことだけではない。

 室井は、有無を言わせずにドアを開かせた峰と些細な衝突を繰り返してきたのだ。ここ数日も、峰からは同僚の女性スタッフとの不和に関して〝誠実な対応〟を求められている。閉鎖空間内で圧力を高め続ける対立を処理する任務は、室井の胃を蝕む最大の〝病原体〟だった。

 一方の峰恵子は、室井の頬に現われた憤りをあえて無視し、三〇才も年令が上の計画統括者を冷静に見つめている。アニメキャラクター『バッグス・バニー』をあしらった派手なタンクトップとジーンズ姿ではあったが、ビーチを賑わせる少女を思わせるスリムな外見がいっそう彼女の苛立ちを際立たせていた。

 幼い頃からアメリカ西海岸で育ち、フロリダで海洋生物学のフィールドワークを重ねた峰には、日本の〝常識〟が欠けている。彼女にとって自分をストレートに押し出すことは善であり、組織の枠に収める訓練など施されてこなかったのだ。『個人の権利を主張することは当然だ』と考える峰が、日本人スタッフの中でトラブルを生み出していくことは当然だった。

 室井はもう一度、わざとらしく溜め息をもらした。クリーム色の強化プラスチックで作られた壁にはめ込まれたアナログ時計に、ゆっくりと目を移す。

「今、何時だ……? 六時になったばかりじゃないか。センターはまだ眠っているんだろう。何をそんなに急いでいる?」

 それまで廊下で成り行きを見守っていた仁科武司が進み出て、峰の肩を後から軽く引いた。峰がわずかに退くと、彼女の前に進み出て二人の間を割る。

 スタッフの間の緊張を和らげることは、仁科に与えられた役目なのだ。

 長身で痩せた仁科は、神経質そうな風貌を厚い髭で辛うじて和らげていた。しかし身につけたカジュアルなポロシャツが、あたかも〝制服〟であるかのように、崩れた印象を与えない。

 仁科は、神経を病んだ患者に向き合うように、ゆったりと室井に語りかけた。その声は、見た目を裏切るように太く穏やかだ。

「センターの診断ソフトを借りたくて、私も峰君と一緒に端末を操作していました。何をやっても応答がなくて……センター側に係員がいないだけじゃ説明がつきません。光ファイバーが断線した可能性もあります」

 室井は仕方なさそうにうなずいた。施設内でただ一人の医師であり、他のスタッフに比べて年令も高い仁科には一目置いているのだ。

「とにかく、サロンへ行って端末を確かめよう」

 峰は仁科の身体を押しのけるようにして、室井に向かって身を乗り出した。

「高崎君のことでもお話があります」

 仁科がきつい口調で峰に命じる。

「その件は後だ!」

 峰は仁科をにらみつけた。

「襲われたのは私なのよ! あのキザ男、勝手にドアを開けて入ってきたんだから。殴り殺してやりたい気分だわ。これがアメリカ企業なら、あんなセクハラ野郎は懲役ものよ! 告訴したっていいのよ」

「一晩頭を冷やしても気持ちは変わらないのか?」

「何年たとうが、犯罪は犯罪よ」

「君にも責任があったとは考えられないか?」

 峰は冷静に仁科を見つめていた。

「シャワー室の鍵を閉め忘れて使ったから? あなたに相談したのは間違いだったようね。最初から室井さんに話すべきだったわ」

 仁科の声もわずかに荒くなった。

「だから、私が本人に会ってきっちりさせる。ここが日本だということ、そして君は自ら望んで日本企業に雇われたのだということを忘れないでくれたまえ」

「私は頭脳と経験を提供しにきたのであって、肉体を提供する契約は結んでないわ!」

「とにかく、騒ぎを大きくするな。この種の〝事故〟が発生することもマイクロスフィアの実験のうちだ。君もその可能性を認識した上で契約書にサインをしたはずだ。しばらく待つんだ」

「なにが〝事故〟よ。強姦未遂は犯罪以外の何物でもないわ」

 室井は当然、高崎が起こした〝騒動〟の内容を理解した。だが、二人の言い合いは無視した。ただでさえスタッフの不満が高まっている時に、わざわざ面倒を背負いこむ必要はない。

 さらに仁科に食い下がろうとする峰に声をかけたのは、昨夜、マイクロスフィアに入ったばかりの大西宏伸だった。

「朝っぱらから何の騒ぎですか? 『殺す』だとか『強姦』だとか……穏やかじゃないですね……」

 大西は室井の部屋のソファーの上で、寝袋ごとむっくりと起き上がった。

 それを見た峰が息を呑む。

 仁科も言葉を失って、驚きに目を剥いた。

 大西は峰たちの動揺に気づかぬ様子で、窮屈そうに身をよじりながら寝袋のジッパーを開き、身長一九〇センチに近い大柄な上体をゆっくりと伸ばした。

「寝袋なんか大学の時以来だから、身体が歪んじゃったみたいだな……」

 峰は、ようやく押し殺した叫びを絞り出した。

「あなた……誰なの⁉」

 マイクロスフィアの内部に〝見知らぬ人物〟が存在することは、絶対に不可能だったのだ。

 事情を察した大西は不服そうに室井を見た。

「やだな……僕が来ることぐらい知らせておいてくださいよ……」

 室井は小さくうなずいてから、峰たちに説明した。

「一昨日のミーティングで話した、記者君だよ。到着が夜中だったので、紹介は朝になってからと考えていた」

 峰がつぶやく。

「なぜ、こんなに早く……?」

 室井は、誰にともなく言った。

「すまなかったね、紹介が遅くなって」

 大西はごそごそと寝袋から足を抜き、室井の傍らに立った。

 落ち着きを取り戻した仁科は、大西を値踏みするように見つめながら尋ねた。

「君が『科学新報』の……? しかし、取材の予定は一週間以上も先だと聞いていたが?」

 峰が無言でうなずく。同じ疑問を口にしようとしていたのだ。

 大西は肩をすくめた。

「日程は僕の都合じゃ決められないものでして。大西宏伸です。ご指摘の通り、『科学新報』の記者です。取材期間は、一応一週間程度を予定しています。以後、お見知り置きを」

 そして、峰に向かって右手を差し出した。握手の習慣が身になじんだ物腰だった。まくり上げたダンガリーシャツからのぞく腕は筋肉質で太い。

 事情を飲み込んだ峰は、反射的に大西の手を握り返した。

「峰恵子です。でも、なにもこんな時に来なくったって……」

 大西は、陽に焼けた彫りの深い顔をほころばせてうなずいた。

「『台風の直撃が間違いない』って予報が出ていますからね。僕だって、こんな荒れ果てた離れ小島に観光に来たわけじゃありません。『台風のような非常時にマイクロスフィアのスタッフがどう振る舞うか、迫真の記事にまとめろ』って、尻を蹴られたんです。逃げ場は島に向かうヘリコプターしかないでしょう。でも、やっと元気が出てきました。こんな美人に会えたんですから」

 峰は大西の手を突き放し、鼻の先で小さく笑った。不作法な男たちを追い払う手段は、幼い頃からの経験で身に染みつけている。

 大西は大げさに肩を落とし、仕方なさそうに仁科と握手を交わした。

 仁科は込み上げる苦笑を噛み殺した。

「美人博士には嫌われたようだね。仁科武司だ」

 大西はわずかに肩をすくめた。

「僕って、第一印象がよくないらしいんです。お医者さん……でしたよね?」

「なぜ分かる?」

「記者ですから。事前にプレス向けのプロフィールには目を通します」

 仁科はうなずいた。

「君ぐらい若かったころは、これでも外科の第一線に立っていた。心理学に興味を持ったのが災いして、ここではトラブルの処理係まで押しつけられてしまった。室井夫妻とともに、閉鎖空間内での人間集団の振る舞いを分析している」

 大西は答えた。

「若いって……子供に見えても、僕はもう三十五ですよ」

「私も五十に近い」

「お若く見えますね。髭のせいかな?」

 大西は言いながら、シャツの胸ポケットに手を突っ込んだ。一瞬、顔が曇る。

 室井がかすかに歪んだ笑みを浮かべた。

「『煙草はお預けだ』と言ったろう」

 大西は不満げにうなずいた。

「そういえば、あの物々しい出入口――エアロックとやらで取り上げられたんでしたね。まさか、本物の宇宙服まで着せられるとは思いませんでしたよ」

 室井は言い訳をするように説明した。

「外部の大気をスフィアに入れないために欠かせない措置なのだ。外から入った空気は外へ、中の空気は中に吐き出すように、エアロックの内部は自動的に真空になる。宇宙服を着ないで真空状態にさらされれば、体液が沸騰して身体が破裂してしまう」

 仁科は髭に手をやりながら大西に微笑みかけた。

「私もニコチンが抜けきるまで数か月も苦しんだ。しかも空気の汚染を避けるために、愛用していたシェービングクリームが使えない。で、この有様さ。だが、この密閉された実験空間では、些細な汚染が蓄積されて危機を招くこともある。どうだね、これを機会に君も禁煙してみては?」

 大西は再び肩をすくめた。

「僕は学者じゃありませんからね。原稿の締切に追いまくられた上に修業僧の生活まで強いられたんじゃ、一日で切れちまいます。それに、煙草ぐらいで〝危機〟は大げさじゃありませんか?」

 峰が冷たく言い放った。

「あなた、科学雑誌の記者なんでしょう? このマイクロスフィアでどんな研究がなされているか調べもせずに来たの? 大気はもちろん、スフィア内の全ての物質は厳密に計測されているのよ。煙草一本だってそれを乱せば、データに狂いが生じかねないわ。ここは『バイオスフィア2』みたいなテーマパークとは違うんですから」

 バイオスフィア2とは、マイクロスフィアと同様の研究を先行させたアメリカの実験施設だった。アリゾナ州ツーソン郊外に建てられた一万平方メートルを超す建造物――外界と隔絶されたガラス張りの温室に地球の生態系を真似た人口環境を封じ込め、八人の科学者が水や空気、食料とも自給自足の生活を試みたのだ。その目的は、環境と人類の共存の道を探る基本的なデータを収集して、環境保護や宇宙開発に生かすことにある。1993年9月に二年間に及ぶ第一回の実験が終了し、科学者たちは外界へ出た。民間ベンチャー企業が主催し一億五千万ドルを投資した大計画だったが、組織の弱さから計画は混乱した。その上データが公表されないなどと、学術的な実験としては不十分な点も多かった。しかも第二回目の実験が進行している最中に、資金源であるテキサスの富豪が研究者と対立し、現在は実験が中断されたままになっている。

 峰が〝テーマパーク〟と揶揄した理由は他にもあった。バイオスフィア2に閉じ込められたスタッフたちは、まるで動物園のサルのように、常にガラス越しの観光客の視線に晒されていたのだ。ガラスと鋼鉄で作られた温室の外には土産物店までが作られ、一日数百人が支払う約10ドルの入場料とともに重要な収入源となっていた。さらに温室には実験開始直前に秘かに二酸化炭素循環器が取りつけられたり、あるいは途中で大量の酸素が補充され、純粋な閉鎖空間とは呼べない状況に陥っていた。『バイオスフィア2は単なる宣伝事業でしかない』と断言する科学者も少なくなかったのだ。

 それらの科学性を欠く部分を改善して独自のデータを蓄積しようと開始されたのが、日本の企業連合体であるナカトミ・グループが企画したMSP――マイクロスフィア・プロジェクトだった。

 大西はうなずいた。

「それは嫌というほど聞かされましたよ。現に一週間分の食い物は全部自分で担いで持ってきたし、パソコンもデジカメもここの備品を借りろと言われているし、帰る時は糞まで持って帰る覚悟で――おっと〝排泄物〟でしたね。ま、大人しくしていますから大目に見てやってください」

 それでも峰は、さらにきつくなった視線を室井に投げかけていた。

「研究もやっと終盤にさしかかってきたのに、なんで今頃になって雑誌の取材なんかを……」

 峰の脳裏には過去の取材で経験した不快感が甦っていたのだ。

 マイクロスフィアのドームが完成してから完全に外界と遮断されるまでには、およそ一年の準備期間が設けられていた。内部に収容した動植物を新しい環境に慣れさせ、必要にして十分な器材をリストアップし、密閉後のトラブルの可能性を減らすためだ。その間は一応の気密性を保ってはいたものの、スタッフの出入りや備品の持ち込みは自由に行なわれていた。彼らはこの助走期間に、以後二年間にわたる本格実験へ向けた準備を整えたのだ。同時に、多くのマスコミ関係者が膨大な撮影器材を携えて島に上陸した。

 十三人の科学者が離島の巨大研究施設に〝閉じ込められる〟という計画は、日本中の――いや、世界中の耳目を引きつけた。私企業グループが立ち上げるには、あまりに大きな実験だったのだ。だが、計画の必要性は認められていた。二一世紀の幕開けを飾るにふさわしいイベントでもあった。停滞した経済への不安感を払拭するきっかけとなることも、各界から期待されてた。

 しかしワイドショー的な興味しかない移り気な大衆は、研究自体への関心が薄かった。峰は『アメリカ帰りの美人科学者』というステレオタイプのレッテルを貼られることにうんざりしていたのだ。『計画のアピールのために』というナカトミからの指示で取材の矢面に立たされた女性科学者たちは、一様にTVレポーターたちの知識の浅さと不躾な態度に憤ったものだ。

 しかしそれもすでに過去のこととなり、現在では大方の日本人はナカトミのMSPが進行中であることを忘れ去っている。だからこそ峰たちは、研究だけに没頭して本来の能力を発揮することが許されていたのだ。

 室井は峰をにらみ返した。

「理由は充分に話している。マイクロスフィアの維持には金がかかるし、世論の理解も欠かせない。国からの補助金も受けている。それはすなわち、この実験に関心を寄せている日本国民の税金だ。ここは私たち研究者だけの施設ではない」

 仁科が、再び緊張を高めそうになる二人をなだめるように言った。

「今は管理センターと連絡を取るのが先です。大西君の紹介は、それからみんなに」

 室井はうなずいた。

「大西君もついて来たまえ。まずは誰かにスフィアを案内させよう」

 肩を怒らせた峰が廊下に出た。

 室井が続く。

 仁科は大西に向かって、ぽつりとつぶやいた。

「峰君の物言いは気にするな。もう一年半もこの狭い箱の中に閉じ込められているからね。生活は単調で、食べ物は少なく、精神的にも物理的にもストレスが多い。特に女性たちには、甘いものが食べられないことがこたえるらしい。出獄を待ちわびる囚人と同じで、『あと半年で開放される』と考えると余計に外が恋しくなるものなのさ。統計的にも、第三・四半期がもっともストレスが高まる時期だ。今ではスタッフ全員が神経を尖らせていてね。特にカリブの人魚姫には幽閉生活がこたえている様子だ。この最後の山場を越えて出口が見えれば、みんなも落ち着いてくるだろう」

 大西は鷹揚にうなずいて見せた。

「分かりますよ」

 と、廊下に別の女の声が聞こえた。金切り声といってもいいような甲高い響きには、激しい苛立ちが込められている。

「室井さん、お話があります!」

 大西は戸口から顔だけを出して、声の主を見つめた。

 室井の行く手を塞いでいたのは、異様に胸の大きな背の低い女だった。ゆったりとしたデニムのオーバーオールを着ているのだが、それがマタニティーウェアーのように見える。分厚い縁なし眼鏡が、充血して釣り上がった目を漫画的に見せていた。

 大西の背後で、仁科が投げやりな溜め息をもらした。声で相手が誰か分かったようだ。

「鳥居孝子君だな。彼女こそ、正真正銘のトラブルメーカーだ。常に正論を主張する峰君とは対照的な問題児でね……」

 大西は息をひそめて廊下での成り行きを見守った。

 室井は厳しい口調で鳥居に命じた。

「後にしてくれたまえ」

 室井に冷たくあしらわれてわずかに唇を尖らせた鳥居は、今度は峰に向かって身を乗り出した。

「峰さん、ちょうどよかったわ。話っていうのはあなたのことなの。水辺の管理をちゃんとしてくれないから、私の負担が増えて困るのよね」

 峰は冷たく鳥居を見下ろす。

「あら、偶然ね。私も昨日から、その件の処理を室井さんにお願いしていたの。誰かが、私が実験していた砂浜のセッティングを勝手に壊してしまって」

 室井はわざとらしいため息をもらすと、鳥居に向かって言った。

「『海』の浜辺に並べてあった枯草のことだ。峰君に断りもなしに処分したのは、本当に君なのか?」

 鳥居はつぶやくように言った。

「だって、あんなに汚らしい……」

 峰が応えた。

「おかげで、一週間もかけて育てた微生物のコロニーが全壊。微生物班から依頼されていた増殖計画が台なしだわ。本当に有能な助手ですこと」

「なんで説明してくれなかったのよ!」

「あの実験は、朝礼の時に頼まれたの。だからスタッフ全員が説明を受けているわ。あなたが寝坊していつも朝礼に遅れることにまで、私は責任を持てません」

 室井が鳥居に諭すように言った。

「鳥居君。『黙って他人の研究領域に手を出すな』と何度言えば分かる? マイクロスフィアには掃除よりも大事なことがいくらでもある。君にはまだ理解できないのか?」

 鳥居はうめいた。

「ひどいわ……。気をきかせたのに、そんな言い方って……」

「ここのスタッフは、君に気づかってもらわなくとも自分のやっていることは承知している。せめて、邪魔はしないように心がけてほしい。さあ、部屋に帰りたまえ。今日も朝礼をやる。たまには時間に遅れないように来たまえ」

 鳥居はきつく口をむすんだ。峰に向かった目に、ぎらぎらとした敵意が渦巻いていた。今にも飛びかからんばかりに、全身が緊張する。

 しかし鳥居はしばらく峰をにらみつけただけで、唐突にぷいと振り返って自室のドアらしい扉に消えてしまった。室井の部屋の戸口から顔を出していた大西には、全く気づかない様子だった。

 大西は呆れたようにつぶやいた。

「おっかねえ……鳥居さんって、あそこで室井さんが出てくるの待ち伏せしていたんですかね?」

「苦情が言いたくて、眠ってないのかもしれない。執念深い女だからな。普段は内線で呼んでも起きないくせに」

「女二人で殴り合うのかと思った……」

 仁科が背後でうなずく。

「実は私も、そうなるのは時間の問題だと恐れていてね……。おっといかん、これはオフレコにしてくれたまえよ」

「仕事に疲れた医者の独り言――ってところですか?」

 仁科は自嘲気味のため息をもらした。

「疲れているのは私だけじゃないがね」

 そして仁科は廊下に大西を押し出すと、階段に向かう室井の背に向かって言った。

「大西君は私が案内しましょう」

 室井は振り返りもせずに答えた。

「任せる」

 その声は、死期を間近かにした老人のように張りを失っていた。

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